2:春の嵐
カラン、とドアベルが軽やかな音を立てた。
わずかに開いた扉から強い風が吹き込み店内の空気を揺らす。
ディーンはテーブルの上に広げていた紙に風が吹き付けるのを感じてさっと手で押さえ、店内を出て行く客の姿を一瞬目に止めた。
彼の手元の紙達は間一髪で辺りに舞い散る運命から救われ、その手の下でわずかにはためく。ディーンは先ほどまで熱心に眺めていたそれらの書類から顔を上げ、窓の外へ視線を向けた。
今日の学園内はひどく風が強く、まさに春の嵐とでも言うような天気だった。晴れてはいるのだが、とにかく風が強いのだ。
外にちらほらと見える技巧学部の生徒達は、動きやすい作業着にジャケットを引っ掛けた格好をしている者が多い為さほど強風に苦労している様子は見えない。だがローブばかりの魔法学部辺りは恐らく大変だろう。風にローブを取られて前に進めない生徒達の姿を想像したディーンは何となく可笑しく思えて薄く笑みを浮かべた。
ディーンが今いるのは技巧学部の校舎の一階にある喫茶店だった。
さして広くは無い店内には、少しばかり統一感に欠けるが趣味のいい調度品が整然と並んでいる。店内の窓際の半分ほどをテーブル席が占め、残りはカウンター席となっていたが今はどの席もがらんとしていた。
いつもは賑やかなこの店も今日は風のおかげか随分と空いている。気がつけばいつの間にか、店内に残る客はディーンともう一人だけだ。
ディーンは店内に静けさをもたらしたこの風を少しばかりの感謝と共に眺め、それから視線を自分の目の前に座る、残ったもう一人の客へと向けた。
目の前の少年もまた、ディーンと同じように外を眺めている。だがディーンと違うところは、彼がもう小一時間近くそうやって外をぼんやりと眺めている、と言うところだろう。小さくため息を吐き、ディーンは目の前の少年に何回目かの声を掛けた。
「ジェイ」
「……ん?」
「いつまでそうやって外を眺めている気だ」
「あ、うん……悪ぃ」
ディーンに何度目かの指摘を受け、ジェイはぶるりと頭を振ると慌てて自分の目の前の紙の束へと視線を戻した。このやり取りもこの店に入ってからもう数回繰り返されている。
ジェイはその度に手にした紙に視線を落としてはいるが、その内容がさっぱり頭に入っていないであろう事は明らかだった。今日のジェイは朝からずっと心ここにあらずという風で、何度声を掛けてもぼんやりとしている。
ここ数日、ジェイの様子がおかしいことにディーンは気づいていた。
何か思い悩む事や気になる事があるらしいのは一目瞭然なのだが、彼は今のところ他者に何か相談するつもりはないらしくまだ仲間達の誰にも何も言ってこない。
本人が言わないのなら詮索する必要はないと考え、ディーンも放置していたが、そろそろ追及するべきかもしれない。そんなことを考えながらも、とりあえずディーンも書面に視線を落とした。
カチャン、と間近で聞こえた小さな音と人の気配がディーンの視線を再び上げさせた。
ディーンとジェイが座った席の脇にはいつの間にか大柄な青年が立っており、二人が見上げると青年は彫りの深い顔に愛想のいい笑みを浮かべて白い茶器をそっと差し出した。
飲み物のお代わりを頼んだ覚えのないディーンは、差し出された茶器を見て青年に視線で問いかける。
「いつもの実験台、よろしく」
「ああ。どうも」
実験台と言う言葉で相手の意図を察し、ディーンは頷いてそれを受け取った。
受け取ったシンプルな白い陶器のカップの中は黒い液体で満たされ、どこか甘さを感じさせるような香ばしい香りが立ち上っている。
同じものをジェイも受け取ったが、彼はすぐに一口飲んで一瞬不思議そうな顔をしただけで特に感想はないらしく、またぼんやりとし始めてしまった。
ディーンはカップに顔を近づけ、その香りを深く吸い込んだ。
見た目はただのコーヒーなのだが、何か香辛料でも混ざっているのか、いつもよりも少し香りに癖がある。
「新作ですか」
「おう。わかるか」
ディーンは頷き少し考えた後、慎重に茶器に口をつけた。
「……面白い香りと風味ですね。何の香辛料の類か、一瞬だけピリッとするような。けれど悪くない」
