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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
潮騒の庭で
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潮騒の庭で 7

 時間よりやや遅れ、エインは戻って来た。

 フィッティングルームのカーテン越しに店の扉が開く音を確認し、「戻ったよ」というエインの声を聞くなり、アラベラはヴィヴィアンの緑色のドレスをハンガーごと外し、簡単に畳んだ。そして、戸惑うヴィヴィアンに一つウィンクをすると、カーテンをばっと開ける。

「待ち草臥れましてよ教授!」

 笑いながら叱り、ヴィヴィアンのドレスを傍らに置くと、ヴィヴィアンを見て頷いた。

 出て来い。

 そういう事であるとは理解したが、何となく気恥ずかしかった。

 おまけに、足にフィットはしているものの、履き慣れない靴と、動くたびに揺れるアクセサリーがくすぐったい。

 ヴィヴィアンは一歩一歩、足元に穴でも空いている様な、探るような足取りで、フィッティングルームを出た。肩を竦め、顔も俯きがちに。

「さあ、ご覧になって、教授。」

 アラベラに、強引にくるりと回された。エインと真正面に向き合う。

 おずおずと視線を上げると、エインは目を細め、柔らかな微笑を湛えて、壁に凭れかかり、腕を組んでじっとヴィヴィアンを見ていた。

 ヴィヴィアンの頭の中は真っ白だった。似合うかと問う事も、恥ずかしさを訴える事も何も思い浮かばず、ただ、エインの視線を浴びる。

 胸元で組んだ指をぐっと握ると、エインが口を開いた。

「いいね。」

 静かに、そして何より、感嘆と喜びとを全身から吐き出したような声で呟かれた言葉に、ヴィヴィアンの頬が少し赤らんだ。

「ね?」

 アラベラが然も当たり前と言うようにエインにほくそ笑み、そこらに置いたヴィヴィアンの元のドレスに歩み寄った。

「これは、お送りで宜しいのよね?」

「うん、頼むよ。」

「承知致しました。多分、四日のうちには届くと思いますわ。お屋敷をお留守になさらないでね。」

「勿論。」

 事前に打ち合わせでもしていたかのようにドレスの処遇について短く言葉を交わした後、エインは傍らの背の低い飾り棚の上で小切手を切ると、アラベラに手渡した。

「あら、少し多いですわ、教授…。」

「いいよ、そのくらいの価値があるからね。」

 そう言ってヴィヴィアンを見る。

 アラベラも、満足そうに笑って「お気に召して頂けたのなら」と、小切手を受け取った。

「さて、ヴィヴィ。少し散歩をして、夕飯にしよう。」

「え…。」

 バッグを良いしょと持ち上げ、エインが早々に店を出て行こうとする。

 呆然としていたヴィヴィアンは、そこで、屋敷までの間、このままの格好である事に漸く気付いて慌てた。勿論、このドレスにエインが支払った金額を返す事も出来ぬし、このようなドレスを贈られる理由もない。

 だが、何をどう言っていいか解らず、ただエインとアラベラを交互に見ていると、エインが仕方なしと苦笑して言った。

「ちょっと、畏まった店に行こうと思うんだ。その格好の方が、有り難いんだけど。」

 そう言われてしまうと、ヴィヴィアンも退かない訳にいかない。

 渋渋承知すると、エインに歩み寄った。

「じゃあ、アラベラ。また近いうちに。」

「お待ちしてますわ。」

 ささっと挨拶を済ませ、店を出て行くエインを慌てて追いながら、ヴィヴィアンはアラベラに振り返り、膝を少し曲げて挨拶をした。

「また会いたいわ、ヴィヴィアン。

 必ず…。」

 そう言って寂しそうに微笑むアラベラに、ヴィヴィアンは深く頷いた。

「また、参ります。必ず…。」


◆ ◆


 目当ての店はアラベラの店から歩いて五分程度の距離にあった。ハイド・パークの南東すぐにところにある小さな公園を抜け、さらに大通り沿いに建ち並ぶ高級宝石店やブティックを横目に少し歩いたところにある。

