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12:人ならざるものの領域

 森、というものをジェイが本当に歩いたのはこれが初めてだった。

 公園の林や学校の近くの野山なら良く散歩したことはある。

 この森もあんなもんだろうとなんとなく思っていたのだ。

 甘かった、とそれを痛感する。

 道がない、ということがこんなにも歩き辛くて疲れるものだと思ってもみなかった。

 地面は盛り上がった木の根や下草で覆われ、それを避けながら歩かないといけない。前を見渡しても重なりあった木々が見えるだけで、太陽すらも隠れて方角も定かでない。

 公園の林は道らしい道が無くてもやっぱり整備されていたし、学校の裏山もある程度の道がついていたのだ。

 見渡せば遠くに必ず学園の大きな校舎が見えた。


 森に入ってからずっと彼らを先導しているのはアーシャだった。彼女はまるで別人のように活き活きと迷いなく森の中を歩いていく。

 その少し後をディーンが、早くも足取りが鈍っているシャルが、そしてそのシャルの面倒を見ながらジェイが続いている。

 木の根の上をひょいひょいと器用に跳ぶように歩くアーシャは時々立ち止まっては後ろを確認して、三人に歩きやすい道を選んでくれているようだった。

 それでも道は険しい。


 絶え間なく西から吹き付ける風も足が進まない原因だった。

 進むのが困難なほど強くは無いが軽い抵抗を覚えるくらいの強さの風が体を打ち、ずっと続くと疲れも溜まる。

 木々の間を通り抜けているはずなのに、どういう訳か風は余り勢いを弱めず、たまに弱くなる事はあるが切れ間は少なかった。

 ジェイはシャルが心配だった。

 まだ歩き始めて三時間ほどだが、既にシャルの息はすっかり上がってしまっている。休憩を挟んでもそれは顕著だった。

 魔法学部の人間はどうしたって体力がない者が多いが、シャルも例外ではない。

 いくら荷物を軽くしてもらっても本人が重いのだけは(失礼な話だが)どうしようもない。

 それでも彼女は持ち前の負けず嫌い精神を発揮して弱音一つ言わず黙々と歩いている。

(これが四日、いや、五日間。行きだけでもそれだけ続くのか。持つかなぁ?)


 いざと言う時は彼女を背負ってやろうと、出かける前は気軽に考えていた。

 何時間も背負っても大丈夫なくらいの力はつけてあると自負していたのだ。

 しかし、この足場の悪い森の中をとなると話は別になってくる。

 前を行く長身のディーンが少しうらやましく感じた。

 ジェイは同じ年の男子の平均くらいの身長はクリアしてるが、さほど背が高い方ではない。

 出身大陸などによる人種の差異は身長や体格にも現れるので、学園の子供達の身長にもかなりの幅がある。レアラード大陸出身者としてのジェイはごくごく平均的な15歳男子の身長だ。

 対してシャルは女子の中では高身長の部類に入る。

 はぁ、とジェイはため息を吐いた。

 もう少し背が高ければもう少しこの森も歩きやすいかもしれない。彼女を長く背負っても平気だったかもしれない。

 そんなどうしようもないことを考えてしまう自分に、またため息が出る。


(ガキじゃないんだから……何くだらない無い物ねだりしてるんだか)

 いずれ学園を出たら、外の世界に出ようとジェイは考えている。祖母のように世界を巡りたい、というシャルと一緒に行くのも苦労も多そうだがきっと楽しいと思う。

 だが世界には未だ未開の土地が多くある。

 この森なんて、地図があって、道がある程度わかっているだけでももう人の用意した庭のようなものだ。


(今からこんなじゃ、全然話になんねぇよな)

