プロフェッサー 8
パリに入って馬車の速度を少しは落としたものの、抜けた後は再びスピードを上げ、何とか日が変わらないうちにオルレアンに入ることが出来た。オルレアンに入る直前に豪雨に見舞われたが、ものの数分で止んでしまう、一時的なものだった。
エインの言うメルヴェイユの宿は、オルレアンの中心から少しだけ離れた場所にあり、街の喧騒を感じない静かな宿だという事だった。
実際宿に着いて辺りを見回すが、木々の間に家が並び、遠くに街の灯りが煌々と輝いているのが見えるだけの、何もない場所だった。夜中の訪問だというのに、店主のメルヴェイユは快く一行を迎え入れ、温かい紅茶まで用意してくれた。
紅茶には、疲労によいと言って、ボルドー産のワインをジャム代わりに入れてあった。
「メルヴェイユさんの宿は、パリを訪れるたびにお邪魔するんだよ。
この紅茶は美味しいよ。使っているワインも絞って日の浅いものだから、アルコール度もそんなに高くないし、糖度は砂糖代わりになる。
甘くて温かいから、疲れている体にはとてもよい。
ぐっすり眠れますよ。」
エインが言うと、トンプスンがウィリアムズを見てにこにこと笑った。
「ローランは知らないだろうが、旦那様は生前、こちらによくお邪魔していたんだよ。
お屋敷に教授がいらした時も、オルレアンに立ち寄った際、こちらのお世話になったという話を聞いて、『メルヴェイユが宿泊を許したなら、問題ない。』と仰って、それで教授に部屋を。」
「そうなんですか。」
「そうなんだ。」
ウィリアムズが言うと、エインが頷いた。
「ウィリアムズさんがまだ、あの屋敷に来る前の話だけどね。」
すると、メルヴェイユが無言のまま奥のキッチンへ向かい、すぐに戻って来た。手には、真っ白な丸い砂糖菓子が盛られた小皿が乗っている。
「ベルトワーズの旦那様は、これがひどくお気に入りでした。
みなさんもいかがですか?
今からでは夜食もご用意出来ませんが、甘いものは疲れを癒し、脳の働きを活性化させると言いますから。」
そう言って、砂糖菓子の皿を一行の囲むテーブルの上に置いた。
「ボクもこれ好きなの。」
そう言って、エインが一つ摘んだ。余りに美味しそうに食べるので、トンプスンとウィリアムズも、そそられて手を出す。若干体に疲れを感じていたヴィヴィアンも、最後に砂糖菓子を摘んだ。
口に入れると、じんわりと溶けて、粒も残らずなくなった。
後味は軽く、仄かにミントのような香りが鼻を伝って行った。
各々心地好く味わっている中で、ヴィヴィアンはただ一人、その味に古い記憶を思い出し、メルヴェイユを見た。
メルヴェイユはにこにこと笑っていたが、ヴィヴィアンと視線が合うと、周りに解らないように口に指先を当てた。
ヴィヴィアンが思い出している事を悟り、『言うな』という意思表示だったが、それを理解するなり、ヴィヴィアンは焦った。
そんなやり取りに気付きもしない男三人は、紅茶のせいか、疲れのせいか、うとうととし始めたようだった。
苦笑するメルヴェイユに案内され、各自部屋へと散る。
今回は基本個人部屋の宿であった事もあり、エインとヴィヴィアンは別の部屋になった。
エディンバラのエインの屋敷から出て、そういえば独りになる事はなかったように思う。
オイルランプの灯る部屋は、馬車よりは広いが、エインに宛がわれた部屋よりは狭い。
滞在数分という状況だったのに、エインの屋敷が恋しくなった。
そして、ずっと一緒だからか、独りになって、エインも恋しくなった。
読書に耽っていない間の、あのお喋りにはウンザリもするが、ないとないで耳が寂しい。
ベッドに横になると、壁の向こうからコトリという音が聞こえた。隣はエインだ。何かしているのだろうか。
耳を澄ますために、目を閉じる。
窓の外からは雨音がする。弱いが、まだ降っているのだろう。
ふと、先程の砂糖菓子の味が蘇った。
あの味。あの味が、ここにある訳がない…。
それに、店主のあの仕草は、何を意味すると言うのか…。
「あの人…。
何を知っているというの…。」
呟いて、目を開けたとき、ドアの向こうで廊下を歩く足音が聞こえた。
ヴィヴィアンは起き上がって、足音を消してドアに歩み寄った。
ドアに耳を当てると、エインの声が聞こえた。
「…大丈夫だよ。心配ないから。」
「エイン。あの人は心配だ。
よくない。」
もう一つ声がした。声は、メルヴェイユのようだ。
「エディットも心配性だなぁ。大丈夫だよ。
彼女は心配ない。」
「エイン…。
あの人はよくない。あの人は軍の…。」
メルヴェイユが言いかけて、止めた。遠くから、ドアが開く音が聞こえたためだ。
次いで、とても小さく、
「どうなさいましたか、教授…?」
と、トンプスンの声がした。
トンプスンの部屋は廊下の突き当たりで、エインとヴィヴィアンの部屋からは随分離れていた。声が小さいのも、距離のせいだろう。
「ああ、済まない、トンプスンさん。煩かったかい?
