28:その手を離れた力
ペア部門の二日目、冬らしい薄い色の青空の下で準決勝の第二試合が行われていた。
会場となった第二競技場は昨日に増して混雑している。
魔具と弱い魔法のみで戦ってここまで勝ち上がっているというチームの話は昨日のうちに学園内に大きく広がり、今日は誰もがそのチームの試合を見たがったのだ。
そしてその多くの観客達が見下ろす試合場の中は今、何故か局地的な激しい地震に見舞われていた。
ゴゴゴゴゴ、と地面が上下に激しく揺れる。
アーシャとジェイは立っていられないほどの揺れに思わずその場に膝を着いて体を支えた。
彼らの前方、試合場の中央付近の地面が激しく縦に揺れ、次々と隆起していく。
アーシャとジェイは揺れによって近寄る事もできず、巻き込まれない距離を取りながらただそれを見ていた。
二人の目の前に鋭い棘のような土の山が次々に立ち上がる。
揺れが収まる頃にはアーシャ達と相手のチームの間には、ぼこぼことした土の山脈が出来上がっていた。
アーシャ達の準決勝の相手の少年二人、リカーノとウェゼンはその山脈を見てにやりと笑みを交わした。
「へっ、所詮は魔具なんて近くに寄らなきゃ何にも出来ないだろ!」
「何かできるならやってみろ!」
彼らはアーシャ達に向かって声を張上げた。
確かに試合場の中央は土の山脈で分断され、これではとても素早く動いたり身を隠して向こう側へ行ったりはできそうにない。
ジェイは悔しそうに舌打ちをした。
「くっそ、あいつら!」
「自分達だって魔具を使ってるくせに、よく言う」
アーシャも珍しく面白くなく感じたらしい。憮然とした顔で呟いた。
「えっ、そうなのか?」
「うん、自分の力を増幅する高価な魔具と、あと地の精霊に呼びかける符を使ってたよ。隠してたけどね」
準決勝の試合開始早々にリカーノは火の柱を前方に立てる魔法を放った。
大して威力のあるものではなかったが、それをアーシャ達が防御してやり過ごしているいる隙に二人は試合場の中心から随分と下がり、アーシャ達からたっぷりと距離を取った。
その上で、今度はウェゼンが魔法を唱えたのだ。
シャル達が事前にもたらした情報で二人の実力は三級の魔法がほんの幾つか使えるが、後は四から五級程度と聞いていたのだ。
ウェゼンが使える精霊魔法もごく弱いはずだという情報だった。
だが実際にはさっきウェゼンが見せたのは、予想よりもかなり力のある精霊魔法だった。呼びだしたのもそれなりに力のある精霊のようだった。
地の精霊を動かし、この試合場の範囲内とはいえ地形を変えるほどとはなかなかのものだ。
「どうする、アーシャ。この山って越えていっても平気か?」
ジェイの言葉にアーシャは首を振った。
「だめ。地の精霊がまだいるから、下手をすれば地面に呑まれるよ」
「うぇ……」
だがこのままのんびり向かい合っている暇はない。
ウェゼンが杖を構えるその向こうで、リカーノが地面に何かを描いている。
地面に線を描く彼の杖は随分と長く、その背丈くらいの品だ。
アーシャはこの試合場に入って顔を合わせた時から、リカーノが持ち込んだ杖が随分長い事を不思議に感じていたが、どうやら彼はそれを魔法陣を描く為に使う気だったらしい。
普通こういった試合中に紋陣魔法を使う者はほとんど居ない。
紋陣魔法は大きな魔法陣を描けば強力な魔法を使う事が出来るが、その本来の用途は大掛かりな儀式用だ。作成するのに時間が掛かるため戦闘向きではないからだ。
リカーノ達はここまで普通に、魔法科らしい戦い方をしていたと聞いていた。
それがここへ来て強力な魔具の補助を得たり、時間を稼いでその間に紋陣魔法を使うというのは、いよいよアーシャ達を警戒してなりふり構わず勝利を掴むつもりなのだろう。
アーシャは思わず笑顔を浮かべた。
彼女達を馬鹿にし続けていた魔法科の人間から余裕が消えている事が嬉しかったのだ。
だがもたもたしている暇はない。リカーノの描く大きな魔法陣が完成すれば、アーシャ達には防ぐ事は難しい。
「ジェイ、こっち来て」
アーシャは中心から下がって距離をとり、ジェイをすぐ傍に呼んだ。
「おう、どうする?」
「あのね、まず光の精霊を開放して。今も呼んでるでしょ?」
「ああ、いる。開放していいのか?」
ジェイの問いにアーシャは真剣な顔で頷いた。