「よしよし、お前から合格貰えたなら何とか出せるかな」
「相変わらず熱心ですね、先輩。次年度もここの責任者をやるかもしれないと聞きましたが、もう決まったんですか?」
先輩、と呼びかけられた青年は困ったような顔を見せた。
「ああ。上期だけはこのまま継続することになりそうだ。俺も卒業試験があるから、あんまり優雅にしてられねぇんだけどなぁ」
青年は苦笑しながら静まり返った店内を見回した。
学園が春の短い休暇に入っている為なのか、今日の店員は彼一人だ。
この喫茶店は十年ほど前に技巧学部に試験的に導入された、生徒の実習の為の店舗だ。
技巧学部の中の料理や飲食に関わる学科と、経営などを学ぶ科の生徒達が共同で企画を立て、建築を学ぶ生徒達が彼らの意見を入れて店舗を設計し、実際に建造した。
もちろん教授達のしっかりとした監督の下に行われた共同実習だが、結果的にこの試みは好評を博し、現在もこの店舗は様々な学科の生徒達の手によって、代替わりしつつも変わらず共同で運営されている。
店で出す食べ物の材料は農業や牧畜科の生徒達が作り、料理関係の学科の生徒がそれを調理する。そして、接客の技術を学んだ生徒が、交代でこの店で仕事をする。
使われる食器や道具類は陶芸科や工芸科の生徒達の作だ。
テーブルや椅子はもちろん、そこにかけられた可愛らしい刺繍の入った布や、店内に落ち着いた光を届ける窓ガラスの一枚までもが全て生徒の手によるものなのだ。
ただし、どれもここに来るまでに教授達の厳しい目によって試され、使用に耐えうると判断されたものだけが採用されている。
定期的に経営も見直し、改装の計画も練られて実施されており、それらの実績は全て関わった生徒達への単位や評価となる。
技巧学部の生徒にとって、この店に自分の作った作品――時には自分自身も含め――が並び、使われる事は一つの目標にもなっているのだ。
「後輩に適任者はいないんですか?」
「何人かいないことはないんだが、どうもまだ頼りない上に、いまいちまとまりが悪くてなぁ。いっそアルロードに頼みたいくらいだよ。お前の方がしっかりしてそうだ」
そう言って目の前で大げさなため息を吐く青年の言葉に、ディーンは苦笑で答えた。
彼は名をダリオ・アダーニと言い、ディーンと日常生活の中で付き合いがある、決して多くない人間のうちの一人だ。
大柄な体に茶色いエプロンを着け、癖の強い焦げ茶色の髪の毛をエプロンと同じ色の三角巾に隠しているが、あまり似合っているとは言いがたい。加えて肌の色が濃いので、何となく全身が茶色っぽい印象の青年だった。
体格のせいかその落ち着きのせいか幾分老けて見えるのだが、実は技巧学部の五年の生徒で、この休みが終われば最終学年へと進学する。彼の専攻は料理関係の学科なのだが、接客も長く選択していることがありなかなか堂に入っている。
ダリオはもう丸一年ほどこの共同実習店舗の責任者を続けており、この店が気に入りでよく通っているディーンとはそれなりに長い付き合いだった。
ディーンは静かな物腰と丁寧な言葉で、年上には比較的受けがいい。年長者の余裕を持った人間になら、彼の愛想のない態度も一つの個性として受け入れてもらえることが多いのだ。
ダリオは特にディーンの味のわかるところが気に入っているらしく、時折今日のようにこの店舗用に考えた新しい飲み物や課題になっている料理を彼に振舞ってくれる。
実験台だと言いつつも彼の出す品はどれも十分美味いといえる範囲に入っているので、ディーンもいつもそれに素直に付き合っていた。
ディーンはダリオに向かって小さく首を横に振ると、手元に重ねていた紙の束を彼に示した。
「あいにくこちらも次の専攻決めに追われているので余裕はありませんよ」
「締め切りもうすぐだっけか。お疲れさん」
「先輩は今年は変更なしですか?」
「ああ。大体やりたいことはやったしな。後はもう卒業に向けて本腰いれねぇと」
アウレスーラの春の休暇は、休暇とは名ばかりの休みだ。
生徒達はこの期間の間に、次の学年への準備をしなければならないからだ。その準備の中で最も重要とされるのが、次の学年で専攻する授業を選ぶことだった。
