3 豆人の出社と僕の登校
朝一番、目覚まし時計の音で目が覚めた。
僕はベッドから手を伸ばして、枕の上に置いた目覚まし時計のアラームを切った。ぼんやりと視線を持ち上げて薄明かりに目を細めて確認すると、時刻は朝の五時半だった。
九月はまだ暑いくせに、深夜から朝方はよく冷え込む。僕は、そんな季節が苦手だった。僕が住んでいる地区は緑が多く残されているので、気温差が激しいのだ。
夏はひどい真夏日で、少し歩くだけで汗だくになるのに、冬は一面雪景色になる。昔から住んでいる場所とはいえ、僕は雪が降る前に学校が長期休みになればいいのに、なんて思ってしまう。
今日は木曜日だ。
しかも週に一回ある、朝の学年集会がある日だった。
今日はゆっくりしていられないと分かって、僕は諦めたようにベッドから降り、いつものようにカーテンと窓を開けた。明るくなってきた空を見上げ、今日も天気がいいことを思っていると、どこからか小さな物音が聞こえてきた。
そちらに目を向けてみると、その音の発生源が机の引き出しであると気付いた。そこでようやく、僕は昨日出会った豆人がそこに『寝泊まりしている』のだと思い出した。
はたから見ると独り言にも聞こえる「おはよう」を発して、僕は部屋を出るため歩き出した。閉められた引き出しの奥から、小さく「おはようございます」と抑揚のない、どこか寝ぼけているような声が返って来た。
「うん、おはよう」
僕はもう一度そう言って、大きな欠伸を一つして部屋を出た。
へんてこな奴が、昨日から僕の引き出しに住んでいるというのに、僕の朝はいつも通りだった。洗面所で用を済ませて制服に着替え、朝食を食べながら、父さんや母さんと何気ない会話をする。
テレビのニュースによると、今日からしばらくは秋晴れが続くらしい。でも夏の暑さもまだ残っていることも、きちんと報道されていた。
七時に父さんが家を出て、七時十分に、キッチンを片づけた母さんが自転車で近所のパート先に向かっていった。僕はテレビの電源を消して閉じまりを済ませると、ようやく自分の部屋に上がって鞄に荷物を詰める作業を始めた。
机に張られている時間割りをチェックし終わった時、今日が新刊本の発売日であることに気付いた。僕が数年前からものすごく好きな作家さんの最新作が、今日から店頭販売されるのだ。
僕は一番上の引き出しから、千円札を数枚取り出して財布に入れた。両親からもらったお小遣いは、こうやって貯金して好きな本の購入に当てているのだ。
その時になってようやく、僕はいつもの朝とは違う風景に出合った。引き出しの小さな扉が開いて、そこから豆人が出てきたのだ。
丁寧に扉を締める彼の左手には、とても小さな革の鞄が握られていた。サラリーマンが持っている、あの鞄にそっくりのミニチュア版だった。
「どこかへ行くの?」
ちょっと意外に思って僕が尋ねると、豆人は表情のない顔でこちらを見上げてきた。よくよく見ると、彼の目の上に眉影が出来ていて、それがそっと中央に寄っていることに気付いた。
人を馬鹿にしたいのか、切ないことでもあったのか判断のつかない顔である。
「会社に出勤するのですよ。引っ越し先が見つかったことを報告して、いつもの通り仕事をします。一週間ぶりなので残業もありますし、帰りは少し遅くなるかもしれません」
豆人の会社? そして残業までしっかりあるの?
そう目を丸くした僕に構わず、豆人はしばらく小首を傾げてから「奏吾さんは、学校ですか?」と尋ねてきた。僕は戸惑いながら「うん、そう、学校……」と、ぎこちなく答えた。
「すみませんが、途中まで肩に乗せてもらっていいでしょうか? 新しい住所を登録していないので、豆バスがこちらまで迎えに来てくれないのです」
「豆バス……」
ツッコミたいことはいくつかあったが、僕はその欲求をぐっと堪えた。決して遅くなることがない時計の針の動きが、自由に出来る時間が少ないことを僕に告げていた。
とりあえず、僕は朝の学年集会に間に合わなければいけない。あれに遅刻すると、学年指導の先生が何かと煩いのだ。放課後に居残りで説教されたあげく、罰として裏庭の掃除までさせられる。
僕は、肩に乗せて欲しいという豆人の要望に応えるべく、とりあえず屈んで身を低くしてみた。なんとなくだが、この珍妙生物を直接手で触れることに躊躇があったのだ。
すると、彼は慣れたように地面を蹴り、僕の右肩に飛び乗ってきた。体重が軽いせいか、彼の跳躍はすごいもので、肩に着地された時も重みを感じなかった。
玄関を出たところで、僕はある疑問に気付いて足を止めた。玄関を静かに閉め、鍵をかけつつも肩に乗っている彼をちらりと見やった。
「……あのさ。他の人が見たら、これってすごい光景だよね?」
「大丈夫ですよ。認識していなければ『見えない』のと同じなのです」
豆人は僕の肩に器用に腰かけながら、八の字に眉影を作った。悲しんでいるのだろうか、と僕は一瞬思ってしまったが、彼の次の言葉に呆れてしまった。
「歩く幸福の種は、こうして誰かの肩で移動することもありまして」
