6:望まぬ訪問者
木で出来た大きな扉がキィ、ときしんだ音を立てた。
教会の中は外と同じく人影もなく静まり返っていた。建物の中は外見よりも幾分簡素な作りで、広くガランとしている。
両開きの扉からは真っ直ぐに通路が続き、それを挟んで左右には細長い木の長椅子が整然と並んでいる。通路の突き当たり、正面奥に設えられた祭壇には外にあった物よりも大分大きな男性の像が飾られていた。
男性像は外にあった物と同じく長い髪をなびかせ、頭の上に光輪を模した冠を被り、右手には槍を携え左手で一輪の花を差し出している。
それがこの国で最も愛されている光の神、レインアルドの御姿だ。
太陽を頭上に頂くこの神はその槍で昼の世界を守り、左手の花は妻である闇の女神シェイリアに捧げている、と謳われている。
それはジェイにとっては最も馴染み深い神だった。
神の姿を遠目に眺めながら、ジェイは静かな建物の中に踏み込んだ。見慣れた光景と常にない静けさに迎えられ、ジェイは祭壇に向かって進む。
だが数歩歩いた所でその祭壇の前に跪いて祈りを捧げる人影が視界に入り、彼の足はぴたりと止まった。
静かに祈りを捧げていたのは白い神官服に身を包んだ人物だった。祭壇の上にある飾り窓から淡く光が入り、恐らく男性であろうその人の神官服をより白く浮き上がらせていた。その白い背に流れる髪は男性にしては長いが、その体の線が女性ではない事を物語っている。物言わぬ神像の前に跪く姿はまるで一服の絵のように様になっていた。
ジェイは一瞬ぐっと唇を引き結び、それからそれを無理やり笑みの形に動かした。微笑みを作れた事を確かめてから一歩足を踏み出す。踏み出した靴が大理石の床に当たり、カツン、と音を立てた。
その音を合図にしたかのように、祭壇の前の青年は祈りを終えて立ち上がり、そしてゆっくりと振り向いた。
背中で結んだ彼の長い金の髪が振り向く体に一瞬遅れて流れ、天窓から差し込む光を受けて煌く。その色はジェイの髪とよく似た鮮やかな金色をしていた。
真っ直ぐにジェイに向かう瞳は透き通った水色。穏やかなその顔には明るい笑みが浮かんでいた。
「ジャスティン?」
「サディアス……兄貴」
名前を呼ばれたことに青年は更に笑みを深め、足早にジェイのところへ歩を進めた。簡素なふち飾りを施された白いローブが彼の動きに合わせてひらひらと揺れる。
「久しぶりだね、ジャスティン! また随分背が伸びたんじゃないか?」
青年――サディアス・ジェム・イージェイ――は久しぶりに会う弟を抱きしめようと両腕を大きく広げた。
けれどその腕は一歩足を引いたジェイにするりとかわされ空を切る。
「ったく、勘弁してくれよ、兄貴。もう抱きしめられて頭を撫でられる年でもないんだって」
ジェイはそう言って彼に困ったような笑顔を向けた。
サディアスは一瞬残念そうな顔を見せたが、諦めたように一つ頷くとまた笑顔を見せた。
「それもそうか。ついつい、まだ小さな弟のような気がしちゃうんだけど……いつの間にかもう背丈もあんまり変わらなくなってるもんなぁ」
少しばかり残念そうな兄の声にジェイは曖昧な笑みで応え、久しぶりに見たその姿を少し距離を取って観察した。
サディアスはジェイにとって三番目の兄だ。
ジェイとよく似た色合いの髪や目を持っているが、年が離れているせいか顔立ちはさほど似ていない。少しばかり幼さの残る明るく華やかな顔立ちの弟とはまた違い、彼は穏やかで優しげな風貌をしていた。
その容姿に違わぬ穏やかな人柄で昔から彼は周囲の人間に愛されていたが、今は神官という職にあることもあってか少しばかり親しみやすさが抜け、どこか神聖な雰囲気を漂わせている。
外出用らしい控えめな神官服を身につけていても、その神聖さは損なわれる事はないらしい。