お疲れのところ、ごめんなさい。
こちらは大丈夫ですよ。」
「そうですか。ならばよいのですが。
それでは、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
「おやすみなさいませ。」
エインとメルヴェイユの声に見送られ、トンプスンがドアを閉めたようだった。
「…エイン。」
トンプスンのドアが閉まった後、暫く無言になり、しかしメルヴェイユが繰り返した。
「大丈夫だよ。ちゃんと解ってる。心配ない。」
声を殺しながらも、おどける様子を含ませて、エインが答えた。
メルヴェイユは諦めたようで、「解ったよ」と言うと、階段を下りて行ったようだった。
エインは暫く佇んでいるようだったが、やがて小さく溜め息を吐いて、部屋へと戻って行った。
そして、壁の向こうからベッドに勢いよく倒れ込む音がし、すぐに静かになった。
「…。」
身動ぎせず、息をも殺していたヴィヴィアンは、重たい溜め息を吐いてドアから離れ、ベッドに腰掛けた。
「何を…、知っているの…。」
呟いて、沈黙をする。鎮まり返る部屋に、雨音が響く。
いつの間にか、雨は強くなっていた。
◆ ◆
トントンという、ドアを叩く音で目が醒めた。
「ヴィヴィアン、起きてるかい?」
ドアの向こうで、エインの声が聞こえた。
「…はい。」
起き掛けのしゃがれた声で答え、目元だけ整え、ドアを開けると、エインが立っていた。
「申し訳ないね。
昨日遅かったのでゆっくりさせてあげたいんだが、雨が止まないので、早めに出発したいんだ。」
「解りました。」
眉を下げて言うエインに頷いて、ヴィヴィアンが答えると、エインも頷き返して「下にいるから」と階段を下りていった。
雨に濡れて、大して体も拭かぬまま眠り込んでしまった昨夜だったが、体調は特に変わりなかった。
念のためと、少し気持ちが悪かったので、洗顔用の布を濡らし、首から胴回りにかけてを手早く拭いた。
一頻りの身支度を済ませ、足早に階段を下ると、店主とエインが手形のやり取りをしていた。
「済まないね、ヴィヴィ。」
「いえ。」
そう答え、店主を見る。
昨夜の事が気にかかり、店主の様子を伺うが、出会った時と変わらぬ様子でヴィヴィアンににこりと笑った。
「またお待ちしております。」
「…お世話になりました。」
妙な緊張感を覚えて、ヴィヴィアンは慎重に返事をした。カバンを持つ手が、じんわりと汗ばんだ。
そんなヴィヴィアンの様子を悟ったのか、エインが「早くしよう」と声をかけ、馬車へ向かった。早く立ち去りたかったヴィヴィアンも、エインに続く。
外は霧雨が降っていた。風が吹くと、雨粒が体に纏わり付く。
「また来ます。メルヴェイユさん。」
馬車に乗り込み、小窓から手を振り、エインが言うと、メルヴェイユが無言で頷いた。
手短な挨拶を終え、一向は早々にオルレアンを出発した。ゆっくりと街を見る事が出来ないため、小窓を開けて外を臨む。暫く走ると、オルレアンの街を二分するロワール川を渡る直前に、左手遠方に大きな建物が見えた。
「あれがオルレアン大聖堂だよ。
サント=クロワ・ドルレアン大聖堂。オルレアンの聖十字架大聖堂という。
一五〇年ほど前に、一度壊れてしまったのを再建したんだ。
ジョーン・オブ・アークは知っているかな?」
ヴィヴィアンの後ろから小窓を眺めていたエインが、問うた。
「イングランドで”魔女”と異端視されているジャンヌ・ダルクの事ですね?」
「うん。
一四二九年に、ここオルレアンを、当時占領していたイングランド軍から解放し、長らく不在だったフランス国王の座に、シャルル七世を即位させるためフランスに貢献したんだ。
だがその半年後、未だイングランド支配下にあったパリ奪還を主張した事でブルゴーニュ軍に捕らえらてしまう。
その時、イングランド軍からの街開放という恩恵を受けたここの市民たちが、身代金を支払っているが、結局イングランド軍に身柄を預けられ、そのまま異端審問裁判にかけられてしまう。
シャルル七世即位のきっかけとなった聖女カトリーヌやマルグリット、大天使ミカエルの声が聞こえたという主張や、男装を好んでいた事が理由だが、実際は、オルレアンやその周域を奪還されたブルゴーニュ公やイングランド軍の腹いせと、用無し故に処理に困ったシャルル七世の差し金に因るものだったという事を証明する文献が見つかっている。
実際、オルレアンから保釈のために支払われた身代金は、シャルル七世に没収されているしね。彼女は、宮廷内では用無しと疎まれていたらしい。
彼女は、判決直前に自らを異端と認め、カトリックへ改宗を誓ったが、その後すぐに監禁されていた塔内で、禁じられた男装をして、結局火刑になった。
それでもオルレアンの人々は、彼女を讃え、大聖堂までの道は、ジャンヌ・ダルク通りと名付けられた。」