「うん、それで、なるべく遠くに行くように言って。ここから離れろって」
「遠くに? ……わかった」
ジェイは少しの間目を閉じてアーシャが言ったことそのままを精霊に呼びかけた。
最近ジェイにも少しだけわかるようになってきていた彼らの気配が遠のく。
アーシャはジェイが精霊を手放したのを確認しながら、自分でも周囲にいる精霊たちにこの試合場から離れるよう呼びかける。
彼女の投げた声なき声に応えたものもいれば、それでもここに留まるらしいものもいる。
留まるものは仕方ないと諦め、アーシャはポケットから妙なものを取り出した。
「これはできれば使いたくなかったんだけど……」
そして更にカバンから何か板のようなものを取り出して地面に広げる。
四つ折になっていたそれは広げると、丁度人一人が入るくらいの大きさの魔法陣だった。
「ジェイ、この上に立ってて。足は肩幅くらいで」
「わかった」
それらが何なのかさっぱり判らなかったが、ジェイは素直にその板の上にしっかりと立った。
アーシャは頷くと、手に持っていた謎の物体を高く上げた。それは細い金属の棒で、途中から二股に分かれている。
少女はそれを左手に持ち、右手には同じ金属で出来た真っ直ぐな棒を握っていた。
ジェイは知らなかったが、それは一般に音叉と呼ばれる道具だった。
ジェイはアーシャと相手を交互に見つめた。
前に目を凝らすと、向こう側ではリカーノの魔法陣が七割がた完成しているのが見える。
「ごめんね、皆」
アーシャは小さく呟き、左手に持った音叉に向かって右手の棒を強く振り下ろした。
ジェイの目には二つの棒が確かにぶつかったのが見えた。
それらはほんのかすかに、カチ、と音を立てる。
金属同士がぶつかったにしてはささやか過ぎる音だ。その音は余韻も残さずたちまち客席からの応援の声にかき消された。
それっきり周囲には何の変化もない。
ジェイは思わず首を傾げた。
一体アーシャは何を、と思った刹那、ゴゴゴゴ、とまたも地面が激しく揺れ始め、ジェイは小さく声を上げた。
だが今度は驚いたのはジェイだけではなかった。
試合場の反対側では描きかけの魔法陣が歪みそうになったリカーノも慌てた声を上げたのだ。
「うわ!?」
「なっ、なんだ!?」
「おいウェゼン! やめろよ! 魔法陣が歪んじまうだろ!」
「俺じゃない! 俺は精霊を動かしてないって!」
「ええっ!?」
ジェイはかろうじてその場に立っていたが、揺れは相変わらず続いている。
アーシャは揺れに構わずもう一度棒を振り下ろした。
途端に更に揺れが激しくなる。
「せっ、精霊が!」
ウェゼンが悲鳴のような声を上げた。
精霊達が形作っていた土の小山が次々と崩れていくのだ。何故か精霊達はその場を嫌がってどんどん離れていく。
精霊の力を失った土の山は見る間にぼろぼろと崩れ平らな地面へと戻っていく。
ウェゼンは焦ってもう一度精霊を呼び出そうと符を取り出した。
彼は元々地の精霊の加護が少しばかりあったが、今日はその符によっていつもより強い精霊を呼び出していたのだ。
だがその精霊達は今や彼の命令を無視して遠くへと逃げていく。ウェゼンは彼らを引きとめ山の崩壊を阻止しようと高く声を張り上げた。
『優しき大地の精霊よ! 我に答え我が元へと来たれ!』
だがその声に重ねるようにアーシャはもう一度音叉を打ち、鳴らない音を鳴らした。
精霊はウェゼンに応えなかった。
(ごめん……ごめんね皆)
胸の奥で謝りながら、アーシャは辺りを見回した。
いつの間にか揺れは収まり、辺りからは精霊の姿が消えている。
アーシャが使ったのは、精霊が嫌う音を出す音叉だった。その本当の音は人の耳には聞こえない。
ライラスの実家で様々な事を学んだ中に、精霊が嫌う合金があるという話を聞いたのだ。
だが使い道がまだないというそれの製法をアーシャは教わり、こっそりと金属を作ってみた。
そしてそれの何が精霊に嫌われるのかを突き止めた。
その金属がぶつかる時に出す固有の波長が精霊達にはとても嫌なものなのだと、精霊達自身から教わったのだ。
防御に使えないかと音が響き易いよう音叉の形の道具を作ってはみたものの、本当は使う気の無かったそれを結局使う羽目になってしまった。
アーシャの耳に精霊達が残していった悲しげな声がまだ残っている。
