プロフェッサー 7
ぺらぺらと、アミアンの大聖堂に関するエインの解説は留まるところを知らなかった。
建築様式に始まり、フランス、カトリック派の歴史、建築家、彫刻家の生い立ちからその生涯まで。
ヴィヴィアンは黙って聞いていたが、正直少しウンザリもしていたし、よくもここまで止め処なく言葉を紡ぎ出す事が出来る、と感心もしていた。が、それもいい加減飽きてくる。
そこへ、天の助けとも言うべき、トンプスンがやって来た。
「やぁ、おはよう。」
悠長にエインが言うと、トンプスンは頭を下げた。
「おはようございます、教授。
お取り込み中申し訳ないのですが、空が急に曇って参りましたので…。」
そう言って、トンプスンが申し訳なさそうに眉を顰めた。
「おや、やっぱり降ってきそう?」
「はい。
シャンティイーに着く頃には、随分な土砂振りになっているかも知れません。
西の空が真っ暗ですから…。
本日中にパリまで行きませんと、明後日の朝にボルドーまで辿り着けません。
お嬢様も心配なさいますでしょうし、そろそろ…。」
「そうだね。
アンを心配させてはいけないな。
急いで出発しましょう。」
エインが腰に手をあて言うと、トンプスンが再度頭を下げた。
今朝の道のりを逆に辿り、宿へ向かう。
店先では、店主が一行の帰りを待っていた。
既に馬車は用意され、荷物も運びだされていた。脇にはウィリアムズの姿もある。
「ご出発ですか。」
「はい。
お世話になりました。」
挨拶しながら、エインがスラックスのポケットから紙を取り出し、店主に渡した。
店主はその紙を見るなり、目を大きく見開いて首を振った。
反応を見るに、約束手形のようだった。書かれている金額は、店主の予想を遥かに超えるものだったのだろう。
「いけません、教授。
このような…。」
言いながら慌てて紙を返そうとする店主を、エインが制した。
「店主。
受け取ってもらわないと、僕の名が廃ります。」
「…。」
にこにこと笑いながらそう言われ、店主は返す言葉が見付からないらしく、少し俯き、そのまま深く頭を下げた。
そんな店主に、エインが手を差し出した。
店主も、姿勢を正して手を握り返す。
「また寄らせて頂きますよ。」
「いつでもお待ちしております、教授。」
そう言い、挨拶を済ませた二人が手を離したところで、エインがヴィヴィアンに振り向いた。
「さぁ、いこうか、ヴィヴィ。」
馬車の扉前に立ち、ヴィヴィアンに手を差し出す。エインの手を借りて馬車に乗り込むと、次いでエインも乗り込み、扉を閉めた。
そして小窓を開け、店主に手を振ると、馬車はそそくさと走り始めた。
再び馬車に揺られ、目指すはパリだ。
「雨になるなら、シャンティイーには寄れないな…。
申し訳ないね、ヴィヴィ。」
謝るエインの方が残念そうで、ヴィヴィアンは一瞬面白そうにその様子を眺め、そして首を振った。
「教授と一緒なら、また来る機会もあるかと。」
表情一つ変えず、気を遣うヴィヴィアンに、エインがふと満足そうに笑った。
「そうと決まれば、パリまで直行しよう。
シャンティイーへ寄らなければ、道も少し変わるからね。」
そう言って、前方の小窓を開ける。
「トンプスンさん、今日はシャンティイーへは寄らず、パリへ直行して下さい。」
エインの言葉に、トンプスンが振り返った。
「畏まりました。
昨日の雨で、まだ若干道がぬかるんでおりますから、助かります。」
エインは、トンプスンに一つ頷いて、小窓を閉めると、さっさと本を開いてしまった。
そこから暫くは、馬車の車輪の音を聞きながら、各自無言で馬車に揺られた。
ヴィヴィアンは、時折小窓を開け、空や風景を眺めた。
風景はどことなくスコットランドに似ているのに、風の匂いが全く違う。
厳密な感覚ではなく、至極曖昧なものなのに、風の匂いの印象が、五感の総てに影響しているような気になる。
馬車の音すら違って聞こえるのは、果たして土が違うからなのか。
