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34:夜明けの歌


 夜明けの近い森で、アーシャは一人木の上に座っていた。

 今日は森に入ってから十二日目の朝。もうこの森の中の道程は終わりに差し掛かっている。

 帰りの道は行きに比べれば順調すぎるほどだった。

 朝が来て歩き出せば今日の夕刻には森を抜け村が見えるだろう。

 森を抜けてしまうのが何となく寂しくて、アーシャは昨日も今日もこうしてこっそりと木の上で夜を明かしていた。

 手の中にはあの石がある。


 あの出会いで、世界にはまだ沢山の秘密がある、とアーシャは改めて知った。

 旅をするには年齢が足りていなくてどこにもいけないことがとても悔しい。

 けれど何もかも置いて飛び出すのも、今は未練を感じている。

 この旅は彼女に少なくない変化をもたらしていた。


 トン、と小さな音を聞いてアーシャはハッと下を見た。

 木の下にはいつの間にかディーンが立っていた。ディーンはアーシャの方を見上げながら、トントンと彼女の座る木の幹を小さくノックする。

「ディーン……」

「この前は驚かされたからな。今度は驚かせてみた」

 そう言いながら彼はアーシャの座る枝のすぐ下まで歩み寄り、そこに張り出た木の根の一つに座って上を見上げた。アーシャは低い枝に座っているので見上げるのはさほどの苦にはならなかった。

「今夜も考え事か」

「……気づいてたんだ」

「どんなに安全な結界だろうと野外で熟睡したりしないものだ」

「全然熟睡しないの?」

 ディーンは少し考えて首を横に振った。

「闇の聖霊が常に傍にいるから、ほんの少し寝ただけでも深く眠れる。隣でジェイが深い眠りにつく前に短い熟睡をしている」

 便利だなぁ、とアーシャは感心した。

 闇の聖霊の与える眠りならきっと深く体と心を癒してくれることだろう。

 そんな事をしなくてもすぐに眠れるからやってみた事はなかったが、今度ぜひ試してみようと少女は思う。

 感心しているアーシャを見上げてディーンは先を促した。


「そんなことより、今度は何の悩みだ?」

 う、とアーシャは言葉に詰まった。

「一人で抱えるのは感心しない」

「別に、悩みって言うほどのものじゃないよ。ただの……一人反省会? もうすぐ森を出るのも寂しいし、何かもやもやするから外の空気吸ってただけで」

「そのもやもやを一般的に悩みと言うのだと思うが」

 的確に表現されてアーシャは唸った。

 悩みと言ってもアーシャにも、自分が何で悩んでいるのかすら判然としないのだ。

 何から話したらいいのかもわからない。

 少女がそれを素直に告げると、何でもいいから語ればいい、とディーンは促した。  

 仕方なしにアーシャは思いつくままに重い口を開いた。


「私ね……三年前、本当は学園に入るつもりじゃなかったんだ。世界を見ておいでって育ての親に言われたから、そうするつもりだった。だから一人で旅に出たの。なのにさ」

 ひどいんだよ、とアーシャは憤慨した口調で訴えた。

「旅を始めたらさ、迷子や家出と間違われたり、人買いに攫われそうになったりして。お金があっても宿に泊まろうとすれば怪しまれるし、短い間なのにもう散々だったよ」

 アーシャは不満そうだが、それが普通だろう、とディーンは思わず頷いた。

 十歳やそこらの子供が一人旅をしているなどと言っても、多分誰にも信じてもらえないだろう。

 その苦労の様子や憤慨する少女の姿が目に浮かぶようで、ディーンは彼女には悪いがうっかり笑ってしまいそうだった。

「結局さ、泊めて貰った地の教会の神父さんに相談したら、働くにもまだ早いし、お金があるなら学校にでも行って成長するまで待ったらどうかって言われたんだよ。

 それでアウレスーラなら色んな事が学べるし、門戸が広いって教えてもらって、孤児だっていう紹介状書いてもらってここに来たんだ」

「なるほど。では卒業したら旅をするのか?」

「旅に出てもおかしくないくらい大きくなったら途中でも出て行くつもり、だったんだけど」

 アーシャは空を見上げた。


「あのね、分かたれた二つの世界には道がついているって言う話、知ってる?」

「そうなのか? 知らないな。初耳だ」

「この世界のどこかに、二つの世界を繋ぐ道と扉があって、精霊達はそこを通って行ったり来たりしてるんだって。……私、世界を回ったらいつかそれを探すつもりだった。それが本当にあっても、なくても」