彼の短めのローブの胸には太陽を模した紋章が刻まれ、その脇には神官位の三を表す印が小さく描かれている。三位とは、上から数えての三番目という地位だとジェイは記憶していた。
時折思い出したように便りを寄こすこの忙しい兄が、五位から四位に上がったと書いていたのはいつの手紙だったか。
彼の若さにして神殿の三位というのはかなりの地位だ。だがその地位もジェイにとっては特に自分と関係があるわけでもなく、彼は無感動にその印を眺めるのみだった。
実際、それがいつ変わったのかさえ兄が知らせてこない限りジェイは知らないのだ。家族の中でそれを知らないのは恐らく自分ひとりだろうと考えるとなんだか可笑しく思え、ジェイは浮かべていた笑みを少し深め、大げさに肩をすくめて明るい声を上げた。
「何だよ兄貴、神官ってのはひょっとして意外に暇なのか? 三位の神官様が、わざわざこんなとこまで弟に会いに来れるなんてさ」
「ひどいなぁ、兄が忙しい合間を縫って可愛い弟に会いに来たって、別におかしなことはないだろう?」
サディアスもジェイの言葉に応え、同じように少々大げさに嘆くような仕草をしてから、明るく笑って見せる。そのやり取りはどう見ても仲の良い兄弟のものにしか見えなかった。
けれど、ジェイは笑顔を崩さぬまま、よく言う、と胸の内で小さく呟き暗く嗤った。
この学園にジェイが入学してからの九年間に、祖父母以外の家族が彼に会いに来た事は一度もない。
家族を学園に招待する事が許可されている行事にも、来てくれたのは祖父母だけだ。それを今更恨む気持ちはジェイの中にはないが、それでもそんな事を良く言える、と呆れる気持ちは湧いてくる。
けれどジェイはそれを口にする事はしなかった。サディアスは祖父母以外で唯一ジェイを気に掛けてくれた家族だったからだ。
加えて、彼が神殿で忙しく働いている事も良く知っている。
人当たりが良く職務にも熱心で、治癒の魔法に長けた彼は神殿で多くの人間から頼りにされる、非常に多忙な存在なのだという話だった。
考えてみれば、実家に帰ることも少ないらしい彼がジェイの学校生活のことなど知らなくても不思議ではないのだ。
それに何より、彼が正式に神官になってからは忙しくなり会うことも殆どなくなったからといって、幼い頃に手を差し伸べてくれた事実がなくなるわけではない。
ジェイは胸の内で己にそう言い聞かせた。
「神官がそんな小さな理由で神殿を離れていいのかよ、兄貴」
「ここは王都からなら馬車で四時間ほどだからね、ここの教会を訪ねて講話をするっていう条件で、許可が下りたんだよ」
そういって微笑む顔は、なるほど非の打ち所のない、神殿の出世頭らしい雰囲気だった。
『神殿』 と呼称される場所はこの世界には六つしかない。
神殿とは六柱の神を祀る六教会の組織の頂点に立ついわば総本山で、六大陸にそれぞれ一つずつ存在している。
このレアラード大陸の神殿といえば当然光の神レインアルドが祀られており、所在地はハルバラードの王都にある。
どの神殿も多少の誤差はあれどそれぞれの大陸のほぼ中央に存在し、かつての戦乱の時代にはその土地をどの国が擁するかという事も、度々戦いのきっかけになったらしい。
だが今はそんな時代ももはや遠く、大陸同士の交流が盛んになっていることもあり、六教会は勢力をほぼ同じくして全ての大陸に広がっている。
世界中に広がる教会を束ねる神殿とは、それぞれの神を愛する人々が人生で一度は訪ねてみたいと思ういわば心の拠り所であり、同時に身近な教会とは一線を画す遠い存在でもあった。
神殿と教会ではそこに勤める人々の位にも大きな隔たりがあり、教会で司教や司祭を勤めていたとしても、その地位は神殿所属の神官や巫女には遠く及ばない。
ジェイが聞いた所によれば、神殿は神を讃える為にのみあるという観点から権力との癒着を嫌う面があり、その内部は完全な実力主義の世界なのだと言う。世事に疎い面のあるジェイでも知っているくらいなのだから、恐らくそれは真実なのだろう。
