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17:二日目の顛末

 

「……忘れた?」

「わ、悪い! ホントにごめん!」

 次の日の朝、男子用宿舎の一室で響き渡ったのはジェイの謝罪の言葉だった。

 ぺこぺこと頭を下げるジェイとその前で眉間に皺を寄せて彼を見ているディーンの姿に、相部屋だった数人の生徒が何事かと視線を向けた。しかし二人の足元に荷物が広げられているのを見るとすぐに興味を失ったように視線が外される。何か持ってくるべき荷物を忘れたのだろうと予測がついたのだ。


「よりによってテントを忘れるとは……ありえないだろう」

「ええと、その、今回は宿舎があるって言ってたから、頭になかったっつーか……」

「調査の内容によっては外で一泊か二泊する可能性があると言っておいただろう。聞いていなかったのか」

「……ごめん」

 ディーンはハァ、と深いため息を一つ吐き、自分の足元に広がった荷物をもう一度見回した。すぐ脇にはディーンの荷物がまとめてあり、そこには二人用のテントが一つ括り付けてある。ジェイが忘れたというのは二人で一つずつ持ってくることになっていたはずのもう一つだ。


「寝袋や毛布は?」

「あ、それはある。宿舎で部屋が足りない時は大部屋で雑魚寝だっていうのは聞いてたから」

「そうか……ならとりあえずはそれだけ持っていけ。テントは借りることが出来るかもしれないが……それは今後の予定を立ててからにしよう。他に忘れ物は?」

 そう問われてジェイは慌てて足元の荷物を点検する。慌てて引っ張り出したためばらばらになったあれこれを一つずつ確かめ、それからジェイはため息を吐いた。


「う……光球と、ナイフがないような気がする」

「まったく……まぁいい。光球はお前なら精霊魔法で代用できるし、ナイフも誰か予備を持っているかもしれない」

「悪い、ホントに」

 出かける前日もきちんと中身を確認したはずなのに、荷物に抜けがあったことはジェイ本人にとっても予想外だった。

 それでもないものは仕方がない。代用するか借りるかの算段をつけねばならない。

 二人は協力して広がった荷物をきちんとまとめなおすと、それらを背負って部屋を後にした。

 今日は調査の為の資料を受け取ってこれからの予定の詳細を決め、それから一度森に入ってみる予定でいる。


「急ごう。朝食も込み合う前にとっておきたい」

「ああ、シャルを待たせると後が大変だしな」

 朝の準備に思ったより時間を取られる原因となってしまった事を反省しながら、ジェイは足を速めた。

 その背中を見ながらディーンは小さくため息を吐く。

 ジェイの荷造りを最後まできちんと見てやらなかったのは自分の手抜かりだった、と彼もまた反省していたのだ。

 もちろんディーンはジェイの保護者でもなんでもなく、お互い対等の立場なのだから何もかも管理してやる訳にはいかない。けれどジェイが悩みを抱え、その行動に小さな不調が出ている事には気づいていたのだ。それならもう少し気を付けても良かったのではないかとも思える。

 踏み込むべきか待つべきか。ディーンもまたこの所ずっと続くジェイの悩みと不調に頭を悩ませているのだ。



「ナイフ? しょうがないわね、それなら私のを貸してあげるわよ。どうせ使わないから」

 食堂でアーシャ達と合流して遅くなった理由をジェイが話したところ、意外にもシャルは怒りもせずにあっさりとそう告げた。もっと怒られるかと首を竦めていたジェイにとっては些か拍子抜けするくらいの反応だ。


「使わないって……いいのかよ、シャル」

 シャルはそれには答えずにごそごそと鞄を漁り、中から少し大きめのナイフを取り出した。

「別にいいわよ、小さいけれど予備がもう一つあるから。それに私は薬学とかやってないから植物の採集をしたりしないし、料理も手が遅いからあんまり手伝えないしね。何か必要があった時、私の分をあんたがやってくれるなら別に問題ないでしょ」

