平凡さはスタインバーグにまどろむ
1 裸のカウチ
「人間は滅び、世界はますます繁栄する。われわれは瞬きの間の存在にすぎない」
(奇妙な愛博士「愛はゼロと同義」百二十七頁、五行目より)
家のドアをくぐった瞬間、スズキは服を脱ぎ始める。
わずか二秒で、ジャケット、シャツ、ネクタイ、ベルト、スラックスが床に落ちていく。靴下に少し手間取ったが、やがて、それが、タイガーウッズのティーショットのような弧を描いて、洗面台に入ると、彼は完全な裸になった。
床はくしゃくしゃの洗濯物でいっぱい、台所は汚れた皿が積み重なり、あちらこちらにほこりが積もっている。テーブルには1週間前のスターバックスのラテ、剣山のような灰皿、フタのついていないウイスキーのびん、ちぎったポルノ雑誌のグラビア写真……。
スズキは裸のまま、ナスをマイク代わりにフランク・シナトラの「マイウェイ」を唄う。その大声は二十センチのコンクリートを隔てた隣人クォンの部屋にも聞こえた。「またアイツが歌っているな」とやさしいクォンは慣れっこ。「なにかつらいことであるんだろうよ」
「マーイウェーイ」と歌い終えると大きなため息をついて、穴の空いた風船のようにカウチに仰向けにしぼんだ。体は熱を帯びていて、うっすら汗をかいている。
シミだらけの天井はずっと見ていると古代の文様に見えてくる。そして、今日起こったことについて考えをめぐらせた。大切なことがあった。いくつかの要素はまだ終結しておらず、明日以降に覆い被さってくるはずだ…。
2 秘密の招待状
招待状が届いたのは二週間ほど前だ。が、一日二時間事務をやって、四時間立ち話をして帰るパートタイム・サトミねえさんがその手紙に気づくのに一週間が必要だった(それでも早いくらいだ)。さらに無造作にホンダの机に置かれるとそのままそこで眠りについた。一週間後、インスタントコーヒーをこぼし、黒い液がそこにしみこんだ。「なんだ、これは?」。やっと手紙に気がつく始末だ。「秘密の招待状」とでかでかと書かれている。
液が滴る便せんには住所も名前も電話番号もなにもない。何かを意味することを恐怖するように、記号的なものが極めて少ない。
「ホンダ様、あなたを祝福します。6月21日午後7時、大鷹山通り167、メゾン・サカタ301にて」とワープロ書きの文字で手紙は言った。サインはない。
「なんだこれは?」
終業時間十分前の五時五十分、誰もいなくなった事務所でスズキは首を傾げた。心当たりはない。これから、同僚のアイアイとメンズ・スパでも行こうかと思っていた所だったが、どうも腹の底がそわそわする。「大鷹山通り…少し遠いな…・・」
塾を飛びだし、すぐさまタクシーに飛び乗った。
「おっさん、大鷹山通りにお願い」
「番地は?」「ええっとと」ホンダは招待状の入った無印良品のバックをがさがささせる。
「167だろ?」とおもむろに運転手のオヤジ。「メゾン・サカタ。アンタを乗せるよう、仰せつかったのさ」
「……はあ、誰から?」
「見たこともねえアメリカ人だったな。ハンバーガーが嫌いな方のアメリカ人だろうよ」とオヤジは急ハンドルを切った。ギョギョギョギョー! と交差点のど真ん中でドリフトする。「それに着替えろよ、にいちゃん」。座席には綺麗にたたまれたタキシードが置いてある。車は時速百七十キロでラッシュアワーの渋滞をかいくぐっていく。
招待状に記されていたのは、メゾン・サカター典型的な郊外のマンションーの一室だった。スズキはドアをノックした。ドアは死んだまま、うんともすんとも言わない。
スズキは指についた鉄の臭いを嗅いだ。子どものころは、手にはいつもいろんなにおいが染みこんでいたな、においからいろんなことを想像できた、と思った。
この七十年代のマンションブーム期に量産されたと思しきドア……。味気ない真っ平らなデザイン、地味すぎて逆にいやらしいのぞき穴、まったくしゃれていないドアノブ……。
ポケットからくしゃくしゃになった招待状を取り出して、もう一度確かめてみたが、この部屋で間違いはない。
それは突然だった。
「あなたはだれ?」
どこからともなく声が聞こえた。ホンダは周囲を見回したが、声の主は見つからない。
「あなたはだれ?」
それはもう一度聞こえた。まるで頭の中に声が生まれたような感覚だった。
「…………スズキだ」彼は声に出してみた。
「ああ、あなたね」所在なき声は興味なさげに答えた。「暗号は?」
「暗号?」
「そう暗号」
「はあ、知らないね」
「あなたの持っている紙をよく見て」
「ん?」
スズキは紙に目を落としてみた。
そこにはこう書いてある。
暗号!
「時間はぐるぐるまわっている。そしてぐにゃぐにゃ歪んでいる」
……これは暗号か。あるいはおふざけだろうか。そう勘ぐるうちにドアがするりと開いて、女が姿を現した。
「ようこそ、スズキくん」
スズキはその女をまじまじと見た。まるでニュースキャスターの顔。プラスティック成形したように形がいい。それぞれの部位の造りも申し分ない。
しかし、どうだろう。言い方を変えれば、それはどこにでもある顔だ。典型的な顔を寄せ集め、徹底的にあくを抜いて、いやな部分を完全に排除した……そんな感じだ。どことなく気味が悪い。
彼女は赤いジャージ上下を着ていた。古いマークの年代もののアディダス。胸元には豊かな膨らみが二つあった。下品なほど大きすぎず、無愛想に小さくもない。数学者が数式を眺めながらマスターベーションできそうなほど絶妙な曲線を描いていた。
「どうも、この招待状はお宅から?」スズキは平静を装った。
「分かりきったことでしょう?」
一言一言を咀嚼してから吐き出すように彼女は話した。うるんだ唇が細やかにふるえている。口元からのぞく白い歯。そこに走る唾液。伸縮する細長い鼻口。夏の夜明けのような香水の匂い。スズキの頭のどこかに情欲の水しぶきが降りかかった。
「ああ、そうですか、じゃあ、お名前は?」どうも気持ちが震えた。
「……私?」
女は妙な間を置く。銀幕女優のように芝居がかっている。滑稽だが、馬鹿笑いするほどでもない。うまい具合にこの世界と整合性を保っている。
「ええ、あなたです」
「今日はサフィにしておこうかしらん」
「はあ……今日は?」
「明日はまた変わるのよ」
「変わる?」
「時間は無限よ。私はいくらでも生まれ変わることができるの」
「もう一度言っていただけますか?」
「世界は無限に併置され、同じ時空の中に存在しない」
「…………」
「つまり、簡単に言えば、『時間はぐるぐるまわっている。そしてぐにゃぐにゃ歪んでいる』ということね」
ホンダは怪訝な顔をした。女は続ける。
「闇を恐れてはいけない。あなたの中にも闇があり、私の中にも闇がある。その闇と闇はどこかで繋がっている。深く、そして遠い、どこかで繋がっている。だれも見ることのできないその通り道を感じろ。そしてあなたはあなたの知らなかった何者かになる」
「………」
「あなたはスズキ……。そうよね?」
「……ええ、はい」
「それはたまたまなの」
「はあ」
「別に必然的な訳じゃない」
「この小説の中だけ、あなたはスズキ。現実の世界に行けばまた相応しい名前があなたに振り向けられるはずよ」
「…………」
なんておかしなところに足を踏み入れてしまったのか——。そのときにはスズキはその場所を訪れたことを後悔し始めていた。
3 おめでとう
七三分け、ディオールオムの細いぴったりとしたスーツに、ロイド眼鏡。「タイム」に掲載された高級ブランドの広告から抜け出たようなフランス人が、よく通る声で前置きのようなことを話している。真っ暗な部屋には紫色の怪しいスポットライトしかなかい。情欲をかき立てるような香のにおいには、たっぷりとカンナビスのにおいが混じっている。
「会長のあいさつです」とフランス人。すると、恰幅のいい、いかにも上等そうな服を着た初老の男が、のそのそと部屋の真ん中までやってきた。カーネルサンダースに似ている。
「太陽系はますます美しい」
会長はいつもの滑り出しをいうと、ハイラリー・クリントンばりの満面の笑みで観衆を見た。「ワオッ!」あられのない拍手、無数のクラッカー、彼に憧れる若い女の嬌声…観衆の興奮は冷めやらない。
気を良くした会長は再び口を開く。
「キミは一人ぼっちじゃない」
どわっとまた会場が湧いた。
「キミは一人ぼっちじゃない。われわれはひとつだ」
「そうだ」と客。
「さて今日はとっておきがある。ここに英雄が現れたことを伝えねばいけないんだ。彼に会える幸運の度合いは、精子一つが卵核にたどり着く可能性に限りなく等しいんじゃないだろうか」会長は両手上げで叫んだ。
「ブラボー、ブラッボー!」メゾン・サカタに歓声がはじけ飛ぶ。
「その英雄は……」スポットライトがぐるぐる部屋を駆け回り、みなが期待のこもった大声を上げる。会長は意外なほど素早い身のこなしで一人の男の手を握ると掲げた。「こいつだ、スズキ!!」スポットがすべて彼に注がれる。
会場は熱狂のるつぼ。タイのキックボクサーが踊りを披露し、アメリカン・フットボール姿の男がサインをしきりに交換する。蛇遣いが、笛を吹いてキングコブラを踊りへと誘い、一人の無防備な男が戦車の前に立ちふさがっていた。
「おめでとう! スズキ」とサフィは彼の手を握った。「あなたは選ばれたのよ」。角でくす玉がばんと割られた。中から「おめでとう、スズキ」とでかでかと書かれた紙が現れた。
会場は宴へと移り、目も当てられない乱痴気騒ぎが始まった。みな服を紙くずのように放り投げ、みだらな裸体をさらした。重厚なベース・ミュージックがかき鳴らされ、男も女も裸のまま腰をすけべに揺する。とんでもない狂騒だ。「メリークリスマス!」汗みどろのサンタクロースがスズキの肩を抱く。右手のブランデーの口をスズキに向けている。「おめでとう、スズキ」。よく見ると会長だ。「メリークリスマス!」とスズキはブランデーを一気飲みした。すると、バイソンの掃除機に吸い取られたように、意識があっさり「持ってかれて」しまった。
