3:運河の街の出会い
「いないわっ!」
沢山の人で埋め尽くされた街の一角で甲高い少女の叫び声が響いた。
道行く人の何人かが何事かと振り返るが、通りの端できょろきょろと辺りを見回す三人の少年少女の姿を見ると誰もが何事もなかったかのように歩き去っていった。
それはこの時期のこの街では珍しくも何ともない光景だからだ。
なんといってもこの人の多さだ。
人ごみに紛れて連れと逸れて途方に暮れる人間の姿は日に何人も見かける事もある。
この運河の街、レイアルは様々な意味で今一番暑い時期を迎えていた。
レイアルの首都の人口は夏のこの時期だけ通常の五倍にも十倍にもなるといわれている。
レイアルは海と運河の国だ。
海側には波の穏やかな広い湾を持ち、その湾に流れ込む大きなレアス川が国の中心を流れている。
国土はさほど豊かではなく特産品と呼べるものは少ないのだが、その代わり立地に恵まれたこの国は昔から交通の要所で国を挙げて商売に取り組む交易の国だった。
首都自体は海から離れているが整備された運河を持ち、海を持たない国ハルバラードともその川で繋がっているので両国の交易も盛んだ。
魔法技術によって川をさかのぼる事が出来る船が開発されてからは二国の距離はより縮まっている。
そんな交易の国の夏の名物が街を挙げての大市だ。
ある種の祭りともいえる大規模な市はおよそ半月も行われ、街の大通りを埋め尽くしても尚足りず、あちこちの通りであらゆる物が売られている。
この時期のレイアルには国の内外どころか大陸の外からも様々な品がやってくる。
食べ物や織物、宝飾品や生活雑貨、貴重な薬草や鉱石、遠い国の本や魔具など、およそ手に入らないものはないと言われるほどだ。
そしてその集められた品々に比例してこの時期は街を訪れる人の数も増える一方だ。
珍しい品を求めて商売人も一般人もこの暑い時期に旅をする事を厭わずにこの国にやってくる。
街に点在する宿屋だけでは宿の数が到底足りないほどで、この時期だけ宿屋を営む民家や、都市の城壁の外に色とりどりに並んだ宿泊テントの群れすらも名物になるほどの人間が訪れるのだ。
それらの人々はそれぞれ思い思いに目当ての品を探し、観光がてら店を冷やかし、名物の運河での舟遊びをしたりしてこの市を楽しむ。
だから訪れる人の多さと迷子の率は綺麗に比例するという現象が起こっても何の不思議もない。
この時期のこの街では迷子などというものは、一日に三回鳴らされる大鐘楼の鐘の音と同じくらい、聴き慣れた当たり前のものだった。
川からの風が頬をなで、街を吹きぬける。
高い鐘楼の屋根の下からアーシャは賑やかな街を見下ろしていた。
地面の上に居た時と違って、ここに居ると風が涼しくとても気持ち良かった。
川面を滑ってやってくる風は地面の上でも感じられるが街を包む熱気を冷ますには到底物足りない。
眼下にはこの都市の名物の広場と市場通りが広がっていた。
アーシャ達がレイアルに到着したのは今日の昼近くだ。
四人はまずは紹介された宿屋を訪ね荷物を預けて食事をしに街に出かけたが、噂以上の人波にもまれて食堂に行くだけでも一苦労だった。
食事を終え、とりあえずざっと市でも見て回ろうとしたものの歩きだして幾らもたたずにアーシャは仲間とはぐれ、仕方がないので一人でふらふらと市場を眺めながらこの鐘楼へと辿り着いたのだ。
鐘楼は高く、ここからだと街の様子が一望できた。
この鐘楼の立つ広場を中心に大きな市場通りは四方へと真っ直ぐ広がり、そこから無数の細い路地が枝分かれしているのが良くわかる。