「……お、おう」

 その言い分は正しいようで大いに問題がある気がしたが、持ってくるべきものを忘れたのは自分なのでジェイには言うことはなかった。とりあえず鞘に包まれた簡素なナイフを受け取り、鞄にしまう。

「テントの方は使う事になれば借りないとだけど、ここは結構物資が豊かみたいだから大丈夫だと思うわよ。それに一つでも足りるかもしれないし」

「やっぱ夜は番がいるのか?」

「ええ、前の時は森には獣はいたけど、魔物はいなかったもの。強めの結界を張れば一応は一晩安心して過ごせたから皆で寝てたのよ。でもこの森ではそうはいかないかもしれないでしょ。面倒だけど仕方ないわ」

 去年行った風の森と違い、ここは未知の生き物や魔物が多い。結界を越えてくるものがいないとも限らない。それを考えれば交代で不寝番を務める事は必須であり、使うテントも一つで済むかもしれないのだ。森の様子によってはテントを張る余裕がない事も考えられる。


「そっか、なるほどな」

 確かにいきなりあんな木が走って来るんだからな、とジェイも納得した。聞いたところによればこの拠点にもきちんと結界は張ってあるというのだ。しかしあの走る木に関してはサイズが小さいせいなのか、植物に近すぎるせいなのか、それがきちんと効力を発揮していないらしい。

 そんなものがいるのだからより一層気を引き締めないと、とジェイが決意を新たにしたところで、引率の教授の所に行っていたディーンが戻ってきた。


「カフィール教授から資料を貰ってきた」

「え、カフィール教授も来てたの?」

「道中で見なかった気がしてたけど、いつ来てたんだ?」

 今回の場合のように他国にまとまった人数の生徒が行く実習は一人二人引率の教授がつく事は珍しくない。だが行きの道中で会ったのはエリウス教授だけだった。首を傾げる二人にディーンは地図を広げながら答えた。


「カフィール教授は今回は医学部と技工学部の引率で日をずらして来ていたらしい。彼は医学部で治癒魔法についての講義を持っているんだそうだ」

「そういえば教会の施療院にいたって言ってたっけ。腕はいいのかしらね」

「カフー、水系の魔法しか使えないけど腕はすごく良いよ」

 シャルの疑問に隣で固めのパンをちびちびと齧っていたアーシャが答えた。


「腕が良いのにこんなとこに来てるの?」

「逆じゃないのか。ある程度の腕があり、なおかつ最近学園に来たばかりだから受け持ちが少なくて暇がある。だからここに寄越されたんだろう」

「あの人、昔はエリウス教授と一緒にあちこち旅してて、開拓地にも行ったことあるって言ってたぜ。前に引越しの手伝いした時に聞いたんだよ」

 ジェイの言葉にディーンとシャルは驚きつつも、納得して頷いた。

 教授というのはどうしても授業や研究など中での仕事に浸り切りになってしまう事が多いので、外での実習の引率が体力的に無理、という人もいるのだ。ましてや開拓地に行く生徒の引率となれば、いざという時に備えてそれなりの知識や経験、力を備えていないと話にならない。そういう意味でもカフィールやエリウスは適任だったのだろう。

 警備を担当する人間も多く常駐しているが、それでもやはり生徒を直接監督する教授が経験者というのは心強かった。


「まぁ、教授の話は置いておいて、とりあえずこれが私達の調査内容らしい」

 そう言ってディーンが広げたのはこの周辺の地図や、様々な植物や動物の描かれた図録の写し、そして調査項目が書かれた表などだった。それを他の三人が顔を寄せて覗き込む。

 アーシャの持っていたものよりも細かく書かれた地図には拠点を中心にして上と左に線を伸ばし、その先を適当に繋いだような歪な扇型が赤い線で描かれていた。更にその中にはぽつぽつと赤い点が幾つか打ってある。


