2.邂逅
「ここは……」
「あら、起きられましたか?」
どれ程の間、意識を失っていたのだろうか。背中にひやりとしたものを感じて目が覚めた。
気づけば、目の粗い布にうつ伏せに寝かされており、視線を動かして後ろを見れば、わずかに白金色が見えた。
起き上がろうとすれば、柔らかく、温かな手で背中を抑えられる。決して強い力ではなかったが、寝起きだからか力が入らず、上手く立ち上がることはできなかった。
「怪我をなさっていたようなので治療をしています。今しばらく動かないでください」
そうか、自分は怪我をして……どうして怪我をしていたのか。どうにも頭が回らず、声の主の言うままに、体を地に伏せた。
目の端を、焚火の灯りに照らされた白金色がゆらゆらと揺れる。声は実に耳ざわりが良く、月並みな表現だが、鈴を転がすような音だった。
「これでよし、ですね」
ぎゅっと包帯を絞められて、思わずうめき声が漏れた。声の主の手に導かれて、何とか上体を持ち上げる。
目に映ったのは、一人の若い娘だった。白皙の肌に、透き通るような碧の瞳……青い、瞳。
「うわぁ!」
思わず手を振り払って体を離した。意識を失う前に見た、底冷えするほどに冷たい青い瞳が思い出される。
慌てて周囲を見やれば、そこは軍の野営地と言うべきか、焚火を囲んで様々な物資の置かれた広場だった。その中には当然のように槍や斧、剣と言った武具もある。
「そうだ、僕は確か村から」
焦って自らの身を確かめる。父の書いた手紙は、服の中に入れていたはずだ。
しかし、今は上着は脱がされ、ただ包帯が巻かれているのみ。あの手紙はどこへいったのか。
娘は急に手を振り払われて傷ついたような、困惑したような顔をしているが、彼はそれには気づかない。
「すみません、文は私たちの方で回収して、読ませていただきました、それで」
「どういうことだ!?」
「きゃっ」
思わず、食って掛かる。そうだ、村を襲ったのは傭兵達だった。彼女もその一味なのではないか。腕を握って顔を近づけると、怯えた顔をされた。
「兄ちゃん、そいつはいけねぇな」
気づけば、一人の男が立っていた。手には槍を握り、その穂先はこちらに向けられている。
「あっ、すまない……失礼しました」
血の気が引いた。頭が冷えてみれば、手当を受けたその恩を仇で返すような事をしているのは自身だ。
解れば良いのだが、と男は槍を引いた。彼は壮年、と言っても良い齢だろう。身に着けた鎖帷子や鉄兜は使い込まれてはいたもののよく手入れされ、鍛えられた肉体は頼もし気でもあり、村を襲ったならず者とは似ても似つかない。
「非礼をお詫びします。私はこの近くの村で代官をしているパウロ卿の息子、ヨアンと申します」
改めて見れば、目の前の彼女は気を失う前に見た恐ろし気な騎士とは似ても似つかない。
共通している点はその瞳の色だけで、多少、旅に疲れた様子はあるが良家の子女然とした穏やかな物腰の女性だ。
「いえ、混乱なさるのも当然です。ヨアンさん、ですね。私はエレイン……今はただのエレインです」
今は、という言葉に首を傾げれば、彼女――エレインは苦笑じみた笑みを浮かべた。
「文は検めさせていただきまして、今は私の姉、エセルフリーダ卿が事に当たっているところです」
「お館様は、この辺の領主様に頼まれて賊の討伐に来てんだ」
言葉を継いだのは傭兵然とした男。聞けば、騎士、エセルフリーダ卿の率いる傭兵団の一員だという。
つまるところ、どうやらエセルフリーダ卿というのは、自由槍騎士らしい。
「それは……それはありがたい!」
ヨアンは思わず立ち上がり、拳を握る。逃げた先で彼らに出会えたのは重畳だ。
ひとまずの役目は果たしたということに胸を撫でおろし、そうなると、今度は村の様子が心配になる。
