1:小さな約束
ビリ、と小さな音が狭い部屋に響いた。
音は一度では終わらず、紙を裂くようなその音は何度も何度も続く。
窓の外には夕闇が迫ってきていたが、部屋の主は明かりもつけず薄暗い中に立ち尽くし、ただじっと手元を見ていた。
その視線の先で指が動くたびに、握られた紙片が小さな音とともに細かく細かくなっていく。
彼は飽きずに紙を細かく裂き続けた。
けれどいくら千切っても、紙は数を増やすばかりでその姿を消す訳ではない。目の前から紙が消えてなくならないことに苛立つかのように、彼は指を動かし続ける。
いつの間にか手のひらや机の上は細かい紙片でいっぱいになっていた。
もう全ての紙が千切るのも難しいほど細かくなってしまったことに気がついた彼は小さくため息を吐き、それから静かに窓を開けた。
赤く色づいた弱々しい光が窓から身を乗り出した少年を照らし、その姿をも赤く染める。彼は机の上の紙片を手の中に集めてから窓の下の人通りを確かめ、それから赤く染まった空に向けてゆっくりと手のひらを広げた。
途端に吹き付けた春の風に乗って、紙はその手のひらから次々飛び立った。
風に煽られた細かな白い欠片がちらちらと雪のように空に舞う。けれどそれを見ても、彼の心は少しも晴れなかった。散った紙の幾つかは部屋の中へと逆戻りし、それが彼をますます苛立たせた。
手紙をいくら千切っても、そこに書かれた内容が消えてなくなる訳ではない。千切った手紙を散らしても、彼に降りかかろうとしている問題はそのままだ。雪に似ていても、溶けて消える訳ではない。
春とは言え、夕方の風はまだ冷たかった。
少年は窓の外を見ながら、その風の冷たさに微かに体を振るわせた。
寒さを感じているのは体なのか、それとも別のどこかなのか判別がつかない。
自分を取り巻く世界の全てが黄昏に包まれたかのような気がした。
夕暮れの町で一緒に遊んでいたはずの仲間をふいに見失ったような、そんな心地だった。
いつの間にか紫に染まった空に吐き出した重いため息は、誰に聞かれることもなく掻き消える。
風に乗って夕闇の中を舞っていた紙片はいつの間にか見えなくなっていた。
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一人の子供が広い館の敷地の中を懸命に走っていた。彼はお昼寝をこっそり抜け出して走ってきたのだが、目当ての時間に少し遅れてしまっている。早く早く、と気持ちばかりが急いて、小さな足は今にももつれそうだ。
まだ少年と言うにも届かない、幼い子供の足にはこの敷地は少々広すぎて、走っても走っても目的の場所はまだ遠い。更に彼は館の中を歩く人影を見つける度に足を止めて隠れてしまうので、道行はなおさら捗らなかった。
それでもどうにか時間をかけて目的地まで走りぬけ小さな扉が見えた時、その顔に安堵の笑みが浮かんだ。
キン、と遠くから響いた高い音がまだ目的の時間に間に合った事を教えてくれる。彼は荒くなった呼吸を懸命に宥めながら中庭に繋がる扉を開き、近くに誰もいない事を慎重に確認してから外に出た。
中庭には幼い子供が隠れるのにちょうどいい植え込みが沢山ある。その一つの影にそっと潜り込み、植え込みから植え込みへと移動しながら、息を凝らして先へと進む。
やがて見えたのは、中庭の一角の端を切り取るようにして作られたちょっとした広場だった。そこだけ芝生も植えられず、土がむき出しになっている。彼はそこに立つ数人の人物をじっと見つめた。
そこにいたのは大人が一人と少年が二人。少年のうちの一人はもう青年と言っていいほどの年齢だ。彼は大人の男の人と向かい合い、剣を構えていた。剣を持ち慣れた姿はしなやかで、なかなか様になっている。大人と向かい合っても少しも臆したところがなく落ち着いたものだった。
もっとも相手の大人は剣術の指南役で、向け合った剣も訓練用の刃を潰したものだから、向かい合ったところで取り乱す訳もないのだが。
そんな事は知らない子供は剣を打ち交わす二人を食い入るように見つめた。剣の切っ先は鋭く見えて恐ろしげだったけれど、キラキラと光を反射して閃くその姿に憧れが募る。
広場にいたもう一人の少年は近くに生えた木の作る影の下に座り、打ち合う二人をつまらなそうに眺めながら本を開いていた。傍らには少年の為の剣が置いてあるが、彼はそちらよりも読書の方が大事らしい。