「この赤い線が調査範囲かしら? あんまり広くないのね」

「ここの南と東は他の国の開拓拠点になってるからな。そちらに近づきすぎないように、という事らしい」

「ふぅん、ここも結構広くて他の国の拠点とはだいぶ離れてるし、やっぱり警戒してるんかな」

「多分な。この開拓地は合同開拓拠点ということになってはいるが、実際はあまり各国の横の連携はないのが実情らしいからな。それぞれに国の為に少しでも有利な開拓や発見をしたいだろうからそれもある意味仕方ないんだろう」

 彼ら四人もここに来てから知ったのだが、合同開拓拠点とは言っても実はそれらしいのは中心地に責任者が集まって会議が出来る場所が作ってあるというだけだったりするのだ。


 開拓地は未開地域の森の淵に接した場所を区画分けし、フィリネスの開拓地以外の区画を他の四つの国とアウレスーラのような幾つかの学術機関に貸し出す形を取っている。割り当てられた側はそれぞれの区画から森の方へと開拓の手を広げていくことになる。

 各国や学術機関同士は表向き仲が悪くはないが、開拓の結果を競い合う関係でもあるのだ。どうしてもお互いを意識するし、小さな争いも起こりやすい。

 その為、一区画には広さを十分確保してお互いにある程度の距離を取ってあるが、警備を置いて他国の者が用もなく入らないようにしているところがほとんどだった。

 ある程度の物資の融通や不都合の無い程度の情報の交換、有事の際の協力などは行われているが、それ以外ではあまり交流はない。森の中で調査団が顔を合わせたりしても、なるべく距離を取ってお互いに接触しないようにしているらしい。


 当然生徒達も外部に出る際は、他の拠点の人間との接触には充分注意するようにと厳しく言われていた。

 アウレスーラの拠点では外部から人を雇う場合も厳選されているのでならず者のような人間はいないが、他はそうとは限らないからだ。

 各国の拠点には開拓要員の産業従事者の他に警備のための軍属の者もいれば、雇われた傭兵もいたりする。人が多くなれば質が良い人間ばかりがいるとは限らない。こんな僻地での勤務を左遷同然だと感じて腐る者もいるし、退屈な警備に飽きている者もいるのだ。


「それって、もし他のとこの人に会ったらどうするの?」

「基本的には見て見ぬふりをして接触しないか、学園の生徒であることを告げて距離を取るか、ぐらいか。何かあった場合は抵抗が認められているらしいがな」

「まぁ会わない事を祈るしかねぇか……で、それよりも調査って具体的に何するんだ?」

「この表に書いてあるわよ。えーと、地図に示した地点の現状の調査と、図録にある動植物の現在の分布調査、だって」

 調査内容の書かれた紙によれば、この赤い点で示された場所には廃村の跡や井戸などの開拓に使われた設備などがあったらしい。それらを目印として定期的にその周辺の調査を行って森の浸食の度合いを測り、次にどの地域を再度開拓するのかを決める参考にするのだという。


「毎年四年か五年の生徒にやらせている調査だというが、頻繁に状況が変わるのでいくら手があっても困らない状態らしい。一応この範囲内ならあまり危険な生き物はいないそうだ」

「それなら良かったけど……地図だと狭そうに見えるけど縮尺を考えるとそれなりに広いし、やっぱり毎日往復っていう訳にはいかなそうね」

「ってことはやっぱテント、借りてこないとかな」

 結局、四人は教授に掛け合って小さなテントを一つ借りることにした。学園の開拓拠点は技工学部の様々な支援(という名の試作品の試験を兼ねた流用)があるため、すんなりと借り受けることが出来たのも幸いだった。

 こうして必要なものを揃えた後、とりあえず今日は一番近場の調査をと彼らはさっそく森へ足を向けた。





「うう、くそ……っとに歩きにくい森だなぁ」

 地図に描かれたいちばん近い点を今日の目的地と定めて歩き出してから数時間。ジェイが空を見上げれば、木々の隙間からかろうじて見えた太陽は中天へと近づきつつあった。

 だというのに目的地は未だ見えてこない。地図と方位磁石で頻繁に方角を確かめながら歩いているせいもあるが、それに加えてこの森は鬱蒼としすぎていて非常に歩きにくいのだ。

