[4] 歪曲
「学校はどうです?楽しめていますか?」
校内での私の立場を知ってるだろう男は、あけすけに物を言ってきた。
疲れを癒やすためにつけていたお気に入りのホットマスクを外し、存外近くにいたヨルを見遣る。
ヨルのこういうところが嫌だ。
こちらが隠そうとしているものを平気で突こうとする、その無粋なところが。
「私が楽しめてる様に見えるなら、あんたは一度、その目を酸性湖で死なない程度に洗い流してきた方がいいわ」
「そうおっしゃらず。なかなか悦に入っているのでしょう?」
「………アルカリ性の湖にしたいのかしら?どこかの国に、触れただけで生物を石にする死の湖があるそうよ」
「おお、怖い怖い」
肩を竦めてかぶりを振るヨルだが、その顔に怯えの色はない。
ムカついたのでヨルの向こう脛を蹴ってやった。
苦痛に歪むのも一瞬、どこか興奮した面持ちになるやつは、やはり紛うことなき変態だ。
「学校は私の自治領。あんたなんかに手出しさせないわ」
勿論です。
ヨルは朗々とそう返し、私の頬にできた傷痕に口付けた。
翌日の校門前。
ヨルに車で送ってもらうと、そこには会いたくもなかった男の姿があった。
戸川だ。
「ああ、同じクラスのやたらと貴女に絡んでくる男ですね。どうします?」
「どうもしないわ。見送りありがとう」
「………お気をつけて」
威嚇を兼ねた挨拶くらい、とぶつぶつ物を言うヨルの頬にキスをすれば、呆気ないくらいにやつはしおらしく去っていった。
実に操りやすい男である。
一方の……と戸川に視線をやって、私はさっそく後悔した。
目が合った瞬間に微笑まれたのだ。
なんて薄気味悪い。
「妬けるな。俺の前で、見せつけるように乳繰り合って」
「彼氏でもない男に配慮しろと?笑っちゃうわ」
「そうだな、まだ彼氏ではないな。さっきの男も同様だろ」
まだ、まだですって?
笑止千万。
戸川の戯言を無視して歩き出した私に、やつは苦笑い。
「………焦らすのが好きだな。意地を張る女は落とし甲斐がある」
知るか。
手に持った鞄を戸川に投げつけたい衝動に駆られたが、非常に良い働きをしてくれる私の理性が制止をかけた。
いくら私にとってうざい男でも、校内ではそれなりに地位のある男。
下手なことをして面倒が増えるのだけは御免だ。
「姉さん……」
ここには、弟と寵愛姫、その取り巻きたちもいるのだから。
戸川が校門にいたのは風紀委員の仕事だとして、弟たちは……ああ。
確か、取り巻きの一人が生徒会役員なんだっけ?
臨時で手伝いに駆り出されたのだろうか。
どうでもいいけど、メンバーが勢揃いなのには笑っちゃうよねえ。
流石は仲良しグループだ。
「姉さん、やっぱりあの噂は本当だったんだ。淫乱女。あんたと同じ血が僕に流れてると思うと、ゾッとするよ」
それは奇遇だ。
私も思う。
「今度の標的はそいつってわけ?見境ないね、僕たちを産んだあの女と同じ」
いつもに増して、弟の言葉が鋭さを帯びている。
私はそんな弟を一瞥もせず、弟の口から発せられる悪口雑言はただのBGMにした。
取り巻きたちも口々に私を責め立てているようだが気にしない。
「いいのか?言われたままで」
「………」
戸川が何か言ってくるが、それさえスルーした。
遠くで「姉さん!」と弟の叫び声が聞こえた気がしたけど、振り返ることはなかった。
少し、誤解があるかもしれない。
私は弟を疎ましく思ったことも、まして憎んだこともない。
生まれてこの方ただの一度も、だ。
例え弟が私を恨み、復讐を企てようとも、私の可愛い弟であることに変わりはなかった。
ただ、私は歪んでいる。
弟を愛しく思っても両親の暴力から救ってやらなかったし、そのまま弟が壊れてゆく様を静かに鑑賞していた。
それは何故か。
理由を言葉で表すのはとても簡単だった。
―――弟に、私と同じになってほしかったから。
それだけだ。
………と、いうか。
「いつまで着いてくるの?風紀委員の長が率先して仕事サボってどうするのよ」
昇降口に入っても私の傍を離れない戸川を詰れば、やつはむずがるように私の肩に手を置いた。
問答無用で払い除ける。
「サボってねえよ。個別指導だ。じゃじゃ馬には腕のいい調教師が必要だろ」
「あんた、何考えてんのよ。以前までは他のやつらと同じ様に私を非難していたクセに、どういう風の吹き回しかしら」
「単純な好意……と言いたいところだが、どうせお前にはそう映らないだろう。裏ばかりにしか目のいかない女だしな」
「節穴って言いたいの?」
「まさか。大当たりだ。俺はお前が何を考えてるか知りたい」
お互いの吐息がかかる至近距離で、問い詰められる。
何を、ねえ。
あんたには関係ないでしょうに。
「妙な事を企んでる。違うか?これまでまったく接点のなかった俺にだってすぐに分かった。あんたは歪んでる」
「そんな女の尻を追いかけるあんたも相当なものだわ」
「………お前は、常軌を逸してるぞ」
ただの空気の読めない粘着質な男かと思っていたけど、割とそうでもなかったらしい。
なかなかに慧眼の持ち主だ。
常軌を逸してるだなんて、最高の褒め言葉。
「なあ、おかしな領域に足を突っ込むことはない。俺にしておけ。ドロドロに甘やかしてやる」
そう言って私を抱きしめようとする男だが、二度目はない。
やつの足の指先を、全身全霊の力を込めて踵で踏み付けた。
「~ッ!」
「そういう台詞にはもう飽き飽き。私、愛されるだけじゃ足りないの。貴方には、一生かかっても補えないものが欲しいのよ」
「ま、待て!」
「じゃあね、さよなら。戸川くん」
戸川に背中を向けてから思ったのだけど、どうせなら顔面くらい踏んでやれば良かった。
派手な修羅場を目撃したのは、それから数分後。
「ねえ待って!どこに行くの、普くん!」
「やめて、もうやめてよ!」
「関わらない方がいい!あの人はおかしい!」
教室まで聞こえてきた盛大な嘆き声に、ひょこっと顔を覗かせてみれば、廊下で泣きわめく女子生徒―――嶺朱理がいた。
彼女の取り巻きたちは必死に宥めようとしていたが、効果はなく。
彼女が涙ながらに訴える相手、私の弟も、彼女の言うことに聞く耳は持っていない様子だった。
「どうしちゃったの普くん!戻ってきてよ!」
「………」
弟はそのまま、視線が絡んだ私のもとへ一直線。
にっこ~り笑ってやると、乱暴に腕を掴まれた。
で、無理やり引っ張られて、どこかに連行される。
「ダメだよ普くん……っ」
愛しの彼女が何か言ってるよ~?
