プロフェッサー 5
カレーは古代ローマの時代から、ブリテン諸島と諸ヨーロッパの大都市を結ぶ中継点として栄えて来た街だ。
カレーのみならず、カレー周辺の都市は港湾都市として造船や貿易によって栄え、賑わっている。カレーはその中心とも言える街で、大きな船の往来も一層多い。
町はレンガ造りの美しい建物が並び、道も舗装され馬車の揺れも少ないので評判は高い。
「フランスは初めてかい?」
エインはカレーの街を眺めながら、ヴィヴィアンに訊ねた。
「はい。イギリスから出る事はありませんでしたので…。」
「そうか。フランスのワインはイギリスのワインより美味しいんだ。これは個人票だけどもね。
本当は、ボルドーまで船を使ったほうが早かったんだが、どうしても、シャンティイー城を見たくてね。
とても美しい城だよ。一目でも見ておくといい。」
エインが上機嫌に語った。
「シャンティイー城は、モンモランシー家やブルボン=コンデ家らが増築改築した城で、特にプチシャトーと呼ばれる一角は本当に美しい建築物だよ。
森と水に囲まれた様子は、スコットランドの建築物には中々ない雰囲気だね。
スコットランドやイギリスの建築物も美しいとは思うが、ボクはこのシャンティイーがとても好きでね。
パリからそう遠くはないし、ここに寄った後、パリを経由してボルドーに行くと、船での移動距離と大して変わらないから、ボルドーに行くときは寄ると決めているんだ。」
山間谷間の道だが、馬車で移動出来ない地形じゃないので、と付け加えて、エインは人差し指を立てた。
「それに、これから行くベルトワーズ邸が、このシャンティイー城を模して作られた建物だから、予習がてら、ね。」
なるほど、とヴィヴィアンが頷いた。
「ベルトワーズ伯爵は、旅好きなお人でね。東も北も南も行っちゃうような人だから、若い頃はあまり家には居付かなかったらしいんだけど。
ボクが出会った頃には既に旅行から引退して、若い頃に集めた書物の整理を趣味に過ごされていたよ。」
「いつ頃、お知り合いに?」
「うん、五年以上前になるかな。
フランスの地理には詳しいかな?」
「いいえ。
でも、シャンゼリゼ通りは存じております。」
「そう。正しくそのシャンゼリゼ通りの歴史を調べていてね。メインテーマではなかったんだが…、知っているかな、シャンゼリゼ通りの名の由来を。」
「確か、ギリシャ神話から採られた、とか…。」
「そうそう。
ギリシャ神話に記されている”有徳の人々のための死後の世界『エリュシオン』”を語源としているので、その理由が知りたくてね。当時の文献が残っていないか、フランスまで探しに来たんだ。
そこで、とある古書商人に、伯爵ならお持ちじゃないかと教えられて、ボルドーの邸まで押しかけたのが切欠。
時折ボクの講演を聞きに来てくれたりしていたらしくて、ボクの事をご存知でね。
快く部屋を貸してくれて、好きなだけ滞在してよいからと、許可を下さったんだよ。」
「研究については…?」
「未だ研究中。」
そう言って、エインが笑った。
「中々、目的の”場所”まで辿り着かないんだ。
色々な方面から遠回りを強いられる研究でね。
まぁ、そんな事は横に置いて、それ以降、二度ほど邸にお邪魔しているんだけど。
随分良くして下さったので、死んでも感謝し足りないよ…。」
最後はほんの少し切なそうに、締め括った。
そのまま窓の外に向いてしまったエインの横顔を見、ヴィヴィアンは『シャングリ・ラ』のメモを思い出し、なるほど、未だ研究中のものなのかと納得する。
「雲が濃くなって来たな…。」
エインが独り言を言った。「そろそろ降るかもな。」
ヴィヴィアンも、自分の横にある小窓から外を眺める。
街の隙間から空を臨むと、確かに先程よりも、雲が厚くなっているようだった。
「大雨にはならないだろうけど…。」
そう言いながら、エインがクーペの前方にある、運転手と会話するために備えられた小窓を開けた。
「トンプスンさん、どうかな?」
「そうですね…」と通じている様子で、トンプスンが答える。
「そう激しくはならないでしょうけれど、夕方を過ぎた頃に少し降るかも知れません。
その頃には、アミアンに差し掛かるでしょうから、そこで雨脚の様子を見てもよろしいかと。」
トンプスンが慎重に言った。
「わかった。アミアンで宿を取ろう。馬にも無理をさせては行けないからね。」
「申し訳ございません。」
「謝る事はありませんよ。トンプスンさんとウィリアムズさんも蜻蛉還りの道だからお疲れでしょう。
ボルドーまでゆっくり向かいましょう。」
「畏まりました。」
トンプスンの返事を待って、エインは小窓を締めた。
「夜にアミアンまでは行けそうだ。
宿を取って、早朝にアミアン大聖堂を覗こう。勿論、観た事ないだろう?」
「はい。」
ヴィヴィアンが頷くと、エインは何故か満足げに溜め息を吐いた。
◆ ◆
夕方を過ぎ、一層空が暗くなった。
それを認識すると間もなく、雨もぱらついた。
馬車は、トンプスンとウィリアムズの二人によって、慎重に走り、アミアンを目指していた。
カレーの街を抜けた後は、ずっと田園風景が広がっていた。
「この辺は、ピカルディー地域圏と言って、さらにアミアン周辺の地域を除く、ランやボーヴェと言ったコミューンを中心とした地域は、ヴァロワと呼ばれる。