 ここに比べれば風の森はまだ歩きやすかったのだと実感し、ジェイはため息を吐いた。

 あの森に初めて入った日もやはり歩きにくいと感じたものだが、この森はその比ではなかった。そもそも植生が違い過ぎているところが大きい。風の森はこの大陸の北の方にあり、今いるここは南の端にほど近い。それがこれだけの違いを生むというのは、授業で聞きかじっていても実際に目にすると少なくない驚きをもたらした。


「大体、木がでかすぎんだよな……空も満足に見えねぇし」

 風の森は北の地方のせいか、それとも風が強いせいなのかさほど背は高くなく、幹と根の太いどっしりとした木が多かった気がした。

 それに比べてこの森は見上げても天辺がうかがえないほど巨大な木々が立ち並び、しかも込み合って生えているものだからまるで緑の天蓋に覆われているかのようだ。倒木がある場所だけが時々ぽっかりと空をのぞかせている。

 更に、枝の合間から零れる少ない陽光を求めて争い合うように生えた下草や低木が木々の足元をびっしりと覆っているのだ。足を取られたり枝葉に目の前を邪魔されたり、その間に張った蜘蛛の巣に顔を突っ込んで慌てたりと、歩きにくい事この上ない。

 ジェイもつい今しがた、目の前の枝を押しのけて避けた途端、戻ってきたそれにぴしゃりと顔を叩かれしゃがみこんで呻いた所だった。顔というのは鍛えようのない部分なので意外に効くのだ。

 足元は苔や水たまりで滑るし、時折大きな蛇や派手な色の虫が足元に姿を現すから気を付けて歩かなければならない。シャルが悲鳴を上げればそれらを追い払うのも何となくジェイの役目になっている。

 木々から幾重にもぶら下がり何故だかしゅるしゅると動いている不気味な蔦を遠巻きに避け、ジェイは足を進めながらもう一つため息を吐いた。


 見たこともない森で、見たこともない生き物を眺めていても、ジェイの心は沈んだままだった。

 見慣れぬ植物に彩られた森はどこか気味悪く、探索していてもあまり楽しい事はなさそうに見える。

 開拓地が、未踏地域が、どこもこんな場所ばかりだったとしたら。

 一体ここで自分に何ができるというのだろう、とジェイは思う。

 たとえば今歩いている順番一つとっても、仲間に頼っていると彼は感じていた。

 一番前を歩くのはこういう道に慣れているアーシャで、二番目を歩いているのはディーンだ。三番目を歩くのはシャルで、最後がジェイ。ディーンが地図を見て行く方角を大まかに決め、アーシャがそれに従って彼女以外の三人でもすんなりと通れそうな、危険のない道を探りながら先導してくれている。

 一番体力のないシャルを気遣いつつ、後ろを警戒するのがジェイの役目ではある。けれどこうして仲間達に先導されて歩くことに慣れ過ぎたジェイには、傍に立つ木々の一本すら手を触れても大丈夫なものなのかどうか本当のところ良くわからないのだ。

 もちろん危険なものは予め情報として知らされているし、この森には様々な人々が頻繁に出入りしているのだから危いものばかりということはない。先人達が森と戦う中で集めた知識をきちんと学べば、そういう判断もその内つくようになるだろう。


『――開拓者にでもなるのかい?』


 不意にかつて兄が投げかけた問いが脳裏を過り、ジェイは思わず足を止めた。

 開拓者、という言葉を口の中で呟いてみるが、それは少年にとっては特別な憧れも熱も呼び起こさない、ただの言葉にすぎなかった。

 学園には確かに、開拓者になって未踏地域を目指し、自らの手で新しい土地を切り開きたいという生徒も沢山いる。

 特に武術学部や技工学部には多い傾向にあるだろう。ジェイと同じくらいの少年たちならまだ憧れを持ってその名を呼び、いつかでっかい発見をしたりするんだと目を輝かせているものだ。

