20:少女の居場所
レイアルの秋はアウレスーラよりも足取りが少し遅い。
川から吹く風は冷たいが、まだ夜風に当たるのが耐え切れないほどではない。
夜、ライラスの実家の廊下をアーシャは一人歩いていた。
もう少女がここに来てから何日もたつ。
工房での研修は忙しくもなかなか楽しい日々だった。
ここの工房にはライラスの祖父と父の他にも職人や弟子が沢山いる。
通いの人が大半だが、遠方から来る者の為の部屋も幾つか用意してあって、アーシャはその一つに泊めてもらっていた。
最初に挨拶した時は、大きくてむさくるしい男達ばかりでかなり緊張していたアーシャだったが、今では大分慣れて普通に会話が出来るようになった。
職人達は偏屈だったり頑固だったり、明るかったりむっつりとしていたりと個性も様々だが皆真面目で気のいい人達ばかりだ。
誇りを持って仕事に励むその姿をアーシャは気に入っていた。
研修は主に工房の掃除や下準備、後片付けや単純な作業が多く、その間を縫って様々な技術を少しずつ教えてもらえる。
その他に母屋の方の手伝いもちゃんとしなければならないのだから本当に忙しい。
それでもアーシャは夜遅くまでそれらの仕事をこなし、それから自分の魔具の作成に勤しんでいた。
今は風呂を借りて部屋に戻る所だったのだが、風呂上りの体に当たる風が気持ちよくて廊下を歩きながら外を眺めていた。
ふとアーシャの目に工房の明かりが目に入った。まだ誰かが作業をしているらしい。
アーシャは少し考え、一度部屋に戻ると服を着替えて一階へと降りた。
外に出て、工房の明かりに誘われるように建物に近づきそっと扉を開ける。広い作業場の奥にはライラスの祖父が一人座っていた。
恐らく彼だろうとアーシャは予想していたから驚かなかった。
この工房の三代目であるライラスの祖父は、まるで作業場が自分の部屋であるかのようにいつも一番長くここで過ごしている。
「誰だい」
「……私、です」
後ろを振り向かずに問いかけたライラスの祖父、ウルサ・バルドはアーシャの声にああ、と頷いた。
アーシャはそれを了承と受け取り彼の背中へと近づく。
ウルサはいかにも職人気質な老人だ。
年月を経た岩のようなごつごつとした容貌はライラスとはあまり似ていない。
薄くなった髪の毛も、もっさりと顔を覆う豊かな髭も真っ白だった。
口数の少ないこの頑固な老人は三代目というだけあって熟練の技の持ち主で、工房の職人達全員から畏れ敬われている。アーシャもまた、この老人がとても気に入っていた。
アーシャは静かに老人の作業している机まで歩み寄ると、その脇にあった空いた椅子に腰をかけた。
老人は手に持った小さな石を研磨している所らしかった。
アーシャは彼の作業を見るのが好きだ。
ウルサは石をとても大切に扱う。
原石の沢山入った箱から特別な一つを選び出し、そのごつごつした手に道具を握り、丁寧に丁寧に削って石だけを取り出していく。
彼の手はまるで魔法のように石と道具を扱い、その手に掛かると不器量な原石はたちまちその衣を優しく剥がれ、驚くほど美しい秘密の宝物を顕わにする。
アーシャはしばらく黙って彼の手元をじっと見詰めていた。彼もまた、少女が穴が開くほど見つめていても決して咎めたりしない。
いつもは魔具に関しての質問があるとアーシャが頃合を見て彼に話しかけるのだが、今日は珍しくウルサの方が口を開いた。
「……何を持ってきた?」
アーシャは驚いて目を見開いた。
確かに少女の手元には小さな箱があった。けれど彼は自分の手元から一度も目を離してはいないはずなのだ。
「どうして、わかったの?」
「……ふむ。声がするから、かの」
アーシャは手にしていた小箱をことり、と机の上に置き、そっと開いてウルサに見せた。
老人はようやく顔を上げ、箱の中身を見て、やはり、と頷いた。
「わしが作ったものじゃな。そうだろうと思った。お前さんが買ったのか」
「ううん。友達に、誕生日の贈り物に貰ったの」
ほっほ、と老人は嬉しそうに目を細めて笑った。
「なかなか見る目がある。それは最近作った中ではまぁまぁの出来じゃった」
アーシャは頷いて、ジェイとディーンに貰ったチョーカーを手に取った。
それは目の前の老人の太い手指から生み出されたとは思えないほど、繊細で美しい品だ。
「これを眺めてた時、ライラスのお姉さんに聞いたの。
これを作った三代目は石の声を聞いて細工を決めるんだって。本当に? 今も聞こえたの?」
老人はまた笑い、そして小さく頷いた。