今から八〇〇年ほど前に西フランク王国が断絶して、パリ伯ユーグ・カペーを始めとするカペー朝によって成立したのが今のフランス王国と言われているが、その四〇〇年弱後にカペー朝シャルル四世が没した後、王座を継いだのがこの辺りを収めていたヴァロワ伯。
今から四三〇年前の事だね。
そこから約二五〇年間のフランス王朝を、ヴァロワ朝と呼ぶんだけど。
その前のカペー朝時代に建築されたのが、アミアンにある大聖堂だ。
正式名称を『アミアンのノートルダム大聖堂』と言って、『アミアンにおける我らが貴婦人(聖母マリア)の大聖堂』という意味らしい。
荘厳、優雅なゴシック形式の建築物で、非常に美しい。
ボクがシャンティイーの次に好きな建物なんだ。」
ぺらぺらと本を捲りながら、エインが喋った。
ヴィヴィアンは、ただ黙って聞いていた。
「アミアン自体は、カペー王朝時代の名残の残る、繊細華麗な建物の並ぶ街でね。
ボクは見ているだけで楽しいが、派手な特産品がある街ではないので、建築物に興味がないと、つまらないかも知れないな。」
エインはそう続けて、ぽんと本を閉じた。
「最近は、イギリスとフランスの間にちょっとした亀裂が生じていてね。
あまり大っぴらに行き来出来ないんだが、貿易だけは盛んだから、それに便乗して海を渡るしかないのが、辛いところだね。」
「まぁ、すぐに納まるけどね。」と小さく呟いて、エインが窓の外を見た。次いで、ポケットに手を入れ、懐中時計を取り出す。
「大分いい時間だね。
そろそろアミアンの明かりくらいは見えると思うんだが…。」
そう言いながら、ヴィヴィアンを手招きする。
こちらの窓を覗け、という事だと理解したヴィヴィアンは、エインに少し近付いて座り直し、エインの肩越しに窓の外を見やる。
田畑の中に点在する酪農設備と、切り拓いたときに残ったのか残したのか、不可思議に深い小さな森が交互に流れる風景の向こうで、ぼんやりと白い光が見えた。
「ほほぅ、こんなところから見えるんだね。
見えるかな? あれがアミアンの街の灯りだよ。」
すっかり夕闇と強めの雨雫に包まれた世界の中に、ぽっかりと浮かび上がるように光る街灯りは、とても幻想的だった。
街、とまだ判別出来る訳ではないが、この辺りで迷ったならば、間違いなくあの光を目指して歩いて行くだろうと思う。
「トンプスンさん、もうすぐだね?」
エインが少し大きな声を出すと、トンプスンも同じ程の声で応えた。
「はい。お見えになりますか、アミアンの灯りが?」
「うん、見える。」
「あと、小一時間というところですよ。もう少々ご辛抱を。
この先、道も少し悪くなりますので…。」
トンプスンがそう言い終わるなり、馬車ががたりと揺れた。
「この辺りの道は、この辺の住民が時々均してくれるんだけど、土質が柔らかいので、雨に弱くてね。
この感じだと、ここは結構長く降ってたんだろうね。」
エインが楽しそうに言った。どうやら、馬車の揺れを楽しんでいるようだ。
ヴィヴィアンは、窓を覗き込むのをやめて体勢を元に戻し、揺れに備えて座席の縁を強く持った。
「雨のアミアンも美しいんだよ…。」
相変わらず外を眺めながら、エインが呟いた。
それ以降は無言で、到着を待った。
馬車の揺れも慣れてしまうと大した事はなく、窓からアミアンの街を認められる程になった頃、興味本位で窓から道を見下ろしてみると、轍の跡が予想以上に深くて驚いた。
しかし、再び顔を上げた頃には、馬車の揺れも治まった。
馬車の速度も幾らか緩やかになり、すぐにゴシック形式の建物の谷間が見えた。
道は舗装され、馬車の往来が多い故か、道幅もうんと広かった。
気付けば道を走る馬車も増え、店の軒先で雨乞いをする人々が目に入った。
「大分、強くなって来ましたね。」
そう言ってエインを振り返ると、エインは窓辺に頬杖をついて、街並みを楽しんでいた。
「教授。」
トンプスンが呼びかけた。
「ん?」
「宿はどこを?」
「ああ、そうか。
この道を、大聖堂の二区画前辺りまで行くと、少し大きめの宿があるんだ。
看板が下がってるからすぐ解ると思う。
そこ、空いてると思うよ。」
妙な勘が働くのか、実際その通りで、道すがらどの宿も混んでいる様子だったというのに、この宿は大聖堂に近いという立地にありながら、宿泊客は僅かだった。
だからエインが、
「部屋、ボクとヴィヴィで別けても大丈夫なくらい空いてると思うけど、どうする?」
と聞きながら店主の顔を見ても、店主はにこにこ笑いながら一つ頷くだけで、相部屋を強いては来なかった。
「私は…、どちらでも…。」
後で振り返れば、別の部屋でと頼むのが一般的だったのだろうが、ヴィヴィアンが呟くなり、「じゃあ、二部屋。こちらの男性二人と、ボクら二人」と、エインがさっさと伝えると、上客と思われたのか三階の大きな部屋を宛がわれ、大袈裟な鍵が二本手渡された。
その鍵を一本、トンプスンに渡すと、エインが自分の皮鞄とヴィヴィアンのバッグに手を伸ばした。
「ああ、教授、お運びします。」
トンプスンとウィリアムズが慌てると、「ああ、いいよいいよ」と、エインがにやにやしながら言った。
「お屋敷の外では、気楽にして欲しいよ。」
そう言って、エインは階段を上がって行ってしまった。