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11:不穏な平穏

 

 夏が行き去り、学園に騒々しい日々が戻ってきた。

 新学期の始まりはいつも少し気が抜けたような、それでいて騒がしいような不思議な空気が漂っている。

 急に慌しくなった日々の中、アーシャは相変わらずのマイペースな毎日を過ごしていた。

 授業では時々寝て、時々真面目に受けて、昼休みや放課後は都合が会えば三人の仲間と過ごす。

 変わり映えのしない毎日だがそれこそが楽しい。

 ジェイに魔法を教えたり、ディーンに料理を教わったり、シャルとケーキを食べたり一緒に勉強をしたりといった毎日をアーシャはのんびり楽しんでいた。

 そんな彼女の毎日に小さな異変が起き始めたのは、新学期が始まってしばらくしてからのことだった。





 カラーン、と授業の終わりの鐘の最後の一つが鳴り、アーシャはゆっくりと目を覚ました。

 顔を上げて小さな欠伸をすると、生徒達がぞろぞろと教室から出て行く様子が目に入る。

 アーシャは耳栓を外し、寝ていた為に少し強張った首や肩をぐるりと回して軽くほぐした。


「……次移動教室だっけ」

 ふあ、ともう一つ欠伸をしてから立ち上がり、荷物をまとめようとノートに手を伸ばしたところで机の上に置かれた小さな紙切れが目に入った。


「ん?」

 二つ折りにされた小さな紙を拾い上げて中を見ると小さな文字で走り書きがしてあった。


『次の教室は南二階Aから西三階Bに変更』


「変更……? 誰だろ、教えてくれたの……」

 首を傾げて考えたがアーシャが起きた時にはそれらしい人物は近くに居なかった気がする。

 辺りを見回してももう他の生徒の姿はない。

 まぁいいか、とアーシャはそれをポケットに入れて教室を出た。廊下にもクラスメイトの姿は見えず、皆は既に移動したらしかった。

 今いる東棟から西棟は少し遠いので足を速め、渡り廊下を通り階段を登って教室へと向う。

 西棟校舎は生徒達が居てもいつも何となく静かだ。実験室や作業室があるから騒ぐのは厳禁だからだだろう。


「B教室、B教室っと……実用古代語の授業、西棟でやるなんて珍しいな……」

 教室を示す札を確認しながら歩き、アーシャはようやく目当ての教室を見つけた。


「あ、ここだ」

 キィ、と小さな音を立てて軽い扉を開く。


「……あれ?」

 カラーンカラーン、と授業を開始する鐘の音が響いた。

 だが、アーシャの目の前には誰も居なかった。

 授業が始まるはずのB教室には生徒達の姿は誰一人としてなく、ただ机と椅子だけが整然と並んでいる。


「……間違えた、かな?」

 ドアの前に貼られた札を見たが、やはりここは西棟の三階のB教室で間違いない。

 ではメモをくれた人が間違えたのだろうかとアーシャは考えた。

 だが今から南棟に行って確かめようにも、たった今鐘は鳴ってしまった。

 恐らくもう教室には入れてもらえないだろう。この学園の授業は開始の時間には厳しい。


「……まぁいっか」 

 アーシャはそう呟くと教室の中に入りドアを閉めた。そして椅子の一つに座って机に伏せる。


「どうせ今日はこの授業で終わりだもんね」

 実用古代語はどのみちアーシャが熱心でない授業の一つだ。

 魔具に良く使われる古代語の単語や、それらを分かりやすい定型文にしたものなどを習う授業だが、アーシャはその分野は特に苦労していない。必修だから受けているだけと言っていい。