「聞こえるといっても、そんな気がするという程度のものじゃよ。何も語らん石も多い。だが石が語った時はわしはその希望通りにしてやる。それがわしらの流儀じゃから」
「わしらの?」
アーシャの疑問の声に老人は頷くと、道具から手を離してそばにあったパイプを手に取った。
ゆっくりとした動作で火を点け、一息吸ってふぅ、と吐いた。
「言い伝えじゃがな。わしらの祖先は地の大陸に住み、大地と語らった一族だったと言われておる」
「大地と……」
「そう。大地の声を聞いて鉱脈を探し、掘り出した石の声を聞いてそれらを磨き、少しだけ削り、大切な子に晴れ着を着せるように美しく飾って地上へと送りだす。
それが我らの仕事だったのじゃよ」
じっと聞き入るアーシャに、老人は優しい目を向けた。
「今はもう一族はばらばらになり、血も薄くなり、言い伝えが本当かどうかもわからんがの。それでもこういう仕事をしていると時折感じるものがある。それはそうして出来た一つじゃよ」
アーシャはウルサの言葉に頷いてチョーカーに触れた。
アーシャには石の声は聞こえないけれど、老人の思いは聞こえるような気がした。
「貸してみなさい。嬢ちゃんに合うように調整してやろう」
ウルサはそういうと自分の作品を受け取り、石に手をかざし口の中でぶつぶつと何か呟く。
やがてその手の下にふわりと緑の魔法陣が現れた。
老人は指先に灯した光でそこに幾つかの言葉や線を描き足した。
「これはもう少し小さい子供用にどうかと考えとったからな。ほれ、これでいいじゃろう」
「……ありがとう」
アーシャは礼を言うとそれを受け取り、しばらくじっと見つめてから大切に箱にしまった。
ぷか、と煙をふかし老人はその様子を眺めていた。
「……なぁ、嬢ちゃん。お前さんが魔具を使って、大会に出るという話を聞いた」
「……うん」
「それで、本当にいいのかね?」
その言葉にアーシャは俯いた。
ウルサの鳶色の優しい目が彼女の中まで見透かしてしまうような気がして。
「嬢ちゃんが物を作るのが好きなことは、見ていればわかる。だがのう、お前さんは戦う事には向いていないじゃろう。ましてや、自分の作った道具で戦う事をどう思っとるね?」
「……私、は」
「同じ魔技師として、お前さんが悔しいと思う気持ちも、よぉく分かる。だが、そんないざこざも嫌な思いも、時が立ち、それぞれが大人になった時には消えて行くものでもある。嬢ちゃんには、今そこまでして得たいものがあるのかね?」
アーシャはそれに答えなかった。俯いたまま、ただ手元の箱を見つめていた。
そして、顔を上げると老人に問いかけた。
「おじいさんは……石の言葉が聞こえる自分て、どう思う?」
「どう、とは?」
「自分が、人と違っているってそう思う事はあった?」
老人は彼女の問いに、しばらく考えそれから首を横に振った。
「確かに、少しは違うじゃろうな。だがそりゃせいぜい、ちょっと変わっとるくらいのもんだ。
わしは普通の人間じゃよ」
アーシャはその言葉に頷いた。
それから、小さな手でぎゅっと自分の服の胸元を掴んだ。
まるで苦しさに耐えるように、少女は言葉を紡ぐ。
「私……すごく深い森の奥で育ったの。周りに他人はいなくて、そこで私は自分の事を、森の生き物の一つだって思って大きくなった」
あの森は今でも少女の故郷であり続ける。これからもきっとそれは変わらない。
「だからなのかな、人里に出て来た時、私は……自分が人だって、どうしても思えなかった。自分と同じ姿をしている人達が、どうしても自分と同じ生き物だと思えなくて、すごく気持ち悪くて、怖かった。……今でもそれは、あんまり変わってない」
老人はただ黙って少女の話を聞いていた。
話を聞いても変わらない瞳に勇気付けられ、アーシャは更に続けた。
「自分の仲間だって思えない群れの中で暮らしていくのは……本当は、結構辛い。だから、自分が人だって思えるような……仮初めでもいいから、そう思わせてくれるような何かを探そうって思った。そして、見つけたのが……」
アーシャは自分の両手を持ち上げ、その小さな手を見つめた。
「この手で、何か作る事」
その言葉に、老人は深く頷いた。
彼にはもちろん、少女の気持ちの全ては分からない。だが、彼は頷いた。
「道具を使い、物を作り、そしてそこから新しいものを生み出す事は人にしかできん。
人しかしない、と言ってもいいがの。いかにもそれは、人間らしい営みじゃな」