 だがその熱は自分にはないとジェイは知っていた。世界を見に行きたいという気持ちは少しずつ湧くようになって来たけれど、それはまだ胸を焦がすような熱を生むには至っていない。


 遠い昔、ジェイが欲しかったもの、なりたかったものはもっと別のものだった。

 それをいつしか諦めた今、まだその代わりになるものを見つけられていない。

 それが己の晴れぬ迷いの源にあるという事を理解していても、それは未だに見つからない。

 どうしたら見つかるのか、それこそを知りたいといつも思う。

 学園に長年通っていても、沢山の授業を受けても、見つからない何かを。


「はぁ……やめよ。馬鹿馬鹿しい」

 ぶるぶると頭を振って沈み込みそうな思考を引き戻すと、ジェイはぐっと顔を上げた。

 あまりのんびりしていると仲間達に怒られてしまう。

 そう思って再び足を動かしたが、その歩みはそれからいくらも経たずにまた止まってしまった。


「……あれ?」

 ジェイは足を止めて首を傾げ、辺りをきょろきょろと見回した。

 鬱蒼とした森の景色の中に、先ほどまでずっと見えていた赤い色がどこにも見えない。

 その赤の前を歩いていた黒も、ひらひらとひるがえる白も。


「えっと……お、おーい!」

 大きく張り上げた声に答えたのは森のあちこちから聞こえる鳥と思しき何かの声だけだった。

 ギチギチキィキィギャアギャアとうるさい事この上ない。


「シャルー! ディーン! アーシャー!」

 もう一度声を張り上げたが、やはり応えは聞こえてこない。

 森の木々に吸い込まれて遠くまで聞こえないのか、それともジェイがぼうっとしている間にそれほど距離が離れていたのか、それすらも判断がつかなかった。


「やべぇ……どうしよ」

 小さく呟いて途方に暮れたように立ち尽くすジェイの頭上の木の枝で、派手な色合いの鳥がケケケケケケと嘲笑うかのような鳴き声を立てた。








 前を歩いていた三人がジェイの不在に気付いたのは、そろそろ休憩しようと立ち止まって振り返った時の事だった。

 慌てて周囲を探したがジェイの姿は見えず、どのくらい前にはぐれたのかも検討が付かない。

 とりあえず休憩場所にと選んだ僅かに開けた草地で足を休めながら、ディーンは地図と今までの道のりを照らし合わせ手予想をつけた。


「恐らくこの辺ではぐれたんじゃないかと思うんだが……」

「確かにここで少し大き目に方向を変えてたわよね。けどそんなに離れて歩いてた訳じゃないのに……ジェイったら、きっとまたぼーっとしてたんだわ」

「とりあえず、これで呼びかけてみようか」

 アーシャは腰にぶら下げた聖霊石を手に取ってプラプラと揺らした。アーシャの石ならば彼女が念じれば仲間たちと意識を繋ぐことができるのだ。迷子が出た時にこれほどありがたい物はない。

 アーシャは石を握って目を閉じ、ジェイに呼びかけた。離れているせいか少し時間がかかったが、すぐにほっとしたような雰囲気の応えが返ってきた。


「んっと……やっぱりその辺ではぐれたんじゃないかって言ってるけど、目印がないから現在地がわかんないみたい」

「仕方ないな……今日はこれで戻るか。まだ目的地までは少しかかる」

「そうね。ジェイも地図とか磁石は持ってるけど、はぐれたまま先に進むのも気が進まないし……時々呼びかけながら今来た道を引き返せば途中で合流できそうだしね」

「じゃあその場を動かないように言っておくね」

 必要なことを伝えた後、三人は荷物から持ってきた昼食を取り出してそのままここで休憩を取ることにした。空腹のままでは帰り道が辛い。


「ったく、ただ歩いていてはぐれるなんて、ジェイったら……やっぱりそろそろ締め上げるべきかしらね」

「そうだな……このまま放っておいてもいい方向に向かうとは考えにくい」

 固めのパンに簡単にチーズなどを挟んだ物をもそもそと水で流し込みながら、シャルとディーンはジェイが隠しているつもりらしい悩みについて話し合う。

 その悩みを本人が打ち明けるまで二人に言わないと約束したアーシャは居心地悪そうにしながらも沈黙を守り、パンを齧りながらしきりに辺りをきょろきょろと見回していた。その様子はどこか不安げで、落ち着きがない。