 静かだし丁度いいや、と思いながらアーシャは再び眠りへと旅立った。

 ポケットに入った紙切れの事もその送り主の事も、もう少しも気にならなかった。







 数日後。


 ふわぁ、と小さな欠伸が零れる。

 アーシャは朝のいつもの時間、予鈴がなるほんの少し前に魔技科Aクラスの教室に入った。

 優等生は前、そうじゃない者ほど後ろという法則に則って彼女の席は廊下側の一番後ろだ。

 教室の席は後ろに行くにつれ斜めに高くなっているので背の低い少女でも特に黒板が見えないと言う事はないのが助かる。


 アーシャが自分の席に近づくと、三人掛け机の端の自分の席に異変が起きているのを見つけた。

 机の上に何故か黒い水溜りが出来ている。

 良く見ればそれはインクだった。

 どうやら備え付けの筆記具のうちのインク瓶が倒れ、中身が零れ出たらしい。


「ありゃ」

 出入り口近くの席にいると、我先にと走って出入りする元気の良い生徒が机や椅子にぶつかる事が良くあったりする。だから今回もそれだろう、とアーシャは判断した。ふたの閉め方が緩かったに違いない。

 そうなると次はこれをどう始末するかだが、少女は特に悩まなかった。

 インクが零れたばかりでまだ乾いてない事を確かめるとアーシャは辺りをそっと見回し、小さな水の精霊が近くを漂っているのを見つけた。


(来て)

 アーシャが心の中で呼びかけるとそれはすぐにふわふわと彼女の傍に来る。

 アーシャは指で机をトントン、と叩き、インクが元通りになる姿をイメージした。

 すると、ポチャン、というごく小さな水音が聞こえ、机の上の黒い水が緩やかに波立つ。

 じっと見つめているとクラスの人間の遠くからの視線を何となく感じ、アーシャは小さく口の中で何か呟くふりをした。

 それとは関係なく彼女の目の前でインクはゆらゆらと波打ち、同じ方向に向かってゆっくりと集まっていく。

 アーシャが見つめる前で、横倒しになったままのインク瓶の中に、まるで時間を逆に回したかのように黒い水が次々流れ込んでいく。

 不思議な事にそれらは次々に流れ込んでも、決してそれ以上流れ出てはこなかった。

 最後の一滴がぽちょん、と入っていったのを確かめ、アーシャはインク瓶をひょいと持ち上げた。


(ありがとう)

 アーシャの言葉を聞いてインク瓶の中からふわりと水の精霊が飛び立つ。

 小さな精霊は嬉しそうにくるくると何回か回ると、やがて風に乗って窓の外へと出て行った。

 アーシャは傍に転がっていたインクのふたをきゅっと閉め、元の場所へと戻した。

 もう机の上は最初からそうであったかのように元通りになっている。インクの一滴も見当たらなかった。

 カラーンカラーン、と一日の始まりを告げる鐘が鳴る。

 それを聞きながらアーシャは席に座り、綺麗になった机の上に頬杖をついて考え込んだ。

 きっと今のならかろうじて、何か呪文を唱えて魔法を使ったように見えただろう。


 アーシャは腰に着けたままのバッグから小さなインク瓶とペンを取り出した。実習で使う事もあるので常備している魔具製作用の特別なインクとペンだ。

 ぶつかりやすい席に座っていてまた面倒があっても困ると思ったのだ。

 アーシャはさっき戻したインク瓶を手に取って眺め、どうやったらこれを机に固定し、かつインクが零れないように出来るか考えた。ついでに机にも汚れを弾くような効果を付けたら便利な気がする。