そもそも神殿というのはそこに入る為の道自体がごく限られているものらしい。
神殿で必要とされるのは、精霊の強い加護を持つ者や、魔法に強い適正のある者だ。そういう才能を持つ者だけが神殿の付属の学校に迎えられ、そしてそこを優秀な成績で卒業した者だけが神殿に入る事を許される。入学の条件がとても厳しい為、学校に通う生徒の数もかなり少ない。
だがその少ない生徒達も何年もの間にゆっくりと淘汰される為、神殿に上がれるものはごく僅かだった。
まれに神殿の有力者の推薦で外部から人が入ることもあるが、それは数少ない例外だという。
ちなみに学校を出て神殿に入れなかった者達の大半は、各地の教会の司祭などに就任することとなる。
神殿の中に入ってからも位が上がるかどうかは派閥争いなどとは無関係で、全てが個人の能力の優劣によってのみ決まるらしい。
それを考えると、神殿学校を卒業してすんなりと神殿の神官に就任し、僅か五、六年で上から三番目の位まで登りつめたこの兄の実力も判ろうというものだ。
ジェイは冷めた気分でそんなことを思い返し、ため息を押し殺して笑顔に変えた。
「講話か……さすがに理由なしでこれないくらい人気なんだな。それで、忙しいのに一体何の用なんだよ、兄貴。まさか久しぶりに弟の頭を撫でに来たなんて訳じゃないんだろ? 俺、今は次年度の授業の選択で忙しいんだけどな」
わかりきった事をわざわざ聞いたのはジェイのささやかな意趣返しだ。
案の定サディアスはその問いに微笑を隠し、口ごもった。
ジェイが無言で答えを待つ中、サディアスはしばらくためらったあと静かに口を開いた。
「家から……手紙は届いたかい?」
予想していたその言葉に、ジェイは笑顔で頷いた。
「ああ、そのことか。うん、来たぜ」
明るく答えたジェイに、サディアスはほっと小さく息を吐く。
「返事はした?」
「ああ、もうとっくに。何の話かと思ったらそれだったのかよ。その話なら、俺はちゃんと断ったぜ? 親父たちに聞かなかったのかよ」
「いや、聞いたよ」
困ったような顔で頷くサディアスに、ジェイは不思議そうに首を傾げて見せた。
「ならなんでわざわざ? ああ、また親父たちに頼まれたのか。兄貴からも俺を説得してくれって」
「僕は、一度きちんとジャスティンの意思を聞こうと思って来たんだ」
安い芝居だ、と思いながらも、ジェイは浮かべていた笑みを曇らせ、眉を寄せて大きく首を横に振った。
「俺の意思なんて散々手紙に書いたろう? どんな条件を出されても親父たちの薦めた結婚を受ける気は無いって」
ジェイはそう言いながら頭を掻きながら大げさにため息を吐いて見せた。
何度も何度も手紙を書いた事も知っているくせに、これ以上何を聞きたいんだと声を荒げたい気分だったが、それをぐっと堪える。
その気分が顔に出そうになるのをごまかすように、ジェイはもう一度首を横に振った。
「どうしても?」
「どうしても、だ。そもそも親父達も今さらどうして俺に構うんだか。もう放っておいてくれって兄貴からも言ってくれよ。俺は家の為に結婚する気はこれっぽっちもないんだって」
「家の為じゃないよ。父上達はジャスティンのためを思って……」
ジェイは脇にあった長椅子の背もたれに乗せていた手をぐっと握り締めた。
だが手の下からみしりと小さな音が伝わって、慌てて力を抜く。教会の備品を壊す訳にはいかないと考えたが、そんな事を考える余裕があるほど、こんなやり取りに慣れた自分が滑稽でならなかった。
「俺のためか。なら兄貴は、この話の一体どこが俺の為だって思うんだ?」
「父上達は懸命にこの学園に縁を探したと聞いたよ」
「懸命に、ね。俺が貰った手紙にはそう書いてなかったぜ。こう書いてあったんだ。
