32:水に捧ぐ歌
夜が明けて間もなくシャルはまた川原に来ていた。
川原の浅瀬に足を浸し、川の中に立っていた。気分は昨日より随分いい。
傍の岩の上にはアーシャが座り、心配そうにシャルを見つめていた。
少し離れた場所にはジェイとディーンがいる。
シャルはやってみたい事がある、と朝早くにアーシャを起こした。
そして二人が川原へ向う足音に目を覚ました少年二人も勿論ついてきていた。
何をするのか、と問うアーシャに、シャルは雨を降らせるのだと答えた。
一日中降り続くようなものでなく、ほんの一時のにわか雨だと思うけど、とシャルは悪戯っぽく笑って、それを見ていて欲しいとアーシャに頼んだ。
アーシャは心配しながらも、シャルの精神統一を邪魔しないように黙って彼女を見つめていた。
シャルが言ったようにほんの一時降る雨なら、アーシャが精霊を長時間呼ぶよりも周りへの影響は遥かに小さく済む。
けれどそれではシャルの火の気を中和するには足りないはずだった。
水の魔法の苦手なシャルが本当に雨を降らせる事が出来るのかどうかもわからない。
シャルの意図する所が良くわからないアーシャには、ただ見つめる事しかできそうになかった。
シャルは祖母の形見の杖を胸の前で固く握って、空を仰いでいた。
明け方の空は朝焼けの名残を残して鮮やかな金と赤に染まっている。
今日も晴天で、雨が降りそうな気配はどこにもなかった。
三人は静かに川の中の少女を見つめていた。
不意にシャルがくるりと振り向いた。
三人のギャラリーを順に見つめると、高らかに宣言した。
「私、水の魔法は大の苦手だわ。雨なんて降らせたこともないし、水の精霊歌だって、ただの歌としてしか歌えたこともないわ」
突然の言葉に三人はきょとん、とシャルを見つめる。
「けど、これは私にとってのけじめみたいなものなの。私が、水の友だって事、確かめたいのよ。だから絶対成功するから! ちゃんと見てなさいよ、特にジェイ!」
そう言ってシャルは笑った。夜明けのような笑顔を誰もが眩しく見つめる。
「おう! お前こそとちんなよ!」
笑いを含んだいつものジェイの返事に送られ、シャルは静かに目を瞑った。
シャルは祖母の言葉を思い出していた。
歌を教えてとせがんだ時の思い出だ。
難しい単語の多い精霊歌の歌詞を覚えられなくて、紙に書いてもいいかと聞いた彼女に、祖母は言った。
『だめよ、シャル。紙に書いてはいけないの。紙に書いたら間違えなくなるでしょう?』
『どうして? 間違えちゃだめなんじゃないの?』
『いいえ。いい、シャル。精霊の歌というのはね、精霊と神様に、私はこんな人ですよって、聞いてもらう為の歌なの。その時の自分の魂と、自分の願いを神様に見てもらうための歌なの』
『その時の自分?』
不思議がるシャルに、祖母はそれはそれは大事な秘密を教えるのだ、というように指をぴん、と立てて厳かに告げた。
『そう。だからね、本当は決まった歌詞があるわけじゃないの。もし、自分の中のどこを捜しても言葉が見つからなかったらそれでも良いくらいなのよ。
若い時の歌、年をとってからの歌だって違うわ。だから、私が教える歌も、本当は私の歌なのよ。
それを間違えずに歌えるようになってしまったら、それに囚われて自分の歌が探せなくなってしまうかもしれないわ。そうしたら、もう神様にも精霊にもシャルの歌は届かないのよ?』
届かないなんてそんなのやだ、と言うシャルに祖母は優しく笑いかけて言った。
『だから貴女の歌を歌いなさい、シャル。貴女を表すような歌を。
願いを込めて、世界の壁をも越えて、精霊や神々に届くように』
すぅ、と深呼吸した。
あれほど彼女の頭を悩ませた頭痛が今は感じられない。
吹き付ける風も、木々の音も、何も聞こえなかった。
無音の中、シャルはただ自分を見ていた。
泣いている小さな子供。
六歳のままの自分。それがシャルフィーナだった。
小さな小さな灯火だ。いつか大きな炎になれるだろうか?
目を開く。
シャルは今初めて自分を見つけた、そう思えた。
何かに導かれるように、その唇から自然に音が零れた。
『 麗しきフィーネラ、水の姉上
その暖かな涙をこの幼子の上に降らせたまえ 』
この身の炎を鎮める、天からの慈悲を強く願う。
雨を浴びればこの身の火を治める事が出来るという保障はどこにもない。
けれど、これは自分にとっては大切な儀式だと、シャルには思えていた。
『 その涙は炎を鎮め
その涙は怒りを癒す
その涙で我は小さな灯火へと還る 』
安らかなのにどこか高ぶっているような、不思議な気持ちがした。
遠く遠く、自分の歌がどこまでも届くような気がする。
闇の女神の御手に抱かれているはずの、祖母にも届けばいいと思った。
『 春に訪れ 夏に遊び 秋を喜び 冬に囁く
水は炎を鎮め 火は水を天へと還す 』
祖母と過ごした日々がシャルの胸を過ぎる。
昨夜初めて聞いた母の声が聞こえる。
世界は、祝福に満ちていると初めてそう思えた。
『 我は貴女の友 いと小さき灯火
今日は家々の暖炉に 明日は旅人の傍に
我が我たる為に どうかその涙を此処に
どうかその祝福の涙を此処に―― 』
静かな余韻を伴って穏やかな歌は終わった。
シャルは水の中、目を閉じたまま動かない。
誰もが、息を潜めてその歌に聞き入っていた。
まるで森までもが耳を済ませているかのような時間だった。
ポツン
小さな音がしてハッとアーシャは水面を見た。
向けた視線の先でポツン、とまた一つ水面に波紋が生まれる。
思わず空を見上げたがそこには相変わらずの晴天が広がるばかりで、雨が降るような空ではない。
それなのに、ポツリ、ポツリと大粒の雫が次から次へと降りてき始めていた。
「雨が……」
「ほんとに降った……」
晴れた空から落ちてくる雨はあっという間に量を増やし、ぽかんと空を見上げる四人を徐々に濡らしていく。
「あは、あはははは! やったわ! やったわよ!」
歓喜の声を上げてシャルは両手を高く空へと伸ばした。
降ってくる雫が、水の女神の涙が、シャルの中の暗い炎をじんわりと癒していく。
もうシャルの中には憎しみも怒りもなかった。
暖かく自分を取り巻く精霊の気配を、ただ愛しいと思った。
頬を雨よりも暖かい水が一筋伝い、雨に混じって落ちる。
願いを聞き届けてくれた水の精霊と、自分を守り続けてくれた火の精霊に深い感謝を胸の奥でそっと送った。
いくら感謝してもし足りない、もっともっと叫びたいような気分だった。
「シャル! すごいよ!」
「本当に降るとは……」
誰もがその全身で雨を受け止める。
夏の晴れた朝の突然の雨は暖かく、優しかった。
「すっげぇな、シャル!」
自分の事のように笑顔を見せるジェイにシャルはいつものように高らかに答えた。
「あったり前でしょ! 私を誰だと思ってるのよ!」
誇らしげに笑う彼女のその髪と瞳は、雨の雫を浴びるごとに朝焼けの空で染め替えたかのような鮮やかな赤い色へと変わっていた。
朝の森に子供達の喜びの声がいつまでも木霊した。