 次の授業は寝るつもりだったけれど、こういう事を考える時間なら幾らあっても退屈じゃない。

 アーシャはノートの端に新しい魔法陣の草案を幾つも描き付けた。


 一時間目の魔技歴史学の授業にやってきた教授は、一番後ろでいつも寝ている少女がその日は真面目に授業を受けている事に少しだけ感動していたとかいないとか。







それからまた少し後のある日。



「あれ?」

 アーシャは席に着くなりそう呟くと怪訝な顔をして机の中を覗き込んだ。

 そこに入っているはずの教科書を取り出そうとして手を入れたのだが、何かがおかしい事に気がついたのだ。

 中を覗くとそこには何もなかった。見事に空っぽだ。

 アーシャはノートは常に持ち歩いているが教科書は大抵机の下の棚に入れっぱなしにしてある。だから当然そこにはそれらの教科書が置いてあるはずだった。


「変だな、確か五冊くらい置いてあったと思ったのにな?」

 次の授業で使う基礎魔法理論の教科書を出そうと思ったのに勿論それもなくなっている。

 どこかに持っていったっけ、と考えたが心当たりはなかった。アーシャが考えているうちに鐘が鳴り、教授がやってきて生徒達もざわざわと席に着く。

 アーシャはまぁいいか、とノートだけだしそのまま授業を受ける事に決めた。

 やがて授業が始まり、教室には教授の声とノートを取る音だけが密やかに響く。

 この時間の基礎魔法理論の授業はアーシャにとっては退屈だ。少女は始まって早々に欠伸を幾つか噛み締めた。今日は結界の強度と膜圧がどうのという話をしている。


 アーシャは寝ようかどうしようかと考えながらぱらりとノートを捲った。

 そこにはこの前の授業中に考えた、物を固定する魔法陣が描かれている。

 それを施してからアーシャの机のインク瓶は倒れた事がない。なかなかに良い物が出来たとちょっと思っている。

 これを応用すれば何か他にも役に立つ事がありそうな気がする、とアーシャはその構想を練り始めた。


「グラウル君」

「……ん?」

 不意に名を呼ばれて顔を上げるとこちらを見ている神経質そうな教授と目が合った。

 どうやら珍しく起きているアーシャを見つけ、彼女に問いを投げる事にしたらしい。


「結界の強化に関して近年画期的な理論を提唱した魔道士とその理論からなる有名な方法論は?」

 クラスの視線が少女へと自然に向かう。

 アーシャは教科書で読んだその理論について思い返し、口を開いた。


「魔道士アンダール・ダグリー。結界構築理論を得意とし、理論のみならず己で立てた様々な説を実証した研究者として有名。 提唱した方法論として一番有名なのは『詠唱と紋陣の結界構築に対する汎用強化法』。

 方法論を簡単にあげると、詠唱の場合、呪文は出来る限り韻を踏むような言葉を使うべきであり、濁音は減らした方がより精密度が上がる。発音はきっちりと行うべし。膜圧をあげたい場合は一節ごとの文字数を同じくし、最低でも二節以上の偶数小節からなる呪文構成にする。

 紋陣の場合は例えば水なら水、地なら地と出来るだけ同じ系統を表す単語を使うべきである。魔法陣に描き込む同系統の文字の数で強度が変わり、膜圧を上げる場合は円の数を増やす。ただし円の数が増えると発動までに時間が必要になる可能性がある。魔法陣は一つの円の中の単語の数が多ければ多いほど強固になるが、その分不安定さも増すので制御が難しくなる……まだ言う?」

「よ、よろしい。よく出来ている」

 教授は教科書も見ずにすらすらと答えたアーシャに慌てて手を振った。教科書も出していない不真面目な生徒に灸を据えるつもりが当てが外れたらしい。他の生徒達にもざわざわと小さなどよめきが走り、教授は慌てて彼らを注意し授業を再開した。


 アーシャはすぐにそんな教授に興味を無くしてまたノートに目を落とす。

 教科書はどうせ自前の物だったからなくなっても学校に怒られる事はない。一通り目を通したので内容も覚えているが、物を大切にする意味で取ってあったのだ。いずれ下級生への寄贈品募集でもあったら出そうと思っていたから誰かが使いたくて持っていったのならそれはそれで構わなかった。

