10:灯火の歌
≪風の森≫とそこに一番近いシーレ村までは徒歩で約二日かかる、と教科書には載っていた。
実際はそこまでの乗り合い馬車が三日に一回出ていて、それに乗ればシーレ村までは一日で済む。
学園都市は業者が仕入れなどで使う荷馬車以外の通行は余り多くない。
だが、野外実習が多く行われる時期だけは各方面に向けての乗合馬車が特別に用意され、定期的に運行されるのだ。
今ではほぼ全ての学生がそれぞれの目的地へ行くために乗り合い馬車を利用している。
たまに例外として、『彼女と同じ馬車なんて冗談じゃないですわ!』などというごく個人的な理由でわざわざ馬車を自前で用意して出かける人間が出てくることもあるが。
とりあえず今のところ何事もなく、一行を乗せた馬車はガタゴトと細い街道を北東へと進んでいた。
昼下がりの気持ちのいい風が馬車の中を吹き抜ける。
途中の村で休憩を取ってお腹がいっぱいになったアーシャはいつもの事ながらうとうととしていた。
ふと、細い音が聞こえて意識が浮上する。
音はどうやら歌のようだ。なんとなく気を引かれてアーシャはゆるゆると目を覚ました。
聞こえていたのはシャルが口ずさむ歌だった。
ぺら、と本をめくりながら彼女はほんの小さな声で歌っている。どうやらその隣で寝ているジェイやアーシャを気遣ってのことらしい。
歌っているのは炎の精霊讃歌のようだった。
(……綺麗な声)
シャルの意外な才能にアーシャは感心する。
よく通る声を持っているとは思っていたが、歌の才能もあるらしい。
アーシャがぼんやりと彼女の方を見つめていると、視線に気づいたのかシャルが顔を上げた。
「あら、起きたの? もしかして起こしちゃった?」
ううん、とアーシャは身を起こし、首を振ってそれに答えた。
「綺麗な歌が聞こえたから、目が覚めただけ。シャル、歌上手いんだね」
「あはは、ありがとう。意外だった?」
「ちょっとだけ」
正直ねぇ、とシャルは笑い、読んでいた本を閉じて傍らに置いた。
「魔術書?」
「そうよ。初級から中級のおさらい。いつも火の魔法ばっかり使ってたから念のためと思って。こう見えても土や光はそれなりに使えるのよ」
そんなに忘れてなかったわ、と満足そうに言ってシャルは本をザックにしまった。
彼女が意外にも努力家らしい事にアーシャは少し驚いていた。どちらかと言うとシャルは天才肌の人間かと思っていたのだ。
そんな事を考えていると、アーシャはふと気になっていたことがあったのを思い出した。
「シャル、今日はいつものローブじゃないんだね。杖も」
「ええ、いつものは火の力が強すぎるから置いてきたの。杖も同じ。このローブはただの市販品でたいしたもんじゃないけどね。杖は祖母の形見よ」
黒いローブってつまんないわよね、と笑いながらシャルは脇に立てかけてあった杖を手にとって愛しそうに撫でた。
水を象った杖はきらきらと光を反射して本当に水が零れているかのようだ。
「すごく、綺麗で強い杖だね」
「ありがとう。祖母の一番のお気に入りだったの。私には多分上手くは扱えないとは思うんだけど……それでも少しくらいは助けになるかと思って。そういえばアーシャは杖持ってないの?」
「持ってないよ。実習で一度作った事はあるけど。そのうちちゃんとしたのを自分で作ろうと思ってるんだけど、まだどういうのにしようか決めてないから」
杖は魔力の収束や制御、増幅に大きな助けとなる為ほとんどの魔術師が持つものだが、魔法を使う時に必ずしも必要になる訳ではない。
魔法を使うのは魔具を作る時だけ、というのがほとんどの魔技師は杖を持たなかったり、それに代わる道具を使う事も多い。
だからアーシャがまだ杖を持っていないという事も不思議ではなかった。
「そっか、魔技師は自分で杖を作ることが多いって言うもんね。そういうのも楽しい悩みね」
「うん。シャルのおばあちゃんのみたいな、綺麗な杖にしようかな」
それがいいわ、とシャルは嬉しそうに笑った。
「ね、そういえば、アーシャはそのバッグとか、私にくれたバッジとかそういうのを発表したりしないの? すごく人気出るわよ、きっと!」
「んー……めんどくさいからいいよ、別に」
興味ない、という様子でアーシャは首を振る。
