4 モテる男の条件
午後七時前、僕は気分良く家の玄関を開けた。
表情にはそんなに出ていないと思うが、僕なりにものすごく嬉しいことがあったのだ。好きな作家さんの新作に加えて、立ち読みで三冊の素晴らしい本と出会い購入したのである。
「あら、奏吾。なんだか嬉しそうねぇ」
母さんがそう言って、エプロン姿で顔を覗かせた。二十歳ちょうどで僕を産んだものの、今でもパート先でモテるほどの若づくりについてはどうかとは思っている。十一歳年上の父さんとは、もっと歳が離れているような印象さえ受けるのだ。
とはいえ、僕は母さんに「嬉しそう」と言われて更に上機嫌になった。先程の帰り道で、学校の先生とばったり会ったのだが、「あまり楽しくなさそうだが、何かあったのか?」とまで言われた僕の心境は、何か重い物でガツンとやられたような感じだったのだ。
表情豊かでなくてすみませんね、すごく嬉しいし気分も最高だったんですよ――なんて口下手な僕は言えなかったけれど。
あの先生は、普段から僕の学校生活を少し心配しているような感じもある。僕は問題児でもないし、悩みもないので放っておいてくれと言いたい。
「本代は足りたか?」
母さんに「先にご飯にしなさい」と言われてそのまま食卓についた僕は、尋ねてきた父さんに、引き出しに貯金してあるお金のことを伝えた。「全然余裕だから大丈夫だよ」というニュアンスで伝えると、父さんはすごく嬉しそうに「そうか」と言って頷いた。
父さんは最近、立派な白髪が増えてきたものの、やはり昔モテにモテただけの面影はしっかりと残っている。男らしい大きな体格と凛々しい顔立ちは、僕にはないものだ。
「父さんはいいよね。高校に上がった頃なんて、こーんなにあったんでしょ?」
僕が手で背丈を表現すると、父さんは「大げさだなぁ」と苦笑を浮かべた。残りの料理を持ってきた母さんが、「いいのよ、奏吾は私似ですもの」と言った。
「母さんのお姉さん、覚えてる? 奏吾、目は私に似て鼻筋はお父さん似だけど、一番は姉さんの小さい頃にそっくりなのよ!」
僕は思わず「十六歳になった僕の顔は、まだおばさん似なの?」と項垂れて、楽しそうに笑いだした母さんの声を聞いていた。
母さんのお姉さんは、女子高の王子と呼ばれていた人で、どこか凛々しく「かっこいい女」なのである。昔の写真を見せられたことはあるけれど、僕に言わせれば全く似ていない。
そもそも僕からすると、彼女の顔は女性にしか見えないので、似ていると言われてもなんのフォローにもなりはしないのだ。
「この年頃の平均身長じゃない。牛乳を飲めば、もっと大きくなるわよ」
席についた母さんはそう言ったが、僕は薄ら笑いで視線を左へとそらした。
「……母さん、僕、学年の平均を下回ってるよ」
「えぇ! そうなの?」
今時の子って大きいのねぇ、と母さんが呟く隣で、父さんがわざとらしい咳払いをした。
僕はクラスメイトたちの身長順で、十七人中、前から五番目である。一番目から二番目は僕から見ても小さいのだが、三番目から僕までは僅かな身長差だったことを思い出して、僕はそれを言うのをやめた。
今年こそは平均身長までいきたいと思い、牛乳を頻繁に取っているが、あまり変化は見られないような気がする。「伸びたら買えばいい」という父さんの意見の元、制服だってそんなに大きなサイズでもない。
あのアドバイスを悪い方に取ると、これ以上はそんなに伸びないということなのだろうか、と思えてならない。
「まぁ男は大学生までは伸びるから、大丈夫だろう」
黙々と食べている僕に、父さんがそう言った。僕がちらりと見やると、父さんも視線だけを動かせて僕の方を見た。
「きちんとバランス良く食べて、健康に過ごせしていればいい。父さんも、小学生の頃は小さかったよ」
これから身長が伸びるチャンスはくるんだろうか。
僕はそう諦め気味に思いながら、食卓に並ぶ美味しそうな食事に手を伸ばした。母さんが小柄な分、それが自分に遺伝しているのではないだろうか、という推測については考えないようにした。大きな父さんが、本当に羨ましい。
※※※
食事を済ませた僕は、鞄と本を持って二階の自分の部屋に向かった。
これから、買ったこの本たちが読めると思ったら、とても素敵な気分だった。けれど意気揚々と自分の部屋の扉を開けた瞬間、僕の喜々とした気分は、その行為一つだけで吹き飛んでしまった。
真っ暗な僕の部屋で、勉強机の電気だけがついていた。
そこに広がっていた光景にぎょっとして、僕はもう少しで声を上げてしまうところだった。反射的に自分の口を手で塞ぎ、慌てて部屋に入って鍵を掛けた。
「ちょ、何してんの!」
僕は、勉強机の上にいる豆人に声を掛けた。僕の一番上の引き出しに入っていたはずの鏡を立てて、彼はその向かい側に座り、顔をぴったりと鏡につけていたのだ。
