10.月夜
戦場の夜は、意外と明るい。
月明かりは薄く、平原を照らしている。夜露に濡れた草がきらめき、暗い海のようだった。
陣地は煌々と篝火に照らされ、遠目にはぼんやりとそこだけが明るく浮き上がるようである。
砦の灯りが目に痛いほどで、中に居ると光の外は暗幕が降りたよう。
この薪のためにどれだけの費用が掛けられているのだろうか。そんなことを考えてしまう。
「眠れませんか?」
「……えぇ、何故か落ち着かなくて」
急に背後から声を掛けられて、危うく飛び上がりそうになる。
向き直れば、寝間着だろうか、生成りの服と肩掛け姿のエレインがそこに居た。
月明かりに照らされた彼女の姿は儚気で、思わず見とれてしまう。
白皙の肌に、ちらちらと光を返す瞳が妖しげに映る。
「夜に御一人で歩くのは危ないですよ」
「心配していただけるのですか?」
気恥ずかしさを誤魔化すようにそう言えば、笑われてしまった。
彼女も護身用にと左手に剣を提げており、その腕の程はヨアンも知っている。
そもそも、貴族の子女然とした彼女に手を出せば、死よりも恐ろしい最後が待っていることは火を見るより明らかな事なので、だれもそんな気は起こそうはずもないのだが。
「エレイン様はどうされたんですか?」
「様、というのも不要なのですが――出立の前にちょっとまた」
この時間まで書類仕事をしていたらしい。その姿勢には頭が下がるものではあるが、同時に少々、無理をし過ぎなのではないかと思う。
「解ってはいるのですけれど、書類が残っているとどうにも落ち着かなくて」
その旨を伝えれば、彼女は困ったように眉尻を下げて頬に手を当てる。
「僕がもっと手伝えると良いのですが……」
「いえいえ、随分と助かっていますよ。これは私が勝手にやっていることですから」
見直しに限らず、一から手伝えれば随分と作業量を減らせるように思えたが、実際には作業について教わったり、再度の見直しをしたりと、今のところでは寧ろ仕事を増やすことになる。
エレインは勝手にやっていること、と言っているが、彼女が居なければ部隊は回らない。
「せめてご自愛ください」
「ヨアンさんにそれを言われると、何か不思議な気がするのですけれど」
「うっ……」
痛い所を突かれた。確かに、つい最近までの自身の事を振り返れば彼女に身を案じるように言うのもおかしい。
「冗談です。けれど、その言葉、すっかりお返ししますよ」
「申し訳ありません」
ころころと笑うエレインに返す言葉もなく、ヨアンは項垂れるしかなかった。
傍から見れば、彼女のように映っていた……いや、彼女よりも質が悪いだろう。ヨアンのそれはエレインと違って然したる意味もない自暴自棄だったのだから。
こうして落ち着いてみてから考えれば、少し前の自分がどのようなものだったか解ろうというものだ。
特にエレインには情けない姿を見せ続けていたものである。何度も手を煩わせた
「少しの間に、随分と変わりましたね」
「そうでしょうか」
「ええ、前よりもいい表情をしているように見えます」
どんな風に、とは言えないけれど。そう言って、慈母のような笑みを向けられると、頬が熱くなる。
「ちょっとだけ考えを改めまして」
目をそらして頬を掻く。気にする余裕もなかったのだが、こうして見るとエレインはおおよそ、ヨアンの見た事のある誰よりも魅力的な女性だった。
貴族の子女らしく柔らかな物腰は農村では見た事のないものだったし、芯のある利発さはとても心強い。
とはいえ、そのような姿に下心があるわけではない。今は貴族ではないという彼女であったが、何故かそのような気持ちを持たせなかった。
その、どこかすべてを見透かしたような超然とした態度のせいかもしれない。
ヨアンにとっては高嶺の花、というのが正しいだろうか。
「そうですか」
「そうなのです」
深く追究してこないのもありがたい。ヨアンの表情に何かしら読んだのだろうか。
「さて、さすがに夜も遅いですね」
「ええ、送ってくださいます?」
「勿論。お姫様」
「ふふっ、私がお姫様なら、ヨアンさんは騎士ですか?」
誤魔化すように言ったことではあったが、強ちあり得ないことではなかった。
彼女に手を差し出そうとして、ヨアンは数瞬、躊躇う。それを察したか、エレインはヨアンの腕を取った。
悪戯に成功したような、しょうしょう子供っぽい笑みを浮かべた彼女の顔を見て、ヨアンは目を逸らす。
女性をエスコートするのは、騎士、いや、紳士として当然の義務である。それが貴族の習いだった。
だから、これは当然の事。そう自らに言い聞かせたのはどちらだったか。
「では、行きましょうか」
彼女の温かな体温と、柔らかな肢体を感じて、ヨアンは鼓動が跳ねるのを感じた。
役得だ、と思えればよかったのだろうが、そんな余裕は彼になかった。
ほんの少し、エレインも頬を染めていたのだが、それに気づくこともできなかっただろう。
「いやしかし、今日も冷えますね」
「ええ。もう冬が来ますからね」
どこか空々しく、そんな言葉を交わしながら歩く二人を映すのは空の月だけだった。