通りには色とりどりのテントが立ち並び、その頭上には通りを横切るように建物と建物を繋いだ細い紐に鮮やかな三角旗がずらりと飾られ風に舞っている。
それらの下を無数の人々が行き交い、地面もろくに見えないような人ごみが川の流れのように緩やかに動いていく。
アーシャはさっきまで熱心にその人ごみを見つめていたが、その中に仲間の姿を探すのはもう諦めていた。
この人ごみの中で仲間とはぐれてからもう小一時間ほどたっている。最初はあちこちと通りを歩いて見回してみたが小柄な少女は人ごみに飲まれるばかりでちっとも彼らを見つけられなかった。
結局彼女は下から仲間を探すのを諦めて、街のどこからでも見えるこの大きな鐘楼にこっそりと忍び込み上まで登った。
向こうからこちらを見つけてくれるのを願って、今はこうして涼しい風を楽しみながら街を見渡している。
店を覗くのは楽しかったがこの人の多さには閉口し、もう随分と疲れていたのでむしろ丁度いい一休みだ。
もう少ししても仲間たちが見つからなかったらまだ大分早い時間だけど一度宿屋に戻ろうと考えていた。
アーシャは腰をかけている鐘楼の石の手すりをぺたぺたと撫でた。
石造りの鐘楼は随所に繊細な彫刻が施されていて美しかった。
鐘楼の中央にすえられた大きな鐘にも当然様々な彫刻がなされている。
川の流れを表した流水模様や、川の精霊だろう美しい乙女達の意匠はこの運河の街に相応しい。
鐘楼にも鐘にも随所に青い石が嵌めこまれ、それらには風化を防ぐ魔法が掛かっているのをアーシャは見て取っていた。
このレイアルという運河の街は割合歴史が古く、そのせいかどこもとても美しい。
アウレスーラやハルバラードの王都のように整然と区画整理された清潔な美ではないが、都市の風土や生活の匂いと結びついたどこか暖かい美しさがある。
この街は流れ込む各地の特産物の恩恵もあって、それらを材料に使う様々な工房があることでも有名だ。
特産品がない国はその代わりのように技術や芸術の振興を奨励している。
眼下に広がる色鮮やかな三角の旗の群れは、街の大人から子供まで、一人一人がこの時期にあわせて自ら生地を選び、縫い合わせ、刺繍を施して作るのだと聞いた。
そうやって人がその手で作る物は、時々驚くほどの美しさでアーシャの心を捉えた。
アーシャはちらりと胸に抱えた物に目をやった。
この鐘楼に登る前から大事に抱えてきたそれは一冊の古い本だった。
革張りの重厚な本はアーシャの腕で抱え込むのがやっとという立派な物で、背表紙や角は銀の縁飾りが覆っている。
精緻な透かし彫りの飾りは時を経ても尚美しく、彫り込まれた題名も繊細な飾り文字だった。
随分古いものだが保存の魔法がしっかりとかけてあったらしく、若干の補修の跡はあってもさほど傷んだ様子もない。
アーシャはその美しい本をじっくりと眺めて、ほう、とため息を一つ吐いた。
古書を売る店でこれを見つけて気を取られていたことが原因で仲間とはぐれるはめになってしまったのだがそれはもう気にしない事にする。
アーシャは膝に乗せたままの本の飾りを指でゆっくりと辿った。
彼女にはまだこんな風な精緻な彫り物は作れない。
(来年の授業は、彫刻とか彫金技術をとろうかなぁ)
アーシャが作る事の出来る道具は実用一辺倒で、美しさとは今のところ無縁だ。
それらにも素朴な良さがあると言われたこともあるが、こういった美しい物に惹かれる心も持っているからそれなりの憧れも生まれてくる。
特に仲間を経てから彼らにあちこち連れまわされるようになり、美しい物に触れる機会も増えている。自然と憧れも募るというものだ。
美しい物を作り、それをどこかにひっそり残せたならいい、とアーシャは最近思っていた。