 常の彼女らしくないその姿に、向かいに座ったディーンが気づいて顔を上げた。


「どうした、アルシェレイア。何かあったか?」

「ん……ううん。何も……何もない……いや、ある?」

「なんだか歯切れが悪いけど、どうしたの?」

 二人の問いにアーシャは首を傾げた。本人にもよく分かっていないようなその仕草にディーンとシャルは顔を見合わせる。彼らは特に異変を感じたりはしていなかった。

「何ていうか、この森に入った時からずっと、なんか変なの。でも、何が変なのか私もわかんなくて……」

 アーシャの目に映るのは現実以上に色鮮やかな森の姿だ。活き活きとした森は地の精霊に溢れ、彼らはそこかしこでちらちらと光を灯している。森の木々がいつもと違うとはいえ、それは少女にとっては見慣れた風景のはずだった。特にそこに違和感を覚える理由はないように見える。

 アーシャはぐるりと視線を回して木々と精霊を眺め、そしてある場所で目を止めて首を傾げた。


「……落ちた?」

「え、何が?」

 シャルの言葉に応えず、アーシャはパンを置いて立ち上がった。そしてそのまま草地の端にあった倒木の残骸のところへと歩み寄りその場にしゃがんだ。

 しゃがみこんだアーシャの視線の先、倒れてからまだ日が浅いらしい倒木の上。そこにはちかちかと瞬く緑の光があった。

 それは先ほどアーシャの視界の片隅で、くるくると宙で回ったあと不意にふらふらと下に落ちた小さな精霊だった。

 動く気配のないそれに指を伸ばし、そっとつついてみるが反応はない。彼らには実体がある訳ではないが、大抵の精霊はアーシャがそういう事をすると何かしらの反応を返すものなのだが。


「……寝てる?」

「だから、一体何がだ」

 アーシャは動かない精霊を見つめ、それからまた辺りを見回した。

 違和感の正体がわかった気がしたのだ。


「精霊が……ここで寝てる」

 アーシャがそう言って指差した場所をディーンとシャルも覗き込んだが、二人には当然何も見えなかった。

「精霊って寝るの?」

「地の精霊は冬になれば寝たりするけど……多分、こんな季節に普通はしない。眠る時だって石や木に宿るからこんなとこで無防備に寝たりしない、と思うんだけど……」

「本当に寝ているのか?」

「こんな状態なの見たことないから確かとは言えないけど、そう見えるよ」

「珍しいらしいのはわかったけど、それがアーシャが気にしていた変なことなの?」

 シャルの言葉にアーシャはぷるぷると首を横に振った。


「これも変だけど、それだけじゃないみたい」

 言いながらアーシャはもう一度、今度はさっきよりも意識を凝らして視線を巡らせた。

 森という場所は元々地の精霊が多い。地の精霊は海のど真ん中のような場所でない限り大抵どこにでもいるものだが、山や森では他よりも数が多いのだ。だからアーシャも最初は気にしなかった。

 この森にいる地の精霊が他の森より更に多いように感じても、人の入り込まない未開地域なのだからそういう事もあるのだろうと思っていた。ただ数があまりに多いと気が散って歩きにくいので、少し意識を逸らすようにはしていた。だからなかなか気づかなかったのだ。