いいのかな。
あ、いいのか。
そしてどこかの空き教室に投げ入れられ、うん、ゴミでも捨てるようにポイッとさ。
背中を打ってしまった私は痛みに悶えた。
てか、なんたる偶然。
ここってば、あの子が話があるって連れてきた場所じゃないか。
「姉さん……」
ガチャリ、と扉の鍵を締めた弟。
薄暗い室内が静寂に包まれる。
あの子、いいの?と問えば、関係ないと一刀両断された。
女神さまに対する信仰心はどこやった。
「姉さんこそ、いつからそんなに淫乱になったの?今もどこの馬の骨とも知れぬ男の家に住んでるんでしょ、気持ちが悪い……」
弟は倒れ込んでいた私に馬乗りになり、首筋に両手を添えた。
「殺してやるッ。あんたみたいな姉、いらなかった!双子だから何?あんたは一度も僕を助けてくれなかった、外道じゃないか!何度も何度も叫んだ!助けてお姉ちゃんって!けどあんたは無かったことにした!僕への虐待、そのすべてを!」
喉に爪が食い込む。
幼い頃はそっくりだった私たち。
けれど成長期にはお互い男女の性差が現れ、身長も体重もまったく異なる様になった。
一卵性の双子だったら良かったのに。
私は何度もそう思った。
「いつも憎くて、殺してやりたかった!双子なのにどうしてこうも違うんだって!全身に流れる血を掻き毟りたかったよ!あんたと同じ血なんていらない!」
「かっ、……は」
「ねえ今どんな気分?実の弟に殺されそうになるのって!」
苦しい。
意識が遠くなる。
あれだけ痩せ細っていた弟は、いつの間にこんな力を得たのだろう。
弟はふと、ひどく柔らかな表情に変わった。
「姉さん。僕、後遺症があるんだよ。暗闇と、人に触られることが苦手なんだ。あの頃を思い出して、胃の中の物をすべて吐き出してしまう」
それは知っていた。
私たちを引き取った中年夫婦が、弟に対しては特に気を遣っていたから。
「それだけじゃないよ。パニックになるんだ。頭の中が真っ白になって、不安に押しつぶされて、何もかもが怖くなる。その時だけは、自分が何をしたのか正確に覚えてなくてね」
「対人関係を築くのも苦手だよ。後遺症のおかげで初めは見る人すべてが敵だった」
「ようやく普通の学校に通えるようになって、朱理たちに出会って、自分が変われたと思った。なんて幸せなんだろうって」
「でも違った」
酸素が足りずに、頭がシャットダウンしそうになる。
しかし、弟は何故かそのタイミングで首への圧迫をやめた。
「ごほっ、」
「姉さんの存在がね、いつまでも頭の奥に引っ掛かるんだ。この人がいる限り、僕は本当の幸せを掴めない。だから姉さんを消したかった」
「………」
「姉さんを目にする度、憎悪の感情が奥底から沸き上がる。だけどさっき、気づいてしまった。姉さんが憎く見えるのは、決まって男といる時だって」
弟は自分で締めていた首筋を優しく撫で、ゆっくりと目を細めた。
「どういうことか分かる?僕を見ようとしない姉さんなんて嫌い。僕以外を気にする姉さんなんて殺したくなる。不思議だよね。こんなに憎いのに。
僕は姉さんを―――愛してるんだよ」
ああ。
なんてことだろう。
私は自然と涙が出た。
「昔からそう。姉さんだけが変わらず僕の傍にいてくれて、優しく微笑んでくれた。打算でも同情でもなく、僕をただの弟だと可愛がってくれた。憎いのに、どうしても嫌いになれない。
姉さんの近くにいる時だけだよ。暗闇も怖くないし、姉さんになら触れても吐き気がしない。
それに、どうしてあんなに朱理に惹かれていたか分かったよ。姉さんと名前が似ているからだ。それ以下でもそれ以上でもなかった。
姉さん、姉さん。愛してる。双子の弟としてじゃなく、一人の男として僕を見て」
涙を拭いながら、弟は私にキスをする。
しばらく私は弟にされるがままの、放心状態だった。
弟が私を愛してる。
家族としてではなく。
そのことを噛み砕いて理解するのに、かなりの時間を要してしまった。
「普……」
「何?姉さん」
ようやく。
「ありがとう、普」
―――ようやく私のもとまで堕ちてきてくれて。