「六賢者、かぁ……」
この本のタイトルでもあり、その内容を示す文字を指で辿って口に出してみた。
この本に書かれているというその単語については授業でも習った事がある。歴史と言うには余りに不確かな、お伽話に近い伝説の一つだ。
曰く、時を越えて世界を巡る六人の賢者がいるという。
彼らは何事かの目的のために世界を巡り、時に国々の諍いを諫め、時に災害や魔物を鎮め、この世界を見守りながら遥かな時を生きているという。
アーシャがこの本を買ったのはその精緻な装丁が気に入ったからが主な理由だったが、書かれている内容に心引かれたと言うのも少しある。
お伽話の域を出ないような話なのに、歴史の節目で確かに人の口に上るその六賢者に関する逸話を集めた古い本は、古い歴史が好きなアーシャには楽しめそうだった。
公式な記録はないが六賢者は世界が二つに別たれた時代の前後から存在しているのではないか、と言われているらしい。長命種と短命種の不和を解消しようと奔走したが力及ばず、世界が別たれた後はエル・アウレに残ったという話だ。
学者達は、彼らが長命種の一種なのではとか、密かに代を重ねて名や役割を継いでいる人の一族なのではとか、何か不老長寿の秘術があるのではなどと地味に研究していたりもする。
賢者達は若いとも年寄りだとも言われるがその姿や性別さえも正確には伝えられてはいない。
ただ、本当かどうかはわからないが、六賢者も長い時の中で何かの理由で数を減らし、今は四人になってしまったと言う。
(もし長く生きてるんだとしたら、それってどんな気分だろ?)
アーシャはこの夏、十三歳になった。
とはいっても本当の自分の歳も、本当の誕生日もアーシャは知らない。
拾われた時の大体の背格好から年齢を数えて、拾われた日を誕生日にしてそれらを勝手に決めているだけだ。
そうやって数え始めてからの年月もまだ両手で余るほどにしか過ぎない。
過ごしてきた年月の分指を折り曲げながら、アーシャは自分の両手をじっと見つめた。歳相応の大きさのその手はまだまだ小さかった。
小さな手指は弱々しくも見えるけれど、その代わり器用に動かす事が出来るのを良く知っている。この手を動かして、何かを作るのは好きだと思えた。小さな手から何かを生み出した時、アーシャは自分がか弱い人間だ、と密かに自覚する。
弱いから知恵を使い、道具を作る。
弱い自分のために自分で何かを作りだすたび、育ての親はそれを褒めてくれた。だから道具を作りそれに頼るのは好きだ。人らしくあれ、と言った彼の心に添うことが出来た気がするから。
アーシャは長く生きたいとは少しも思わない。
けれど、いつかこの手で何かを作り、それが自分よりもほんの少しで良いから長くこの世に残ったならとささやかに望む。自分と言う存在を、誰かがほんの少しだけ憶えていてくれたらそれで良い。
それが歳に似あわない、どこか哀しい願いだと少女は思わなかった。
「おや」
突然聞こえた声に、考えに沈んでいたアーシャはハッと振り向いた。
後ろの床にぽっかりとあいた入り口の方を見れば、そこから一人の青年が上半身を出していた。
アーシャは驚きと共に、失敗した、と苦く思った。
ここは本当は一般人が登るのは禁止されているのだ。
この鐘楼の鐘は一日に朝と正午と夕方の三回鳴らされる。
今日はアーシャが仲間とはぐれる少し前に正午の鐘が鳴ったばかりだったから、もう夕方まで人は来ないだろうと考えていたのだ。
行き交う人々が見慣れた鐘楼に見向きもしない事をいい事にこっそりと鍵を魔法で開けて忍び込んだのだが、まさかこんなに早く人が来るとは思わなかった。