 地の精霊が、用もないのに地面から離れてふわふわと宙を漂っていることの、そのおかしさに。

 あるものは風に漂うようにあっちに行ったりこっちに飛んだりとふわふわと辺りをうろつき、またあるものは少し高い場所で狂ったようにくるくると周り、しばらくすると力尽きたようにふらふらと落ちる。ぽんぽんと無意味にずっと飛び跳ね続けているものもいれば、高い木に登っては上から落ちるという事を繰り返しているように見えるものもいる。

 意識を合わせて良く見てみれば、無数の精霊がそんなことを思い思いに繰り返している。そしてそれらの殆どが地の精霊であることは、どう見ても異常なことだった。

 宿る土地によって性格が異なる傾向がある地の精霊だが、ここまで奔放に遊んでいるとしか思えない行動をとる彼らの姿をアーシャは今まで見たことがなかった。地の精霊というのは多少の差はあるが、基本的に落ち着いた穏やかな性格のものが多いのだ。その彼らがこんなにもはしゃぎまわり、アーシャが近づいても指で突いても応える様子もない。


「精霊が……遊んでるっていうか、何て言えばいいのかな」

 アーシャは自分に見えている精霊たちの狂態をディーンとシャルにどうにか説明してみようとするが、そのおかしさは二人にはあまりピンとこないようだった。

 二人には元より見えていないのだから、そもそも普通の姿というものがわかっていないのだ。

 アーシャとしても一体何が彼らをそうさせているのかがわからないので、とにかくおかしいように見えるという事ぐらいしか言う事がない。

 困っていると、シャルが首を傾げつつ呟いた。


「精霊がおかしいらしいのはわかったけど、姿だけ? 声は聞こえないの?」

「声は……そういえば耳を閉じてたんだっけ。ここはすごく精霊が多いから、歩きづらいと思って」

 耳を閉じると表現したが、アーシャにとっては精霊の言葉は耳に直接聞こえる訳ではない。精霊達に向かって心を開き、意識を同調させることによって意思の疎通ができるという形になる。

 この森のように精霊の多すぎる場所で様々な声が一度に聞こえると歩くのに気が散って仕方ないので、今日は森に入る前から気を付けて閉じていたのだ。

 それもあって異常に気付くのがますます遅れた訳なのだが。


「そうだね、何してるのか聞いてみたら何かわかるかも。ちょっと待ってね」

 アーシャはそういうと近くでくるくると回っていた大き目の精霊に意識を向けた。彼らの声を聞くために心を開くことを、アーシャは窓を開くような意識で切り替えている。

 自分の中にある小さな窓を、彼らに向けて開く。良く聞こえるように、大きく。

 するといつだってすぐに声が届く。

 自分の声も、彼らの声も――


「……」

「……アルシェレイア?」

 宙を見つめたまま動かなくなった少女の横顔を見ていたディーンは、続く長い沈黙に何となく不安を覚えた。

 話をしているのだろうか、アーシャは先ほどからピクリとも動かない。今までこんなに動かなかったことはあったろうか、と考えていた時、不意に小さな笑い声がした。


「……ふふ」

「アーシャ?」

「ふふふ、うふ、ふふ」

「アルシェレイア!?」

「あは、あははは、あはははははっ!」

「ちょっと、アーシャ、どうしたの!?」

 ディーンとシャルはぎょっと目を瞠って思わず足を引いた。

 虚空を見つめたまま固まっていた少女が突然くすくすと笑い声を発し、次いでケラケラと高らかに笑い転げ始めたのだ。

 アーシャは地面に膝をつき、両手で腹を抱えて大声で笑っている。

 付合いを初めて一年ほどになるが、ディーンもシャルもこんな風に笑う彼女を見たのは初めてだった。

 アーシャは元々感情表現の豊かな少女ではない。微笑むことも声を出して笑う事も最近は前よりずっと増えてきたが、それでもこんな風に爆笑している姿は初めて見た。


「あっはははは、あはは、あはははは!」

 二人が呆気にとられている事にも気づかず、アーシャは笑いながら草むらに寝転がり、子供がはしゃぐように手足をパタパタと揺らした。

「ア、アーシャ、大丈夫!? 何があったの!」

「しっかりしろ、アルシェレイア!」

 ディーンは内心の動揺を抑え、アーシャの手足を掴もうと腕を伸ばした。しかしそれはするりと躱され、アーシャはころりと転がって笑いながら跳ね起きた。それから今度は手を高く上げてぴょんぴょんとその場で跳ねる。