 ぐっと歯を食いしばるとジェイはまた一歩踏み出した。

 目の前に、シャルの残した小さな足跡が見える。

 森に比べれば、自分の、人間の小ささを物語るような足跡だ。

 ジェイは小さく笑って、その隣に自分の足跡をそっと印した。




 アーシャは木の根を踏み越えようとしていた足をピタリと止めた。

 何か変な感じがしたのだ。

 たった今まで気持ちの良い森の中を機嫌よく歩いていた。

 その森の空気が変わったような気がする。

 清々しい森の空気に突然得体の知れない何かが混じったような、そんな感じがした。

 そのままそこに立ち止まって耳を澄ませた。

 さっきまで様々な音がしていた。

 木々の葉ずれの音、鳥の声、虫の声、どこか遠くで何かの獣が鳴き交わす声。

 だが今は。木々の葉ずれの音はする。

 近いものと、遠いものと、そして――

「どうした?」

 立ち止まったアーシャに後ろからディーンが声をかけてくる。

 しかしアーシャはそれに答える事ができなかった。

「伏せて――!!」


 ドォッ、という音が体を打った、とアーシャは思った。

 だがそれは音ではなかった。

 振り向きかけた小さな体を打ったのは圧倒的な風だった。

「なっ!?」

「ひゃあっ!」

 ディーンは体制を崩しかけて咄嗟に傍の木に手を伸ばした。

 次の瞬間小さな悲鳴と共にその脇を何かが通り過ぎていく。

 その白い影が、風に飛ばされた小さな体だと認識するよりも早く、ディーンは思わず片手を伸ばしていた。

 掴んだ、と思った途端にその勢いに引きずられそうになり、木の幹を掴む手にさらに必死で力を込める。

 右手で掴んだ小さな体は風に強く引っ張られ、それを支える腕にも、みし、と鈍い痛みが走った。

 それでも、今この手を離せば軽い体はあっという間に風に攫われ森の木に叩きつけられてしまうだろう。

 ディーンは一瞬の逡巡の後、木の幹を掴んだ左腕はそのままに、自分の体の向きを風に逆らわず横にひねった。

 その動きで、風に煽られたアーシャの体は自然とディーンが掴んだ木と彼の陰へと飛ばされるように隠れる。それによって風の抵抗が薄れた事で、ディーンはどうにか彼女をもっと近くにを引き寄せてやることが出来た。

 服の背中を掴んでいた腕を細い体に回して抱えるようにして安定させ、支えながら風から隠してやる。

アーシャも回された腕に必死で掴まり飛ばされないようにと踏ん張る。

 目を開けるのもやっとの風の中、どうにかうっすらと目を開けて後ろを確認すると、彼らの少し後方にシャルに覆いかぶさるように地面に伏せて風に耐えるジェイの姿が見えた。

それに安堵してディーンは目を閉じた。


 風が吹いていたのは長い時間ではなかった。

 けれど緊張を強いられた体には随分と長く感じられ、一分程してようやく空気の流れが変わった時には、背中はじっとりと冷たい汗で濡れていた。

「……収まったか?」

「うん、多分……」

 アーシャも相当びっくりしたらしい。

 呆然とした様子で森の奥を見つめている。

「ジェイ! 大丈夫か?」

 おう、という声が聞こえがさがさと後方の二人が起き上がる。

 泥や葉っぱを払いながらジェイとシャルは慌てて近寄ってきた。

「な、なんなの今の! 風、よね?」

「……だよな?」

 四人は恐る恐る森の奥を覗くが、その向こうには変わらない森の景色があるだけだ。

 森は風が吹く前と変わらない静けさを取り戻しつつある。

 アーシャは、鳥の声が戻ってきた事に気がついた。

「……風が吹く前に、何かいたみたい」

「えっ!?」

「何かって何!?」

「わかんないけど、何か、多分この森の生き物だと、思う。」

「だが、襲ってはこなかったぞ? 確かにあの風はすごかったが、獣の姿は見えなかった」

 ディーンの言葉にアーシャは少し考え込む。

 だが、風が吹く前、森の音に耳を澄ませた時確かに何か羽音のような音が一瞬聞こえたのだ。

「私にも、良くわからないけど……多分、偵察と、ちょっとした威嚇かなぁ。森に入ってきた異物を見に来たんじゃないかと思うんだけど」

「い、異物?」

「まぁ、確かに森にとって見れば我々は間違いなく異物ではあるな」

「でも、何がいるって言うの? 学園の実習に使われるような場所に、そこまで危険な生き物はいないはずよ?」

「それはわかんないけど、でもそういう気がする、としか言えないよ」

 アーシャは困ったように肩をすくめた。

 少女が感じたものを説明するのは難しい。

 だがあの突風の前、確かに何か大きな気配を一瞬感じたのだ。


「……ちょっといいか? 実は私も気になっていることがある」

 不意にディーンが片手を上げて話をさえぎった。

「なんだよ、ディーン。気になることって?」

「この森の話だ。この森は教科書では貴重な有用植物や動物が多いから、結界を張って密猟などから保護しているということになっている」

「それがどうかした?」

「だが、それならもう少し規模の大きな採集場や、ここを利用した植物の育成などが行われていてもおかしくはない。道もついてない、全くの原生林のまま放っておく理由がわからないと気になっていた。

 学園は私有地として保護している山林には多少の林道や管理小屋などを設け、監視や植物などの採集、栽培がやりやすいようにしているのが大半なはずだ」

「うーん、それだけ大事にしてるってのもあるんじゃねぇの?」

「それにしては、今のところこの森の植生はそれほど珍しいとも思えない。奥に行って見なければ結論を出すのは早いが、結界が必要なもっと貴重な森なら他にも沢山あるはずなんだ。」

