裏の反対は表では無い
真面目系クズという言葉を先日、知人との会話の端で聞いた。
どうやらその意味は時の流れと共に遷移しているらしく、明確な定義はもはや失われつつあるのだろうが、表面上の意味合いをなぞるなら、なるほど、私は「真面目系クズ」であるらしい。
しかし、私がここで持ち出したいのはそんな真面目系クズアピールでは無い。
知人はその後、「でも私は真面目系クズでは無い」と宣ったのだ。知人が真面目系クズであるか否かは知人の名誉の為に置いておくとして、私はそこでふむ、と考え込んだのだ。
と言うのも、では、真面目系クズでは無い知人を評する場合、どう表現すればいいのだろうか、と。
真面目系クズ。
この言葉を分解するなら真面目とクズになるだろう。
真面目を反対にしたなら不真面目の一言で済む。不真面目系クズ。……ただの駄目人間になってしまった。これではいけない。
ではクズを反対にしたなら? クズ、つまり屑。その反対は――ここでその時の私の思考は途絶えた。知人が次なる話を持ち出したからだ。
しかし、あえて。私は再びこの思考を再開しようと思う。
今の私が考えるに、屑の反対は善人だろうか。真面目系善人。少し近づいた気がするが、どうだろう。何だか違う気がする。
そもそも善人とは基本的に真面目ではなかろうか。
よく、不良の垣間見せる善性を語る、ハートフルストーリーなんかが巷に出回っていたりするが、それは飽くまで「一部の善性の話」であって、不良の全てを語る話では無い。
不良と言うからには校則、法律を破ったり、少なからず誰かしらに迷惑を掛けているのだろう。それ自体は思春期の少年少女に生まれる特権と私は考えているし、子供の頃に多少のルールを破る経験が無いと、大人になってから見えない壁に苦しむというのが私の持論だ。
しかし、当たり前だが、これでは善人とは言えまい。善人とは存在全て、もしくは、少なくとも大半が善なる心を持った人間を差すだろうからだ。
閑話休題。話を戻そう。
では真面目、クズ。共々に反対にしてみればどうか。
不真面目系善人。
なんだ、この存在は。見る分には面白そうなキャッチコピーである。ただ、これでは私の求める答えとは言えまい。
そもそも、この世は表裏などの二元論で語れない事が物凄く多い。善悪なんかは最たる例だろうし、表裏の代表格であるコインですら、側面という第三の選択肢が存在する。
他に例を挙げるなら、今私が使い続けている「私」も、私にとっては反対の揺れ動く言葉だ。小学生時代の私は、「私」の反対は「僕・俺」であると疑わなかった訳だが、どうだろう。社会に出れば男も女も「私」である。あの頃の明確さが失われて久しい、という訳だ。
思うに、選択肢の多様化が反対の存在を霞みの向こうに隠してしまったのだろう。選択肢、つまり知識量の少ない子供時代は、正六面体の対面でも探すみたいに、呆気なく物事の反対を見つける事が出来る。
だが、知識量が増えに増え、増え過ぎると、この反対を探す作業が不可能に近くなってしまうのだろう。ともすれば、地球の裏側に向かう以上の労力かもしれない。
それでも私は今、この問いに対する答えを出さなくてはならない。しかし、私だけで答えを出す事はどうやら無理なようである。
そこで、頭を抱える私を怪訝な目で見つめる、隣の友人に救いを求める事にした。
「『昆布入りおにぎりを買う』。これの反対は果たして『梅入りおにぎりを買う』なのだろうか。君はどう思う?」
「そんなに悩むなら両方買えば?」
――かくして。私は一本のペットボトルと二つのおにぎりが入ったビニール袋を握って家へ帰る事となった。