部屋の電気がついてないせいか、暗い部屋の中でぽつん、とした彼からは重々しい空気を感じた。恐る恐る僕が近づくと、豆人はようやく身をよじるようにしてこちらを振り返った。
勉強机の電灯で、豆人の眉影は濃く浮き上がり、どこかげっそりとした様子も漂わせていた。無気力な顔にはショックを受けたような表情を浮かべている――といっても、僕がそう感じているだけで、他の人から言わせればそんなに変化はないのかもしれないけれど。
「どうしたのさ……?」
「ああ、奏吾さん」
豆人は抑揚のない口調で、僕にも分かるほど情けない声を上げた。そして勢いよく項垂れると、こう続けた。
「やはり、男は顔なのです」
「は?」
あまりにも唐突すぎるというか、まさか豆人から聞こうとは思ってもみなかった台詞だけに、僕は返す言葉が何も浮かばなかった。彼の発言がよく分からないまま、ひとまず真っ暗よりはましだろうと、部屋の電気をつける。
部屋は明るくなったのに、勉強机の上だけが薄暗い印象だった。僕は鞄と本を床に置き、再び彼に歩み寄って「男は顔って、一体なんの話?」と声を掛けてみた。
しかし、しばらく経っても彼は鏡の前で項垂れたまま、何かを答えてくれる様子はない。沈黙がギリギリと胃を締めつけてくるような気さえする。
「……えぇっと、鏡なんか見てさ。その、どうしたの?」
勉強机の椅子に座って、僕は親身な口調を心掛けて、近い目線からぎこちなくそう尋ねてみた。
豆人はようやく頭を上げたけれど、こちらは向かず机の上を見つめたままだった。まるで視線の先に気力を無くすほどの絶望と事実が眠っている、といったような印象ある横顔だ。
「奏吾さん、わたくしの顔、どうですか」
唐突にそう切り出したかと思うと、豆人は普段の顔を僕に向けてきた。
いつもの表情に戻った豆人は、はっきり言ってしまえばアレだ。しかし、僕としては、このタイミングで言っていいものか少しためらわれたが、彼が真剣に尋ねているのだと思ったら覚悟もできて、ハッキリとそれを告げることにした。
「見ているこっちの気力が削がれる感じです」
その時、僕は机に突っ伏している彼の左手が、素早く動くのを見た。机の上に腕を置いていた僕は、一瞬にしてそこに平手打ちのような痛みを感じて「いてっ」と声を上げていた。
ほぼ同時に、室内にスパンっと乾いた音が響き渡っていた。
彼は目に止まらないほどの速い動きで、こちらの腕に一発食らわしたのだ。信じられない、という思いで僕は豆人を見つめた。
気のせいか、あの一瞬、彼の短い左腕が鞭のようにうねるのを見たような気がする。速すぎてよくは見えなかったが、きっとそうに違いない。だって、彼の座っている位置から僕の腕までは、あの棒のような腕では到底届かないのだ。
豆人は、僕の腕に物理的にツッコミを入れたとは思えない、自然な表情でこちらを見上げていた。困惑するように盛り上がった眉影に、薄く開いた小さな口。――なんか腹が立つ顔だった。
「奏吾さん。感想ではなく、率直にどうかということですよ」
「あの、気力が削がれる顔ってところは……」
「気力が削がれる顔があるのでしたら、是非見てみたいものです」
ふぅっと小馬鹿にするような息を吐いた彼を見て、僕は思わず「いやお前鏡見てるじゃん! その中に一番気力を削ぎ落とすでたらめな顔を持った奴が映ってるだろ!」と叫びたかったが、少し深刻そうな様子をその溜息に感じないでもなかったので、違う言葉を口にすることにした。
「えぇと、率直な意見と感想の違いが分からないんだけど、何かあったの?」
違う言葉を選ぼうとすると言葉が続かず、僕は語尾を濁して口を閉じた。
豆人は一度鏡の中の自分を見て、それから僕を振り返った。
「奏吾さんは、それはそれはモテるでしょう?」
「は? いやモテないよ!」
突然なんだよと僕が叫ぶと、彼は立ち上がって僕に向き直った。少し困ったような小さな八の字が、彼の棒線のような目の上に影を落としている。
その時、不意に彼の小さな唇が「にやり」とした。
思わず僕が椅子の背まで身を引くと、彼はすぐにいつもの無気力な表情に戻して「どうです?」と尋ねてきた。
「どうって……?」
恐々と質問を返した僕に、豆人は「率直な感想を」と続けて要求してきた。
なので僕は、本心を口にすることにした。はじめて見た豆人の、ニヤリとした顔を見た時に立った僕の鳥肌は、まだ全開のままである。皮肉や小馬鹿にするよりも性質が悪く、豆人と同じような肌をした食べ物すべてがそう見えてしまいそうなおぞましさを感じた。
つまり、あの顔には恐ろしい破壊力があることを伝えるべく、僕はその表現にぴったりな一言を胸に、息を吸い込んでハッキリとこう断言してやった。
「すっごく気持ち悪い!」
スパン!
