プロフェッサー 6
三階へ上ると、階段を中心に廊下が左右へ伸びており、右手が大聖堂へ続く大通りを臨む部屋、左手が路地に面した部屋になっていた。
トンプスンとウィリアムズがどうしても路地側の部屋がいいと言って聞かないので、エインとヴィヴィアンが大聖堂側の部屋を使う事になった。
部屋には手入れの行き届いた、実に使い心地の良さそうな調度品が並び、客を出迎えた。
既に蝋燭と、オイルランプ、暖炉に火が入れられ、部屋は明るかった。雨のせいで少し肌寒かったので、暖炉の火は有り難かった。
「良い部屋だね。」
そう言って、エインがソファの脇にカバンを置いた。
そして真っ直ぐ窓に向かい、少しだけ窓を開ける。
「来て御覧。」
エインがヴィヴィアンを手招きした。
ヴィヴィアンが歩み寄ると、エインは窓の脇に少しだけ身を避けて、窓の外を指さした。
「あれが、アミアンのノートルダム大聖堂。」
エインの指先の向こうに、雨模様の夜の中、沢山のランプとガス灯の灯りが溢れる大きな聖堂が見えた。
南北に二本の塔を持ち、遠目にも解る正面のポルタイユを抱くその姿は圧巻だった。
「この分だと、早朝までは降るな。
朝、雨上がりの大聖堂は、それだけで一つの作品のようだよ。
ノートルダム大聖堂はアミアンだけでなく、フランスやベルギー、ハプスブルグ家領の南ネーデルランドなどの各地に沢山あって、大抵は一一〇〇年から一二〇〇年後半までには完成している。どれも古い聖堂ばかりで、このアミアン大聖堂も一二六六年に完成したと言われている。
アミアンに限って特徴的な事を上げるなら、一二〇二年から一二〇四年までの間行われた、当時のローマ教皇インノケンティウス三世の率いる第四十字軍が、コンスタンティノポリス攻略時に齎したと言われる洗礼者ヨハネの首があると言われている。
このヨハネの母は、イエスの母マリアの親戚とも言われているけど、まぁそんな古い事は、よく解らないけどね。
外観のみならず、堂内も非常に洗礼された造りになっている。
一二六〇年頃に建物が焼けてね、建築様式に関する資料は焼失してしまった。
でも、資料なんてなくたって、あの建物が残っているだけで、十分だね。」
一頻り語り尽くして、エインは大聖堂を眺めた。
ヴィヴィアンも、エインに倣って大聖堂を眺める。
確かに、闇の中にあってもその荘厳さをちっとも失わない、実に美しい建物だと思った。
「歴史なんて書き留めたって、そのうち消えてなくなってしまうんだから…。」
暫し見惚れたあと、エインはそう呟いて、ベッドに身を投げ、いつ手にしたのか本を読み始めてしまった。
ヴィヴィアンは横目でそれを見た後、静かに窓を閉め、夜風で冷えてしまった体を温めに、暖炉の前のソファに腰かけた。
エインに解らないように、ふぅ、と小さく溜息を吐く。それと同時に、エインがぺらりと本を捲った。
「疲れたかい?」
エインが聞いた。
「いえ。」
ヴィヴィアンが短く答える。
「そう。」
そう言って、エインはまた本を捲った。
そこで、ドアがトントン、と二度ノックされた。
ヴィヴィアンがすぐに腰を上げて、ドアを開けると、店主がにっこり笑って立っていた。
「お夕食はどうなさいますか? すぐにご用意出来ますが。」
「ああっ、そうか。」
エインががばっと起き上った。
「食事の事を何も心配していなかった。
すぐ用意して下さい。」
エインが笑って頼むと、店主は軽く会釈をして引き上げて行った。
「ヴィヴィ。
あの二人に、食事の支度をお願いしたから、一階に集まろうと伝えてくれ。」
「はい。」
エインに言われ、ヴィヴィアンも部屋から出て行った。が、すぐに戻って来た。
「解りました、との事です。」
ヴィヴィアンが報告すると、エインがうんうんと頷いた。
「よしよし。じゃあ先に一階に下りていよう。
応接スペースがあったね。」
エインは言いながらベッドを下り、すたすたと部屋を出た。ヴィヴィアンも続く。