思いながらも、口は噤んだまま、時間だけが経っていく。
無言でいる事は苦にならない。
エインも、一度本に没頭してしまえば、周りに何もないくらいに内に篭ってしまう。
しかし、硬い椅子に長時間腰掛け、小刻みに馬車に揺られるのは、少々躰に堪える。ヴィヴィアンは、馬車の揺れに合わせて、小さく節々を伸ばしたり、折り曲げたりして時間を過ごし、その合間に小窓を覗くという事を繰り返した。
幾度となく窓の外の空を眺めるが、一向に雲は晴れず、どんよりと曇っていた。
「降らないね。」
退屈していると思われたのか、エインに話しかけられた。
「降りませんね。
雲は大分、重そうなのですが。」
「シャンティイーは、もうそろそろの分かれ道を左なんだが…。」
言いながら、エインが懐中時計を取り出した。
エインの傍らから時計を除くと、時間は思いの外経っていて、正午をすっかり過ぎていた。
その割りに、外は暗い。やはり雲のせいなのか。
「やっぱり道が悪いなぁ。」
エインがそう言うと、馬車が大きく揺れた。
「この辺りも、カレーからアミアンまでの道に似て、水を溜め込んじゃうんだよ。
森が近いし、水捌けは良さそうなんだけどね。
この分だと、シャンティイー付近はまだぐちゃぐちゃだろうな。」
シャンティイーへ行けない事が、余程名残惜しいのだろう。未だ言っている。
「でも、シャンティイーへの分かれ道を過ぎれば、パリまではすぐだよ。
この分だと夕方には着きそうだね。」
エインはそう言ってにこりと笑い、懐中時計を仕舞った。
程なくして道は左右に別れ、馬車はパリへの右の道を進む。そして、エインの言うとおり、日暮れ前にパリに着いた。
シャンティイーを含むモンモランシーの森を抜けると、パリ郊外が見えた。
郊外故、ところどころに未だ田畑の面影の残る風景ながら、緑と石造りの建物が豪華な雰囲気を醸す、成熟された印象の街だ。
「綺麗な街ですね。」
ヴィヴィアンが言うと、「でしょ?」とエインが言った。
「このまま真っ直ぐ行くと、パリ中心街。
パリはセーヌ川を中心線に、こちらとあちらで円形状に広がって出来上がっている。
郊外にはヴェルサイユ宮殿もあるが、あの辺りは警備が厳しくて近付けないのが勿体無いね。
街自体は極めて平和なんだが、国民と政府との関係がよくないんだ。最近は、少し暴動も増えて来たしね。
パリで長居はしたくないので、パリを抜けて、少し行ったところにあるコミューンの宿で休もうと思う。」
そう言って、エインが前方の小窓を開けた。
「トンプスンさん、オルレアンのメルヴェイユさんの宿はご存知ですか?」
エインに問われて、トンプスンが振り返った。
「はい。存じ上げております。」
「そこで今夜は休みましょう。
あの辺りは自警団がしっかりしているから安全だし、パリよりは静かだ。」
「畏まりました。」
そう言って頷くトンプスンが鞭を一振りすると、鞭の音で馬が頭を上げ、歩速を上げた。
「このペースで行けば、明後日の夕方には、ボルドーに着くだろう。
オルレアンは、紀元前五二年にローマ帝国によって一度滅ぼされたんだが、その後ローマ皇帝のアウレリアヌスによって再建されて、その名が付けられたんだよ。
その後、フランスが北アメリカを植民地にして、中心地にルイ十五世の摂政だったオルレアン公フィリップ二世に因んで、ヌーヴェル・オルレアンなんて街を作ったりしているが。
白い壁の、背の高い建物と、濃紺の屋根の街が綺麗な街だよ。
サント=クロワ・ドルレアン大聖堂という大きな聖堂もあるが、天気も好くないし、アミアンの時のように寄れるかは解らないな。
見てみるかい?」
ぺらぺらと喋った後、エインがヴィヴィアンを見た。
「どちらでも構いませんが、せっかくの機会ですから、時間があれば是非。」
問うてはいるが、本音は『観に行こう』だと悟ったヴィヴィアンがこのように返すと、エインは満足げに頷いて、「時間があるといいねぇ」と言いながら、椅子に深々と座り直した。