使うんじゃなかった、と今はひどく後悔していた。
試合場の周囲から精霊達が離れ、土の山がなくなった事を確認したアーシャは、腰の後ろに着けていた細長く厚みのある板を取り出した。
そして手首から腕輪を外し、そこに嵌った聖霊石を取り外した。
代わりに、その板の下部に開いた丸い穴に聖霊石を嵌める。
それからアーシャはジェイの立つ魔法陣に手で触れ、魔力を強く込めた。
「ジェイ、そのまま私を後ろから抱えてくれる?」
「お、おう。これでいいか?」
ジェイはそこに立ったままひょいと手を伸ばしてアーシャを背中から腕に抱えた。
「しっかり掴まえてて、離さないでね。これから、風を起こすから」
その言葉にジェイは頷くと、アーシャの腰をしっかりと抱えなおした。
背の低い少女は足を投げ出してジェイにぶら下げられる形になる。
アーシャは手に持ったままだった細長い板を左右にぐっと引っ張った。
するとそれは引っ張られるままビラビラと開いて、大きな扇のような形になった。
ちょうど要の部分に聖霊石が嵌っている随分と大きな扇だ。
広がった扇を握ってジェイに抱えられたまま前を見るとリカーノはまた魔法陣を描き始めていた。
地面の揺れもおさまり、けれど未だ動かないこちらを見て取ったのだろう。
精霊は呼べなかったけれど、ウェゼンも防御の魔法をいつでも使えるように構えている。
「防御できればいいけどね」
アーシャはそう呟いて手を伸ばし、扇を振りかぶった。
「せーのっ!」
ブン!と音を立てて扇が横に打ち振るわれる。
一瞬、緑の石が強く輝いた。
「うわっ!」
次の瞬間巻き起こった突風にジェイは思わず目を瞑った。
風の向きはこちら側ではないが、それでもバタバタと服や髪が激しく揺れる。
「そーれっ!」
ブン、とアーシャはもう一度扇を振るう。緑の石が更に強く輝く。
ゴウッ、と再び巻き起こった風は今度は竜巻のように渦を巻いた。
試合場に突如として巻き起こった風はすさまじい勢いでリカーノとウェゼンに襲い掛かった。
「なっ、なっ!?」
「馬鹿、ウェゼン! 防御だ!」
だが風はあっという間に彼らのところまで辿りつき、その体を強く打った。
彼らはたまらずその場にしゃがみこむ。
完成目前だったリカーノの魔法陣があっという間に風に攫われて消え去った。
「だ、大地よ! 我らを守る堅固なる壁となれ!」
ウェゼンはそれでも苦し紛れに呪文を詠唱した。
彼の足元の土がぼこぼこと動くが、あまりの風の勢いに押されてまったく立ち上がってこない。
盛り上がろうとする端から風に崩され、土の壁はほとんど役に立たないまま姿を消した。
呆然と上を見上げれば、自分達に向かってこようとする竜巻が目に入る。それはまるで天に昇ろうかというほどの大きさだった。
「うっ、うわぁぁぁ!」
二人は悲鳴を上げながらその場に蹲り身を伏せる事しか出来なかった。
「……まずい。強すぎた、かな?」
アーシャは不安そうに呟いた。
二回目に振るった扇から巻き起こった竜巻は周りにぶつかり、地面の砂を巻き上げながらゆっくりと前方に進んでゆく。
あまりの有様に観客席からも激しい悲鳴が上がった。客席を守る結界と風がぶつかり火花が散る。
蛇行しているからまだかろうじて相手チームを呑みこんではいないが、それも時間の問題と思われた。
「アーシャ! 威力が強すぎるわよ!」
あまりの威力に観客席にいたシャルも立ち上がって叫んだ。
けれど凄まじい風の音に掻き消されてその声が届くはずもない。
これではアーシャ達も危ないのではないかとシャルもディーンも風の向こうを必死で見つめたが、客席からではどうしてやる事も出来ない。
一方アーシャは、これはまずいかもしれないとかなり後悔していた。
まさか聖霊石の力がこれほどとは思わなかったので、思い切り扇を振ってしまった。竜巻が起こったのは全くの想定外だった。
「あ、アーシャ! これっ、俺らは大丈夫なのか、よ!」
風に煽られて息が苦しい。
ジェイが途切れ途切れに言うと、アーシャは扇を慌てて折りたたんでジェイに向かって叫んだ。
「そこに、ジェイが立ってる限り、動かない、から! だから、じっとしててね!」
そう言うとアーシャはジェイの腕から出ようとじたばたともがいた。
「ちょ、アーシャ! 駄目だって! 飛ばされるだろ!」