こんなことが今日起きた。スズキはぐるぐると考えをめぐらすが、なかなかうまく整理がつかない。買い物をしすぎて、旅行かばんに収まりがつかないときのようだ、いらいらする、とスズキはため息をついた。
4 マイがあいに来た
「なんでアンタは裸なの?」。女の声。からからに乾いていて、感情がまるでこもっていないように聞こえる。
部屋には「誰か」がいる。さっきまで一人きりだったはずなのに……。たぶんあいつだ。何も言わずに、オレの部屋に入ってくるのはあの女くらいしかいない。スズキは声の主を見る。
「あはは、疲れているのね。びしょ濡れのジャンパーみたいよ、アンタ」と家出娘のマイがからかった。マイはいかにも夜の蝶という格好だ。ヒョウの毛皮のコートにピンク色のチューブトップ。けつを真空パックにしたみたいな、ぴちぴちの白いショーツパンツ。
「……んん、…ああ」。スズキの頭の中は弦が全部切れたエレキギターのようだ。カウチの上で体のすべてをさらして、恥ずかしがる様子もない。
「顔色なんか、使い古しの雑巾みたい。かわいそうなスズキ、20代後半、独身のさみしい男」
「やかましい」
「なんで裸なのよ?」マイはマルボロ・メンソールに火を点ける。
「……なにが悪い? ここはオレの部屋だ」スズキの頭は油ぎれのサスペンションのようにきいきいいう。
「そんな、真っ裸で平然としてる。気味が悪いわ」
「はあ? 気味が悪いだって? ……心外だな」
「アンタ、頭がおかしいのよ」
くつくつくつ、とスズキは冷笑する。「おまえはおれの人権を踏みにじっている」
「人権だって? 小難しいこと言わないでよ。世の中にそんなものあるのかしら?」
「少しはあったりする」
「少なくとも、アンタのはないわ」
くつくつくつ。「おまえはおれが普通じゃないとかいったな。じゃあおまえはどうなんだ?」
「ワタシはくそみたいに普通よ。あなたが満たしていないチェック項目をワタシは百パーセント満たしている。故に、ワタシ普通」
「何をだ?」
「何?」
「チェック項目ってのは、何だ?」
「知りたい?」
「ああ」
「教えてあげるわ」
「感謝するよ」
彼女の頬と眉が、魔女のようにつり上がる。彼女は思い出せないくらいひどいことを続けざまに言った。「だからあんたとワタシが別物ということね」
5 へいたいさん
彼女が黙り込むと部屋の中はしーんと静かになった。
マイはタバコをアメフトのクウォーターバックさながらに窓の外に投げ捨てると、はずみでやくざなネックレスたちががちゃりと音を立てた。耳障りな音だ。タバコの行く先にはしとやかな夏の夜がある。都会がどこまでも侵略行為をやっても、とり上げられなかった夏の情感がある。
ごおおおおという巨大な轟音がやってきた。上空を戦闘機が斜めに滑空している。
「死ね、軍人野郎!」マイは口汚く罵った。「ワタシの街から出て行け!」
「そう思わない、スズキ?」
「同感だ」スズキはマルボロに火をつけた。「ボクとおまえの唯一の共通点だ」
女は立ちながらふらふらしている。恍惚とした顔。指がぶるぶる震えている。なにかを「入れている」のだ。しわの寄りすぎた眉間は、疲れ果てたロバのようだ。
「奴らがワタシたちを従わせている」彼女は言う。「奴らがこの土地の大切なものを奪っている。奴らはそっくりそのまま海の向こうに持ち去るのよ。ワタシたちがそれに逆らおうとすると、奴らはこのクニの犬を使って力ずくで押さえ込むの。こんなことがあっていい? クソ! クソ!」
マイはカウチの上でふんぞり返り、缶ビール「スナン・ライト」を飲んだ。薄くて安いビール。金持ちが飲んでいるところを見つかると仲間はずれにさせられる、貧民のビール…。イケアのコーヒーテーブルの上にその空き缶がボーリングのピンのように並んでいる。スズキもまたそれを飲んで、〈壁〉を囲むようにある都会を眺めていた。「時間はぐるぐると回っているよ」とつぶやく。
それは彼女に聞こえた。「は? うるせー、サイコ野郎。口を開けば知恵遅れみたいなことしか言わないじゃない」
「おまえにいったんじゃねえよ」
「はっ? じゃあ、幽霊にでも話しかけたの? このチンケなアパートメントにはワタシとあんたしかいないじゃない? あんたはやっぱり、サイコ野郎だったのね」
「やけっぱちの、あばずれと話すより全然いいよ。ハロー、幽霊ちゃん。おれとただならぬ夜を過ごそうぜ」
「死ね、スズキ! あんたとの会話はワタシの二十三年の人生で最悪の中の最悪だわ」
「同感だね。おれとおまえの二つ目の共通点というわけだ」
二人は夜中までずっと口論を続けた。顔を合わせばいつもそういうことになった。彼女はスズキの部屋の鍵を持っている。どういうはずみで鍵を渡したのかは忘れてしまった。彼女は気が向いたとき、ふらっとやってきた。そしてそれはいつも夜で、彼女はいつも酔っぱらっているか、キマっているかのどっちかだった。スズキは彼女が嫌いだったが、彼女に同情していた。彼女もまた同じだった。その点で二人はつながっていた。
口論のあとは互いを傷つけ合うようなセックスを何度もした。そしてスズキが目を覚ますころには、彼女はけばけばしい服と、にせもののバーキンとともに消えているのが常だった。
彼は明け方ごろふと目を覚ますと、「やかましさ」が去って行ったことがわかった。ベッドにはわずかながら、彼女の体重が縁取ったへこみが残っていた。彼はそれをじっと触ってみたり、そこに体を横たえたりした。
6 飛行船について考える
うとうととしながら、スズキは飛行船のことを考えた。
それはくすんだ白い体とは裏腹に、一人か二人がやっと収まるような船室しか持っていなかった。広大な草原の上を、軽口一つ叩かずに黙りこくって、滑っていく。いつまでも続くように思われた草原が、森によって終わりを迎え、その森は小さな山の群れへと追いついた。
それは変哲もない飛行船だ。飛ぶことだけ、それ以外にはなんの目的も持たない、何とでも交換できそうな、すばらしい平凡さを漂わせていた。
けれど、スズキはある確信を持っていた。
その飛行船には尋常ならざる何者かが乗っているのだ。
7 予備校教師とは
いつの間にか眠ってしまったようだった。
眠りの間に訪れた記憶の破片のようなものが、少しだけ彼の中に尾を引いている。彼は自分のさらさらとした猫毛と滑らかな肌を触って、彼女が去った後シャワーを浴びたことに気づいた。長くしみついた生活の習慣が、一通りのことを自分にさせたのだろう。
窓の外は朝だ。十階建ての郊外型孤独住宅から見える郊外の風景。都会は似たような一日の喧騒をあいも変わらず、繰り返そうとしている。カサは静かな諦めを覚えた。彼もまたいつも通り、仕事に向かわねばならないのだ。
朝の電車のホームは最悪だ。
悲しそうな顔が並んでいる。なかには悲しすぎて、電車にダイブする人までいるのだが、皆それに慣れきっていて、死体をレールからどかすために電車が遅れることにむかつくだけだ。死者への哀悼など期待すべくもない。
その日も電車は遅れていた。たくさんの「顔なし」に囲まれながら待つのはつらかった。滑り込んできた電車はすでにぱんぱんで乗る気が失せる。駅員に背中を押されて、「囚人護送列車」に詰めこまれた。なかは熱くて、臭くて、すき間がない。
キオスクで買った経済新聞の中には、世界中の一大事が書いてあった。一面に血だらけの「カダフィ大佐」がでかでか。中東で政権が転覆し、ヨーロッパの金融は不安定な状況が続き、アメリカの大統領は超富裕層への増税を提案して物議をかもし、中国とインドがいがみ合っていた。
新聞が伝える世界はどうしようもなくでかい。けれど、自分は食べ物がぱんぱんに詰まった冷蔵庫のような満員列車の中で、 ちっぽけな日常を生きているだけだ。うまくかみ合わないし、その違いをどうも上手く理解できない、とホンダは思った。
車窓の向こうには、集合住宅、建て売り住宅とありきたりな郊外の風景が広がった。この電車にすし詰めされた人々の経済活動の結晶だが、どれも似たように見えるのが、どことなく悲しい。
狭い箱の中でみながしんと黙り込む圧迫感。車内は人間たちの体温のかけ算のせいでとても熱く、汗みどろのシャツが体にべたっと張りついた。隣の汗一つかかないOLはこの世の神秘だ。涼しい顔で手すりにつかまっている。
8 カワサキ閣下に謁見
やっとのことで大塚駅に着いた。スズキは十分ほど歩き、途中の自販機でペットボトルのウーロン茶を買ってまた十分ほど歩いた。上がり下がりを繰り返した後、街を一望できる小高い丘に〈希望塾〉がある。
五階建てのビルは一晩テーブルの上に置きっぱなしにされたショートケーキみたいにいまにも崩れ落ちそうだ。建物は新築だったはずなのに、白い壁は黒ずみ、窓ガラスに張られたフィルムがはがれ落ちそうだ。
入り口で「おい、スズキちゃん、おいスズキちゃん?」と受付のヤギ顔・サミラちゃんが「紳士服のアオキ」のスーツの裾を引っ張った。「なんだよ、サミラちゃん?」とスズキ。サミラちゃんのしじみのように小さな目を見つめた。「そんなにボクが恋しいのかい?」
「はあ? 用もないのにアンタみたいなでくの坊に声をかけるか、あほ!」とサミラちゃんは手厳しい。「クソ閣下が呼んでいるよ。アンタ、今日でクビかもね」と親指で首を切る仕草をして、がっはっはっはと笑った。「わお、ほんとう? やっとやめれるぞ!」とスズキは両手上げで喜んだ「万世、万世!」「はやく、行きなさいよ、脳足らず。キミとおふざけしている時間なんてないんだから」と言って、サミラちゃんは手元の「ヴォーグ」を読み始めた。