 アーシャの手の中にはまだあの石が握られている。

「……それはもしかしたら確かに存在するのかもしれないと、この旅で確信を得たという事か?」

 こくり、とアーシャは頷いた。

「今すぐにでも学園を飛び出してその道を探しに行きたい……ちょっと前だったら、本当に行ってたかもしれない」

 でも、とアーシャはディーンを見下ろした。

 彼の黒い姿は木の陰にほとんど溶け込んでいる。まるで闇の聖霊そのもののように見えるほどだ。


「……私、退屈だから皆に付いて来たんだ。ちょっとした気晴らしになればいいなって思って。でも、なんか思ったよりもずっといろんな事があって、すごく、すごく楽しかった」

「確かに色々あったな。私にも久しぶりに刺激になった」

「うん、だから……だから、まだここにいたい。でも、今すぐ行きたい。けど やっぱり行きたくないって、ずっとぐるぐるしてて……なんか、変だよね」

 ディーンは首を横に振った。彼女の迷いが良くわかったから。

 それはとても人間らしい矛盾に満ちた迷いだ。

 何ものにも執着が無さそうに見える少女がそれを感じている事が、ディーンには何故だか少し嬉しかった。

「どうせもう数年の我慢だ。君はまだ余り大きくなったとは言いがたいし……もう少しここに居て、それまでこうして時々一緒に旅に出ることで気を紛らわせて過ごせばいい」

「……一緒に」

「ああ、嫌だろうか」

 アーシャはぶるぶると慌てて首を振った。

「嫌じゃない、けど……ほんとにいいの? 私がみんなの傍にいても」

「どういう意味だ?」

「だって、人数合わせだったでしょ、私。もう無理な課題をこなさなくて良いなら、他に少人数で出来る丁度いい課題色々あると思うし……」

 どうやらアーシャは自分が三人の中に加わったら迷惑なんじゃないかとまだ思っているらしい、とディーンにもわかった。

 少女の意外な気の弱さを示す心配事がなんだか可愛く思える。

「私だけをあの二人の間に取り残すのは全く勘弁して欲しいところなんだがな」

 冗談めかしてディーンがそう言うとアーシャも少し笑った。


「まぁ、あの二人は置いておいても私は君とまた旅をしたいと思っている。沢山の貴重な体験ができたしな。そしてできればいつか、学園を出た後のその≪道≫を探す旅にも同行させて欲しいのだが」