 少女は消えた教科書の行方を思うこともなくノートを見ながら思考に浸る。アーシャにとって今大事な事は教科書の行方ではなく新しい魔法陣の応用方法だけだった。








 放課後、アーシャは外を歩いていた。

 夏の名残の日差しは眩しいが、もう気温は段々と穏やかになってきている。

 魔法学部棟を出たアーシャは校舎に沿った小道を歩きながら中央棟へと向かっていた。

 今日は夕方に仲間達と待ち合わせして一緒に食事をする約束がある。

 中央棟の食堂のメニューに秋に海で取れる魚が出始めたとディーンが教えてくれたのだ。

 アーシャはそれをとても楽しみにしていた。

 秋の魚はどんなだろうと考えて微笑を浮かべたその頬を涼しい風がするりと撫でた。



『 ―――! 』

 不意に小さな声がアーシャに届いた。ハッと気づいて思わず足を止める。

 それは傍を過ぎ去った風の精霊の――


「わっ!?」


 ――警告の声だったが、どうやら間に合わなかったようだった。激しい水音が辺りに響き渡り、アーシャの身をすくませる。


「……何?」

 アーシャは突然上から襲った衝撃に驚いて閉じた目をそっと開き、、それからゆっくりと辺りを見回した。

 見れば少女の足元の地面に派手に水が飛び散っている。どうやらこの水が彼女の頭の上から降りかかったらしい。

 アーシャは上を見た。けれどそこには青空と学部の校舎とその脇に立つ木が目に入るだけで他にはなにもない。校舎の二階の窓が開いていたが人影は無かった。


「……魔法の悪戯して、失敗したのかな?」

 たまに下級生などが窓の外に向かって魔法の練習や悪戯で放って教師達に怒られることがある。今のも下に人が居た事を知らずに魔法を放ち、後で気づいて慌てて逃げたのかもしれない。

 アーシャはふぅ、と一つため息を吐いてもう一度辺りを見回した。


「まぁいっか、濡れてないし」

 そう呟いた少女の体にはなんと一滴の水も着いていなかった。

 頭の上から落ちて来たはずの水は全て彼女を避け、その回りに激しく飛び散っている。

 アーシャは足元をもう一度見た。

 そこにはアーシャの体を中心にして綺麗に円を描くようにぽっかりと濡れていない場所が出来ている。

 アーシャはその状態をよく観察し、うん、と頷いた。


「結構良く出来たかな?」

 そう呟くと少女はバッグのポケットを漁って中から巻尺と筆記具を取り出した。


「うーんと、半径は……やっぱり私の腕を伸ばしたくらいかな。水の飛び散り方からすると高さもそんくらい……」

 アーシャはぶつぶつと小さく呟きながら地面の乾いている部分の半径や飛び散った水の範囲を測ってメモを取っていく。


「一人用簡易結界としては十分かな……でもこの範囲だと誰かを一緒に入れる事は出来ないなぁ」

 アーシャはそう言って自分の胸元を飾るブローチを手にとって見つめた。

 アーシャがいつも身につけているそれは、実は彼女が自分用に作った魔具の一つだ。彼女の回りに何か起こった時に一時的な結界を張る効果がある。

 だから今も上から落ちてきた水に反応して勝手に結界が発動したのだ。そのおかげで少女は少しも濡れなくて済んだ。

 身に着けていて良かったと思いながら、そっと石に指を当てて残存魔力量を量るとまだあまり減っていない事が感じられた。


「でも一回でこんくらいの消費量なら上出来かな。継続時間と範囲は要検討っと」

 カリカリとメモに追記するとアーシャは満足そうに頷いてそれらをポケットにしまった。

 良いデータが取れたからまた少し改良できそうでアーシャはご機嫌だった。

 誰が水を降らせたのかは知らないが、思いがけないアクシデントは彼女の創作活動にちょっとした貢献をしてくれた。

 再び歩き出した足元で、広がった水は早くも乾き始めている。

 もうその頭の中は突然降ってきた謎の水よりも、自作魔具の改良案の事でいっぱいだ。

 アーシャは小さく鼻歌を歌いながらのんびりとその場を後にした。



 少女の日常は実に平穏だった。


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