「でも売れればすごいお金になるじゃない。私も欲しいわよ? ものすごく便利だもの」
「便利なように作ったんだけどさ、でもこれってちょっと危険だなって思うし」
「危険?」
「うん、中に沢山の物を入れられるって事は、輸入とか輸出とかしたら国に届け出なきゃいけないような物をこっそり手荷物で運んでもわかんないでしょ? 貴重な品物とか、武器とかさ」
そう言われてシャルは初めてその危険性に気がついた。
確かにこの技術はそういった使い方もできてしまう。
大量に武器などを運ぶ事も簡単なら、隠しておくことも簡単だ。禁制の品などの流通も考えられないほど楽になるに違いない。
アーシャの懸念はもっともと言え、同時に彼女が自分の作る物についてちゃんと真剣に考えていることにシャルは少し驚いた。
自分が作る物が世に出る事よりも、それが世界に与える影響のほうを重視している。
出世には興味ない、と言っていた彼女はどうやらシャルが思っていたよりももっと深く考えていたらしい。
「それに特許の手続きってうんざりするほどいっぱいあるし、書類もこーんなに分厚いんだよ」
(……単に面倒くさがりって言うだけじゃ、ないわよね、きっと)
さも嫌そうに両手で厚みを表現する少女を見ながら、シャルは自分にそう言い聞かせた。
「ね、ところでさ、さっき歌ってた歌、もう一回聞かせて欲しいんだけど……だめかな?」
「あら、いいわよ。アーシャはもう起きたし、ディーンはさっきから御者台で馬を見てるしね」
ジェイが起きるかどうかは気にしないらしい。
シャルは、んん、と軽く喉の調子を確かめると大きくはないが透き通った声で歌い始めた。
『 暖かき炎の兄上
我ら幼子の前にその御手を揺らしたまえ
その御手は暖かな灯火
その御手は暖炉の守り手
その御手は旅を癒す焚火
春の運び手 夏の踊り子 秋の灯火 冬の守り手
貴方の手はいつも我ら幼子の傍に
永久に我ら幼子の傍に 』
柔らかな余韻を残してシャルの歌は終わった。
目を閉じて聞いていたアーシャはパチパチと賞賛の拍手を送る。
「シャル、すごく上手だね」
「ありがとう。でも私なんかはまだまだよ。私の歌で精霊は動かないもの」
そういってシャルは照れたように笑った。
「私の祖母は水の精霊歌の歌い手として、若い頃はすっごく有名だったらしいの。年をとっても綺麗な声で、私にも良く聞かせてくれたわ」
「シャルもそんなのを目指してるの?」
「そうよ、私も精霊歌の歌い手になりたいの! まぁ、私は火属性の方が向いているから、おばあちゃんとはまた違う方向になるけどね」
呪歌、というのは高度な詠唱魔法の一種だ。
歌に魔力と想いをこめ、精霊に、神にそれを捧げる。
その歌が真実、力あるものであれば普通の詠唱魔法などよりも遥かに大きな現象を動かすことができる。
本当に力を持つ歌い手は奇跡をも起こすと言われるほどだ。
「おばあちゃんはね、若い頃しょっちゅう旅をしていて、日照りの町に良く呼ばれたって言っていたわ。心を込めて精霊歌を歌って、それが届くと雨が降ったって。私は……そうね、春の遅い国を巡ったりするのもいいと思うのよね」
火の精霊歌は冬が厳しい土地で遅い春を請う時や、冷夏や長雨で作物が育たない時に人々の祈りと共に歌われる。
シャルに似合っているとアーシャも思う。
「だから、学校を出たらまずは世界を旅して、色んな歌を集めながら世界を回って、集めた歌を歌おうと思ってるの」
「歌を集めるの?」
そう、とシャルは頷いて遠くを見る目をした。
心はまだ見ぬ世界へと旅をしているかのような瞳だ。
「そうよ。呪歌や精霊歌でなくても、素敵な歌は沢山あるしね。そういうのを皆歌いたいわ」
「……いいね。その時は私にも聞かせてほしいな」
「もちろん!」
華やかな、美しい笑顔にアーシャは一瞬見とれる。
炎に愛された者はそこにいるだけで見る者の心を鼓舞するような不思議な存在感があって、少し眩しい。
アーシャの耳に火の歌が聞こえる。
火の精霊が、シャルの心に湧いた夢と希望を称える勇壮な賛歌を歌っている。
例えそれが彼女の耳に届かなくても、精霊達は楽しげに歌う。
また歌い始めた少女の歌と、精霊の歌が絡まり風に運ばれていく。
アーシャはその二つの旋律に静かに耳を傾けていた。