「え……なんで? あるかもっていう可能性がちょっとだけ強まっただけで、そんなのほんとに見つかるかもわからないんだよ?」

「それでも、何も知らず旅もしないよりは見つかる可能性があるだろう?それに、それは私の目的とも近い気がするからな」

 アーシャは首をかしげた。

 そしてディーンがあの石版の問いに返した言葉を思い出す。

「……真実を求めるっていうのと関係があるの?」

「ああ」

 己にとっての真実を求める、とディーンはあの石版の前で言っていた。

 それが何を意味するのかアーシャには判らなかった。


「聞いていい? ディーンの求める真実って、何?」

 聞かれることを予想していたのだろう。ディーンはうろたえもせずに静かにそれに答えた。

「私が知りたいのは……世界と、精霊と、人に関する事だな」

「例えば?」

「例えば、世界は本当に二つに分かれているのか? 分かれた本当の理由は? 神は今でもエル・ロレインにいるのか?」

 それは学者達が昔から研究している普遍のテーマでもあった。

 創世記を聞かされた子供達が良く親に聞いて困らせる類の質問でもある。


「何故精霊は別れたはずの人間に手を貸す? 何故彼らは気まぐれに人を愛するような事をする?」

 これはアーシャも時々考える疑問だ。

 精霊達は何故あんなに優しいのか、と少女はいつも思う。

 だがそこには愛される者とそうでない者という理由のわからない不公平も確かに存在する。

「それを知ろうと様々な文献を読んだが結論は得られなかった。だが、もし向こうへ行けるならそれを調べる事もたやすいかもしれない」

「それはそうだけど……何でそんな事が知りたいの?」

「理由は……私もシャルと同じだから、だな」

「え?」

「つまり、精霊に愛されたが故に捨てられた子供だ、という事だ」


 ざわ、と風が二人の間を通り過ぎる。

 森の中は暗く、その暗がりに座り込むディーンの表情はいつもと変わらない。

 余りに変わらないその様子に、アーシャの方が冗談でも言われたのかと一瞬うろたえてしまった。

「ほんとに?」

「ああ」

 ディーンの声は静かだった。そこには怒りも憎しみも無い。

 ただ微かに、水底の泥のように長い時間をかけて静かに積もった悲しみと、諦めの臭いがした。

 ここは光が愛される国だ。この国で闇の精霊に愛されているということはそれだけでも生き辛いものなのかもしれない。

 そんな風に、受けた祝福がその人を悲しませる呪いに変わってしまうなんて、と少女は悲しく思う。

「別に面白い話しでもないが、まぁ興味があるならいずれ話そう……。

 だから、私を育ててくれたのは闇の精霊達のようなものだ。それだけがただ優しかった」

 ディーンは静かに左手を前に伸ばした。

 側に浮かんでいた小さな闇の精霊がその手に一瞬、するりと絡まる。

 ディーンには見えていないはずだ。けれど、何かを感じるのかもしれない。


「だが、同時に私もシャルと同じ疑問をずっと持っていた。何故精霊は人を愛するのか。精霊に愛されたから私は捨てられたのか。精霊の加護がなければどんな見かけで、どんな風な人生だったのか」

 くだらないな、とディーンは笑った。

「私がこの旅への協力を了承したのは、似たような境遇の人間に対する少しばかりの同情と、好奇心が主な理由なんだ」

「好奇心?」

「自分とどこか似た境遇の二人が、未来を掴む事ができるのか興味があった。その為に困難に立ち向かう事が出来るのか見てみたかった。ひどい理由だろう?」

 アーシャは何とも言えず、ただ小さく首を横に振った。

「私も好奇心て言えば似たようなものだもん。でも……ディーンにも二人みたいに掴みたい未来があるの?」

「どうかな……私が知りたいのは、過去や仮定の事ばかりだからな。過去の真実を得てから未来を向くのかどうかはまだ判らない。ただ、いずれはこの国を出るというのは決めている。それは掴みたいとかそういうことではなく単なる決定事項だ。変更する気はない」


 ああ、とアーシャは胸の奥で納得した。自分と彼がどこか似ているとずっと思っていた理由がやっとわかったのだ。

 アーシャもまた、道の先に求めるのは過去だからだ。それが未来に繋がらなくても、きっと自分はそれを求めてしまう。

 世界を見て回るのは約束だから、必ずそれをするだろう。

 でもその後はきっと自分は過去に繋がる道を探してしまう。

 例え、その先に未来がないとしても。


「私は、この国が嫌いだ。この国の全てが。ただ闇に愛された、それだけで私に何も与えなかったから。だからいずれこの国を出る。だが、精霊の事は憎めなかった。彼らはどこまでも優しかったから」