カワサキはゴルゴ13のようにハバナ産の葉巻を吸いながら、イタリア製のチェアにふんぞり返ってケーブルテレビでブルームバーグの金融情報を見ていた。草間弥生のような水玉のど派手なサテンシャツ。胸元のボタンは三つ開かれ、垣間見えるちりちりの胸毛の上にすとんと金色のやくざなネックレスが乗っている。円い象牙の麻雀パイを三つ、コテコテの指輪がたくさんついた毛むくじゃらの指でがしゃがしゃ転がしながら、「ちい」だの「おう」だのぶつぶつ声を出す。
部屋はつーんと静か。
「どうもおはようございます、カワサキ社長」とスズキは沈黙を破った。
「うん、そうだね」とカワサキ。
「良い天気ですね」
「うん……そうだね……」カワサキはテレビから目を離さない。「トヨタが20S(スリン=ハイナン国の通貨)安、ソニー15S安、ネスレが900S高……」コンピューターみたいな女が同じ音程で株価を読み上げていく。まるで忙しない。「これだからなあ、まいっちゃうよなあ」とカワサキは手のひらを空に向けた。開いた口もとの金歯がちらりと光る。
またスズキから目を背けると、あたかも自分の周りだけ、違う時間が流れているかのようにゆっくりと髪にくしを通し始めた。ぴし、ぴし、ぴし。くしがオールバックの髪をなでつけるたびにダイヤモンドを頂いたカフスボタンが耳たぶにぶつかる。ブルガリの香水の匂いもぷんと漂った。
「皇帝きどりしやがって」。スズキは聞こえないように囁いた。カワサキはそのまま、ひとつふたつと電話をかける。「うん、うんうん……そうだね……」「うん、そうだろうね」「うんうんうん、やっぱりそうね」。カワサキは少ない語彙で話す天才だ。動詞や形容詞にはいささかも興味がないらしい。「うん…そうとも言うね」。ベルトの上にぷにゃぷにゃの腹が乗っかっていた。
スズキは机の上に目線を落とした。ビジネス誌や中高年者向けのファッション誌がエアコンの風でばらばらめくれている。怪しげな白い粉のついたクレジットカード、丸められた一万S札、握りが黒ずんだ卓球ラケット、ハローキティのキーホルダーのついたメルセデスのキーが無造作に転がっている。ピカピカのマック・ブック・プロが広げてあり、白い光がカワサキの顔を照らしている。小さいがぎょろとした眼、ジョン・ケリー米上院議員のごとき大きな鷲鼻、酒焼けの赤黒い顔は迫力がある。いっぱしのヤクザみたいだ。
やっと電話が終わると、カワサキは偽物丸出しの笑顔で「やあ、スズキ先生、元気でやってるかい?」と話しかけた。「元気ですよー」とスズキ。下らない話をいくつかしてみる。
「ボクの講義には毎回たくさんの学生が来ていますよ。それなりに学生の興味を引く努力をしているつもりです。ただ、毎年の傾向ですが、六月になって、学生の中に『脱落者』が出始めています。全員の受験をうまく導くことは難しいですが、一人一人に向き合う姿勢を見せることで、『脱落者』を減らすことができるはずです」と教科書通り。
「うん、そうだね」
「それからですね……今年の学生は優秀ですよ。この前の模試で全国八位が出ました。ねえ、すごいでしょう、カワサキ社長?」
「うん、うん、そうだろうね」「ええ、すごいでしょう」「そうだね」と会話はすこぶる調子が良かった。
カワサキの表情は変わらない。じっと、スズキの瞳の奥をのぞいてる。「なにかでボクを追及しようとでもしているのだろうか」とスズキは思った。カワサキをじりじりと圧迫感をスズキにかけ、言葉や表情に本当に思っていることが浮かび上がるのを見つけようとしている、のかもしれない。スズキはどうにも胸くそが悪くなった。
「給料はどうだ? 満足いっているか?」と唐突に言うと、カワサキはじっとスズキの顔をのぞき込んだ。
「もらえれば、もらえるだけ良いです」と言いかけて、やめた。もうそんな軽率な人間じゃない。結局、「ええ、満足していますよ」とトム・クルーズのような笑みを浮かべた。自分の考えを悟られないために得策だからだ。
「ふううん……」。彼はイタリア製の椅子に体を沈めながら、スズキの生白い顔をまじまじと眺める。次ぎの言葉を発しなかった。
「スズキくんには期待しているんだから」
カワサキは手のひらをテーブルの上にとんと置いた。帰れという意味。スズキは「失礼します」と神妙そうに言って部屋を出た。
「スズキくんには期待しているんだから、か」と心の内で反芻して、スズキは顔を少し歪ませた。時によって「スズキくん」の部分が他の人に変わるんだろう。言葉にはどこかしら、カワサキがスズキを支配しているという前提が透けて見える。つまり、カワサキはスズキにカネを払い、スズキの精神をも買い取ったという考え方だ。
カワサキは去り際、本当に気持ちの悪い笑顔を見せた。その醜さを隠せれば、もっといろんなことがうまくいくのに、とスズキは心の闇の中で呟いた。
9 希望塾の来歴について話そう
さて希望塾について少し説明が必要なはずだ。
ずばっと言えば、希望塾開校のきっかけはとある郊外のゲームセンターのトイレと関係がある。
そのトイレは「この世の終わり」というくらい汚く、臭かった。それにかかわらず、悪そうな若者がたむろしていた。トイレの入り口からは煙がもくもくと漏れ出ていた。煙は独特の臭いがする。そこから出てくるヤツはみな幸せそうな顔をしていた。
つまりトイレはガンジャ愛好者の憩いの場と化していた。中には売人が数人いて、相当儲けていた。悪ガキたちはそこでガンジャを買って、その場でたしなむのだった。
ゲームセンターのオーナーがカワサキだった。売人から法外な上がりをとっておいしい思いをしていた。バイパス沿いの大型店に客を喰われるそのゲームセンターが潰れないのは、ガンジャ取引があるからだとまことしやかに噂されていた。
だが、あるとき県警のガサ入れがあって一発だった。ガキどもはみなしょっ引かれた。ゲームセンターは営業停止を喰らい、売人とカワサキにも捜査の手が届きそうだった。それでカワサキは土地建物もろとも、危ない筋のアイスランド人経営者に二束三文で売り渡して、雲隠れした。
長い間彼は人目に付かない場所でじっとしていた。なんにもやることがなくて暇で、社会とのつながりを失ってつらかった。
だが、カワサキはそう簡単にへこたれる男じゃなかった。「今度はもっとクリーンな商売がしてえなあ」と、ほとぼりが冷めた後に訪れたがらがらの安酒場でしみじみと言った。梅入りの焼酎をぐいとあおる。「くそう」。
「アパートの大家とか、自動販売機のオーナーとかになったらどうかしら」とカワサキの情婦歴3日のアル中のミキが微笑みかけた。開いた口もとから、欠けた前歯が見えた。「うるせえ、バカヤロー」とカワサキはカピバラのような顔を真っ赤にした。「引退しようなんて気はさらさらねえんだ」。カワサキはそのとき三十代半ば。エネルギーの塊だった。「素敵ね、カザマっち」とミキはすごい笑顔。スケトウダラのような顔だった。
翌朝、ミキのアパートでカワサキが目を覚ますと昼下がりだった。利根川の土手沿いを少し散歩して、電車に乗った。そこで彼は見てしまった。大手進学塾のお揃いの青いバックを背負った子どもたちの大群を。「これしかない」と閃いた。カザマはその足で不動産屋のドアを叩き、900平米の土地を取得。これが希望塾の始まりである。
カワサキは需要の多い大学受験の浪人生に照準を絞った。うまくいけば、高校、中学と手を伸ばす予定だったが、それは今も実現はしていない。
だが、いざ始めてみると、塾経営はゲームセンターより難しかった。カワサキは頭を抱えた。彼には教育産業のノウハウなどけほどもなかった。
学生も集まらず赤字続き。教師の給料は遅れ、教科書出版者への支払いも滞った。経営状態はピサの斜塔のような有様だった。
カワサキはやぶれかぶれになって、経営をカール・マルクスに傾倒する大学紛争くずれの講師たちに任せることにした。
それが良かった。どこからともなく「魚顔のジャジャ丸」という有能なカリスマ講師が現れ、カリキュラムも、マネージメントもうまく仕上げた。それに卓球やバドミントン好きの心をくすぐる広告戦略も効を奏した。なによりも重要だったのは、「反近代主義者K」にまつわる思想を流布することを全講師の間で決めたことだ。これで、不穏な思想をこよなく愛する落ちこぼれたちの心をぎゅっと掴んだのだ。
カワサキはそのころ経営難のあまり、ヤバい筋から足の早いカネを借りていて、「いつ殺られるか」という恐怖のせいで不眠症に陥った。恐怖から逃れるため、連日、深酒と女遊びに浸り、希望塾に顔を出さなくなっていた。
「なあ、マリっち。マカオに逃げるか、それとも事故死した風に見せかけて、新しい戸籍に替えるか選ぼうか」とカワサキは哀しそうにそう打ち明けた。三流キャバクラ嬢の年増マリは、たらこ唇を裏返しながら声を荒げた。「ワタシはアンタになんかついてかないわ。アンタ毎晩いろんな女と遊んでいるじゃないの。いまさら運命を一緒にしようなんて言うのは、虫が良すぎるのよ」。「うるせえ、バカヤロー」とカワサキはぷりぷり怒った。「お前ももろとも殺されるぞ」。顔が汗でびちょびちょだ。「……本当?」とマリは驚く。「そこいらの犬にでも、猫にでも聞いてみやがれってんだ」。
二人が故金正日主席に匹敵するくらいの瀬戸際感を胸一杯に感じているとき、塾は突然受講生の大群をとらえ、大利益を叩き出した。ジャジャ丸のリーダーシップがついに駄馬をその気にさせたのだ。
「助かった」とカワサキは予備校の金庫のカネをひっつかんで、やくざの下部組織のもとに走っていった。塾はそのまま、ぐいぐい軌道に乗っていく。
カワサキは思春期のサラブレッドのように落ち着きのない男だ。塾が稼ぎだしたカネで、今度は焼鳥屋のサイドビジネスを始めた。これも悪くなく、忙しくなった。さらにホール担当のアルバイト、女子大生エミと甘い恋に落ちたせいで、塾の床を踏むこともなくなった。