『アウレスーラに通う良家のご息女とのご縁を頂いたので、婚約の話を進めている。同じ学園に通う二人なら仲を深める機会が多くあるだろう。先方はお前が士官学校出でなくても良いと言ってくださった。この良縁に感謝し、我が家の恥とならぬ為にも更なる勉学や武術の研鑽に励め。正式な結婚は卒業後になるが、まずは夏にでも改めて席を設け……』
とかなんとかさ」
忘れたくても忘れられない文面を諳んじて、ジェイは肩をすくめた。
目の前の兄はジェイの語った内容を聞い眉根を寄せ、穏やかな顔立ちに似合わぬ表情を浮かべてため息を吐いた。父親が彼に語った話と手紙の内容が幾らか異なっていたのだろう。
「教えてくれるか、兄貴。今の話のどの辺が俺の為なんだ? この学園に相手がいるってとこかな? それとも良家のってとこ?」
「ジャスティン……」
「大体さ、俺の為になることを、親父達が知ってるわけないだろ。あの家の一体誰が、俺の望みを知ってるっていうんだよ。 祖父さん達でさえ、この話に反対しなかったって言うのに」
「それは……お祖父様達なりに君の事を思ってのことだよ。お祖父様達はジャスティンが先方のお嬢さんとゆっくり知り合う期間があって、その上で同意したならと条件を出されていた。ちゃんと君の事を考えて下さっているよ」
兄の訴えにジェイはフン、と鼻を鳴らして応えた。
いかにも神官らしい美しい言葉に胸が悪くなりそうだった。
祖父母はいつもジェイの話を聞き、彼が行きたいと言う道を開くべく手を貸してくれた。ジェイの為に父と祖父が度々衝突していた事もよく知っているし、それに感謝もしている。
けれど今回だけは、父からの手紙に祖父母は反対しなかったと書いてあったのだ。すぐにそれを問いただす手紙をジェイは祖父母に当てて出したが、返ってきた返事は反対しなかったのは事実だと言う事と、父ともう一度よく話し合えという言葉のみだった。
父の手紙よりも、持ち込まれた話よりも、祖父母の裏切りが何よりジェイには痛かった。
けれどその痛みを隠してジェイは笑う。
ただ、ちゃんと笑顔を作れているかどうかの自信はもうなかった。
「前はじいさん達は俺の好きにしていいって言ってくれてたんだ。それをここに来てこれじゃあ、俺を裏切ったのと変わらないだろ?」
「……父上達も、お祖父様達も、君に平穏な道を歩いて欲しいんだよ。君が平和な人生を歩めるように、一人で遠くへ行ってしまわないように。
ジャスティン、父上達は昔から、それを何より恐れているんだよ」
「はは、兄貴は夢見すぎだって。俺にはそうは思えない。そんな言葉、どうやって信じろっていうんだよ」
笑顔で告げられたはっきりとした拒絶に、サディアスは悲しそうに顔を歪めた。
その優しく穏やかな顔でこんな風に悲しげにされたら、きっと誰もが泡を食って飛んできて彼を慰めるのだろうな、とジェイは胸の内で皮肉に笑う。
清らかな神官の言葉一つ信じられない自分は、きっとさぞ汚れているのだろうと思うと可笑しかった。
「信じて欲しい、ジャスティン。父上は怖いんだ。だから、君が怪我をしたりしないように剣に触れさせず、本を取り上げて君から世界を遠ざけようとしたんだよ。それが子供のためには少しばかり行き過ぎてるって言うことはあるけれど、幸せを望んでいるのは本当なんだ」
清らかな彼はそんな弟の胸の内も知らず、ただ真摯に訴えかけてくる。
彼をうっかり殴ったりしてしまわないように懸命に己を抑えながら、ジェイは深く息を吐き出し、首を横に振った。
「ならもしそれが本当で、勝手に俺の人生に平らな道を用意したのが家のためじゃなかったとしても、結局は突き詰めれば自分の安心のためなんだろ。一体どこに俺の意思がある? それでも俺にそれを喜べって?」
弟の言葉を悲しげに聞いていたサディアスはしばらく考えるように沈黙した。お互いの言葉は相手を不快にさせるだけで、どこまでも平行線を辿っている。その経験から他人との対話になれた彼はそれらを振り返り、やがて顔を上げて真っ直ぐに弟の目を見つめた。