エインが話し終えたとき、目の前に、今の道に垂直に交わる大きな通りが広がった。
「この道ですね。」
ヴィヴィアンはそう言って、道の向こうの大聖堂を見つめる。
遠く離れていてなお、道の先の大聖堂は大きく高く聳える。
主要施設は石造りやレンガ造りではあるが、主立って木造りの民家の並ぶ街並みの中では、大聖堂はジャンヌ・ダルク同様、少々異端に見えた。
「そう。
彼女は、フランス軍やオルレアンのように、関わりを持った事のある都市の民衆には人気が高いが、フランス全土でみるとそんなに知られた存在ではない。
逆に、イングランドでは未だに、彼女は”魔女”であり、”異端”であり、嫌われ者だね。」
ヴィヴィアンの後ろから大聖堂を覗いていたエインが、少し溜め息を吐いた。
「まぁそんな事があった以降は、元々古代から盛んだった商業を中心に、この街は復興を遂げて発展の一途を辿っている。
昨夜は雨も降っていたし、暗かったので見えなかっただろうけど、この周りの農業も、ルイ一一世のお蔭で活性化した。特に料理の香料や衣類染めに使う染料サフランの栽培が盛んで、この街の発展に大いに貢献している。
さらに、これから渡るジョルジュ橋は、通行料が必要でね。この金も、この街の貴重な収入源だ。
日を追う毎にどんどん潤う。街並みの印象とは対照的に、この街は非常に裕福なんだよ。
ロワール渓谷のほうには、この辺りを旅する富裕層のための施設や住居も充実している。
オルレアン大学という、今から五〇〇年も前からある大学があるんだけど、ここに通う生徒も富裕層の子供が多い。
歴代の生徒の中には、後にフランス国王に即位する者までいる。
貧富の差は然程もないが、裕福な中にいて尚生い立ちの格差が障害になるケースもある、厄介な状況だけどね。」
エインが話を一区切りすると、川の中洲前で馬車が止まった。
道は棒によって一時的に塞がれ、何やら人が寄って来た。それを見たエインが馬車を降りる。
そして、ヴィヴィアンには聞き慣れない言葉で話し始め、暫くして、エインがポケットに手を入れ、硬貨を幾らか渡した。
どうやら、先程のエインの話に出てきた、橋の通行料を支払ったようだった。
戻ってきたエインが馬車に乗り込むと、道を塞いだ棒が取り払われ、先へ行く事を許された。
ジョルジュ橋の架かるロワール川はとても大きく、中州から橋の端まで走るにも、十数分を要した。
小窓から振り返ると、川と街の挾間には高い防壁が建てられていた。
「大きいから、川が氾濫するんだ。
そのための堤防だよ。戦争中は、防御壁としても使えたが。」
エインの解説に、ヴィヴィアンが頷いた。
「さて、橋を渡ると街を抜けるにそう時間はかからない。
ここからは外を見ても田園風景。山も谷も徐々に少なくなって、道も平坦になる。若干下るけどね。」
言いながら、エインは前方の小窓を明け、トンプスンを呼んだ。
「ロワール川に沿ってトゥールを目指してください。
早く出たけれど、雨もあるし、川沿いだから何があるか解らない。夕方を過ぎた頃にトゥールに着ければ予定通りかな。
そんな感じでお願いします。」
「畏まりました。
この辺りは道の整備もきちんとしてあるので、大丈夫だと思いますよ。」
「それはよかった。お願いします。」
そう言ってトンプスンに道を任せ、エインは椅子に座り直して、さっさと読書を始めてしまった。
ヴィヴィアンはそんなエインに、小さく溜め息を吐いた。
日に日に会話も少なくなる。語る事も少ないし、街の周辺以外では変わったものもない。
これならまだ、船旅の方が退屈は凌げただろうと思う。
だが、同時に船旅でなくて良かったとも思う。
エインの色々な顔を見た。
仕える者として、主の特性や嗜好を知るのは早い方がいい。
船旅では、今までに立ち寄った先で見聞きしたような話は聞けなかった事だろう。当然、エインに対しても知らぬままになってしまっていただろう。
横目でちらりとエインを見ると、エインは周りに何もないかのように、夢中で本の文字を追っている。
何度も何度も読み返したように、角が折れ曲がり、よれよれになってしまった本だ。
手にした時、既に古かったか、エイン自身がそこまでしたのか解らないが、本を持つ手は丁寧に添えられ、本に対する愛情も感じるし、拘りも感じる。
ヴィヴィアンは、胸いっぱいに息を吸うと、ゆっくりと吐き出して、エインに声をかけた。
「眠っていてもいいでしょうか?」
「いいよ。」
ヴィヴィアンの問いに、エインは即答した。
「朝早かったからね。済まなかったね。」
エインはそう言い、一瞬だけ本から目を離してヴィヴィアンを見、そしてまたすぐに本に没頭したので、ヴィヴィアンは構わず、馬車の側面に凭れて目を閉じた。
そしてすぐに、眠りに落ちた。