「じいちゃんも……育ての親も、そう言ってた。じいちゃんは不器用で、私は道具が使えるようになったら、自分の物は大体自分で作ってた。どれも下手くそだったけど、何か作るたびじいちゃんは褒めてくれて、すごいって喜んでくれて」
『アーシャ、お前のこの両手は神からの賜り物じゃ。
神々は人に新しい物を生み出す事の出来る手と智恵を下さった。これは他のどの種族にもないものじゃ。大事にしなさい』
アーシャが見つめるその手がかすかに震えた。意識が、過去への道を辿る。
不意に、暖かいものがその小さな手に重なった。
それは目の前の老人の、職人らしく皮が厚くて固い手だった。
ごつごつしていてしわしわで、けれどとても暖かいその感触に過去から引き戻され、アーシャは目を伏せる。
歳を経るという事は、こんな風に敏く思慮深く、そして優しくなるものなのだろうか。
自分の中にあるものが老人に伝わっている事を感じながら、少女は不器用に思いを語った。
「……たった一つ、それにしがみついてあの学園に一人でいた私に……初めて、仲間が、友達が出来たの。私に、ありがとうって言ってくれて、怒ってくれて、心配してくれて。私が作った物も、ほんとに喜んで受け取ってくれた。
まだ、ほんのちょっとしか一緒にいないのに、私の中で、どんどん皆が大きくなって……」
もう、彼らがいなかった時の自分が思い出せなくなりそうだった。
それは少女にとっては、本当は少し怖い。
けれど、ここで逃げて森に帰る気にはどうしてもなれない。
「ほんとは、私は他人に何言われたって平気。心を閉ざせばいいだけだから。皆だって強いから、負けないってわかってる。何されても言われても無視して、普通に暮らす事はできる。でも……私が、人である証だって思ってる事を人に否定されるのも嫌だって気付いたの」
仲間は捨てられない。
けれど、仲間が出来るまで少女を支えてあそこに留めてくれていたただ一つのものも捨てられない、とアーシャは気がついた。
そしてそれを馬鹿にされる事が嫌だという事にも。
物を作る事を学ぶ生徒達が、人にしかできない事を誇るべき彼らが、誰よりそれを誇れないでいる。
多分技巧学部の生徒達ならもっと考え方も違うのだろう。
だからアーシャには尚更、魔技科や魔法科の生徒達のあり方が納得できない。
「私……逃げるのが得意。隠れるのも、危険を避けるのも得意。空気みたいに周りに調和して、ひっそり生きるのは全然難しくない。危険から逃げられない時は、精霊に助けて貰ってきた。だから助けてもらうのも得意で……そんなことばっかりで、自分で戦った事なんて、ないよ」
アーシャにとって人じゃなくなる事はひどく簡単だ。昔も今も、彼女はいつだって森に近い。
森はアーシャを拒まず受け入れてくれるだろう。人の群れよりもずっと優しく、暖かく。
だから深い森に行ってそこで暮らすだけでいい。
そこから帰って来なければ、アーシャは人ではなく森の生き物として、その深い懐で守られて心穏やかに過ごせる。
けれど今、アウレスーラには少女を強く引き止めるものがある。
今居るその場所を、アーシャは誰にも譲りたくなかった。
アーシャがどこよりも、一人の少女でいられる居場所を。
人らしくあれ、と言った育ての親の言葉をどこよりも叶えてくれる彼らの傍らを。
「戦った事はない……けど、この手で、守りたい。自分が人だって信じられる場所を……守りたい」
何よりも、この二本の手で。
「私が、人で居られる場所を、人として戦って、勝ち取りたい」
そうか、と老人は少女の手を握る己の手に力を込めた。
小さな手はまだかすかに震えている。
「嬢ちゃんは、まるで透明な石のようじゃな。どんな色も持たず、向こうの景色を透かせてしまうような」
アーシャはその言葉に思わず俯いた。
だが老人は、優しく笑って言った。
「透明な石はな、どんな素材ともよく合う。色々な使い道があるし、カットの仕方で全然違う表情を見せる。どんな色の服や髪とも喧嘩をせん」
老人はアーシャの手をそっと離すと、机の上にあった道具箱をキィ、と開いた。
そして中から何かを取り出し、またアーシャの手を取ってその上にそれを乗せた。
手に乗ったのは、丸く磨かれた親指の先ほどの透明な石だった。
水晶のように見えるが、それは力を放っている。
精霊石だとアーシャにはすぐに分かった。
「それをお前さんにやろう」
「えっ」
アーシャは驚いて老人を見上げた。
「それは力があるから、良い魔具になるじゃろう。役に立てると良い」
「そんな……でも、こんな高価な物、もらえないよ」