豆人から距離を開けて対策を取っていたにもかかわらず、またしても僕の腕に、再び彼の平手打ちが放たれた。困惑するような無気力顔の彼の身体の、右手だけが素早く動いて僕の腕を叩くのを――今度はしっかりと見たぞ!
「痛いよ! 何すんのさ!?」
豆人は、相変わらず腰を斜め後ろに引いて、妙な立ちポーズのまま僕をぼんやりと見つめていた。
「あれは爽やかスマイルですよ」
だから、言動と表情がまるで一致しないんだってば!
心の中で叫ぶ僕に、豆人は「いいですか」といって勝手に続けた。
「わたくしたち豆人は、クールフェイスと爽やかスマイルのギャップがあるほど、モテるのです」
彼はそう言って、鏡に映った自分の姿へと目を向けた。豆人の腰は斜め後ろに少し折れるような姿勢で、両手が力なく前に垂れている。
鏡に映る彼の顔が、またしても「にやり」とした。
それをバッチリ目撃した僕の全身の毛穴が、一瞬にして総毛立った。
「十分ギャップはあるって! ものすごい破壊力だよ! トラウマになりそうだし夢に出てきそうだしその前に免疫がつかないと僕がやばい!」
僕は耐えきれず、後半は一呼吸で言いきった。
豆人が「おや?」と、僕を振り返り小首を傾げる。それは、鏡を見つめていた時のポーズと同じである。
「わたくし、ギャップがありますか?」
「爽やかとかクールとか僕には全然分かんないけどすごいと思うよ! おもに精神への威力が半端ない!」
全身に立った鳥肌や悪寒を鎮めるように、僕は腕をさすった。すると、豆人は「そうですか、ギャップが……」と独り言を呟いて鏡に向き直る。
おいおいおい、もう一回アレをやるつもりじゃないだろうな!?
「ちょッ、ギャップが強すぎるしインパクト最大級なんだから、絶対やるなよ!」
思わず椅子から立ち上がって後ずさった僕にも構わず、彼は鏡を覗きこんでいた。
しばらくして、僕が「そろそろ大丈夫かな」と歩み寄った時、豆人が「なるほど、ギャップがありますか」と悪くなさそうに呟いて小さな眉影を作った。人間でいうところの、眉を上げたような印象だろうか。
「もうしばらく成熟すれば、わたくしにもきっと素敵な出会いがあるのでしょう」
「熟成? まぁ、そうだと思うよ。うん、絶対そうだって」
ほぼ反射的に答える僕の前で、豆人はずっと鏡を覗きこんでいた。そして、彼は不意にこちらを振り返った。
「奏吾さんのクールフェイスも素敵です。ぜひ、今度は爽やかスマイルを見せて、わたくしにモテる秘訣を伝授してください」
「はぁ!? いや僕はとくにモテないし、爽やかスマイルとか絶対無理!」
「わたくしたちは、人からそれを学ぶのです。さぁ、どうぞ」
なんだか少し嬉しそうな気配が伝わってくるけれど、大きなお世話だ、と僕は腹が立った。
「というかクールフェイスってなんだ! 僕がいつそんな顔をした!?」
「ほら、まずは笑顔をどうぞ」
「無理! 僕は愛想笑いも出来ないんだから」
そう答えたら、豆人が口を少し開いたままきょとんとした――ような気がした。
「奏吾さんも、成熟待ちですか?」
「え? いや、つか成熟ってなんだよ、僕は別にそういうわけではなくて、その、人には向き不向きもあるというか…………」
そう言葉に詰まってしまった僕に、豆人が一歩近寄ってきた。腰を斜め後ろに置いて、両手をだらりと垂らしたままぼんやりとこちらを見上げる。
彼の小さな口元が「にやり」とした。しかも、今度は眉影つきである。
「一緒に頑張りましょう、奏吾さん。素敵な爽やかフェイスのためにも、まずはわたくしを目指して――」
けれど僕は、豆人の言葉を聞いていなかった。強烈な悪夢を見た時のように、声にならない悲鳴を上げて後ろにひっくり返っていた。