軽快に階段を下り、店主のいたカウンター脇にある応接スペースのソファに、ずぼっと腰を掛けると、程無くして店主と、トンプスンとウィリアムズが同時に現れた。
「お食事の用意が出来ました。」
店主が言うと、エインが勢いよく立ち上がって、「食事にしよう」と言いながら店主に続いてダイニングルームへと入って行った。
用意されたのは豪華とは言い難い食事ではあったが、急な宿泊で、昼も食事をしていなかった状況としては、食えるだけ有り難かった。
「お気遣い、感謝します。」
と、エインが、ワインを注いで回る店主に言った。
「いえいえ。
今日は今朝からこんな空模様ですから、宿泊客も巡礼者も少なくて、大した支度もしておりませんでした。
このような質素な食事で申し訳ございません。」
にこやかながらも詫びる店主に、エインは笑った。
「さ、頂こう。」
エインの合図で食事が始まった。
食事中は、各々空腹を満たすため、無言で食事を口に運んだ。時折、天気や道の具合が気になる男三人が言葉を交わすが、特に盛り上がる話題でもなく、すぐに終わってしまう。
食べる事に集中していたのと、食事の量もそれほど多くなかったせいもあり、食事はすぐに終わった。
長旅の疲れもあるからと、馬の様子を見て早めに寝ると言ったトンプスンとウィリアムズとダイニングルームで別れ、エインとヴィヴィアンは自室に戻った。
「ヴィヴィ。
早めに寝るといい。明日は早いし、それからはずっと馬車だからね。」
エインに言われ、ヴィヴィアンも「はい」と素直に従う。
そしてブーツを脱いでベッドに横になると、あっという間に眠りに堕ちた。
顔には出さないが、相当疲れていたのだろう。ヴィヴィアンの様子に、エインが小さく笑った。
ヴィヴィアンが寝息を立て始めたのを見届けて、エインは一人、大きく鼻から息を吐いた。
そして、ベッドの上に胡坐を掻いたまま、窓の外を見る。
「明日は、ちょっと忙しいぞ…。」
独りごとを言い、また溜息を吐くと、眼鏡を外して、髪を掻き上げた。
◆ ◆
突然眠りから醒めて、目を開けると、エインが窓辺で、日の出前の朝靄に溶けかかるアミアンの大聖堂を眺めているのが見えた。
もぞもぞと起き上ると、エインが振り返った。
「おはよう。もう少しゆっくりするかい?」
エインは既に身支度を終えているようで、小奇麗な身なりをしていた。
「いえ。支度します。」
「うん。」
ヴィヴィアンが言うと、エインは「下で待ってるから」と言って、部屋を出た。
ヴィヴィアンはエインを見送ってからそっとベッドから出、少し皺の寄ったドレスを丁寧に伸ばした。
少しはめかし込みたかったが、エインもシャツを変えただけの出で立ちだったので、拘らない事にした。
髪を整え、部屋に用意された水差しから陶器の大きな器に水を入れ、顔を丁寧に洗ったあと、脇に添えられた顔拭き用の柔らかな布で顔の水を拭き取り、少し曇った鏡で顔を覗き込む。
いつもと変わらない顔色だ。疲れはみえない。
そんなによく寝たのだろうかと思いつつ、ヴィヴィアンは部屋を出た。
一階へ降りると、エインは応接スペースで鼻歌を歌っていた。
エインは、ヴィヴィアンの足音を聞くなり、すっと立ち上がって、
「さ。さっそく行こう。」
と言うが早いか外へ出て行ってしまったので、ヴィヴィアンは速足で追いかけた。
昨夜エインが言った通り、ついさっきまで雨は降っていたらしく、地面が濡れていたが、水はけがいいのか、水溜りはなかった。
雨に洗われたせいで空気は澄み、やや寒い。
朝早いせいか、人気はなく、しんと静まり返っている中、エインとヴィヴィアンの足音だけが聞こえる。
靄のアミアンは、昨夜の印象とは打って変わり、穏やかで厳かな雰囲気の街だった。
ヴィヴィアンがきょろきょろと街を見まわしていると、エインが振り返りもせずに話しだした。
「この街は、織物産業が盛んで、特産品でこそないが、質の良い織物が手に入るので、海外からの貿易商も出入りも多い。