「あはははは、高いとこ行く! 高いとこ!」

 飛び跳ねた高さでは気に入らなかったのか、アーシャは笑いながら今度は近くにあった大木に駆け寄り幹に手を伸ばした。

 残された二人はその行動に仰天し、そしてハッと気が付いた。

 さっきアーシャは精霊達のおかしな行動について二人に説明してくれたのだ。

 くるくると回るもの、ぴょんぴょん飛び跳ねるもの、そして高い所まで行っては落ちてくるもの。

 それは今のアーシャにも当てはまるものではないのか。

 一瞬顔を見合わせた二人の次の行動は、とにかく素早かった。


「アーシャ! 登っちゃダメ!」

「こら、暴れるな! 落ち着け!」

 二人は木に登ろうとしていたアーシャの体に必死で手を伸ばし、どうにかマントを掴んで引きずり下ろし捕まえる事に成功した。木に登られてそこから飛び降りでもされてはたまらないから本当に必死だった。精霊ならともかくアーシャは人間だ。そんなところから飛び降りて無事で済むわけがない。

 けれどそんな二人の心配をよそに、アーシャは高いところへ行くんだ、空を飛ぶんだと言いながらじたばたと暴れている。

 小柄で細身な少女とは言え、アーシャはとても俊敏だ。つまりはその動きを成すだけの筋肉はついていることになる。本気で暴れられると取り押さえ続けるのは二人がかりでも難しい。


「駄目だわ! ディーン、眠らせて!」

「わかった、ちょっと押さえていてくれ!」

 シャルが体全体を使って抱きつくようにしてアーシャを抑え、その隙にディーンが精霊を呼んで、少女を眠らせてくれるようにと願う。

 ディーンの精霊も何か影響を受けているのかいつもより反応が大分鈍かったのだが、それでもどうにか魔法は成功した。

 突然くたりと力を失って倒れこんできた少女をシャルは必死で支え、もつれるようにして地面に座り込んだ。


「はぁ、はぁ……何だったの、今の。どうしちゃったの、アーシャ……」

「わからん……さっぱりだ」

 肩で息を吐く二人の心配をよそに、少女はすぅすぅと安らかな寝息を立てている。

 それは先ほどアーシャが語っていた、はしゃいではふらふらと落ちてきて動かなくなるという、寝ている精霊を思わせるような姿だった。


「とりあえず、このままここにいる訳には行かないな……アルシェレイアは背負っていこう」

「……そうね、お願い。地図と磁石は私が持つわ。とりあえず、ジェイと合流しなきゃ」

 ディーンのは背中に着けていたアーシャお手製のバッグをシャルに預け、代わりに眠るアーシャを背負った。

 少女の体は一年前より少し育ったとはいえまだまだ軽い。歳の割に体格のいいディーンなら、時々休憩を挟めば問題なく背負って森を抜けることが出来るだろう。


「はぁ……森の実習って、その度に何か起こる気がするわ。嫌いになりそう」

「……縁起の悪い事を言うのはやめてくれ」

 気が合わないようで、いざという時は息の合うおかしな二人は、増えた荷物と重い気分を背に朝出てきた拠点に向けて歩き出す。

 その後二人はジェイを探しつつ森を逆戻りし、道をそれていた彼を見つけたのはかなり時間が経ってからだった。

 結局この日、眠るアーシャを背負った疲れた顔の三人が拠点に戻ったのは、日が暮れる寸前。

 四人の拠点二日目はこうして最初の目的地にも届かないまま大失敗で終わってしまったのだった。



文字数がいつもより多くなってしまったんですが、キリがいいところを考えてまとめて投稿にしました。

お待たせしてすみません。

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