「僕……いえ、自分も連れて行ってもらえませんか。村が心配で」
そうヨアンが言うと、傭兵の男は困ったように頭を掻いた。
「兄ちゃん、その怪我で鉄火場にいくのかい」
「邪魔にはならないようにしますから」
肩に受けた矢傷と、どうやら落馬したときに捻ったらしい手首がずきずきと痛むが、左腕以外は細かな擦り傷程度の怪我しかない。
何ができる、という訳でもないが、今はとにかく村の様子を一目見たかった。
「どうしやすか」
「村の様子を心配なさるのも道理、お連れしましょう」
「そう仰るのなら」
エレインの言葉に傭兵は渋々と首を縦に振る。彼はヨアンを見て溜息をつくと、こっちだ、と言って先導して歩き出した。
「っ!?」
「大丈夫ですか?」
それについて歩き始めようとしたときに足がふらついた。地面に倒れようとするヨアンを支えたのは、エレインだった。
失血で冷えた体には、彼女の柔らかな肢体は温かく、そのような考えがこのような時に頭に浮かんだことを、何よりヨアン自身が驚いていた。
「……すみません」
口を吐いて出たのは謝罪の言葉だった。先ほどから取っていた自身の失礼な態度が今や悔やまれる。
彼女らは縁もない自身を助けてくれた上に、これから村を助けようという、いわば恩人だ。
「いえ、混乱されるのも仕方のないことです」
悄然とするヨアンに、エレインは微笑みを浮かべて声をかける。しかし、その微笑みもすぐに消えてしまった。
「それに……村の方は」
わずかに目を伏せて、小さく言ったその言葉は、ヨアンの耳には届かなかった。彼は萎える足を何とか出して、傭兵の後を追う。
少しの間歩き、夜闇に目が慣れてくると、自身が何処に居るのかようやくつかめてきた。村を見下ろす丘の上だ。常にはよく、森できのこやちょっとした果物を取りに行くついでに足を延ばして、ここからの景観を楽しんだものだ。
そうと解れば足は急く。このあたりはもう自分の庭と同じようなものだ。切り株の位置、木の根の張る場所さえ覚えている。緩やかなこの坂を登れば、村が見えるはずだ。
「これは」
ヨアンが見たのは、変わり果てた村の姿だった。
くすぶる火によって照らし出されたそこは、もはや原型をとどめていない家々が立ち並ぶ廃墟と化していた。
「エレイン、どうして前へ来た」
「その、あのお方が村の様子を確かめたいと仰って」
エレインが誰かと話をしている。少し苛立ったような、そしてひどく冷たい声ではあったが、おそらくは女性の声だろう。
ヨアンがそちらの方を振りむけば、エレインとよく似た髪色、瞳を持った女性が立っている。だが、似ているのはそこまでだ。
月明かりの下ですら輝くような白銀色の鎧に、猛禽を思わせる鋭い目、伸びた背筋と堂々とした立ち姿からは、ただそこにあるだけで威圧感を覚える。
「これはどういうことですか!」
思わず詰め寄ろうとしたヨアンに案内役の傭兵が再び槍を突き付けようとするのを、その女性は手で制し止めた。
「あなたはあの村の生存者だな」
「……そうですが」
「私は傭兵隊を指揮する騎士、エセルフリーダだ。二、三質問したい事項がある」
エセルフリーダと名乗ったその女性は、実に淡々とした様子で話を進める。その態度に、ヨアンは苛立ちを覚えた。
「質問も何も! あなた達の仲間が村を!」
傭兵。村に来てこうして村に火を放った者らも傭兵を名乗っていた。彼らさえ来なければ、こんなことにはならなかったのに。
激したヨアンが初めに感じた恐れも忘れて掴みかかろうとすれば、次の瞬間には視界が一回転していた。
「うぐっ」
「失礼。だが、落ち着いて欲しい」
地面に這いつくばったヨアンに対して、エセルフリーダは相も変わらず冷静な様子で話を続けた。