青年は面白そうな表情を浮かべたまま、ゆっくりと鐘楼へと登ってきた。
「こんにちは」
「……こ、こんにちは」
アーシャは反射的に答えてから唇を噛んだ。
先手を取って謝ってしまおうと考えていたのに挨拶を交わしてしまった。
怒られるだろうか、と思いながらアーシャは青年との距離を確かめ、そっと相手を観察した。
後ろで一つにくくられた薄い金の髪が、川風にふかれてゆらゆらと揺れる。
若草の色の目は優しく細められていた。
その目に不法侵入者を咎める様子や怒りの色が浮かんでいない事に少しほっとする。
穏やかで優しそうな顔立ちのその青年の歳が幾つなのか、アーシャには良くわからなかった。
アーシャは人の外見年齢から歳を測るのが苦手だ。
自分より年上か年下かという基準くらいしか持っていないから、とりあえずこの人はどう見ても年上だとだけ結論付けた。
それなら尚更一応謝らねば、とアーシャはぺこりと軽く頭を下げた。
「……あの、勝手に入ってごめんなさい」
「ん? ああ、うん。いいよいいよ」
青年はアーシャの謝罪にパタパタ手を振って笑顔を見せた。
「僕は別にここの関係者って訳じゃないからね。ただたまにここの魔法の具合を見に来る……修理屋ってとこかな? だからここにこっそり入り込む悪戯な子供が居ても叱る義務はないんだよ」
そう言って彼は少し風変わりな旅装のポケットの一つに手を突っ込んで歩み寄ってきた。
「手を出してごらん」
言われるままにアーシャが右手を出すと、彼はポケットから出した手をその小さな手の平の上でそっと開いた。
するとそこからころころと色とりどりの紙に包まれた飴玉が零れ落ちた。
「さっき下の露店で買ったんだよ。美味しいからどうぞ」
「ありがとう……」
警戒を解かない少女の不安を和らげるための厚意なのだろうそれを素直に受け取ってアーシャは礼を言った。
青年はアーシャににっこりと笑いかけると、自身の肩から斜め掛けにしたかばんを開いて中から茶色い布を取り出した。パン、とそれを広げて手すりの傍の床に敷くとアーシャに向かって手招きをした。
「こっちにおいで。入っていた事は怒らないけど、手すりに座っているのは危ないからね。落ちたら大変だよ」
アーシャは言われるままに彼に近づき、布の上に腰を下ろした。
青年は座り込んだアーシャの頭を優しく撫でると鐘の方を振り返った。
「僕は仕事をするけど、居たいだけ居ていいよ」
アーシャはその背中を眺めながら不可思議な気分を抱いて自分の頭にそっと手を乗せた。
誰かに頭を撫でてもらったなんて随分と久しぶりだ。
知らない人間にされたら不快に思うはずの行為は、何故だか妙に心地よかった。
彼の穏やかな雰囲気がそう思わせるのかもしれない。
少しばかり困惑した気持ちを抱きながらアーシャは鐘に手を当てて何かを調べている青年の背中を見守った。
彼は鐘の彫刻に埋もれるようにして点在している青い石に順番に手を当て、掛かっている魔法の具合を見ているらしかった。時折その手元から石に魔力を込めなおしているらしい光が漏れるのが見える。指で触れてその魔石の魔力の量を測り、簡単な呪文を唱えてその石に隠された魔法陣を展開させる。そしてそれに綻びがあったなら魔力を乗せた指で陣を書き直し補修する。
一連の作業はなかなか手馴れたもので、アーシャは感心しながら見つめていた。人の作業を見ている時は静かにしているのが礼儀だ。
アーシャはただ黙って作業が進んでいくのを見ていた。
「こんなもんかな」
しばらくしてようやく点検を終えたらしい青年はもう一度辺りをくるりと見回して呟いた。
大した時間もかけずに結構な数の石の点検を終えた事にアーシャはまた感心する。