「だめ! やりすぎちゃったからあれ止めないと!」
だがジェイはアーシャを抱えた腕を離さなかった。ジェイの今の腕力で離すまいとがんばられたらアーシャは到底抜け出せない。
「ジェイ離して! あの二人が飛ばされちゃうよ!」
「無理だ! アーシャの方が先に飛ばされて終わりだ!」
アーシャとジェイは狭い試合場の中を荒れ狂う風に煽られながらしばしもみ合った。
けれどそのうち目を開けているのも辛くなる。二人は最早目を閉じてそれに耐えるしかなかった。
アーシャの胸元のブローチが少しでも風を打ち消そうと青い光を放つ。
向かい合っていた相手が今どうなっているのか、二人はもう考えられなかった。
耐えていたのはどのくらいだったのか。不意にバチバチと激しい音が試合場に響いた。
風が結界を打つ音かと思ったアーシャはそっと目を開いた。
だが目に入ったのは全く違う光景だった。
なんと試合場をめちゃくちゃにしていた竜巻が、倒れ伏す少年達の前で火花を放ちながら止まっている。
一体何が、とアーシャは身を乗り出して風の中に目を凝らした。
竜巻は何か淡い光を放つドーム状の結界にぶつかり、その進みを妨げられている。
「あれは……学園長!」
「ええっ!?」
アーシャが叫んだ声に驚き、ジェイも慌てて目を開いて前を見た。
確かに、光のドームの中には学園の行事で見たことがある老人が立っている。
「いつの間に……」
学園長は長い杖を構えた手をさっと上へと振り上げた。
途端、ゴォッと激しい音と共に新たな風が巻き起こった。学園長が竜巻に下からぶつかるように強い風を起こしたのだ。
激しくぶつかり合った二つの風は周辺の砂を激しく巻き上げながら少しずつ浮き上がる。
見えないはずの風が目に見えるというのは恐ろしい光景だった。
「ふむ!」
学園長は白く長い髭を揺らしながらもう一度杖を下から上へと振り上げた。
激しい音と荒れ狂う風が辺りを包む。結界に守られていなければ観客達も思わず我先にと逃げ出していただろう。
誰もが息を呑んで見つめる前で、竜巻は下からの風に押し上げられ渦を巻いたまま天へと登っていく。
「すごい……」
アーシャもジェイも呆然と竜巻が空に昇っていくのを見つめた。
少しずつ小さくなった竜巻はやがて遥か上空で、青空に溶けるように消えてしまった。
後にはシン、と静まり返った試合場が残された。
アーシャはハッとしてジェイの腕から降りようともがいた。
「ジェイ! 降ろして!」
「あ、ああ」
ジェイが腕を離すとアーシャは転がるように試合場を走り出した。
「おい、アーシャ、ちょっと待てって!」
ジェイも慌てて後を追おうとしたが、足が動かない。
なんと立っていた魔法陣にぴったりと足が張り付いたまま取れないのだ。
「なっ、アーシャ、これなんだよ! おーい!」
だがそんなジェイを放ってアーシャは倒れたまま動かない相手チームの元へと駆けつけた。
二人の傍には学園長がしゃがみこみ彼らを覗き込んでいた。
「学園長っ、二人は!?」
「うむ、まぁ無事じゃな。気を失っているだけじゃろう。あまりの風の勢いに呼吸が苦しかったのかもしれん」
アーシャはその返答にほっとしてその場にしゃがみこんだ。
倒れた二人は顔色は悪いものの外傷は見当たらなかった。
腕のリボンが切れている所を見るとそれが守ってくれたのかもしれない。
「……良かった」
学園長は小さく呟いた少女の様子を見て、難しい顔を向けた。
「アルシェレイア・グラウル」
「……はい」
「君のその魔具は、この場で使うには少々危険過ぎたと思うのだがどうかね?」
アーシャは思わず立ち上がったが、すぐに俯き、小さく頷いた。
「君が風を止めようと動こうとしていたのは見ておった。彼らの元に一番に駆けつけたのも、君があそこまでの風を起こすつもりではなかったという事なのは良くわかっておる」
「私もまさか、ここまでの威力だとは思ってなかった……甘かった、です。」
「魔法も道具も、威力が強いものは諸刃の剣じゃ。それを扱いきれなければ、今のような事態を引き起こす」
アーシャは深く頷いた。それは良く解っているつもりだった。少女は自分の作った物には責任感を持っている。
けれど現実ではあの風はアーシャの手を離れ、彼女にはどうにもできなかった。