「ジャジャ丸くんよ、後はキミの辣腕に頼んだからよ」とカワサキはジャジャ丸に希望塾の経営の全権を譲った。「ああ、そうですか、どうも、どうも」とジャジャ丸は軽い。「がんばりましょうね、どうも」。
こうして、ジャジャ丸は希望塾に君臨し、リー・クアンユーのように指一つで部下たちを動かした。ベビーブーマーの子どもが大学受験を迎え、学生がなだれうってやってきた。会社は馬鹿でかい利益を上げ始める。すべてがうまく行き始めた。
数年後、異変はいきなり起こった。ジャジャ丸はカワサキの目を盗んで蓄えた推定200万ドルの裏金とともにマカオに高飛びした。カワサキはやくざに高い金を払って、「あんの裏切り野郎をぶっころせ」と元KGBのヒットマンを雇った。「スパシーバ」。ヒットマンはすぐにマカオに飛ぶと、ジャジャ丸がカジノやヤミ金融を使って、裏金をマネーロンダリングしていたことを突き止めた。彼が泊まったホテル、抱いた売春婦、使った偽名もあっという間に調べ上げた。ジャジャ丸を捕まえるのも時間の問題のように思えた。
だが、ある日、カワサキがイメクラ嬢を引っ張り込んだベッドで目を覚ますと、足下に白い紙の包みがあった。がさがさがさと包みを開けると、中身はトカレフを握ったヒットマンの腕。根本が獣に食いちぎられたように、ぎたぎただった。血がどろどろと滴っている。
「ぎゃあああああ」とカワサキは悲鳴を上げた。
それを聞きつけて腐れ縁のキャバクラ嬢の年増マリがベッドルームに飛び込んできた。「あんたなによ、それ!」。「人の腕だろうが! とんでもねえヤツに引きちぎられた人間の腕だろうが!」とパニックのカワサキ。「ちがうわ、その女よ!」とカワサキの横で真っ裸で寝ているイメクラ嬢を指差した。「なんなのよ、そいつは!」鬼の形相。「うんん、しらねえよ、しらねえ」とカワサキはカラオケ嬢の髪を引っ張ってぶるんぶるん揺さぶると、女の小ぶりだが形のいい乳房もぶるんぶるん揺れた。彼は刑事みたいにイメクラ嬢に問いただす。「お前、名前はなんていうんだ」「ふわあわああわ……ジェミー」と女は応えた。「ジェミーだそうだ」とカワサキはマリの方を向いてオウム返しする。「なんなのよ、その女は?」と烈火のごときマリ。「なにとはなんだよ?」「しらばっくれないでよ、その女はなにかって聞いているのよ、こっちは!」とキイキイ声が部屋に響いた。
「うるせえ、バカヤロー」ついにカワサキは烈火のように怒った。「表通り走ってる戦車にでもききやがれ、サンピン!」。……まあこんな感じだ。
塾がジャジャ丸を失うと、もとのしょぼい会社に戻った。塾は儲けるわけでもなく、損をするでもなく、カワサキが接待費として遊びに行くカネくらいは稼ぎ続けてきた。あるときから、カワサキは焼き鳥屋をこかして、塾に戻ってきた。というよりは塾の中に部屋を一つ持った。彼は何もしなかった。ただ、オーナーで「閣下」だった。それだけだ。
11 これに対し、従業員は不満
社員たちの頭の中は、〈希望塾〉とカワサキの不満で溢れている。口を開けばそれが悪口となって滝のように噴き出された。彼らにとって塾がだめなことはすでに「あたりまえ」。ただただ、エーゲ海のように深い諦めを覚えながら、口癖のように「このカイシャは終わっている」とこぼすのが常だった。
「だから、このカイシャはダメなんだよ」
古参講師のハラカミはタック入りスラックスのチャックを下ろしながらそう言った。「うまいこと行って、おれらを搾取しているんだよ、あのカワサキさんはよ。あいつの銀行口座には汚いカネがうなってやがるにちがいねえ」。ハラカミはカワサキのキャバクラ友だちで一緒に遊んでいるときは調子のいいことを言うが、一歩離れるとけっちょんけっちょんに言った。
ハラカミはなぜかいつも疲れている。積み重なった洗濯物のみたいな体に減量に失敗したボクサーみたいな顔。「給料は安いわ、勤務時間は長いわ、休みは少ねえわでやってられねえよ……」。のどをぎゅうぎゅう鳴らしてたんを便器に掃きつけた。「そんなもんですかね」とスズキ。「当たり前だよ、どうなってるんだよ、この塾はよう!」と吐き捨てて、競馬新聞片手にトイレから消えていった。
「何でこのカイシャが潰れないかは不思議」。受付嬢のサミラちゃんも会社に愛想を尽かしているみたいだった。「カネの管理は無茶苦茶だし、経営努力なんかしてもいないじゃない。あのおっさんはいつも女と遊んでいるしね」。喫煙室でけだるそうにマルボロ・メンソールの煙を吐き出した。ヤンキー座りでゴム草履の間から、足の指の股をしきりに掻いた。「最近むずむずするのよ。水虫かしらね」。サミラちゃんはいつも、昼食と称して3時間くらい「消える」。その間、受付は空っぽになる。
塾の方針に不満を持つ学生もいるようだ。中国人受講生のリンは「終わっている人間の巣窟」と評した。「Kとかいうサイコ野郎の思想を広めてやがる。学生はそのシンパばかりなんだよ。オレは日本の大学に入るために来たのに何も知らないで、こんなブタ箱に入っちまった、畜生」。彼はKの思想に反発するせいで、友だちができないようだ。腹立ち紛れに「こんな塾辞めてやる!」と退塾届け片手に受付に駆け込んだが、ヤギみたいな顔をした受付嬢はいなかった。「昼食休憩」という看板が掛かっていた。「くそったれ! あのヤギ女」とリンは叫んだ。
12 謎講師ワヤン
ー希望塾、講師専用の喫煙所ー
これらの塾の状況について鋭い指摘があった。「一度慣れた環境から、違う環境に移るのはいやなんだろうね。だから不満があっても、そこに人間は安住する。基本的に人間は安住が好きだ。安住に絡め取られた場合、年齢が高ければ高いほど、そこから抜け出せなくなる。もちろん、抜け出すのが正解かどうかは別の話だ」。この見解を示したのが人気講師のワヤンだった。ワヤンは悪口を言いながらも会社を去らない同僚たちをこうなじっていた。「泥水の中だって、慣れちまえば案外良いものなのさ」
「そうだろうな、だが、おれも人のことをいえない。おれにはほかに行く当てもないんだ。あの何でも人のせいにするバカ野郎どもと一緒だ」スズキは哀しそうな顔をする。
「そうだな、スズキ。お前もカスの一員だ」とワヤンは容赦がない。
ワヤンは極めてわけが分からないヤツだった。年齢も、出身も、経歴もすべて謎だ。誰かが水を向けても、ホワイトハウスの高官のように、巧妙に話をすり替えて誤魔化してしまうのが常だった。
カワサキはワヤンは特別扱いする。カワサキがどこからともなくひっぱてきて、入社試験も受けずに講師に採用になった。「人買いをしてきた」「カワサキが世話になっている里中組の若者」「カワサキの男色相手」と噂になった。
実は予備校講師というのは人気職業だ。落ちこぼれの大学院生に特に人気がある。大学院まで進んでも、学費に見合う高給の仕事に付けるかは50/50という状況が背景にある。もし、壁を越えられなかった場合、予備校教師の職はかなり早い段階で視野に入る。ただ、講師になるには厳しい試験をクリアしなければならない。そんな中、ワヤンは社長の豪腕ひとつで、あっさりと講師になった。ねたみや嫉妬はあとが立たなかった。なかには、公然とワヤンを「イカサマ野郎」とけなす講師もいたくらいだ。
しかし、ワヤンの授業は他の誰よりも人気が高かった。内容は分からない。ただ、人気があるという事実でこの職業にとっては十分だ。学生が聞きたがればそれでいい。彼らにとって何が真に役に立つかは、測りようがないし、そもそも講師たちは誰もそんなこと気にもとめていないのだ。
ワヤンはほかの誰とも似通っていなかったし、他の凡庸な講師たちと付き合わなかったが、スズキとは小話くらいはする。スズキは密かにワヤンを「冥王星」と呼んでいた。ワヤンの不思議な雰囲気に興味を抱き始めていた。
二本目のたばこに差し掛かる間、ワヤンはベトナム料理の素晴らしさについて二分触れ、警察の悪口に三分を割き、女性が人生を豊かなものにしてくれることに七分ほど熱弁した。テープ再生の鐘の音が聞こえた。
「さて、またガキどもに、イカサマのやり方でも教えてくるか」そういうとワヤンは、代官山で買ったジャケットの裾を引っ張って教室へと戻っていった。
13 授業風景
ー希望塾202教室、蕩々と語るスズキ講師ー
「おい、K! どうするんだ?」
ドリトル大佐が英雄Kをけしかけました。彼は顔面蒼白。
「あせるんじゃない、ドリトルさん、冷静になるんだ」Kは冷静に答えます。
一見、涼しげに見えるが、実はKはひどく混乱していたと言われます。なぜなら、敵のナポレオン7世軍は南東50キロまで侵入、破竹の勢いでKの拠点を陥れていたんですから。一方、K軍の兵力は敵の4分の1しかなく、しかもいまや仲間たちは腹中で、裏切りの算段を始めているという状況です。Kが作った集団はまだまだ烏合の衆でした。彼はそれまでにもA地域の天然ガス田を、国軍とRMA社の守備隊から奪っていますが、それは奇襲が成功してのことです。彼は「孫子の生まれかわり」と評される、類まれな戦略的才能を生かし、万全の策を練っていたためです。
でも、このときは奇襲される立場で、統制がとれていないと守備はまったくうまくいきません。サッカーのディフェンスと一緒です。
「これは負けだ、K。絶対勝てねえ。とんずらだ」と大佐はまくし立てました。「メンツを気にしているのか、K? 大丈夫だ。戦略的退却とでも伝えておけ。さあ、北に逃げると見せかけて、南に逃げるぞ。あとで毛沢東みたいに『南征』とでも言えばいいのさ。さあいくぞ」
Kの背中を冷たい汗が伝う。
冷静さを装う裏腹に、頭の中は牛乳のように真っ白。常勝将軍だった過去が、彼の決断を鈍らせている。どうするんだ? どうするんだ? どうするんだ、K?