子供は、以前彼に何の本を読んでいるのか聞いた事があったことを思い出す。返ってきた答えは何を意味するのかもわからない題名だったけれど、難しそうな事だけは何となくわかった。
剣が得意な少年も、勉強が得意な少年も、子供にとって憧れの存在だ。
両親はいつも彼らのことを自慢にしている。
それがとても、羨ましかった。
「ジャスティン」
不意に呼びかけられて、子供はびくりと体を震わせた。
慌てて後ろを見ると、彼が隠れこんだ植え込みの切れ間から少年が一人顔を出し、子供の方を覗き込んでいるのが見えた。
中庭にいる二人とどこか似た雰囲気の、けれど彼らよりも幾分幼さの残る少年の穏やかな顔に笑みがこぼれる。
「ジャスティン、おいで。そんなところからじゃ良く見えないだろう」
優しく呼びかけられてほっと息を吐き、子供は――ジャスティンは植え込みからそっと這い出した。植え込みから出てみれば、地面の上に寝転がっていた彼の服は泥だらけだった。
けれど少年はそんな事には構わず小さな弟を捕まえると、よいしょ、と声をかけて両腕で抱き上げた。
「あはは、いつも泥だらけだね。また少し重くなったかな?」
「にいさま」
舌足らずな声で呼びかけられて少年は笑みを深くした。それは彼が小さな弟のことを本当に可愛く思っている事が良くわかるような暖かな笑顔だった。
「兄さん達の剣の稽古が見たかったんだろう? 隠れなくてもいいのに」
隠れなくても良い、と言われてジャスティンは俯いて悲しそうな顔をした。幼子には似つかわしくない、諦めたような顔で。
「どうしたんだい?」
「……けんを、ならっちゃだめだって、みにいくなって」
「誰かにそう言われたの?」
「とうさま」
「お祖父様達は良いって言ったのにかい?」
ジャスティンはこくりと頷いた。
「むずかしいほんも、はやいって。エディにいさまがくれたほん、だめって」
悲しそうに呟かれた言葉に、少年は眉を寄せた。
一番上の兄のように剣を習いたい、二番目の兄のように勉強もしてみたい。そう言いだしたジャスティンの言葉を祖父や兄達に伝えたのは彼だったからだ。
このくらいの年の子供が、親や兄弟の真似をして色々な事をしたがるのは当然のことだ、と祖父達は快く頷いてくれた。確かに四歳と言う年齢で剣を習うのは一般的にはまだ早いかもしれないが、彼らの家は代々続く武門の家柄だ。最近はその傾向は薄れつつあるとはいえ、少年も彼の兄達も、もうそのくらいの年齢前から木でできた剣をおもちゃ代わりに与えられ、振り回して遊んでいたものだった。
彼ら兄弟の仲は悪くないが、上の兄達とこの一番下の弟はあまりにも年が離れすぎていて日常の接点がほとんどないに等しい。だから弟が彼らに憧れている、と告げた時、上の二人は随分驚いていた。
それでも一番上の兄は何も言わずに小さな頃に使っていた木でできた剣をくれ、二番目の兄はもう読まなくなった、絵本よりも少し難しい、けれど美しい絵の沢山入った世界の事について書かれた本を譲ってくれた。それを少年がジャスティンに渡した時の喜びようは見ていた方が嬉しくなるほどだった。
「じゃあヴィクター兄さんのお古の剣はどうしたの?」
「……ほんといっしょに、とうさまがもっていっちゃった」
「そうか……」
「けんは、あぶないからまだだめって。ほんは、ぼくがしるのははやいんだって」
おかしな話だ、と少年は首を傾げる。父も母も少年を含めた他の兄弟達に今までそんな事を言ったことはなかったからだ。
早くから体を鍛えておけ、勉学に励め、とよく口にしたが、その逆を言ったことは彼の記憶にある限り一度もなかった。それを言われなかったのはたった一人の娘である妹くらいなものだろう。おかげで彼女は誰から見ても大層わがままな娘に育ちつつある。
少年はその妹が普段からこの幼い弟を苛めて萎縮させているのを良く知っていた。傍にいれば彼が庇ってやれるのだが、今年から寮のある学校に入ってしまった為なかなか家に帰ってくることができないのが現状だ。
せめて体や頭を鍛えれば、いずれ逃げおおせる事もできるようになるだろうと思い、弟の向上心を応援してやったのだがどうやらそれも上手くいかなかったらしい。
「……もう少し大きくなれば、きっと父様達も何も言わなくなるよ。もうちょっとだけ、我慢しようね」
「……うん」
ジャスティンは大人しくこくりと頷いた。
しょんぼりとうなだれたその姿が可哀想で、少年は弟を抱き上げたまま庭を静かに歩き始めた。四歳の弟はずっと抱いていられるほど少年には軽くはなかったので、少し離れた場所で彼を下ろして手を繋いで歩く。
