[2] 悪変
弟は垢抜けた。
定期的な暴力がなくなり、一見したところ体の傷もすっかり癒え。
両親たちに必死に牙を剥こうと足掻く幼いながらに獰猛としたあの顔は、今や遥か遠国のやんごとなきお方なのでは……と頬を染めた女子生徒たちにも噂されるほど爽やかなものになった。
私に向けられる暗澹とした瞳の奥の闇は、相変わらずでもね。
お昼ご飯を買うために購買へ訪れた帰り道、何の因果か弟たちに出くわしてしまった。
うわ、最悪……。
弟の悪意がこちらに気付く前に逃亡を図るのだが、如何せん運動神経の良くない私である。
踵を返す際に人にぶつかってしまい、手に持っていた購買のパンが床に落ちてしまった。
「ああ、すまな……なんだ、お前か。気をつけろ」
結構な言い草で謝罪を取り消した男は、簡単に言えば弟の仲間。
弟が魅了された女の取り巻きだ。
全面的に私が悪かったのですみません、とだけ口にして落としたパンを拾おうとしたら、なんとパンが踏まれた。
足を辿って見上げると、そこには弟の姿が。
あんたさぁ……。
弟が土足で踏んだパンを食す趣味など皆無な私は、あまりの勿体無さに眉を顰めた。
「姉さん。久しぶり」
弟は実に爽快な笑みを浮かべ、パンを踏んだまま挨拶をしてきた。
……面倒くさい。
まったくもって久しぶりではないけれど、適当に久しぶり、と私も言葉を返しておく。
無視をしたらしたで厄介だし。
「相変わらず……他人を見下した善人面してるね」
口角を上げ、しかし忌々しそうに弟はのたまう。
善人面か。
善人ぶるつもりはなかったし、善人であるつもりもなかったけどな。
弟に何を言ったとしてもロクなことにならないのだろうから、そっと口を噤む。
「反論しないの?」
「した方がいい?」
「………あんたのそういうとこ、本当に反吐が出る」
歪んだ弟の目には復讐の灯火が揺らめく。
可哀想に。
表面だけは綺麗にコーディングされた家庭の瑕瑾として存在し、外の誰からも認知されなかった弟。
さらには情のない姉に見捨てられ、同情を誘うには十分すぎる境遇だ。
そんな姉と高校まで同じなんて。
「可哀想だね」
あんたはどこまでも。
去りゆく弟の背中に呟いた言葉は、喧騒に掻き消される。
途中、慌てて弟を追いかけた件の女子生徒がこちらを振り返り、心配そうに眉をハの字にさせていた。
―――思わずせせら笑ってしまう。
女は驚いたように目を丸くし、弟と私を交互に見比べてからまた眉根を寄せた。
客を装っていた下世話な傍観者たちも、そんな私に化け物でも見るかのような目つきで悪意を突きつける。
私は、さて。
踏みつけられて食欲も失せる形へと化したパンの処理をどうするか、考えた。
パンを細かく千切りながら、私は目の前の餌に群がる鳩たちをぼぅっと眺める。
校舎横の僅かなスペース。
1羽の鳩を見つけ試しに千切ったパンをやったら、見事に食いついた。
私が近くに腰掛けても逃げる様子はないので興に入っていれば、鳩は1羽2羽と増え、最終的に十数羽の大所帯となっていた。
バサバサと羽音がうるさいが、今は授業中なので生徒に見つかることもない。
「お前たちはいいわね。小さな小さな生命で」
人は誰しも、不幸に酔い痴れる時期がある。
世界で一番不幸とは言わずとも、周囲のやつらに比べて自分が一番苦労しているのだと定規の測り方も知らずに嘆く。
私や弟も例外なく。
私の場合、苦労と言うより面倒事に見舞われる自分にため息がつきたくなるのだけど。
だって仕方ないじゃない。
私は我が身が最高に可愛いんだもの。
「お前だって吹けば簡単に飛んでしまうような華奢な体をして、何言ってる」