 それには確かに、と三人も頷いた。

 南西に川があるといったような情報はわかっているのに、獣道らしい道すらも特に用意されていない。あるのは村の近くだけだった。

 と言うことは、採集や狩りを行う村人も森の奥深くまでは入らないのだ。

「私は最初はここに生徒に知らせていない遺跡でもあるのだろうかと考えていた。遺跡の盗掘を防ぐ為なら、結界にも理由ができる」

 遺跡、とアーシャが繰り返して呟いた。

「けど、それにしては結界が広すぎるよ。もし遺跡が奥にあったとしても、その入り口を隠せばいいだけだもん」

「そうだ。だから、おかしいんだ」

「……」

 沈黙が流れる。

 先ほどまでは美しく見えた森も、なんとなく不気味なものに思えてくる。

「でも、三年生から実習にいける場所よ? そんなに危険な場所に行かせたりしないわよ!」

「そこまで危険じゃなくて、遺跡でもない。けどただの森でもない……」

 この森には何かいる。それは確かだと思う。

 そして、それは生徒達でもどうにか切り抜けられるものである必要がある。

 アーシャは考え、その知識の中でかろうじて引っかかるものを一つだけ見つけた。


「知恵ある、獣……とか?」

 その言葉にディーンとシャルは思わず息を呑んだ。

「そんなの……まさか。お伽話でしょう?」

 恐る恐る否定したシャルにディーンとアーシャは首を振った。

「創世記はお伽話じゃない。一つの歴史だ」

「中央大陸では最近目撃の話は聞かないから知らないかもだけど、他の大陸では時々あるらしいよ」

 ジェイはその話が飲み込めず、不思議そうな顔をして三人に質問を投げた。

「なぁ、創世記ってあれだろ? 六人の神様が一つの世界を作って、やっぱり二つにかち割ったってやつだろ? それと今のと、何の関係があるんだ?」

「……恐ろしく大雑把な覚え方だな」

「あんた、歴史とか古代史の授業はいっつも寝てたもんね」

「俺は過去を振り返らない男だ!」

 威張って言うことじゃないわよ! とシャルに殴られた頭をさするジェイにアーシャは簡単に説明してやった。


「つまり、創世記は要約すると、六人の神様が大きな大きな世界を作って、そこに長命な種と短命な種を作ったって話だよね。

 けれど、短命な方が長命な方を妬んで争いを起こしたから、神様は世界を二つに割っちゃった。

 結果、短命の生き物は、長命種の世界にはいけなくなり、世界が二つになった影響で、大陸は六つに割れ、かつて豊かに栄えた沢山の国が割れた大地や海、そして世界に溢れた森に飲まれて消え、人口は激減した。これがおおよそ千年前だって言われてる」

 ジェイは頷いた。さすがにこの話は知っている。

「この世界に残された短命種は、人間や、意志の薄い植物、動物達。

 けど、その中に長命種の亜種に近いような知恵と力のある生き物もわずかだけどいた、と言われてるんだよ。彼らは自分の意思でこちらに残ったとも。

 たとえば、風の大陸で王族と契約し、その移動に使われているっていう飛竜や、北の大陸にいるっていう人を乗せて飛べるほどの大鷲とか、そういう類なんだけど。

 人に知られていなくても、知恵ある獣……つまり幻獣の目撃報告は世界のあちこちで今も沢山あって、開拓が進まない原因の一つになってるんだって」


 その説明に頷くと、ディーンは先を引き取って続けた。

「たった千年前、世界が割れた時、人の歴史は一度滅びたという。

 そこからまた人口が増えるまで数百年、増えたら場所が狭くなり、しかし未開の地の危険に怯えてわずかに残った平地を争って更に数百年。ようやく、不毛な争いに決着がついたのがわずか百年と少し前。

 やっと、人類は少しずつ新しく地図を描き始めている所だ。一番開拓が盛んなこの中央大陸だって人の領域はやっと半分程度だ。まだこの世界には何があってもおかしくはない」

 うん、とアーシャも同意する。

「だからこその、学園の建設や学ぶことの奨励なんだってね? 何かの本で読んだよ。森や海に飲まれたかつての人の領域を取り戻す為、そこに踏み込めるような逞しく、賢い人間を育てるんだってさ」

「学園の理念か。ふむ……ということはだ、人ならざる者の領域に踏み込める人間を養う為に、そういった場所に生徒を放り込む、くらいの事はしてのける可能性もある。そう思わないか?」

 ひやり、と爽やかな風が森を吹き抜ける。

 辺りの空気の温度が急に下がったような気がした。

「と言うことは、この森を覆う結界は外からの侵入者を防ぐ為じゃなくて、中にいる何かを隠す為、出てこないようにする為に張られている可能性もあるってことだよね?」

 アーシャが告げた言葉が、更に場の温度を下げる。

 子供達は慌てて荷物を背負いなおすと急いでその場を離れる為足早に歩き始めた。



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