第一話 引っ越し
八月上旬、高速道路を一台のバスが駆け抜けた。型が古いせいか足回りはひょこひょこして落ち着かない。おまけにエンジンも走ることしか能がないようで、大量の黒煙を排出している。後続車両は迷惑極まりない様子で、バスを避けるようにして走っていた。
内部も決して快適とは言えず、クーラーの効きが悪いのか、数名しかいない乗客は団扇を仰いで暑さを凌いでいた。まさかバスの中で世話になるとは思いもしなかったようで、乗客の顔に笑みはない。後部座席にいる遠野 恭一郎も例外ではなかった。
凛とした顔立ちで、何者にも染められていない黒髪は丁度良い長さにまとめられており、それはあたかも彼の性格を表わしているかのようだった。額から滲み出る汗を拭き取り、バスのバックポケットに収まっていた観光雑誌を読むこともなく読んでいる。彼は終着点である、とある町へと向かっていた。
――――――きっかけは今から三日前、恭一郎が大学の寮にいたときのことだった。この日もいつも通り帰宅した彼は、自宅の電話に一通の留守番電話が入っているのを確認した。何時もなら来ないはずのそれに疑問を示し、再生する。
「恭一郎、元気にしていますか? ちょっと話があるので、折り返し電話ください」
それは恭一郎の母親からのものだった。何かあったのか。彼は急に心配になり、電話をかける。それはワンコールで繋がったが、彼の予想に反して、母の声は明るかった。
「恭一郎! 久しぶり。元気だった?」
「母さん、どうしたの、急に」
久方振りの母との会話。恭一郎は安心したような感情を覚え、床に座り込んだ。それに気付いたかのように、母のテンションは上がっていく。
「いや実はね、父さんがあんたのいる所に引っ越したいっていうのさ」
「引っ越し?」
「うん。父さん今年で定年退職したでしょ? 退職金をはたいて、いっそのこと都会に住もう、なんて言い出して」
恭一郎は嬉しそうに話す母の言葉に耳を傾けていた。笑ってもいるが、なぜかひきつっている。
「そんなに急に引っ越すとか言われても……。住む場所は決めたの?」
「最近出来たバリアフリーのマンションがあるでしょう? あそこに決めたの!」
「あの低家賃で借りられる所?」
「そう!」
恭一郎のいる学生寮の近くは、近年建設ラッシュが続いており、彼の両親が借りるマンションもその一つだという。恭一郎が納得するかのように首を縦に振ると、間髪入れずに母がマシンガンの弾幕の如く喋りだす。
「あんたが住んでいる近辺は街灯が多くて、治安も良いって聞くよ。ショッピングセンターとか美術館とか、楽しむのにも事欠かないねえ!」
「ああ。狸に畑を荒らされたり、地元のチンピラどもの騒ぎ声を聞く心配もないしね」
恭一郎が笑って母の話についていこうとする。彼女は昔からこれだった。良くも悪くもマイペースなのだ。話の進み具合についていけていないのを分かっていない。
「それで父さんが、あんたに引っ越しを手伝ってほしいって、お願いしてきたの」
「引っ越しねえ」
「あんたには言っていなかったけど、先週不動産業者さんと契約してきたの。だから、8月の中頃までには引っ越しを済ませたいって。あんた、大学で遊んでばっかりいるんでしょ? どうせだったら少しは親の役に立ちなさいよ」
母は饒舌に話していたようだったが、恭一郎は何かおかしいことに気付き、慌てて母のマシンガントークを止めに入った。
「母さん、まさか俺が手伝う前提で話してる?」
「当たり前でしょ。だったらどうして電話するのさ」
思っていたことが当たったようで、彼の表情は途端に暗くなった。母はどうやら、大学生は社会人になるまでの羽を伸ばす期間だと思っているらしい。しかし、彼の通っている大学は事情が違った。
彼は医療系の大学に進学したのだ。まだ一年生とはいっても専門的な科目を取らなければならず、彼はそれの対応に苦慮していた。ほかにも度重なる課題、夏季休業が明けた後に待ち構える後期始めのテスト、一日4時間を切る睡眠時間と、悩みの種は尽きない。
「母さん、俺だって忙しいんだ。これから試験もあるんだし……」
「何、家族の絆よりも試験の方が大事だってかい」
「そんなわけじゃ……」
「じゃあ決まり! バスの予約、しておきなさいよ」
「予約しなくても乗れるけどね。ばいばい」
恭一郎は嫌味を残して電話を切った。そして、溜め息をついて一瞬考えた。親にこうは言ったものの、束の間の休息として実家に帰るのも悪くない。たまには気分転換も必要だった。しかし、単位がかかっているテストの勉強もしなくては……。彼は葛藤していた。そうしているうちに、今度は彼のスマートフォンに着信が入る。今度は誰だろう。彼は気だるげにスマートフォンを取る。
「もしもし」
「あ、あの、恭一郎先輩ですか?」
その声を聞いた時、眠りかけていた恭一郎が覚醒した。スマートフォンを握る力が強くなるのを感じる。
「……瀬奈々か?」
「はい、お久しぶりです! 春野町立春野高等学校吹奏楽部の、愛川瀬奈々です!」
愛川 瀬奈々はかつての恭一郎の後輩だ。恭一郎とパートが同じで、よく指導や声掛けをしていた。それもあってか、二人はとても仲が良かった。彼は笑顔になって会話を続ける。
「いきなりどうした」
「先輩、8月8日って空いていますか?」
その日は両親に引っ越しの手伝いをしてほしいと頼まれた日と被っていた。
「何かあるのか」
「はい。半年に一度行っている、定期演奏会を見に来てほしいんですが……」
「ああ、そんなのあったな」
春野高等学校の吹奏楽部は全国大会の常連で、恭一郎が在学していた時には金賞を3年連続で受賞するほどだった。この定期演奏会は町中の人が見に来るほどの大盛況で、特に夏に行われるものは大会の直前に行われるので一際クオリティーが高い。
「実は、定期演奏会の直前に実家に帰るんだ」
「そうなんですか。じゃあ、そのついでにでもいいですので、来てください!」
「ああ、何とか時間を作るよ」
「ありがとうございます! お待ちしています」
「ああ、じゃあな」
恭一郎は電話を切る。これで彼の心は決まった。
「……引っ越し、手伝うか」
そうと決まれば彼は荷造りを始めた。その中には、彼と瀬奈々との思い出が詰まっていた。