「さてみなさん、Kはどうしたと思いますか?」
スズキは50人の浪人生に質問する。まず、少年時代あこがれていた女にそっくりのアソウさんに答えを求めた。
「彼は諦めなかったと思うなあ。たぶんすごい策をまたあみ出したんじゃないかなあ、うん、そうね」彼女はいつも太陽のような明るさを持っていた。
「なるほど、なるほど、信じれば叶う系ね、アソウさんは」とスズキは気に入っているがあまり、ぎゃくに少しけなしてしまった。すると、狂気じみた学生が両の手を挙げた。またあいつか…、とスズキは頭を抱えそうになった。「ハイ、サダオくん」「彼は自分が犠牲になって、ほかを生かしたんでしょうね、だって彼は男の中の男だもの」。サダオは力いっぱいに叫んだ。彼はこの講義の大ファンだが、少し頭が足らないところがある。
「ハイハイ、オッケー、じゃあアーノルドくんはどう思う?」
「いやあ、やばいっすね。かれは本気出したんだとおもうなあ。だってねえ、サダオが言うようにアイツ、男の中の男だし」
「いいね、いいね、みんな自分の意見を持ってるね。最高極まりないね。じゃあ、話を続けるよ」とカサは言った。
「ちょっとトイレに行ってくる」とKは言った。「こんなときにトイレにいっている暇なんて!」と家来が髪を逆さにしましたが、そのとき大佐が「まあ待て、Kはいままでトイレで大事な決断を下してきた」ととりなした。一方で、大佐はその間に退却の準備を整えさせた。とても頭のいい部下です。
しかし、Kはいつになっても帰ってきませんでした。
まだ悩んでいるのか? 怪訝に思った大佐たちは、K専用の一軒家ほどの大きさもあるトイレのドアを引っ張りました。するとなんということでしょう、そこはもぬけの殻でした。
「あいつ、自分だけとんずらしやがった」と大佐は激昂しました。家来たちも怒り心頭でトイレの中の壷や、便器をぶっ壊しました。ですが、さすがは百戦錬磨の男たちです。次の瞬間には南へと逃げていきました。
がっはっはっは、と教室中が笑った。それにしてもひどいオチだ。アソウさんは「最悪じゃない、こいつ」と嫌悪感を隠さない。「こりゃ、ひでえや、さすがKだな」とサダオのKを敬う気持ちには変わりがない様子。
さて、もう時間ですね。今日はここまで。金曜日の夜をエンジョイしてください。
14 シンパ
希望塾はKのシンパだらけなのだ。講師たちは皆、英語や数学や歴史の合間に、Kについてのやばい宣伝を吹き込んでいく。講師たちが教壇に立つ条件として、Kが著したとされる教典『すべて100のコツでイケる』に関する論文の審査があった。だから必然的に、講師たちもKのシンパがそろっていた。
浪人生たちもKの教えに簡単に夢中になってしまう。一度大学受験で挫折し、学歴社会に不満を持っているところで、社会をコケにする思想に出会うからだ。卒業生の中には大学に行くと、セクトを作ってバンダリズムやデモに目覚めるものもいた。ロックバンドやラップユニットを結成して音楽でK思想の流布に貢献するものもいた。広告研究会に入ってKの広報に奔走するものいたし、賭博場でK思想にそった賭けを繰り返すものもいた。
Kについて説明したいのはやまやまだが、それは簡単なことじゃない。筆者はKという伝説的人物について、うまく理解できないでいる。なんとか強引に説明するならば、Kは幻のようなものだ。彼にまつわるストーリーのうちで、決定的な事実と呼べるものは皆無に等しかった。だから、Kの研究者や、各国のインテリジェンス工作員、マスコミ、そして一般人まで、好き勝手におのおののK像を「創作」していた。
15 マルノウチ、おおいに語る
この幻について、秀才浪人生マル・ノウチが有益な視座を示した。
「先生、Kというのは最初、アメリカが援助したことで生まれたっての知ってますか?」マルは丸めた競馬新聞を手のひらでバンバンと叩いた。彼は東大でも京大でも目指せそうな秀才だった。なのに希望塾というインチキ塾で快適そうに暮らしている。なぜか毎年一人くらいそういう変わりものがいるもんだ。
「たぶん、そうだな」スズキは気がなそうに答えた。そんな話、聞いたことがなかった。
「要するに、アメリカへの不満分子を集め、ガス抜きをさせる装置としてアメリカが創り出したイメージです」マルは唾をべちゃべちゃと飛ばして話した。
「ほう、面白い話じゃん」
「まず、Kは実際には存在していない可能性があります。彼の出生をめぐるいきさつは、数々の人間がねつ造してきました。アメリカが意図的にそういう通説を流布させた可能性があります。実際には、『北北西に進路を取れ』の諜報員カプランのように存在しなかった」
「『北北西に進路を取れ』?」
「アルフレッド・ヒッチコックの傑作です」
「ああ、はいはいはい、あれね? あのサスペンスでしょ?」スズキは知ったかぶりをした。
「それです」マルはまた新聞をバンバンと叩いた。
「『北北西に進路を取れ』は1959年に作られたサスペンスです。主人公は広告代理店の取締役として、ふざけた生活を送っていたが、ある日、主人公がジョージ・カプランというスパイと勘違いされ、殺されかける。彼は敵の手から逃れるために敵が差し向けた女と恋に落ちていく。彼女は敵のソ連の諜報組織のトップの愛人でもある。それでも、彼女は土壇場で主人公に味方し、敵の諜報組織は全滅。二人は結ばれてハッピーエンドになる。
問題はカプランが『誰でもなかった』ことですよ。つまり、CIAが敵の諜報組織を混乱させるために作った架空のスパイなんですよ。この考え方からいけば、Kもまた、アメリカへの不満を糾合する役割の、架空の人物かもしれない」
「興味深い発想だね」
「さらに、複数の人間がKをかけ持ちしているなんて説もあります。二人からそれこそ一万人くらいの人間がKのふりをしている。彼らは非常に巧妙に自分たちが一人の人間であることを演出してきました。もちろん、どこかでほつれが生まれてきてもいる。Kが同時期に違う土地にいたとか、Kが生まれていないはずの時にもKが存在しているとか、Kの顔が会うごとに違うとか、そういうことです。でも彼らは、Kが『幻のような存在』であることを利用しました。Kは謎に包まれている、彼にはどんなことも可能にする天賦の才がある、Kは時空旅行者だとかそういう説でごまかしてきたのです」
「一瞬である地点から、ある地点に移動できるというあるな」
それは業界で、最もきちがいじみた説として知られていた。そして、隠れた信奉者が多いといううわさだった。特にミュージシャンや芸術家にその類が多かった。
「テレポーテーションですね。ふざけています。とにかくふざけています。話を戻します。もし、Kがアメリカの創造物だとしても、アメリカは現在、Kについて手をこまねいています。それどころか、Kを敵として規定し、滅ぼすべき対象としています。つまり、Kはアメリカを巣立ったのですよ」
「そもそも最初のアメリカが創ったという仮定が怪しいけどな」
「いえ、私の仮定はいいところをついています」
16 マル・ノウチ、おおいに講釈する
二人の有意義な会話の場は、郊外の競馬場だった。
その日は素晴らしい晴天で、枯れかけた麦色の芝に添い寝する露がぴかぴかと照り輝いていた。日曜の特別講義はスズキが「歯科医に通院するため」に休講になったが、文句は出なかった。誰もが日曜日を休みたがっていた。
年末最後の大レース「有馬記念」が始まりそうだ。周りを行き交う無数のおやじたちはあの馬はこうだ、この馬はこうだ、と盛んに議論を戦わし、場内のスピーカーは毎週末、不確定性と取っ組み合いのけんかをする競馬評論家が出演する短波放送を流していた。
—中山競馬場第11レース、有馬記念の勝ち馬投票券締め切りまであと十五分です—という場内アナウンス。
集中力の総和がぐんと高まった。皆が皆、競馬新聞とにらめっこして、一儲けさせてくれるお馬さんを探す。競馬新聞には出走馬のデータ、過去十戦の戦績、名伯楽の見解、連載競馬小説など盛りだくさんの情報がある。
マルの講釈は終わらない。
「スズキ先生、見てください。皆新聞から馬の情報を得ています。新聞だけから情報を得ているのですよ」
スズキもまたその一人だった。まだどの馬であぶく銭を得ようか決めていなかった。
「けれど、新聞の情報はひとつの事実の側面に過ぎません。絶不調と評された馬が力づよくターフを駆け抜けたり、鉄板と呼ばれた馬が最下位に沈みます」
「おまえは正しい。三平方の定理のようだ」それでもスズキは新聞から不確実性が到達すべきゴールを探していた。「たとえ、新聞の情報が正確だったとしても、それはゲームの一つの要因にすぎません。ものごとはいくつもの要因が不思議なブラックボックスの中を通ることで、組み合わさってできあがります。その中では何が起こっているかは分かりません。あなたが重要視する要因が、実はそのブラックボックスの中で捨てられているかもしれません。あるいはほかの要因をすべて退けて、支配的になるやもしれません。それでもあなたはそこで何が起きたかについては、推測する以外の手立てを持たないのですよ」
「はいはいわかったよ、わかった」
スズキは聞いちゃいなかった。脳みそをフル回転させる。ううむ、ううむとうなり声をひとしきり上げた後、「絶好調」の大本命ナカメグロボーイ号からの連番に一財産を託すことに決めた。「ナカメグロは『絶好調』らしいからね」とマルは皮肉な笑みを浮かべ、惨敗続きのシャンハイミリオネア号の単勝にその月の家賃をまるまる投じた。
17 マルノウチ、おおいに勝つ
コースを一・五周する2500メートルのレースは、ナポレオンの大逃げで幕を切った。三十馬身以上後続をひき離したナポレオンは齢九歳のロートル、ほかの馬の騎手はまったくの無視で、最後尾の単勝一・二倍の本命馬ナカメグロボーイの様子をうかがうだんご状態だった。
だが、前半1000メートルのラップがオーロラビジョンに表示されるとスタンドから驚愕の声が吹き上がった。平均ラップのおよそ二倍。千年に一度の超スローペースだった。「走っているのは牛の間違いじゃないか」と名物解説者。大波乱の予感にスタンドの群衆がざわつき、ざわつきがまたいくつものざわつきを呼び、やがてできた大きな不安の塊は阿鼻叫喚の嵐へと発展した。スズキの隣にいたハンチング坊のじじいは「ナポレオン、死ねー! ぶったおれろー!」と半狂乱になる。