「まず、我々は村を襲撃した者らとは無関係だ」
「奴らは獅子王国の傭兵だと言っていた」
「そうか、いやしかし……」
ぶつぶつと、何を呟いているのか。地面に押し付ける力がふと弱くなって、ヨアンは何とか拘束から抜け出した。
「お館様、そんなことより」
「ああ、そうだな」
周りを見渡せば、いくつもの刺すような視線が出迎えた。それらは一様に簡素ながらよく手入れされた武具を身に着けた男たちだった。
思わず喉から声が漏れる。その視線の持ち主は何れも戦慣れした、いかにもな傭兵達だ。ヨアンの一人なぞ、片手間に切り捨てることもできるだろう。
エセルフリーダは傭兵の一人から何事かを聞いて幾度か頷くと、ヨアンに向き直った。
「我々は村を見に行くが、あなたはどうするかな」
「……行きます。ついていかせてください」
この傭兵達を信頼した訳ではないが、今はとにかく村を確認したかった。壊れている家々しか見えないし、もしかしたら逃げ延びた村人が、いや、皆、無事なはずだ。
いかに荒くれものどもでもわざわざ無抵抗の村人を殺すようなことはしない。そう信じたかった。
「こちらから向かうのが近道です」
街道の方に丘を下ろうとする傭兵らに声をかけ、近道を教える。一列になってようやく通れるような獣道だったが、村にまっすぐ向かう事ができる経路があるのだ。
「そうか、では、バーナード。数人連れて先行してくれ」
「へい」
バーナードと呼ばれた傭兵は、先ほどヨアンをこの丘に連れてきたあの壮年の男だった。エセルフリーダと傭兵達は、街道の方へと降りていく。
「それじゃ、兄ちゃん、道案内頼むぜ」
「他の方は?」
「お館様は馬だし、まだ賊どもが残ってるかも知れねぇだろ」
当然のように返された。馬はさておき、賊が残っていたらどうなのか。そんな疑問が顔に出たのか、バーナードは微妙に呆れたような調子で言葉をつないだ。
「敵の前に一列に並んで出てく馬鹿が何処にいんだよ」
「そういうものなのですか」
そういうもんだよ、と溜息をつかれる。つまり、部隊を展開するために、遠かろうと広い道を通っていく、という話だった。
何を暢気な、と思わない訳でもなかったが、その言葉を飲み込んで、ヨアンはバーナードらを先導して歩く。
途中、いくつか滑り落ちそうな箇所もあったが、難なく避けつつ一行は進んでいく。
「おい待て」
村は略奪を受けているにしてはあまりにも静かで、だからこそヨアンは進むほどに焦りが募る。
もう一つ茂みを越えていけば村までは一直線、というところで、バーナードがヨアンを引き留める。
「さっきも言っただろ、賊が残ってたらどうすんだ」
ヨアンは村を見る。やはり人の声一つしない。バーナードが肩にかけた手を振り払って、駆け出す。傭兵らはヨアンを追いかけはしなかった。
「おい!」
バーナードが苦い顔をしながら声をかけるのを、ヨアンは無視して走った。一刻も早く、村を自らの目に入れたかった。
息が切れる。肩の傷がじくじくと痛み、立ち止まりたく気持ちを抑えて、何とか村を目指し走り続ける。
「誰か! 誰かいないか!」
獣避けの柵を越えて呼ばわっても、返答はなかった。ただ、木材の、家だったものの燻る、弾けるような音が聞こえるだけだ。
月明かりと、残り火に微かに照らされた村の姿は、ヨアンの覚えているそれとは、似ても似つかない姿だ。
「誰か……ッ!」
村の広場を目指しながら、ふと、誰かと目が合った気がした。
それは確かに見知った顔の、見開かれた目で、しかしそれは半ば炭と化した遺骸のものだった。
「ド、リー……おば、さん」
崩れ落ちた家の梁と柱の下から覗くそれは、気風が良く、面倒見のよかった彼女の顔とは思えないほどに苦しみに歪んでいた。