 ディーンは古代語を学び、許される限りの古文書を漁って、古い創世記の写しを幾つも読んだ。

 けれど、そのどこにも闇は忌むべきものだとも、神や精霊に優劣があるのだとも書いていなかった。

 ディーンにとってはそれだけでもう良かった。もとより、精霊を憎むには彼らは優しすぎた。

 むしろ憎むべきは、光に生まれても還る時は闇に抱かれる癖にそれを認めようとしない、自分の周りの愚かな人間達だ。

 生まれたことさえ認められないなら、そんなものこちらから捨ててやると彼は決めたのだ。

 そしていつかその先で、己にとっての真実を探し求めようと。


「……光と闇は、仲の良い夫婦神なのに。馬鹿だね」

「全くだ」

 二人の間に静かな時間が流れる。

 この時間も、この闇もどこまでも彼らに優しい。


「ディーンの秘密を聞いたお詫びに、私の秘密も教えようかな」

 いたずらっぽいアーシャの言葉にディーンは木の上を仰ぎ見た。

「私の髪の色、何色に見える?」

 アーシャの髪の色はオレンジがかった茶色のはずだ。

 そう答えるつもりで彼は闇の中に目を凝らした。

 だが答える前にアーシャはタン、と木の枝を蹴って飛び降りた。

 ディーンの目の前にふわり、と白いものが降り立つ。

 アーシャのマントの色だと思った。

 けれどそれは。

「……白」

「当たり」


 それは、完璧な白だった。

 混じりけのない純白の髪。目だけが、緑のままだ。

 この世界に、生まれながらに白い髪を持つ者はいない。

 いないと言われている。

 ありえないその色が人に現れたとしたらそれは忌むべき徴に違いないと言う。

 それは、何の加護も持っていない、見放された者の証。

 けれど、アーシャはそんな風には見えなかった。

 その髪は闇の中でうっすらと輝いて見える。

「魔法か何かで染めていたのか?」

「ん、普段はね。この指輪で明るい茶色になるようにしてるの」

 アーシャは小さな指輪を見せる。

 少女が左手の小指にいつもしていた細い指輪だ。シンプルな銀の台座にオレンジ色の小さな石が嵌っていた。

「今はどの精霊の干渉も断ってあるし、これがほんとに元の色」

「それは、どういう……」

 ディーンのその問いは発せられる途中で口の中に張り付いたように止まってしまった。

 アーシャの髪の色が目の前で見る見る変わり始めたからだ。

 ふわふわとはねた毛先をじわじわと染めていくその色は、この夜の闇を溶かしたような、黒。


「ディーンみたいな黒はどうかな? 似合う? 闇の精霊の干渉を受け入れてみたんだけど」

「一体、どういうことだ?」

「私にもほんとの原理とか、理由とかはわかんないんだよ。私が森で拾われたのは四、五歳くらいだったってじいちゃんは言ってたけど、それ以前のことは何一つ憶えてなかった。その時には、もうこんなだったって。」

 言葉も喋れず、ただ傷だらけで森の中で蹲っていた、と育ての親は言った。

 争いに巻き込まれたか何かで森に迷い込み、それっきり故郷を失い、全ての繋がりや記憶を失くしたから、こうなったのかもしれないと彼は言っていた。

 けれど本当の所はわからないままだ。


「中身が空っぽだからなのかな? 私は全ての精霊に干渉したり、されたりする事が出来る。側にいる精霊の影響を受けてこうして表にその色を出せるんだよ」

 例えば森にいれば緑や茶色に、夜の下では黒く、光を浴びれば金に。

「森に長くいたから、森の色に染まればいいと思っていたのにダメだった。森を出たら元に戻っちゃった。目は緑のままだったからこれは元からなのかもしれないけど……私が特別森が好きだからかもしれないね。それだけは救いかな」

 アーシャは上目遣いでちらりと見える自分の前髪を見つめた。

 その視線の先でまた髪は白へと戻っていく。

「街にいる時はその地域の人に溶け込める色になるように調整してるだけ。本当はどんな色も持たない。どこにも属さない。何者でもない。

 どの精霊も優しいけど、シャルやディーンみたいに一番にはなれない。……それが、私」

 自嘲するような言葉を少女は紡ぐ。

 けれどディーンには、アーシャの髪はむしろ全ての精霊の加護を受けるが故の白のように思えた。

 その白は、美しかった。


「記憶や、故郷を探しているのか?」

 アーシャはふるふると首を横に振った。

「育ったところが故郷だから。もう迎えてくれる人がいなくても帰る場所はそこだけ」

 森の奥に向けた瞳はどこかここではない森を見ている。

「でも、まだ……を嫌うには早いから、世界を見ておいでって言われて森を出されて、帰れない。いつになったら帰れるかもわかんないし。ほんとに早くもっと大きくなりたいよ」