「それなら……ジャスティン、君は何になりたいんだい?」
己の言葉に返された問いを聞いた途端、ジェイは思わず体を硬くした。不意に投げられたその問いは痛みを伴ってジェイの胸の奥深い所に刺さる。
それは今まで家族の誰もが触れなかった言葉であり、そして同時にジェイが自分自身に投げ続けている言葉に他ならない。
「君の望む道を教えてくれないか? 平穏な道を蹴って、君はどこへ行く? このまま学園を出て、開拓者にでもなるのかい?」
黙ったままのジェイの顔を真剣に見つめ、サディアスはゆっくりと首を横に振った。
「僕はそれには賛成できないよ。近年、開拓地はどこもなかなか開拓が進まず苦労していると聞いている。魔物の数が増え、奥地に踏み込むのが難しくなっているらしい。そんな危険な所に誰が息子や孫を送りたいと思う? 僕だって同じだ。そんな所に弟を送りたくない」
「……それでも、それは俺が決める事だ」
搾り出すように発した声は弱々しかった。
そんな答えしか返せない己に嫌気が差し、ジェイは拳を握り締める。
サディアスは弟の心中をどう読んだのか、不意に穏やかな微笑みを浮かべた。
「ジャスティン、僕と一緒に、神殿に来ないか」
「……え?」
「君は潜在的には僕と同じくらいの精霊の加護を持っているはずだよ。そのくらいの加護があれば神殿は喜んで迎えてくれる。僕が推薦すれば神殿学校へ編入もできるはずだ」
その言葉にジェイは首を横に振る。
神殿で求められる素質を己が持っているとは思えなかった。
「俺は魔法には向いてない」
「神殿で必要とされるのは魔法だけじゃないよ。むしろ加護の他に体術や剣術の素養がある人はかえって歓迎されるよ。魔法に関しては宣誓をすれば今よりもずっと強くなるし、僕が教えることだってできる」
「……」
サディアスは腕を伸ばすと、黙り込んだジェイの手をとって強く握った。
昔握った小さな手とは随分と違う、固く鍛えられた感触に彼は目を細めた。
ジェイもまた、兄の手が昔のような少年の柔らかさをなくし固く大きくなった事、けれどもう自分とさほど変らぬ大きさである事に気付く。
ただその温度だけは、昔と変わらず暖かかった。
「昔、小さい頃に君に精霊の話をした事があったね。憶えているかい?」
「……忘れた」
「あのときの約束を、随分遅くなったけれど、今なら果たせるんだ。今なら、僕は君の力になる事ができる。それにね、神殿は権力との癒着を嫌うから政略結婚を基本的に禁じている。神殿に入れば意に沿わぬ結婚をしなくても済むんだ」
「……その話、親父達には」
「もちろんしたよ。父上達は、ジャスティンがそれを望むならそれでいいって。その時は縁談も白紙に戻してくれるって言っていたよ」
「……」
兄の言葉に嘘はないように思われて、ジェイはただ黙り込んだ。
不意に目の前に示された二つ目の道は、それもまた自分の望まぬ方角へと伸びている。
けれどどうしてか、それを笑い、蹴飛ばす言葉が出てこない。
「ジャスティン、父上達は君の事を正しく知ろうとしてこなかった。けれど、君は父上たちの事をどのくらい知ってる? 彼らだって一人の人間なんだよ。君の知らない彼らの心の中に、君を思う気持ちが全くないとどうして言い切れるんだい?」
「それは……」
「父上達が身勝手な事は僕も認めるよ。けれど、彼らは君に平穏な道を与えたいんだ。僕も同じ。身勝手だと分かっていても、弟が険しい道を進む事を望まない。彼らは彼らなりに君の事を思っているんだよ。それが君の望む形でないのは残念だけれど……」
サディアスはそっと弟の手を開放し、代わりにその柔らかな髪に手を伸ばした。
ジェイも今度は逃げようとはせず、昔と変わらない柔らかな金の髪を、昔と同じようにサディアスは優しく撫でた。
「よく考えてみて欲しい。まだ返事は急がないから」