上級学部の生徒はそれぞれ主として所属する学科を一人一つずつ持っているが、その学科の必修科目だけでは、一学年で必要な単位の大体半分から三分の二ほどしか得られないことになっている。必然的に後の残りの時間は、生徒達自身が選んだ他の科目で埋めていくこととなる。学部を越えて好きな授業を取ることが認められているので、選択の幅は驚くほど広い。
それ故に生徒達は、この時期は様々な学部を見学し、教授達と面談し、先輩にアドバイスを求め、自分の新しい一年のために奔走することになる。
走り回っていないのはダリオのように専攻を変える予定の少ない、新最終学年生くらいだった。
もっともそんな彼らにはその代わりに卒業試験とその先の進路の選択という、もっと大事な悩みが立ちふさがっているのだが。
「貴方の入れたお茶がもうすぐ飲めなくなるかと思うと残念です」
「ははは、なら後輩共にきっちり仕込んでいってやるよ。それでもだめなら、卒業したら遊びに来いよ」
「卒業後は実家を継がれる予定でしたね」
ダリオの実家は風の大陸の港町で料理屋を営んでいるのだと、ディーンは以前聞いたことがあった。
「ああ。だが継ぐのはまだまだ後だ。親父は現役だからな。けど、ここで色々やった事をそのうち活かせれば面白いだろうな」
彼はその為にこのアウレスーラで、他の大陸の料理や素材について幅広く学んできたらしい。
いずれは自分の力で地元には無いような料理を食べさせる新しい店を出したいと言うのが彼の夢なのだ。
「まぁ俺も真面目な生徒じゃなかったが、学んだことに損はなかった気がするな。お前らもせいぜい真剣に選べよ」
ダリオはそう言って笑うと、カウンターの向こうへと戻っていった
ジェイはその先達の言葉に本日何回目かのため息を吐きながら、さきほどからぼんやりと眺めていた紙をめくった。
何枚もの紙に書かれているのは彼らが新年度に選択できる授業の科目とその説明だ。その中から自分に合いそうなもの、役に立ちそうなもの、単位取得に無理がないものなどを選ばなければいけない。
講義の時間が被るようなものは避ける必要があるので細かい調整が必要になる。
もう四度目になるはずのこの作業が、ジェイは今でも苦手だ。
彼の手元にある、希望する科目を書き込み提出するための用紙は先ほどからちっとも埋まっていない。どうしたものかとジェイが頭を悩ませていると、不意に手元に数枚の紙が差し出された。
「ジェイ、これは取っておいたらどうだ」
「ん、どれ?」
「野外生活術と、大陸別動物学、植物学だ。それなりに役に立ちそうだ」
「うーん、野外生活術はいいとしても、残りのはなぁ。暗記メインだろ? ついていけるかな」
大陸別動物学や植物学は、その名の通り大陸ごとに発見されている生物の種類や生態、植物分布や有用植物についてを学ぶ授業だ。
つまり六大陸分を学ぶことになるので、暗記の量は相当に多いと言える。
「だがいずれ旅に出るなら役に立つと思うがな。特に未開拓地へ行くなら覚えておいて損は無い分野だ」
「うー……考えとく」
とりあえずそれらに対する答えを保留として、ジェイは手元の紙に野外生活術、とだけは書き込んだ。
去年もこうして選択に頭を悩ませた挙句、何度もディーンに助け舟を出されたことをジェイはちゃんと覚えている。彼はさほど優柔不断な性質ではないのだが、この毎年の選択だけは毎回問題なく済んだためしがないのだ。
ジェイは、なぜ自分がこの作業を苦手とするのか、その理由もまたおぼろげに理解している。けれどそれがわかっていても、やはりすんなりとは選べないのだ。
ジェイは微かなため息と共に新しい紙を一枚手に取り、そこに書かれている文面に目を落とした。せめてそれに集中しようと真剣に文字を目で追う。
しかし突然、ガラン、と大きな音を立てて外に面した扉が引き開けられ、ジェイは物思いに沈もうとしていた意識を引き戻された。
外からの風が吹き込み、ディーンがまた慌てて紙を押さえる。
店の中の三人が扉の方を見るより先に、音と共に滑り込んできた影が彼らの元へと走りよった。
「ディーン、ジェイ! お願い、かくまって!」
「は?」
静かな店内に吹き込んできた突然の風は、見慣れた少女の姿をしていた。