パンを千切る手が止まる。
わざわざ視線を動かさなくとも分かる。
いつの間にか隣にいたのは、同じクラスの戸川芳樹だ。
………優等生のクセに、授業をサボったらしい。
「俺にとってはお前もその害鳥と同じだ。簡単に駆除できる、小さな生命」
「………」
「言い返さないのか」
「あら。貴方は知らないのよ。私という人間がどれだけの血肉で賄われているか」
「は?」
間の抜けた声だった。
これで学年一畏怖される風紀委員長様と呼ばれているのだから、可愛いものだ。
「冗談よ。二度と話しかけてこないでね」
パンの粉がついた手を払い、私は戸川に微笑んだ。
怪訝な表情に変わる戸川を置いて、さっさと立ち去る。
弟もなかなか馬鹿な生き物だと思う。
私のことなんて忘れ、復讐などと愚かな真似をせず、あの女子生徒と普通の高校生らしく青春でも謳歌していればいいのに。
小さな事で一喜一憂し、ストレスを溜めずに生きてゆく。
馬鹿なようで、最も賢い選択だと思う。
弟が私に復讐することはできない。
それは弟が唯一の肉親である私を憂いて思いとどまるという意味合いではなく、復讐の内容に問題がある。
弟はどうにも、姉である私に自分と同じ目に遭ってほしいと願って止まないらしい。
そして、未来に絶望し、惨めに泣いて縋って許しを請えと。
甚だ馬鹿らしい。
弟が傷付けたいのは私の体ではなく、主に精神面で、だ。
だから無理難題な話なのである。
私の掌中の珠がなんたるかを知らない限り、私が深く傷付くことはない。
また、それを失わない限り、私が真に絶望することもない。
にも関わらず復讐にばかり熱を上げて……。
私の弟は、愚かとしか言い様がない。
教室に帰ればクラスメイトから疎ましがられ、私の席は酷く“いたずら”だらけだった。
けれど露ほども気にとめない私は、鞄だけ持ってさっさと学校を出る。
―――気分が鬱だ。
段々と歩くことさえ億劫になってきた私は、ある人物に電話をかける。
ワンコールで対応した相手にお前は暇なのかと心の中で拍手し、もちろん褒めていないことは明白だろう、一言だけ呟く。
「迎えに来て」
そして相手が何か発する前に電話を切り、数分も立たないうちに車で迎えに来たそいつに、私は今度こそ賞賛の拍手をした。
「珍しい。貴女が学校を早退するなんて」
「変態は黙って運転に集中しなさいよ」
「………これはこれは、手厳しい」
男の名前はヨル。
初めて対面した時に苗字も教えてもらったが、私が覚えてるのはあだ名だけ。
正直、下の名前すら記憶に危うい。
ヨルは現在の私の保護者で、とは言っても弟も知らない私が勝手に選んだ相手なのだけど、私が今住んでいるのはこいつの家だ。
弟は亡き両親の遠い親戚にあたる中年夫婦の家に身を寄せている。
引き取られたのは二人ともだったが、あの歪な家庭から解放されたのに息苦しさは御免だったので、私は一ヶ月も経たないうちにあそこを出た。
幸いにも後援者はすぐ捕まえられ、生活に困ることはなかった。
そしてえ~っと、3人目かな、そう3人目のパトロン。
それがヨルだった。
この男は紳士の皮を被った変態で、どんなに罵倒してもケロリと、むしろ罵ると余計に悦ぶM仕様。
流石にどんなに見た目が若かろうと、30を超えた男が気持ち悪い。
だって、これ、お風呂上がりの未成年に欲情したのよ?
当初は猫を何匹も飼っていたのに、その事件で箍が外れた。
変態に容赦はしない。
だが、結果、私が何をしようと悦ぶようになってしまった。
「アァッ、そんな熱烈な瞳で私を見ないでください。興奮します!」
本当に、気持ち悪い。