 その言葉には本当に実感が込められていたので、ディーンは思わず軽く声を上げて笑ってしまった。


「あ、ディーン笑った!」

「す、すまん」

 いいよ、とアーシャは面白そうに言う。

「ディーンが笑ったの、初めて見た気がするよ」

「……そうだろうか」

「うん、初めてだよ。ね……なんかさ、おかしいよね。皆、迷子みたいだよね」

 シャルも、ジェイも、ディーンも、アーシャも。

「四人もいるのに、全員迷子か。確かにそうだな」

「だから、精霊が代わりに愛してくれてるのかもしれないね」


 精霊が代わりに愛してくれているのか、精霊に愛されたから迷い子になったのか。

 ひどい話だ、とディーンは思う。

 だが、何が本当にひどいのだろう。

 気まぐれに人の子を愛した精霊か、生んだ子を愛さなかった親か、精霊に愛されてなお人の愛を求める子供達か。

 人の愛を求めるから迷子になるのだろうか、と彼は胸のうちで小さく呟いた。

 精霊に愛されている事実だけで満足していないのは、自分達に他ならない。

 けれどそれでも、きっと人は人と共にしか生きられないのだ。

 だから、ディーンもここではない、自分が人として生きていける場所を探し続けている。

 今、この闇に満たされた森で、一人でない事を心強く感じている。


「夕方には、森を抜けるね」

「ああ、もうすぐだな」

「帰ったらさ、ちゃんとご飯食べるよ。そんで、大きくなるんだ」

「そうしてくれると、私も安心できる」

 遠くから、夜が明けようとしていた。

 木々の合間から明るくなり始めた空が見える。

 二人は並んで座ってそれを眺めた。

 闇に愛されていても夜明けを待つ自分を、いかにも人間らしいとディーンは思った。


 不意にアーシャが小さな声で鼻歌を歌い始めた。

 それはゆったりとした不思議なメロディーだった。

 優しいような、どこか悲しいような。不思議に懐かしく、少し切ない。

 ディーンはその歌に黙って耳を傾けた。

「夜が明けるよ」

「ああ」

「精霊がね、歌ってる」

 そういってアーシャはうっすらと明るくなり始めた空を見上げる。

「今のは精霊の?」

「そう、精霊の歌う夜明けの歌。朝を喜び、夜に別れを告げる歌。夜明けには闇の精霊と光の精霊が一緒に歌うんだよ。だから、本当は二重唱なんだけどね」

「聞いてみたいな……」

 もしそれが聞こえたなら、少しは世界を許せるような気がした。

 彼には見えない、聞こえない世界を見ているアーシャを、ディーンは少し羨ましく思う。


「じゃあ、今度教えるからさ、二人で二重唱しようか?」

「二重唱……」

 その様子を想像してディーンはくすりと笑う。

 歌なんて基礎学校での授業で習って以来、もう何年もディーンは歌ったことがない。

 こんなでこぼこした二人が二重唱をしている姿を想像するとなんとなくとても可笑しかった。

「ジェイにも覚えてもらってジェイとディーンで二重唱したら、ほんとに光と闇の精霊みたいになるかもね」

「……それだけは勘弁してくれ。それにジェイはあいにくひどい音痴だぞ」

「音痴? 音痴って何?」

 ディーンはそれから数分かけて、その単語を知らなかったアーシャに様々な説明をさせられた。

 どうやら精霊には音痴はいなかったらしい。

 夢が壊れなくて喜ばしいようなそうでもないような、何ともいえない気持ちをディーンはしばし味わった。

 一通り説明が終わった頃、ふぁ、とアーシャが小さなあくびをした。

「少し眠るか」

「うん」

 二人は立ち上がり、ゆっくりとテントの方へ歩き出した。

 ディーンの目の前をひょこひょことよぎる白い髪が、昇り始めた朝日を浴びてキラキラと金色に光る。

 それを見てディーンは、ふと昔学んだ古代語の言葉を思い出した。

 幾つかの単語が彼の頭の中で意味を伴って、パズルのようにカチリとはまる。


「……アルシェレイア」

 アーシャが足を止めて振り返る。

「ア・ルシェ・レーイァ」

 見開かれた目は強い驚きを映している。

「古代語で、≪愛しき光≫ か。…良い名だな」

「……やっぱり、ディーンはすごいなぁ」

 そう言って、彼女は鮮やかに笑った。

 初めて見た、晴れやかな本当の笑顔。

 それは、確かに愛しき光だ、とディーンにも感じられた。



 森は、夜明けの光で満たされようとしていた。



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