「父様達はきっと心配なんだよ。ジャスティンが剣を習って怪我をしたりするんじゃないかって」
「……とうさまもかあさまも、ぼくのこと、みないよ」
その言葉に少年は思わず言葉を失った。
彼の目から見ても、両親がこの末の子供に少しも構おうとせず、むしろ冷淡とも言える態度をとる事があるのを知っていたからだ。ジャスティンもそれを普段から感じ取っていたのだろう。それなのに剣を習う事や学問を学ぶ事に関してだけ干渉してくるなんて、理不尽な話だとしか思えない。
「とうさまとじじさまがけんかするの、ぼくのせいなの」
祖父が子供の養育について、父とぶつかる事があるのをジャスティンは見ていたのだろう。ジャスティンは本当は幼いその見かけよりもずっと頭が良く、人の心にも敏い。小さな弟がその優しさから様々な想いを呑み込み、じっと黙っていることを少年は気づいていた。
けれど残念ながら彼もまた、まだそれを周囲に上手に訴えてやれるほど大人ではなかった。
「ジャスティン」
「ぼく……わるいこなのかなぁ」
「そんなことないよ。ジャスティンは良い子だ」
うなだれたままの弟の手を引いて、少年は庭の奥にある東屋の椅子へと腰を下ろした。
「ジャスティンは、いい子だよ。ほら、その証拠にこんな綺麗な金の髪だ」
「かみ?」
「そう。僕と同じ、キラキラの金色だろう? これは光の精霊に愛されている証なんだよ。精霊に愛されてる子供が、悪い子のわけないよ」
二人の顔立ちは年齢が開いているせいか、あまり似ているという印象はない。けれど、少し長めに整えられ後ろで一つに結ばれた少年の金の髪と、ジャスティンの短くてふわふわの金の髪は確かに良く似た色をしていた。ジャスティンは自分では良く見えない長さの己の髪に手を伸ばし、軽く引っ張ってみた。
「にいさまとおなじ?」
「そう、僕と同じだよ。だからもう少し大きくなったら精霊と仲良くなる魔法を教えてあげるよ。僕も今習ってるんだ。ジャスティンはきっと僕より魔法が上手くなるよ。だからもうそんな顔しないで、笑って。そうじゃないとまたシャルフィーナに怒られるよ?」
少年はそういってジャスティンの髪を優しく撫でた。
三番目の兄はジャスティンにいつも優しかった。
彼もまた、上の兄達と同じく両親の自慢の息子だ。
《シンデンのフゾクのガッコウ》 というところに入っているのだとジャスティンも聞いた事があった。それが何のことなのかジャスティンにはまだわからなかったけれど、そのせいで彼が最近なかなか家に帰ってこないのだという事だけは知っていた。
「約束だよ」
「やくそく……」
「うん、約束だ」
ジャスティンは真っ直ぐに少年を見つめて大きく頷いた。
兄と約束を交わしたことがジャスティンにはとても嬉しかった。なんだか急に兄との距離が近くなったような気がしたのだ。
精霊と仲良くなると言う事がどういうことなのかまだ彼にはよくわからなかったけれど、ただ嬉しかった。
「せーれーとなかよくなったら……」
「うん?」
「……ううん、なんでもない」
ジャスティンは首を横に振って微笑んだ。
庭に咲いたバラの香りを乗せた風が、幼い丸い頬を優しく撫でていく。風に揺られた兄の前髪がキラキラと光を反射し、ジャスティンは眩しそうに目を細めてそれを見つめた。
精霊と仲良くなれたなら――その先に抱いたささやかな願いは、口にしたら叶わなくなりそうで告げる事ができなかった。
「にいさま、やくそく、ね」
「ああ。約束だよ」
だからジャスティンは、ただ笑顔を浮かべた。
泣いたら兄が心配するから。大事な友達に怒られてしまうから。
だから彼は、いつも笑っていた。
その小さな約束が、いつか忘れ去られても、ずっと。
第三部を開始しました。
大変お待たせして申し訳ありません。
まだ書くペースが安定していない為、しばらくは週に1、2回くらいの更新を予定しています。
ペースが出来てきましたら少し早められれば、と思っています。
少しでも楽しんで頂けるよう頑張りますので気長にお付き合いいただければ幸いです。
感想や誤字報告等を頂き、大変ありがとうございます。
返信が大変遅くて申し訳ないのですが、全てありがたく拝読し、励みにさせて頂いています。暇を見て一つずつ返信させていただいておりますが、時間がかかりますのでここでまとめてお礼をさせてください。
いつも本当にありがとうございます!