部屋の顔拭きを使ったかい?」
「はい。薄手なのに、柔らかな布でした。イギリスではあまり見かけません。」
「うん。
ああいった、織物といっても細い糸を使って紡ぐ薄手の布の生産にかけては、周辺の地域より少しだけ技術力が高くてね。
街の四分の一が、織物産業にかかわっている。」
言いながら、エインが歩みを止めた。
小さく溜息を吐いて、背筋を伸ばす。
街に目を向けていたヴィヴィアンが、エインの少し後ろで立ち止まって、エインの視線をなぞると、目の前に大聖堂が聳え立っていた。
宿のある二区画目から見ても相当に大きな建物だと思ったが、やはり間近で見ると迫力は段違いだった。
高々と造られたファサードには、聖書の”最期の晩餐”のポルタイユが施され、さらにその周りに聖人たちのポルタイユが並ぶ様は、イエスを守護しているようにも見える。
圧倒され見上げていると、不意に扉が開いた。
「おはようございます。ご参拝でございますか?」
老僧が扉から顔を出し、エインとヴィヴィアンに微笑みかけていた。
「はい。よろしいですか?」
「もちろん。」
そう言って、老僧が扉を開けた。
エインが扉の中へ入って行く。ヴィヴィアンもエインに続いて入った。
堂内はほんの少しのガス灯が灯るだけだったが、高い天井付近にある採光用の高窓や、サンクチュアリのあるシュヴェに添えつけられたステンドグラスから外界の光が毀れ、思ったほど暗くはなかった。
床には正鉤十字が無数に描かれ、柱や壁のレリーフに負けず芸術的だった。
どこへ行ってしまったのか、老僧の姿は既になく、目の前のエインは満足げに、身廊のヴォールトを見上げている。
「ここの身廊はフランス内の聖堂の中では最も高い。
ここまで天井が高いと、建物の中という感覚には程遠いな。」
空ほどに高い身廊の天井を見上げ、エインの話に耳を傾ける。
しかしヴィヴィアンは、エインの声に混じって、何かこつりという物音を聞いた。
「…。」
エインの話の腰を折るのも憚られ、ヴィヴィアンは無言で物音の根源を探した。
物音は広く静かな堂内のあちこちの壁にぶつかって反響し、四方八方から聞こえる。
説教台は基より、礼拝堂にすら人がいないこの堂内で、何かが一定のリズムで物音を立てている。
エインは聞こえないのか、ずっとゴシック様式の解説をしている。
が、やがて、それと解るほどはっきり、こつりという物音が響いた。ヴィヴィアンがその方向を察するや否や、何か黒い影がエイン目掛けて降って来た。
ヴィヴィアンがエインの前に即座に立ち、左腕を構え影を食い止める。
ヴィヴィアンの俊敏な動きにやや遅れ、ドレスが大きく揺れた。
影が体に纏う黒い大きな布も、飛び降りる動きと食い止められた反動で、靡いた。
影とヴィヴィアンの視線が混じる。
ヴィヴィアンは影を睨み、影もヴィヴィアンを睨んでいた。
しかし、次の一瞬で影はヴィヴィアンを踏み台に側廊へと飛び跳ね、ファサードへと走って行ってしまった。
ヴィヴィアンが追おうとすると、
「ヴィヴィ。」
と、エインが止めた。
「いいよ。放っておきなさい。」
エインの発言に、ヴィヴィアンが驚く。
「しかし…。」
「いいよ。有り難う。ヴィヴィのおかげで助かった。
今日はもう襲って来ないよ。」
エインが悠長に言うので、ヴィヴィアンが眉を顰めた。
「どういう…事でしょうか…?」
ヴィヴィアンが訊ねるが、
「うん? まぁ、そのうち解るよ。」
とエインは一言言って、かつかつと足音を立てて内陣へ歩いて行ってしまった。
残されたヴィヴィアンは、ファサードを振り返る。
何もなかったかのように堂内は静まり返り、扉もきちんと閉められていた。
一体、何者…?
扉を睨みつけるヴィヴィアンを、後ろでエインが呼んだ。
「ヴィヴィ。
おいで。ガイドをしてあげよう。」
楽しそうな声に呼ばれ、ヴィヴィアンは仕方なく溜息を吐いて、エインに駆け寄った。