「それ、今作っただろ」
豆人は言葉を返さなかった。僕は大げさに溜息をつくと、玄関に鍵をかけた。
「溜息はよろしくないですよ。朝の新鮮な空気を肺にいっぱい取り込んでみてください、きっと素敵な気持ちになります」
豆人が両手を広げてそう言った。思わず、僕が「ふうん、じゃあ君の肺はどこにあるのさ?」と指摘したら、彼は青い空を仰いだ。
「摩訶不思議なことはよくありまして、わたくしも、呼吸はしています」
「うん、分かった。肺がどこにあるとか、そういう難しいことはナシってことか」
「きっと光合成でしょう」
「また適当な感じで返してきたな」
「光合成の舞いを披露してもよろしいのですよ」
「一体どんなダンスだよ。いいよ、分かった、肺について訊いた僕が悪かったよ」
僕は投げやりに答えて、少し大股に歩き出した。豆人が「揺れますねぇ」と言っているそばから、地元の女子中学生と犬をつれたおじさんが通り過ぎて行く。それでも、誰も僕の肩に乗っている豆人には目を向けなかった。
へぇ、本当に見えてないんだ。
僕が口の中でもごもごと言うと、豆人は「当然です。豆バスも、彼らの足元を安全に進むのに一苦労ですよ」と愚痴のようなものをこぼした。
彼の話によると、豆バスは人の足を避けるため激しく揺れるが、非常に安全運転のため徒歩よりも信頼性があるらしい。そのかわり、行きも帰りもかなり時間がかかるという。僕はその話を聞きながら、人通りが多い大通りに入った。
「上から見ても下から見ても、すごい眺めです」
豆人が、吐息まじりに抑揚のない声で呟いた。僕はその間、学校へと続く道を黙って進み続ける。
いたるところに同じ学校の生徒がいた。自転車で通り過ぎていく学生、音楽を聞きながら足早に歩く学生、話しながら集団で歩く学生など様々だ。
「ここから、学校に入るんだけど」
僕は、今年から通っている高校の正門脇で足を止めた。
正門から校舎まで坂の一本道が続くのだ。坂道は緩やかなカーブを描いて続いており、頂上が高校になっていて、小さな山の上に建っている学校といった感じだった。
「それでは、ここで降ろしてください」
豆人がそう言ったので、僕は靴紐を直すふりをしてしゃがんだ。すると、彼が軽い足取りで地面に降りて、ご丁寧にペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます。では、また家でお会いしましょう」
僕は、周りに聞こえないくらいの小さな声で「気をつけてね」と彼に言葉を掛けた。少し歩きだしたものの、人の足に潰されやしないだろうかと気になって、安否を確認しようと豆人が歩いて行った方を振り返った。
先程までいたはずの彼の姿は、もうどこにもなかった。見失ったのだと気付いて小さく首を捻った時、視界の端に妙なものが映って反射的に目を向けた。
正門から商店街へと続く歩道の、社会人と学生が入り混じったその足元で、何かが走っていくのが見えた気がした。緑色のモノが、ゆっくり人の足をすりぬけていったようにも見えた。
豆バス。
豆人の言葉を思い出して、僕は一人苦笑した。「まさかな」と呟いたら、「まさかなって、何が?」と声を掛けられてびっくりした。
自転車を押すようにして歩いていた男子生徒が、不思議そうに僕を見つめていた。短髪で小麦色の、いかにもスポーツをやっていそうな奴だった。
「いや、なんでもない」
僕は誤魔化すように言葉を返して、足早に正門をくぐって坂道を進んだ。自転車を押すその男子生徒が、慌てたように追ってきて僕のほうを覗きこむ。
「そんなに急がなくても間に合うって」
「そう」
僕は居心地が悪くなって、前を向いたまま顔を顰めた。誰かに話しかけられたり、話したりすることは苦手だった。なんだか逃げ出したくなってしまいたくなるのだ。
「なぁ、今日は本、読んでないのか?」
自転車を軽々と押しながら、先程の男子生徒が後ろから声をかけてきた。僕は「今日は読んでないよ」と答えたところで、生徒の姿が多い登下校の道のりでは、いつも本を読んでいたことを思い出した。
今日は豆人がいたので、すっかり忘れていたのだ。思い返せば、豆人が自分の肩に乗っていた時は、人混みにいても一つの苦手意識も覚えていなかった。多分、好奇心といったものがそちらに奪われていたせいかもしれない。
今日の放課後に、本屋に行くことを心待ちに一日を過ごすことを考えた。名前もあまり分からないクラスメイトと一緒にいなければならない時間も、この気持ちだけで乗り越えられるだろう。
「あの、夕月君、おはよう」
少し表情から力を抜いた僕に、見知らぬ女子生徒が声をかけてきた。作り笑顔を浮かべられるほど器用ではないので、僕はぎこちなく「おはよう」と言葉を返しながら、また眉を寄せて歩く速度を上げた。
頼むから、僕を放っておいてくれ。
本当に僕は、他人と交流をとることが苦手なのである。いつから一人でじっと過ごすようになったのだったかは忘れてしまったけれど、何かを夢中でやって楽しいなんて気持ちも、随分幼い頃に忘れてきてしまったような気がした。