目を凝らして見れば、家々の残骸の中にいくつものヒトであったものが混ざっている。気付いてしまえば、いくつも、いくつも。
何か、五月蠅い音が聞こえる、そう思えば、それは自らの喉から出ている叫び声だった。目の前が滲む。まるで水の中を進むように、感覚が遠ざかっていく。
そのままに歩き続ければ、気づけば広場にたどり着く。そこには、明らかに致命的なほどの血だまりの上に倒れ伏している父親の姿があって、その傍らには、剣と幾人かの賊の死体。
もう、驚きもしなかった。ただ、父は最後まで抵抗をして見せたのだと、それだけが救いだと、そう思った。
「ヨア……ン?」
か細い声が、どこからか聞こえた。聞き覚えのある。そう、まだ生きている者がいる。そうと認識した瞬間に、そちらの方に走り出していた。
「ブレンダ! 何処だ!?」
「あ、は……戻ってきてくれたんだ……」
それは農夫の娘で、ヨアンの幼馴染の声だ。器量の良い娘で、将来を期待されていた。農村の常で、ただ幼馴染、というだけではない関係だった。
声をたどれば、すぐに彼女の元にたどり着く。たどり着いて、しまった。
「ブレンダ……」
その黒髪は間違いなく、彼女のものだった。つまり、それ以外に彼女とわかる状態ではなかった。
「確かに、ヨアンの声だ……」
うつろな瞳で宙を見上げる彼女の腹からは、飛び出てはいけないものが、飛び出ている。
「ブレンダ……」
「ごめん、ごめんね」
約束、守れそうにないや、と、彼女は口の端をゆがめた。微笑もうと、したのだろう。
漂う臭気に、吐き気を抑えられず、ヨアンはうずくまった。それでも、何とか彼女の下へとにじり寄る。
「ブレンダ」
「最期に会えて、よかった」
ヨアンは彼女の血に濡れた手を握りつつ、名前を呼び続けることしかできない。
「あなたが生きてて……」
「ブレンダ?」
あっけなく、言葉の最中で、止まった。彼女の声が、命の灯が。
するり、と熱を失っていく手が、掌からこぼれ落ちた。
「どうして……」
すでに、叫ぶ気力すらなかった。怒りも、悲しみも、何も湧いてはきやしない。
ブレンダの側には短刀が落ちていて、彼女も賊に抵抗してみせたのだろう。
それに対して自分がしたことは何か。これでは何の意味もなく、ただ逃げただけではないか。
「どうして」
立ち上がることもできずに、どれだけの時間が経ったのだろう。その声は、突然、空から降ってきたかのように思えた。
「ここに居たか」
そろそろと目を上げていけば、白銀の鎧を身にまとった騎士が、氷柱を思わせる冷たく鋭い瞳でこちらを見ている。
「我々は賊を追うが、ヨアン、君はどうする」
いつの間に名を知ったのか、いや、バーナードかエレインから聞いたのだろう。
そんなことよりも、何と言ったか。賊を追う。鈍く、固まっていた思考が少しずつ動き始める。
そうか、賊を追うのか。村を、父を、村人を、幼馴染を、こうして、壊して、奪い取った賊どもを。
気付けば、ヨアンは足元にあった短剣を握りしめていた。
「……いきます」
「何だ?」
喉から漏れたのは、存外かすれた声だった。聞き取れずにエセルフリーダが尋ね返すのに、彼女の目を見て言い切った。
「僕を、貴女の兵に加えて下さい」
それは、思わず口をついて出た言葉だった。しかし、それ以外にないとも思える言葉だった。
「良かろう」
一瞬の空白の後に、エセルフリーダはそれだけを言うと背を向けた。例の傭兵、バーナードが膝をついたままだったヨアンに手を差し伸べる。
「さぁ、行くぞ」
「はい」
いつの間にか流れていた涙を拭って、村に背を向ける。いくつもの思い出が脳裏をよぎるが、それはすでに過去の物になってしまった。