8.転換
夜露に濡れた草が、焚火の炎をちらちらと映していた。
朧月はそれでも、大地を冷たく照らし、地面に這いつくばる者らは肩を寄せ合って震えている。
平原の中で二つに分かれた集団は、広大な大地の下では小さな染みでしかない。
「補給が来ない? どういうこった」
兜を皿代わりに、食事を啜っていたバーナードが、前線と交代で後方から来た傭兵に尋ねる。
「それが、馬車が来ないんで」
「どっかでひっかかってんのか」
焚火の炎にかじかんだ手をかざして、ヨアンは顔を顰める。
食糧や薪、それに矢は、ここ数日で貯めた分があるとはいえ、十分に用意されているとは言い難い。
持ち込んだ端から消費されていくそれらは、どれだけの数が有っても足りはしない。
物資の輸送が止められるのは、血管を流れる血を止められるのと同じだ。血の通わなくなった肉体は、その端から壊死していくだろう。
軍団においての肉体とはすなわちそのまま部隊と兵。末端となる兵が飢えれば、字句通りに腐り落ちていく。
それが解っているからこそ、輸送隊には護衛の隊が充てられているはずで、生半可な盗賊の類では歯が立たない。
輜重の類に防衛が必要というだけで戦力を割かねばならないし、襲撃の可能性を考えるだけで厄介なものだが、これがよく、足止めを食らうのだ。
「馬車が壊れたとか、そういうことではなさそうですね」
「ついてるんだかないんだか、晴れ続きだしな。伝令が走ってこなけりゃおかしい……」
この地では雪はあまり降らない。冬となると雨も少ないのだが、時たま降るそれは、戦場を泥濘に変え、体温を奪う。
幸いにしてヨアンはまだ経験のないことだが、冬の雨中で野営を行うことを考えると気が滅入る。
その状況で良いことがあるとすれば、騎馬の行き脚が落ちることだろう。
弓兵らも雨が降るたびに弦や弓が濡れることを嫌って文句を言うものだが。
冬の雨ともなれば、戦どころではない。というのが本音ではあった。
「拙いな。ということは敵さん、後ろに回ってるんじゃねぇか」
バーナードがそう呟いたところで、エセルフリーダ隊に招集が掛けられる。
休憩に入ってのんびりしていた兵らが、慌てて武具を手に立ち上がった。
「あちち、くっそ。休んでいる暇もねぇな」
「急げ急げ、焦らず急げ!」
「そいつぁ難しいことを」
「口の前に手を動かすんだよ」
鉄帽に食事を盛るのはよくやることで、だからまだそこに残っていたものを大急ぎで飲み込んで口の中を火傷した者が盛大に文句を言っている。
拭う暇もなく、頭に微妙な感触を覚えつつ走るわけだ。
ヨアンはといえば兜に食事を盛る事を固辞して、金属の皿を一枚、腰から提げている。
これはこれで小楯を持ち歩いているのか、と笑い話になるのだが。
革製の水筒と皿、食事用の小刀と匙は、休暇に入って真っ先に買い揃えたものだ。
「集合完了しました」
点呼をかけて数を確かめ、バーナードが報告すると、エセルフリーダはうむ、と頷いた。
「既に聞いたかと思うが、どうやら輸送隊が襲撃を受けたらしい」
そう話し始めたエセルフリーダによると、既に従騎士が確認に向かったようだ。
残されていたのは、馬車と拘束された商人ぐらいなものだったらしい。そして、一戦交えた跡。
「商人の話によると、竪琴王国の隊が一部、後背に潜伏しているらしい」
決して褒められた手ではない。
兵糧攻めなども攻城戦では行われるものではあったが、非戦闘員を襲撃するのはおよそ騎士らしくない。
昼間の一当てで見た、騎士然とした一騎討ちと比して如何にもちぐはぐに思える。
「卑怯な……」
とは、誰が漏らした言葉だったか。
戦というのは、厳重な規則の上に成り立っている物だ。
相手がそのような手に頼るのならば、こちらもそれを行う。困るのはお互い様だ。
特に貴族間において、高潔であるか、というのは実に重要な問題である。
元来、領主というのは互いに相争うもので、王にまとめられているように見えて、実際には独立した存在なのだ。
貴族同士は互いを高貴な者と見て、例えば戦場で捕縛したところで、身代金と引き換えに開放するだろう。
互いに槍を交えることを誇りとしているからこそ、よしんば死したところで、家門は残る。
その約束事を破った貴族がどうなるか。その結果は貴族間からの排斥。他の領主たち、あるいは王による粛清だ。
領主というのは互いに争うものである。領地を得られるとなれば、誰もが喜んでこの、貴族足り得ない者に鉾先を向けるだろう。
「この程度ならよくある話だ。狡猾な、と言うべきかな。さて、我々は後退するよう下命された」
「いつ、ですか?」
「今すぐ、だ」
傭兵達から呻き声が上がった。ようやく休憩できるかと思えば、夜も夜中に移動しろ、と言うのだ。
「飯が食えなくなるよりは今動いた方がマシだろ。ほら、野郎ども、行くぞ!」
「つってもよぉ……」
バーナードが引き継いで、傭兵らの背を押して急かす。
諦めてしまえば早いもので、さっさと準備を終えた傭兵らはまたさっさと整列を終えていた。
エセルフリーダの隊だけでなく、どうやらもう一つ二つ隊が後方へ下がるらしい。
松明の煤混じりの煙に咳込みつつ、何とはなしに横の隊を覗いてみて驚いた。
「ギブソン……さん!?」
「応よ! どうした兄ちゃん、そんな幽霊を見るような目で」
そこに居たのは、昼間、騎士と一騎討ちを演じてのけたギブソンその人である。
「生きてたのですか」
「おいおい。随分な言い方じゃねぇか」
思わぬ事に考えることを放棄して、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまう。
「すみません」
「まぁ良いけどよ。アレくらいで死にやしねぇよ」
そうこう話しているうちに隊は砦を目指して出発する。
月明かりと松明だけが灯りという状況で、馬を歩かせるのに苦戦しながらも、ギブソンの話を聞く。
どうやら、上手い事、槍の穂先を避けて自ら馬を飛び降りたらしい。
何とも手慣れたことだ。勝てないと見れば生き残る事を考える。
結果的に見ればあの状況では最低限の損害……というよりも、奇跡的に被害なしで済んでいる訳だ。
もしかすると、全て計算の上なのか。彼の得意げな、村の悪餓鬼といった顔を見て、それはないな、と思い直す。
まともな判断が出来るなら、そもそも秩序だって撤退する竪琴王国の軍を追いかけていないだろう。
ギブソンはどうにも、凄いのか凄くないのか。どうにも悩む男だった。
「あの騎士の野郎、今度会ったらとっ捕まえてやる」
豪胆なのは、間違いない。