だんご集団を作る十七頭の騎手たちも、当然その異変に感づいていた。「おい、若造! 前を潰せ!」「このままじゃまんまと逃げ切られるぞ!」。ベテラン騎手らがもの凄い剣幕で若手騎手に圧力をかけた。若手たちは動じず「だったらあんたが潰しなよ、おっさん」「ヘイ、そこのおっさん。勝ち目のねえあんたがその役にぴったりだ、おっさん」と「おっさん」を強調する言葉遣いで応酬し、空気がひりついた。
騎手たちにはジレンマがあった。確かに放っておけばナポレオンがそのまま逃げ切る。だか、ナポレオンの潰しに動けば、最後はバテて後方集団の誰かが漁夫の利を得る。しかも、大本命ナカメグロボーイが最後方でどっしりと鎮座している。ナポレオンが潰れれば最後は実力の違うナカメグロが勝つ公算が高い。ナカメグロ以外に乗る騎手たちには、ナカメグロの勝ちを潰すという暗黙の了解が存在した。とすれば、この状況を放置すれば、ナカメグロの勝ちを潰すことだけは達成できる。
だんご集団はこう着した。誰もが他の誰かに利する行動をしたくなく、自分が十八頭のうちたった一頭が享受できる勝ちを拾うことを考えていたからだ。
だが、残り1200メートルで、もの凄い勢いでだんごから飛び出した一頭がいた。名前にそぐわないほどの賞金しか稼げず、オーナーがいつ馬肉にするかと囁かれたシャンハイミリオネアだった。騎乗のサスライは昨年デビューしたばかりのフレッシュマンだが、譲りがちな性格で勝負事の才能がないとのうわさ。まだ一度もレースに勝ったことがなかった。だから他の騎手はシャンハイの動きを無視した。サスライのことを物の数とも思っていなかった。
「彼はこのレースに勝てなかったら、タニマチにラーメン屋の従業員になることを約束させられているんですよ」。うるさい場内でサダオは耳打ちした。「しかも馬は、総額二万ドルを投じられ、バンコクで秘密特訓を積んだみたい」両方とも競馬新聞には書いてない情報だ。
シャンハイミリオネアはあっという間にナポレオンにとりつくと、激しいデッドヒートを繰り広げた。後ろのだんごはまったく話にならなかった。人物紹介されたのに、まるで出番のない映画の登場人物のように、彼らはレースに存在しなかった、と言っていい。
そして激しい競り合いをハナ差で制したのは、はたせるかな、シャンハイミリオネアだった。
サスライはゴールすると、総理大臣指名を受けたウィンストン・チャーチルように立ち上がった。そして落馬した。幸運なことに全治二週間のむち打ちですんだ。大レースで初勝利を飾った彼の病室は、シンデレラストーリーをでっち上げたいマスコミでいっぱいになった。
群衆は騒然とした。一位と二位の馬はドンケツ人気の二頭だったからだ。オーロラビジョンは史上なかったといっていい大万馬券、三連単に限っては天文学的数字を示していた。
得意げな笑みを浮かべてサダオは言う。
「ぼくたちは情報からのけ者にされているんですよ。重要な情報は競馬新聞には出てこない。だけど『知っているやつは知っている』。そういうことですよ」
スズキは、むかっぱらがきて紙くずになった馬券を地面にたたきつけた。「だまれ、このやろう!」
「それは競馬場に限らない。戦争も、金融も、政治も、 消費ブームも、それにまつわる情報からぼくたちは仲間はずれにされている。情報は権力を構成する重要なファクターですよね?」
「おっしゃる、とおりでございます」スズキはすうと冷静になる。「おまえ、本当に頭良いじゃないか。インターネットの丸暗記か?」
「ちがいます。正真正銘、ボクの世界の見方ですよ」
「ふうんじゃあ、なんで予備校で二周しているんだ? 確か今年で三周目だろ?」
「まあ、うまくいかないこともあるものですよ」
「そういもんか?」
「だいたいそういうもんですよ」
18 孤独
それは突然だった。競馬場から帰る雑踏のなかで、寂しさと悲しさの混合物がスズキを襲ったのだ。また明日から仕事をすることや、自分が繰り返す日常、胸の内のわくわくがだんだん使い古しになっていくこと。それがどうにも耐えられなくなった。冬の往来は目が飛び出るほど寒く、気持ちの落ち込みに拍車を掛けた。胸がどうしてだか痛い。
マルが儲けた金で豪遊した。高級韓国焼き肉屋で極上のカルビと韓国焼酎を堪能し、ロシアンパブで白系ロシア女のナタリー、ウォズニアッキと「スパシーバ」一言だけで面白い会話をしていちゃいちゃし、なぜか女が下着姿のカラオケバーで歌ってぷりぷりした女といちゃいちゃした。けれども、スズキの心の隅っこがずきずきと痛んだ。寂しさと悲しさの混合物は病原菌のように大きくなった。
マルと別れた後、スズキはタクシーで巣の近くのオカマが経営する二十四時間営業の銭湯で体を温めてみた。「トミちゃん、なんかおれすっごいつらいよ」とぼくは風呂上がりにオカマのトミちゃんに言った。「もう、悲しくて切なくて、十七歳少女のようだ。放っといたら自殺しちゃうよ」
「わかるわあ、そういうときってあるのよねえ。特に今は冬だからね。心が冷えちゃうとなかなか暖まらないのよ」とトミちゃんは番台に頬杖を付いて、バージニアスリムを吸いながらしみじみと言った。「トミちゃんおれ、どうすればいいのかな」とスズキはリーバイスのジーンズを穿きながら聞いた。突然、彼の目から涙がぼろぼろとこぼれた。「あれどうしたのかな、おれ。おかしいな。どうして涙なんか」
「おう、よしよし可哀相に」トミちゃんはスズキの頭をそっとなでなでした。「このおかまの胸で泣いていいのよ」。おかまの胸に抱かれる。するとスズキの涙は滝のようになって、しゃくり上げた。やっとこさ涙が一服したとき、「一番のクスリはね。大事な人と一緒にいることよ」。トミちゃんはそう言った。三つ編みを人差し指でぐるぐるねじり、唇はグロスで潤っている。「アタシだったら、スズキちゃんを暖かくすることができるんだけどな」。彼女は目をうるませ、浴場に併設されたサウナよりも熱い視線を浴びせかける。「トミちゃんありがとう。でもおれはストレートなんだよ。気持ちはとてもうれしかったよ」
風呂上がりには往来の寒さはとてもこらえた。冷たい北風が間断なく吹き、水銀灯も体を振るわせているようだ。マンションまでの道のりはたったの五分ほどだったが、どうしようもなく長く感じられた。
部屋は冷蔵庫のようだった。スズキは電気を付けず、カウチの上で例のように真っ裸になった。
暗闇から声がする。
「どうしてあんた裸なのよ」
不機嫌顔のマイが現れた。
19 ホステス稼業のマイ
マイには友だちは数えるほどしかいなかった。キャバレーの同僚マユミとは空き時間や仕事の後によくおしゃべりをしたが、マユミのことはよくわからなかった。差し障りない話ばかりでお互いのウィットな部分には触れあわないようにするのが、暗黙の了解だった。
仕事が別になれば会わなくなる。マユミとはそれだけの仲だ。マイはマユミの名字もしりやしないし、マユミだってマイのそれを知らない。二人の間には薄い膜が張られているようで、一度そういうものができると、それを破るのは並大抵のことじゃない。
マイには職場以外の友人はいなかった。高校生時代の友人とのつながりも、昼夜逆転のホステス暮らしがばっさり断ち切った。だから、彼女は必然的に男とのつながりを求めることになるのだ。情夫は入れ替わりは激しかったが三人を下回ることはなく、客数人と同時に愛人契約を結ぶこともしばしばあった。彼女は毎日違う男と食事し、おしゃべりし、同衾した。
彼女を中心に男数人がつながる、小さな宇宙ができ上がった。男は入れ替わり立ち替わりし、男も男で他の女数人との他の小宇宙を作っていた。そんなものたちがくもの巣のように結びつき合ってこの都会はできあがっていた。
マイは男たちに優先順位を付けていた。スズキは絶えず三位だった。ただ特別な意味合いを持つ三位だった。スズキといるのはわりかし好きだった。自分の嫌な部分を見せても、スズキは嫌がりはしない。それをいいことに、自分の中に悪意の澱が溜まったときは、スズキに思う存分吐き出してきた。すると彼女はすっときれいになれる。酔客相手の悲しい商売をまた続けられる。
そのうちマイの小宇宙に定期的な変化が起きた。そのときスズキのほかに情夫が二人、商売上の愛人が二人いた。だが、情夫一位である宝石屋の息子とは、いきなり別れることになった。息子は高校時代からの本命の彼女(マイにはその関係を隠していた)を孕ませて結婚することになった、関係を清算したいと言った。息子は十のうち六くらいが口からでまかせの男だったから、その言葉の真偽のほどもかなり怪しかったが、その言葉が突きつけていることは変わらなかった。マイはさんざ怒って悲しむゼスチャーを見せて、そこそこのカネをせびりとった。
そこで彼女は悩んだ。情夫はスズキと大手メーカーの営業マンのどっちを一位にするか。彼女は仕事前にお気に入りのスパに行って、背中に熱い石を置いたり、体にスクラブをまぶしたりしながら考えてみた。とびきりの三時間のコースが終わってオレンジジュースを飲んでいたとき、彼女は閃いた。それは悟りのようだ。彼女はスズキが大事だとわかったのだ。
20 蜜月
だから、その夜悲しくなっていたスズキが、関係をより親密なものにしようとほのめかしたとき、それが強烈な地場を生み出し、二つの磁石は引きつけあった。二人は朝までカウチの上でずっと愛し合い、ハイエナの子どもたちがそうするように互いの瞳を見つめ合った。
スズキが仕事に行った後、彼女は家に帰って金庫の中の預金通帳を見た。そこには0がいくつも積み重なっていた。彼女はこれまで普通の二十代前半の女が味わえないさまざまな浪費をしてきたが、その対価を自分で払ったことは一度もなかった。反面、彼女自身の個人的な生活はかなり慎ましいものだった。この0の連なりが炭坑夫のような仕事への自己犠牲に対する確かなる代償だ、と彼女は思った。そしてこれはいま有効に使われるべきではないか。
彼女は来春からホステスの仕事を辞め、映画学校に通うことを考えた。それはとても素晴らしいアイディアに思えた。霧の中に隠れていた未来が一気に開けたような気がした。