「……魔技師なの?」
アーシャが声をかけると青年は振り向いて首を振った。
「違うよ。本職じゃない。でもこういうものの修理が得意だっていうだけかな」
「でもすごく手際が良かった」
「そりゃ、もう結構長い事頼まれ仕事を色々こなしてるからね」
いたずらっぽく片目を瞑って笑うその顔は随分と若く見えるけれど仕事振りはなかなかのものだった。
今のアーシャが同じ事をしようと思えばもっと時間がかかるのは間違いない。
少なくとも一番高い石には背伸びしても手が届かない。
青年とは少なく見積もっても頭一つ半以上の身長差があるのだから当然の事ではあるのだが。
(このくらい背が高かったらなぁ)
シャルが聞いたら嘆くような事を考えながらアーシャはさっきよりも一色鮮やかになったように見える青い石達を見回した。
「そういえば、君はここで何をしてたんだい? かくれんぼ?」
不意の問いかけにアーシャは視線を青年に戻して首を傾げた。
「かくれんぼ? 何それ……んと、良くわかんないけど……人を探してたの。仲間とはぐれたから、上から見えないかと思って」
「……かくれんぼを知らないのかい?」
青年が少し驚いたような顔をしたその時、バサバサという大きな羽音と共に何か白い物が突然塔の中に飛び込んできた。
「わっ!」
「おっと」
バサ、と羽ばたく白いものが青年に一直線に向かい、その頭の辺りにぶつかった。そしてしっかりと彼の頭に取り付いてバタバタと爪を立てて暴れている。
「いって! ちょ、こら!」
目を丸くするアーシャの前で、青年はその暴れる白い物を頭から引き剥がして抱え込んだ。
それは真っ白い一羽の鳥だった。暴れたせいで白い羽毛は大分乱れているが、とても綺麗な鳥だ。
鶏くらいの大きさだがその体はもう少し細身でずっと優雅だ。黒い目がくりっとしててとても可愛い。体は白いが冠羽と尾羽だけが不思議な虹色をしていた。
そんな綺麗な鳥は、ふっくらした胸の羽をぶわりと膨らませて首を前後に忙しなく揺らし、人間で言えば不機嫌極まりない、といった様子でぐるぐると鳴いている。こんなに表情豊かで、かつ不機嫌そうな鳥を見るのはアーシャも初めてだった。
「なんだよもう! 何怒ってるんだ? いてて!!」
鳥は抗議なのか、自分を抱え込んでいる青年の手を盛んに突付いた。
「わかったよ、悪かったって!」
青年は突付かれていない方の手で鳥の首の後ろから背中を何度も撫でてしきりに謝った。
鳥はしばらくは青年の手を突付いていたが彼が「帰りに市場で果物買ってやるから」といった所でようやく機嫌を直したらしく、くるる、と一声鳴くと嘴を収めた。
凶暴な鳥に驚いて固まっているアーシャに苦笑を浮かべながら、彼はやっと機嫌を直した鳥をその肩に乗せた。
「ごめんね、驚かせて。これ、僕の鳥なんだけど仕事だからって宿屋に置いてきたのが気に入らなかったみたいでさ」
「……変わった鳥だね」
「……よく言われる」
青年が苦笑しながら擦った腕には赤い痣があちこちに散っていた。どうやらいつものことらしい。
「えと、話しの途中だったよね。仲間とはぐれたんだっけ?」
「あ、うん。本買ってたら皆見えなくなってたの」
そう言ってアーシャは膝に抱えた本を示した。
青年はそれをちらりと覗き込んだけれど余り興味は惹かれなかったらしい。
うん、と頷くと窓の外に視線を向けた。
「この人ごみじゃあ探しようがないものなぁ。待ち合わせ場所とかわかるのかい?」
「ん……宿屋に戻れば何とかなると思うから大丈夫」
「そっか、じゃあ大丈夫かな……ココ?」
青年のその最後の言葉は肩の鳥に向けてのものだったらしい。
