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1.逃亡

 逃げて、いた。

 視界の端を、気が遠くなりそうな速さで木々が流れていく。

 正面にとらえた馬の首を凝視して、震える歯の根を、食いしばることで何とか堪えていた。

 時折、顔に当たる枝葉で、擦り傷が増えていくことすら気にすることはできない。

 今はただ、暗い夜道の中で、馬が何かに足を取られることなく走り続けることを祈るしかなかった。


「どうして、どうしてこんな事に」


 馬の背にしがみついている青年は、ただ呻くしかない。

 彼は、しがない農村の代官、その息子だった。父親はかつて領主と共に戦場を駆けたという騎士で、その縁から村の一つを任されており、彼は平和な少年時代を送っていた。

 長閑な農村では農夫と共に畑を耕して汗を流し、時には代官の書類仕事の手伝いをしながら、慎ましやかながら充実した日々を送っていたのである。

 時折、騎士でもあった父親から乗馬や剣の手ほどきは受け、過去の武勇伝を聞いてはその華やかさには憧れたものだが、実際に自らが剣を振るうことはないだろうと思っていた。

 代官の父親は村人から尊敬されていたし、その息子の彼も次代の代官として期待されていたから、村民との関係は実によかった。


――しかし、その平和は今、かくも簡単に打ち破られた。


 戦乱が起きたときには、村の若い衆から数人が徴用された。

 しかし、それはいつものことで、そして帰ってこない者がいるのもいつも通りの事だ。

 彼の父が代官として治める農村は決して裕福な村ではなく、そのように農家の次男三男が村から居なくなることによって助かる面がなかったと言えば嘘になる。

 帰ってこないと言っても、それぞれに差はあった。もちろん、命を落とした者もいるが、傭兵の道を選んだものや、何やら商売を始めるのだ、などと言っていた者もいる。

 農村は、何も変わっていなかった。戦争が起ころうと、それは遥か国境の話で、時折、近くを通った軍勢に多少の備蓄を持っていかれる程度の話だったのだ。


 ある日の夕刻、突然、傭兵団を名乗る者らが現れた。代官である父親は、即座に文をしたためると、息子である彼にそれを託したのだ。

 話は表向き、とても穏やかに進んでいた。しかし、村の外に並んだ傭兵たちの姿、解れのある服に、ところどころ錆の浮いた武具、貧相な体つきに伸ばしっぱなしの髭。

 盗賊紛いのその姿に不安を煽られたのは確かだ。盗賊、山賊の類は、よくあることではなかったが、決してない訳ではなかった。それらが現れるたびに、領主の軍や代官である父親が動員され、自警団の一員として彼も参加したことだってある。

 決定的な違いは、その戦力だろう。酷くくたびれた装具ではあったが、騎士くずれのような風情の者が一人に数十人の兵士。とても村一つで相手にすることはできない。

 それも、自らの母国、獅子王国に与する者らであるというのが事をさらに厄介なものにしていた。


――実際には、そんなものではなかったのだが。


「そのような話には応じられない!」


 初めは表向き紳士的に対応していた青年の父が声を荒げたのは、交渉も半ばになってからだろうか。

 小屋の裏に隠れて、漏れ出てくる声から判断するに、よっぽど堪えかねない要求をされたのだろう。

 騎士崩れの男は、もはや下卑た笑みを隠そうとはしていない。

 そのような傭兵達に激しながらも、父はこっそりと村を出るように合図をした。そして彼は村に一頭だけの馬を駆って、村を出ようとしたのだ。

 夕闇に紛れて馬房から馬を出す。既に鞍は乗せてあり、走らせる準備は万端に終えられていた。馬が鼻を鳴らす音にすら、いつ見つけられるかと不安に駆られたものだが、意外にも、と言うべきか村の裏手へ馬を歩ませても気付かれることはなかった。

 父が騎士崩れの気を引いている広場から十分に距離を取って馬の背に跨ると、ゆっくりと歩かせる。村の裏手にある林に足を踏み入れ、無事に村を出たかとほっと一息を吐こうとした時、それに気づいた。


「待て!」

「親方ぁ! 逃げようとしている奴が!」


 背筋を冷たいものが走った。すでにこの傭兵、いや、ならず者どもは既に村を包囲し終えている。

 林の中には数人の賊が伏せていた。木々の隙間から漏れる赤い陽に照らされて、凶刃が鈍く輝いていた。


「走れ!」


 事ここに至っては隠れる意味はない。無我夢中で馬の腹を蹴った。

 突然、激しく腹を蹴られて嘶き、後ろ足立ちになった馬に何とかしがみついて、駆けさせる。

 進路上に居た数人の賊が、蹄に巻き込まれてはかなわないと泡を食って避けた。


「くそっ!」

「逃がすな!」


 耳を掠めて風を切る音が過ぎていく。何の音だ。暴れる背中に何とかしがみつく。今はとにかくここを離れなければ。


「ぐっ!?」


 左肩に何か、氷を押し当てたような感覚を覚える。それはすぐに、焼いた鉄棒を押し当てたような、熱さに変り、頭の中を搔き乱す痛みになった。

 どうなっているのか確かめたいが、手綱を握るのに必死でそれどころではない。どうにか首をわずかに傾けて後ろを見れば、肩から何やら棒状のものが生えていた。


「弓矢!?」


 そこでようやく気付いた。あのならず者たちは弓矢を持っているのだ。

 慌てて頭を伏せる。先ほどから鳴っている風切り音は矢玉によるものだったのだ。

 血が抜けてきたせいか、左手に思ったように力が入らない。手綱を手に幾重にも巻いて、外れないようにするので精一杯だった。

 とにかく駆ける。駆ける。頭までぼんやりとしてくるのを奥歯を噛みしめて耐える。


「どうして、こんなことに」


 うわごとのように、そんな言葉が歯の隙間から漏れる。

 村からどれだけ離れただろうか。木々の密度が増えていく。村を背に見ると、赤々とした灯の色が見えた。

 村の灯はあんなにも煌々としたものだっただろうか。いや、そんな訳はない。


「どうして」


 その問いに答える者はいなかったが、一つの可能性に思い至って心臓を掴まれるような不安に苛まれる。

 そうだ、あのならず者共が村に火を放ったのだ。


「とにかく、急がなきゃ」


 馬はすでに荒い息を吐いている。ともすれば足を止めようとするのを、踵を押し当てて駆けさせた。

 暗くなっていく林、いや、もう森といっても過言ではないだろう。その中を駆けるのは容易いことではなかった。

 向かう先に樹が見えた時には、もう避けるまで数瞬しかないということが何度もあり、枝や時には樹皮に擦り付けた服はすでに襤褸のようになっている。

 痛みも麻痺し、朦朧とし始めた意識の中、ただただ暗闇を駆ける。


「どうして」


 どれだけの時が経っただろうか。気付けば、木も疎らになってきた。どうやら、森も終わりのようだ。

 ここを抜ければ、街道に出る。そうすれば、このあたり一帯を統治する領主の居城も近い。

 今はとにかくそこに駆け込んで――


「何者だ!」


――森を抜けた瞬間に、松明の灯りが目を刺した。

 馬が驚いて体を捻り、青年は馬から転げ落ちた。左手に巻き付けた手綱に巻き込まれて、受け身を取ることもできない。

 体が地面に叩きつけられて肺の腑から息が抜け、これまで何とか保ってきた意識が急激に遠のく。

 暗く沈んでゆく彼の視界に最後に映ったのは、巨大な馬にまたがる白銀色の騎士の、青く、冷たい眼差しだった。

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