すると彼女の小宇宙はあっという間に崩壊した。情夫は縁を切られ、愛人も契約が切られた。残ったのはスズキと映画学校という輝かしい未来…。極めてシンプルだ。同じように仕事への情熱も冷めた。十七歳でホステスの世界に入った彼女は、すでに多くのことを知りすぎた。人間の浅ましさ、愚かさ、くだらなさ、そういうものに辟易としていた矢先に、明確な出口が現れた。彼女の足はばったり止まり、別れ支度を始めている。
そして彼女とスズキは蜜月になった。大みそかには、二人はスズキの家で除夜の鐘を聞いた。二人で作ったいささか麺の伸びすぎた年越しそばを食い、頬を寄せ合って神社に初詣に行った。神社の雑踏の中にいても二人はお互い以外のものが見えなくなってしまった。まるで初恋の高校生のように。
一月に入るとマイはどんどん仕事を減らし、一週間の半分をスズキの家で眠るようになった。仕事の日も、夜中店を終えると宅送りのワゴン車でスズキの家に直行し、カウチの上で裸になっているスズキをたたき起こした。ホステス業から片足が抜けると、彼女からとげとげしさも消えていった。もちろん、やかましさはそのままだった。
21 季節
一月になると希望塾は受験ムードに包まれた。春に一年のあまりの長さに絶望し、脱落した塾生も戻り、塾は浪人生でぱんぱんになる。塾側は脱落も想定しており、教室に入りきらないほどの塾生を入塾させているのが実情だ。だから毎年、開塾の春と受験前の冬には同じことが起きる。
この頃授業は実戦形式へと変化する。一時間半試験をやってその後一時間半解説するのがオーソドックスなやり方だ。黒板に向けられる気合いが常時の三倍くらいに増える。人間の集中力のあり方がわかる、人類学的瞬間でもある。
この時期には希望塾もいたって普通の予備校になる。Kに関する言説は鳴りをひそめるわけだ。そのせいで、いつもKにまつわる適当な授業をやっている講師たちはクタクタになる。一月半ばにセンター試験が終わると再び脱落者が出始める。ぴんと張りすぎた集中力はすぐに切れてしまう運命にあるらしい。
センター試験後は国立大と私立大向けで別々の問題演習になる。問題の解き方、試験のテクニックと言った話が増えるせいで、仕事の量、時間は多いが仕事自体はまあまあ楽になる。そして二月になると、塾生は有名大学の受験ラリーを開始し、ほとんど毎日入学試験を受けている状態だ。だから必然的に授業はなくなり、塾は来年の浪人生集めに目を向け始める。
22 ジムとカワサキ
塾の帰りに寄ったトミちゃんの銭湯で自分の裸を見て、スズキは愕然とした。「スズキちゃん、中年太りがいよいよ始まってるわね」とトミちゃんはバージニアスリムを吸いながらそう言った。スズキはその翌日から塾の近くにあるスポーツジムに通い始めた。それまでジム通いを「中産階級のステータスごっこ」と馬鹿にしていた。あんなことをやるなら、サッカーでも野球でも競技をやればいいと。しかし、やってみるとこれがなかなか楽しかい。体を動かすと、忘れていた活気が甦ってくるようだ。
スズキは希望塾の机にかばんを置きっぱなしにして、ジムに行くのが日課になった。暇な平日の昼間、空いているジムで存分に体を鍛えた。この秘匿された行為は妙なおかしみに満ちあふれていた。
だがある日ジムで社長に話しかけられた。スズキは「仕事中なのに」と慌てるフリをしてみた。社長は気にしない素振りで、ランニングマシンの上を走った。「付き合ってるんでしょ」。
「はい?」「ホステスと、そうでしょ」「え、ええ」「やるねえ」「なんで知ってるんですか」「これから」
カワサキは小指を立ててにかっと笑った。
カワサキはアイが働くキャバレーの常連客で、そこのマユミというホステスを囲っている、マユミからアイというホステスが希望塾のスズキとねんごろだと聞いたらしい。
23 疑り
その翌日、スズキはカワサキに呼び出された。
社長室の前のデスクには秘書のナオミという存在感の希薄な女が詰めていた。彼女は人間のボキャブラリーの極小化という大きな野望を抱いているのかもしれない、と思わせるフシがあった。なぜなら彼女は「はい」「いいえ」「失礼します」の三言しか口を聞かないのだ。実際それだけで外向きの彼女の仕事は完結する。
このときもそうだった。「社長から呼ばれたんだけど」
「はい」。彼女はすっと立ち上がり、すとすとと歩いて社長室の仰々しいドアをノックして開けた。「失礼します」。手で中に入るように指示して作り笑顔をした。スズキが入るとすぐに去っていった。
カワサキはパター片手にパットの練習をしていた。スズキを気にも止めなかった。カワサキがパットの練習をしているときは、頼み事をしようとしている考えるべきである。この五十代のおじさんは頼み事をするとき、面と向かって人の顔を見れないらしい。
その割には頼み事は無茶苦茶だった。カワサキは側近の七十代のナオキ塾長が、塾のカネの使い込みをやっているんじゃないかと勘ぐっている、と打ち明けた。「だからね、ナオキちゃんのふところにね、飛び込んでね、使い込み、調べてよ」。ぺろっと言った。視線はパターの先のままだ。
最古参のナオキ塾長は全共闘上がりで、運動をやめた二十代半ばからずっと予備校教師だった。その経験が買われて、若いジャジャ丸の番頭役をやっていたが、ジャジャ丸が横領騒動で去って以来、カワサキの指名で塾長に就き、屋台骨を支えてきた。希望塾経営はいまや彼の手のひらの上にあり、彼なしでは会社は動かくなった。カワサキの信望がないだけに、講師や従業員のナオキ塾長への信望は厚かった。
そんな功労者に対してカワサキが疑念を持ったきっかけは競馬場でのこと。カワサキがどの馬に儲けさせてもらおうかと競馬新聞を眺めていると、馬主の欄に塾長と同姓同名の「高倉直紀」を見つけた。まさかとは思ったが、どう眺めてみても、新聞の印字が形を変えることはなかった。若いぶりたいだけで使っているアイフォンでインターネットしてみた。やっぱりそうだ。馬主は「高倉直紀」だ。それが同姓同名の他人である可能性には気づいていたが、竜巻のように巻き上がった疑念は押さえがきかない。
それからというもの、カワサキは疑心暗鬼に陥っておちおち眠れなくなった。「ナオキには十分な給料をあげているのに、裏切ったのかあいつは」と考えているうちに、カワサキの頭蓋骨の中でそれは既成事実になった。カワサキは人一倍信じる力が強かったが、客観的に考えることは一切しなかった。いつもカワサキの独り相撲で、カワサキにまつわる出来事は認識されてきた。
その挙げ句が「ふところに飛び込んで調べてよ」だ。この「命令」をスズキは完全に拒絶した。「私は若者に教えるために講師をやっています」と思ってもいない大義名分も振りかざした。カワサキはパターの先にあてていた視線を起こし、ぎろとスズキにぶつけた。スズキは背中を向けて社長室を出た。カワサキは「おい、誰にも言うなよ」と怒鳴った。
24 ワヤン大活躍の巻
カワサキは鉢をワヤンに持っていった。ワヤンは風来坊みたいなところが不安だが、自分が会社に引っ張り込んだんだから、まさか刃向かうまいとカワサキは打算した。確かにワヤンは最初のうちは刃向かわなかった。聞き耳を立てて、状況のすべてをじっくりとカワサキから引き出した。だが、その後が誤算だった。ワヤンはニコゥ〜と笑って「空いた塾長の席が欲しいなあ」と飄然として言った。
カワサキはかっとなってパットをペルシャじゅうたんの上に叩きつけた。パットはくの字に折れて、物置で見つかったねずみの死体のように不憫に見えた。
顔を真っ赤にしたカワサキと相対しても、ワヤンは余裕しゃくしゃくだった。彼は能楽のようにゆっくりとした所作で煙草に火をつけて「塾長ってのはいいもんだな、カワサキさん」と言うと、不敵に笑い、カワサキの背が異様に高い仕事椅子に座って、座席をクルクル回した。
カワサキは結局ワヤンも追い返した。が、その日の夕方にワヤンは社長室に帰ってきた。腕にたくさんの書類と写真を抱えていた。それを見るとカワサキの顔色はぐんぐん変わっていった。
25 ふてぶてしい老人
その一時間後。スズキはナオキ塾長を別の駅にある、カップル向けの隠れ家風居酒屋に、こっそりと呼び出してコトの顛末を話した。居酒屋は完全個室で密談に向いていた。「カワサキはそんなこと言ってるけど、まさかそんなことはないでしょう?」。ナオキは一通り聞き終えた後、しばらく無表情のまま黙っていた。若くて楽しかったころばかりを思い出す、メランコリー老人のようだ。「ついにこのときが来ましたか」。元全共闘の七十代の老人は静かに言った。「どういうことですか」。スズキは身を乗り出して問う。老人は黙ったまま、ぐい飲みの熱燗を空にして、手酌でたっぷりと注ぎ込んだ。
「カワサキさんが言ったことは本当ですよ。ばれないようにいろんな手はずを整えていたはずですがね」
またぐい飲みを空っぽにした。「やっぱりケイバ馬を持つときは、会社を作っておくべきでしたね。名前が出ちゃうのは確かにあからさま過ぎた。欲が突っ張るとダメですね」老人は他人事のようにすらすら言った。独りで総括してもいる。
講師たちから慕われている塾長スズキの本当の顔を見た気がした。そのふてぶてしさはなんとも怪物めいたところがあった。好々爺の表情の裏にあるえげつなさを存分に見せつけている。面白おかしくなってきて、スズキは大声で笑い出した。老人は随分と悪いことをしたが、それでも味方をしてやろうと思った。
「あなたはこれをカワサキさんに伝えますか」
「いえ伝えませんよ。ぼくは彼は好きじゃない」
「そうですか。ちょっとの間、胸の中にしまっておいてもらっても良いですか」
「わかりました」
こういうコミュニケーションだった。
26 飛行船2
ナオキ塾長と別れた後、スズキはトミちゃんの銭湯のサウナで汗をかき酒を抜いた。家に戻るとマイにコトの顛末を話し、もしかしたらクビになると伝えた。「ばかばかしい話ね」とマイは興味を示さない。「クビになったら他の塾に移るよ」。「そうね、それが名案ね」と言ってそれでその話題はおしまいだ。彼女はスズキの仕事にまったく興味がなかった。それで、彼女は日本映画学校に通うか、大学の映画学科に通うか悩んでいるという話をした。大卒の方が監督になりやすいのなら、まず大学に行くべきかと思い始めたらしい。大学にも本格的な学生映画はある。