彼は急に肩から動いた白い鳥に訝しげな視線を向けた。
白い鳥はバサ、と軽く羽ばたくと彼の肩から飛び立ち床に降り立った。
二人の目の前で床に降りたそれは首を前後に揺らしてひょこひょことアーシャの足元に歩み寄った。
鳩や鶏と良く似た愛嬌のある動きは先ほどの凶暴さを忘れさせるほど愛らしい。
白い鳥はポカンとするアーシャのすぐ脇に歩み寄ると、そのベルトについている飾りをツン、と突付いた。
「ココ?」
ココ、と呼ばれた鳥はアーシャのヒップバッグのベルトにぶら下がっている、丸い銀枠にはめ込まれた大きな緑の石をコツコツと突付くとその先にぶら下がる紐の房を嘴で引っ張る。
「この飾りが気になるの?」
アーシャはパチン、と銀の止め具を外してそれをココの目の前に差し出した。
ココはくいと首を傾けてそれを眺めた後、くるりと青年の方を振り向いた。
「ああ、そうか」
青年はそう言って頷き、アーシャと鳥の前にしゃがみこむと、アーシャが手にぶら下げたままの飾りを指差した。
「これ、お守り? 触ってもいいかな?」
「あ……うん。どぞ」
青年はそれを手の平に乗せてしばらく眺めると顔を上げてにっこりと笑った。
「良い石だね。もしかして仲間とお揃いで持ってたりするかな?」
「え、うん。皆持ってる、けど」
「そうか」
青年はその答えに頷くと窓に歩み寄り、手すり越しに街を見下ろした。
ひゅぅ、と吹き抜けた川風が彼の髪で遊んで通り過ぎていく。
アーシャは、その時ようやく彼の周りにいる沢山の風の精霊に気がついた。
薄い青緑色の光に見える風の精霊達がくるくると彼の回りで踊るように遊んでいる。
『賢き北の乙女達』
青年が一言呟くと ひゅぅ、と北に空いた窓から急に風が吹き込んだ。
青年は自分の周りを風が取り巻いたのを確認すると、手にぶら下げた飾り石を持ち上げて示した。
「これと同じ物を持つ子供達に僕の声を伝えてくれるかな。『探し物は鐘の塔に』と」
その声に答えるように、北風の精霊達はアーシャにしか聞こえない声でくすくすと笑いながら飛び立って行く。
精霊を扱いなれたその様子にアーシャは軽い驚きと共に青年を見つめた。
彼は振り向くとアーシャに石を差し出した。
「はい、ありがとう」
「あ、うん。んと……こちらこそ?」
大した事はしてないよ、と青年は朗らかに笑った。
「その石、何か願いがかけてあるね?」
「え?」
「そういう石は、自分がそれに何を求めたかを思い出すともっと仲良くなれるよ」
「それはどういう……」
アーシャが問い返そうとした時、くるる、と手すりの上から白い鳥が彼らを呼んだ。
「来たみたいだよ」
「えっ!」
アーシャは立ち上がってパタパタと手すりに走り寄った。
遥か下を見下ろせば、人ごみを掻き分けるようにして見慣れた赤と金と黒い姿が目に入る。 その取り合わせは人ごみの中でも良く目立っていた。
彼らの視線が上を向いたのを見て、アーシャはパタパタと手を振った。
それから後ろの青年の方を見た。
「どうして……あれ?」
振り向いたアーシャが見たのは、ついさっきまでと同じように静かにそこに下がる鐘だけだった。
きょろきょろと見回すが辺りにはアーシャ以外誰もいない。
さっきまで座っていた茶色い布も既にそこになかった。
アーシャは夢でも見ていたような心地で手の中を見つめた。
そこには確かにさっき腰から外した緑色の石が乗っている。
「なんだったんだろ……」
アーシャは階下から響く仲間達の足音を聞きながら、さっきの青年の名前も聞かなかった事に気がついた。
夏の日の不可思議な出会いに首を傾げるアーシャに、川風達はくすくすと笑うのみだった。