ふるふると首を振るアーシャに、老人は優しく笑った。
「なら、使い終わったらいつか返してくれれば良い。
いつになっても良いから、役に立ったならその話と一緒に持って、またおいで」
ぎゅ、と小さな手に石を握らせて、老人はその手を優しく叩いた。
「透明な石はな、どんな色も持たん代わりに何にでもなれる。お前さんも同じじゃよ」
その言葉は、ゆっくりとアーシャの胸の奥深くに沈んでいった。
「……うん……ありがとう」
強く握った手の中で、石が暖かな力を放つ。
老人の手と同じ、優しい優しい暖かさだった。
少女が部屋に戻った後、老人は半分開いたままだった裏庭に面した窓を更に開けた。
「聞いておったか?」
「……」
窓の下には、膝を抱えて座り込んだ彼の孫の姿があった。
ライラスはその言葉に答えず、ただ小さく頷いた。
彼は少女と同じように明かりのついた工房を訪ね、そこに老人と少女の姿を見つけてこっそりと裏側に回りこんだのだ。
別におかしな意図があったわけではないが、少女が祖父とどんな話をするのか、少しだけ気になったから。
ライラスはショックだった。
少女は強いと思っていた。
強い友達がいるから、精霊魔法が使えるから、彼女は強いのだと思っていた。
けれど、それは違っていた。
強くあろうとする心が、彼女を強くさせているのだ。
嫌な事を強くは感じない、と言っていたのは、少女が自分と違う群れの中でそれでもそこに留まるための懸命な努力だったのだ。
彼女は、そうしなければ生きてこれなかったのだろう。
けれど同時に、人らしくないその心の動きを少女は厭うてもいた。
祖父が自分を見下ろす気配がしたが、ライラスは自分が恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「俺……あんな風に、思ったことなかった」
「あんな、とは?」
「友達なんて……あいつも……フランツも俺も、一時会わなくなってもすぐにまた新しいのができるって思ってた。
親友だなんて言っても、きっとそうだって。今でも、フランツと仲良くしたいけど、学校卒業してからでもいいやって」
親友の事を思って作った初めての杖は、渡される事もなく部屋の片隅に置いたままだ。
それを贈る勇気が、自分にはなかった。
「グラウルと出るって約束した競技会だって、ほんとは……どうせすぐ負けるだろうって。けど、出たっていうだけで勇気があるし、ちょっと何かが変わればいいかなって程度に、思ってた……」
たった一つの自分の居場所を賭けて戦うなんて、そんな風に思ったことはなかった。
自分の場所がここしかないなんて思ったことがないから。
「魔技師だって……今は馬鹿にされて嫌な思いすることがあっても、結局魔道士だって俺たちの作った道具を使うんだから、そのうちせいぜい吹っかけてやるとか思ってさ。自分達の誇りのために今何かするよりも、嫌な思いしない事の方を選んだんだ……」
祖父は孫の言葉に、深く頷いた。
「それもまた道じゃよ。一つを諦め、一つを選ぶ。それは別に、恥ずかしい事ではない。逃げることも一つの選択じゃ」
「でも、グラウルは、戦うって言ってた……」
「そうじゃな。あの子はきっと一人でもその道を行くじゃろう。……お前はどうするね?」
ライラスは唇をきつく噛締めた。
自分にはその覚悟があるとは思えない。
少女の隣に立って、真っ直ぐに敵を見据える覚悟が、湧いてこない。
けれど、彼女を助けたいとそう思った。
「俺……自分が戦えるなんて全然思わない。けど、せめて、俺の作る道具が……あいつの助けになればいいな。俺、これしかできないから、せめてできる事で手伝ってやりたい……」
「そうか……」
祖父は窓から手を伸ばし、孫の頭を撫でた。
何度も何度も、優しく。
「お前達はまだここにはしばらく居られるんじゃろう。明日から、厳しく行くぞ」
「え?」
「お前に伝えるのはまだ早いと思っとったが、必要な事を叩き込んでやろう。お前が、お前の戦いを出来るように」
ライラスは驚いて上を見上げた。
灯りの影になった祖父の顔は良くは見えない。
いつもと同じくむっつりとしているようにも、どこか笑っているようにも見えた。
「じ、じいちゃん……」
「明日からは、師匠じゃぞ?」
「う、うん!」
はいと言え、と祖父に怒られ、ライラスは笑った。
祖父の言う通り、自分は自分の戦い方で、できるだけのことをしようと彼は立ち上がった。
「よろしくお願いします!」
祖父は立ち上がった孫を、満足そうな笑顔で見つめ、頷いた。