焦ったせいだ、とアーシャは苦い思いを噛み締めた。
勝ちを焦って、後先を考えなかった。
ちゃんと使う時に調節すれば、あるいは一定以上の強さにはならないように始めから設定しておけばこんな事にはならなかった。
精霊達をこの場から追い出すような真似をしていなければ、彼らの力を借りて止めることも出来たかもしれなかった。
アーシャは小さく震えた。
自分が欲を出したから、こうなったのだと。
勝ちたいという欲望の為に精霊達に嫌な思いをさせ、その上相手を死なせてしまっていたかもしれないのだ。
「怖いかね?」
「……はい」
アーシャは怖かった。自分が作ったものが、自分の手を離れた事が。
自分の中に見知らぬ思いがいつの間にか生まれていた事が。
それに惑わされ、危険な物を作ってしまった自分自身が。
だが震えるアーシャに掛けられた声は、ひどく優しいものだった。
「それを怖いと感じるなら、君は大丈夫じゃろう」
アーシャは弾かれたように顔を上げた。深く優しい瞳と視線がぶつかる。
その暖かな瞳ににっこりと笑みを浮かべ、彼はいたずらっぽく言った。
「だが、今回はその扇をわしに預からせてはくれんかね?」
アーシャはその目を見ながら頷いた。
どのみちこれを、もう調整もせずに使う訳には行かない。彼が預かってくれるというなら安心だ。
アーシャは手に持ったままだった扇を学園長に差し出した。
彼は興味深そうな顔を浮かべてそれを大切に受け取ると、要に嵌った石をひょいと取り外した。
「これは君が持っているのがいいじゃろう」
「……ありがとう」
学園長は首を横に振ると、すまなそうに言った。
「これを手放す事で、君が不利にならなければ良いのじゃが」
「……大丈夫」
アーシャが笑うと、学園長も笑顔を浮かべた。
彼はそっと手を伸ばしてアーシャの頭を優しく撫でてくれた。
年相応に骨ばった、けれど暖かい手だった。
「……うう」
不意に地面に寝かされたままのリカーノが呻いた。
学園長もアーシャも思わず目を見開く。
「おお、これはいかん。救護班!」
呆然としていた審判も救護班も慌てて本来の仕事をするために動き出した。
静まり返っていた会場にもざわめきが戻る。
審判は倒れた少年達の無事と、その腕のリボンを確認すると高らかに宣言した。
『勝者、グラウル・イージェイ組! 決勝進出!』
まるで時が止まったかのように静まり返っていた会場が、その言葉で一斉に沸き立った。
歓声は勝者を称えるものだったが、アーシャはそれに答える気にならず、唇を噛んで俯いたままジェイのところまで戻った。
ジェイは情けない顔でその場に立ち尽くしていた。
「アーシャァ」
「ジェイ、どしたの?」
「これ! なんとかしてくれよ! 動けないんだよ!」
ジェイは足元の魔法陣を指し示す。アーシャはあっと目を見開いた。
「ごめん、忘れてた!」
アーシャは慌ててジェイの足元に駆けつけ、その魔法陣に手を当てて解除の呪文を唱える。
すぐに魔法陣からは淡い光が消え、ジェイの足は開放された。
「やっと離れたぁ! もう取れないのかと思って焦ったって!」
「ごめん、これ固定用の魔法陣なんだ……呪文で解除しない限りその場から魔法陣も上に置いたものも絶対に動かないの忘れてた」
「……確かに動かないのを実感した」
アーシャとジェイは顔を見合わせて笑うと仲間達に手を振ってゆっくりと試合場を後にした。
出口で振り返って見ると試合場はひどい有様だった。篝火は軒並み倒れ、地面はぼこぼこと荒れて、巻き上げられた砂が堀を泥水にしている。
「こりゃ次はここ使えねぇかもな」
「うん……じゃあちょっと一休みできそうだね」
会場では運営の人間達が右往左往して後片付けを始めている。
次の試合が始まるまでまだ時間がかかりそうだ。
アーシャは自分が引き起こした結果を、真っ直ぐに顔を上げて見つめていた。まるで目に焼き付けようとでもいうように。
「アーシャ、行こう。シャル達が待ってる」
「……うん」
控え室へ向かいながら、アーシャは頭を切り替える。
試合には勝ったが結果的に切り札の一つを失ってしまった。
どのみちもうあれは使えないが、そうなると攻撃のための手段に限りが出てくる。
自分がした事の結果と、その穴を埋める方法を、アーシャは歩きながら真剣に考えていた。