彼女のなかでは映画監督の夢がより鮮明になった。これまで自分を押し殺して生きてきた彼女にとって、その夢は魔法のごとき作用があった。マイが夢を実現していったら、その過程で別れることになるな、とスズキは直感的に思った。それは不安というよりあきらめだ。この若き乙女を止めることは、鬼ヶ島の鬼でもできやしないだろう。
それに比べて、自分は人生の曲がり角に差し掛かった気がする。まだ何も成し遂げてはいないが、これからも何かを成し遂げる気もしなかった。これを諦めと呼ぶのだろう。スズキは小さくため息をついた。
スズキはその夜夢を見た。
飛行船は大海原の上を飛んでいた。青い海はうねり、叫び声を上げている。どこまでも続く青い草原に、ぽかんと大きな岩礁が浮かんでいた。そのとき、空にどす黒い雲が現れ、大嵐を起こした。飛行船の白い気球に穴が空いて、岩礁の上に覆い被さるように落ちた。船室から真っ黒い影が這いずり出てくる。だが、どんなに目を凝らしても、それが何者かはわからない。
ただその黒い影が、不吉な何かであることだけはわかる。そしてそれは今にも良からぬことを起こそうとしている。
26 ファイブシスターズ
翌日カワサキの死体が彼の自宅であるマンションで見つかった。愛人が合い鍵でドアを開けると、死体はリビングルームの天井に逆さに吊され、ぼんぼん時計の振り子のように弧を描いて揺れていた。胸には日本刀が二本突き立てられ、口のなかには赤いバラの花びらが詰まっていた。揺れは警察が死体を縛った登山用ロープを解くまで続いた。
警察はすぐにカワサキの五人の愛人に着目した(捜査本部では「ファイブシスターズ」と呼ばれていた)。五人のうち、カワサキが依然経営していた焼き鳥屋のホールスタッフだった水産会社の事務員以外は水商売の女だ。警察が男女関係のもつれで、女のうちの誰かがカワサキを殺したと絵を描くのは、自然なことだ。アイの友だちのマユミも疑われていた。カワサキの死体を見つけた愛人というのはマユミのことだった。
さらにカワサキが裏金2億円を作っていたことも明るみに出た。裏金は当局の目を逃れるように国内から香港とかギリシャとかの銀行を経由して,スイスの銀行の口座に収まる仕組みになっていた。が、肝心のカネは数日前に引き落とされ、忽然と姿を消していた。
希望塾は盆をひっくり返した騒ぎになった。うわさがうわさを呼び、マスコミが来もした。「予備校の社長が変死。残された愛人五姉妹。消えた二億の裏金」なんてショッキングな出来事は、都会生活に退屈する人間にとって格好の話のネタだった。そして塾はまもなくカワサキ憎しに染まった。「安月給でこき使っておいて、自分は愛人五人、裏金二億かよ。やってらんねえよ」。これが皆の口癖になった。
スズキは胸の中に暗雲を抱えていた。ナオキ塾長がカワサキをやっつけたか、当事者でなくても殺害に関わったのではないか。「ちょっと胸の中にしまっておいてくれ」。ナオキのセリフが記憶から甦りいまやいやな響きを漂わせている。ナオキは好々爺のフリして、ピンハネしたカネでケイバ馬を買った憎たらしい野郎だが、どうも憎めなかった。
捜査はやがて愛人のセンで行き詰まると、すぐにナオキに目線を移した。上層部に怒り浸透の講師らを糸口に、ついにナオキが塾のカネでケイバ馬を買っていたことを嗅ぎつける。カラワン警部補は「カネを抜いていたヤツ同士でケンカになったんだな。で、ナオキ爺ちゃんが暴れてカネを奪ったの巻きだな」と絵を描いた。ナオキは拘留されて外に出てこなくなった。
そこで警察の視野にスズキが入った。カワサキが死ぬ前日、スズキはカワサキとナオキの二人に会っている。こいつも怪しいなとなることの自然さは、水が百度で沸騰するくらいのものだ。
スズキは小細工せず、全部ありのまましゃべった。嘘を言ったところで、警察は暴いてしまうはずだ。変にナオキをかばえばスズキが共犯にされてしまうかもしれない。カラワン警部補はぼうぼうのあご髭をなでて「やっぱりナオキのオッサンだ」と呟いた。
希望塾でもナオキの昔年の恨み説が本命になっていた。「ナオキ塾長は長年経営を任せきりにして遊び回るカワサキについに怒って、殺してカネを奪った」とこんな具合である。だが、ケイバ馬のことも皆が知るところとなり、ナオキの権威は地に落ちた。彼は塾に帰ってこれなくなった。古参のハラカミ講師は「これでこの腐った希望塾は浄化された。新しい時代が始まるんだ」と狂気混じりに預言すると、皆そんな風に思い始めた。誰かが塾長の代わりをやるしかないという言説を講師や事務員は誰に言われるともなく囁き始めた。人気講師のワヤンが適任ではないかとの声が浮き上がってくるまで、そんなに時間はかからなかった。
27 カラワン警部補の創作
それから数日後、スズキは再び取り調べを受けた。カラワン警部補は初めのうちはナオキの犯行の裏付けをとろうとしていたが、若い刑事が警部補に耳打ちすると、彼の顔色がみるみるうちに変わった。取り調べはもはやスズキの自白をとる方向のものに変化した。
カラワン警部補はこんな絵を描いた。「スズキはアイ、マユミのラインでカワサキの裏金の存在を知ってんだな。二億っていう大金だ。そりゃあ自分のものにしたくなる。そんなときにカワサキがナオキの横領に気づいて、それをスズキに暴かせようとしたわけだ。だがスズキはこの状況を利用してナオキを懐柔したじゃねえのか。ケイバ馬を買う金をひねり出したナオキにとって、側近の立場を利用してカネを盗むなんてわけないわけだ。だが、スズキにそそのかされたナオキがカネを盗むと、カワサキのオッサンがわあわあ言い始めた。スズキはうるさくてたまらなくなる。マユミから借りた合い鍵でカワサキのマンションに忍び込むと、カワサキを怨恨に見えるようなやり方でぶっ殺した。罪を5シスターズにかぶせるためにだ」。
この筋書きは妙に説得力があった。カラワン警部補はこの説を確信どころか信仰した。だが、証拠らしき証拠は何にもなかったから、カラワン警部補がまずスズキの口を割らせようとしたのは、物体が質量を持つほど自然なことだ(質量を持つことが証明されたのはつい最近のことだが)。
若かったころはさんざ無茶をやったカラワン警部補は、このとき久しぶりに若返った。彼は初めて事件の操縦桿を握ったという全能感に満たされていた。彼はスズキを徹底的にしばき上げた。その手法は徹底されていた。脅かして脅かして脅かしまくったのだ。法をまたぐぎりぎりのところで、それは行われ、時にはあっさり法を踏み越えもした。スズキは頑強に抵抗していたが、取り調べが長時間に及ぶにしたがって、取調室の密封するような構造と繰り返される脅迫にだんだん参ってきてしまった。夕方に始まった取り調べは夜を徹し、朝に達したころ、自白した格好になっている供述調書ができあがった。カラワン警部補は署名押印を要求した。スズキはふにゃふにゃのままなんとか拒否していた。が、その生気を失った目を見れば、陥落は時間の問題のように思えた。
28 自白
竹林のようになった灰皿。よどんだ空気。疲れ果てた男の顔が二つ。肌に張りつくワイシャツ…。取調室のなかはあらゆるものが荒んでいて、訪れた朝の爽やかさとは大分距離があった。
数十年そびえ続けた大木が折れるときというのも、こういうものだろうか。スズキの心は午前八時二十四分に、何の前触れもなく突然折れた。「殺人犯というのも興があるや」と彼は冗談を言ったが、力はけほどもこもっていなかった。放心しきっている。スズキはカラワン警部補の胸ポケットでずっと死んでいた安物のボールペンを掴んだ。がたがたと手が震えている。それは悔しさか、苦しさか、何かなのかも、このぐちゃぐちゃした朝の中では見つけられない。
ペンの先が調書の署名の欄に迫ったところで、また突然新しいことが起きた。若い刑事が入ってきてカラワンに耳打ちした。カラワン警部補のむくんだ顔がぶわっと驚いた。スズキはただならぬ気配を察しペンを投げた。カラワン警部補はスズキの襟を掴んで揺さぶった。「おい、早く書け! 書けよ! なあ、スズキ早く書けよ」「カラワンさん、それはやばいよ。こうなっちゃ、それはできないよ」若い刑事がカラワン警部補を押し留めようとしている。「今書けばまだ大丈夫だ! 今ならまだ間に合うんだ」カラワン警部補は粗末な机をどんどん叩いて、呪文のようにそう唱えた。
29 ソウル・スタインバーグ
スズキは十五時間二十一分ぶりに取り調べ室を出た。警察署の受付でしゅっとしたスーツ姿の男に引き渡された。スズキは息を飲んだ。男はソウル・スタインバーグの絵から飛び出てきたみたいに現実感がない。ものすごくのっぺりとして平面的なのだ。四次元の世界の中で彼だけが二次元を生きている感じだ。男はにこりと笑った。マンガの絵さながらに。
「さあ行きましょうか、スズキさん」。彼の声はコンピュータボイスじみていた。シンセサイザーで人間の声を模した音を作った、という風だった。スズキの驚きを意にも介さず、彼は警察署の駐車場へ歩いた。底の堅そうな革靴を履いているのにもかかわらず足音は立たず、太陽の光が斜めに彼を射抜いているのにもかかわらず、地面に影は落ちなかった。
黒いランドクールザーに乗った。スズキは助手席で「あなたは誰ですか」と尋ねた。スズキの顔色は不安で曇っていた。男はくっくっくと笑って答えなかった。車は発進し、警察署を出て、几帳面な運転で街を走り始めた。車内で二人は黙りこくっていた。
三十分ほど走った後、男はおもむろに口を開いた。「ぼくが誰かって聞きましたね」
「そうです。あなたは誰ですか?」
「ぼくはすでにあなたに会っています」
「会っている?」スズキは唇を噛む。「会いましたか。ううん、うまく思い出せません」
「確かに会いました」
男は道路に視線を走らせながら、突然口調を変えて言った。
「時間はぐるぐるまわっている。そしてぐにゃぐにゃ歪んでいる」
男は笑ってスズキを見た。顔はますますのっぺりしている。右手がハンドルを離れ、頬の皮膚に移り、思いきり引っ張った。皮膚はあっという間にはがれていき、中から見覚えのある顔が出てきた。