「予約は出来なかったんだよね、空いているといいんだけど。」

 そう言って、エインが扉を開けた。

 カランと一つ金が鳴り、音を聞きつけた身形の良い初老の男性が二人を出迎える。

「これはこれは、教授(プロフェッサー)。ようこそ。」

 顔見知りであるらしい男性はエインに手を差し出す。

「支配人、ご無沙汰しています。流石、相変わらずご盛況のようですね。」

 どうやら男性は支配人であるらしい。握手を交わし、店内を見回すエインの視線に倣い、ヴィヴィアンもぐるりと視線をめぐらせる。

 エインの言うとおり店内はほぼ満席状態で、口口に交わされる会話に混じって、店の奥ではヴァイオリニストがちょうど良い音量で曲を奏でている。

「お蔭様で。」と支配人は言い、エインの視線を店の脇にある階段へ誘導する。

「お二階の特等席は空いております。ご準備致しましょう。」

 支配人はそう言うと、二人を二階へ案内した。来馴れた様子で階段を昇るエインに続き、ヴィヴィアンも階段を昇る。履き慣れない靴なので段差に足を上げるのが思いの外ぎこちないが、ドレスのスカートを少したくし上げて昇り切った。

 二階は三つの個室に仕切られていて、三つともドアが開け放たれていた。支配人はその内の一番奥の部屋に、二人を招く。

「こちらのお席でいかがでございましょう。」

「ありがとう。助かります。」

 エインが承諾をすると支配人がウェイターを呼び、あっという間に食事の場に切り替わった。

 引かれた椅子に腰掛け、エインと向かい合う。

 「本当にただの食事だから、楽にしなさい。」と言われたが、着慣れないドレスのせいでそれもままならない。楽をしている風を装って、ヴィヴィアンはエインを見た。

 エインは背凭れに体を預け、だらりとしながら窓の外を眺めている。

「疲れたね…。」

 ぼそりと呟く声はこれでもかとその言葉を語るに相応しい溜息混じりの声だ。

「美味しい食事で元気が回復すればいいんだが。」

 そう言って、エインがちらりとヴィヴィアンを見た。

「よくいらっしゃるのですか?」

 支配人とは慣れた様子だったので尋ねると、エインは頷いた。

「ロンドンに来た時はね。年に一度か二度くらいしか来られないけれど。味は保証するよ。」

「楽しみです。」

 ヴィヴィアンが受けると、扉が二度叩かれ、開いた。

「お待たせいたしました。」

 支配人が声をかけ、後ろからウェイターがワゴンを押して入る。

「本日は上等な白アスパラガスが手に入りましたので、スープに致しました。付け合せのパンも今朝挽いたばかりのライ麦粉を使用しておりますよ。」

「大きな商船でも来たんですか?」

「いえいえ。知人が趣味で始めた農園で育てていたのを分けて頂きましてね。大変いい育ち振りだったのですが、傷が酷くて。」

「それでスープにね。」

「然様でございます。すり潰した玉葱と、ミルクとを合わせておりますので、少し甘めに仕上がっております。」

 支配人の案内の間にスープは並べられ、目の前で湯気を立てていた。玉葱とミルクの香りの中にきちんと白アスパラガスの甘い香りも混じっている。

 スプーンで掬うとさらりともどろりとも取れる絶妙な濃さの液体がスプーンから溢れ落ちる。一口、口に含めば甘いミルクの香りの中に微かにアスパラガスの風味がする。

 この店に信用を置くには、この一口で十分だった。

 言葉なくもその様子に、支配人は満足した様子で給仕を進める。

 その後も運ばれる料理はどれも絶品だった。ベルトワーズやサジュマンの屋敷、エリーズでの食事もかなりのものであったが、それとはまた次元の違う質であった。

 自然とヴィヴィアンの口元も緩み、エインとの何気ない話もそれなりに弾んだ。食事は、楽しい時間として終わった。

 デザートのあとの紅茶を飲み干し、十分な食休みを済ませ、店を出たのは夜七時の事。辺りは暗く、街灯がきらきらと輝く。夜と言えど流石はロンドン。建物と街灯の御蔭で足元がくっきりと見えるほど明るかった。

「少し歩こう。

 アラベラの店で用事をしている間に長距離馬車を呼んであったんだけど、ちょっと早めに食事が終わってしまったんだ。まだ一時間くらいあるんだよね。」

 くすくすと笑いながら歩き始めたエインの手には、荷物が二つ握られていた。

「荷物を…。」

 と言うと、エインは「いいよ。」と言って歩いて行ってしまう。ヴィヴィアンはなるべく離れないようについていきながら、エインの背中を見詰める。

「少し歩くけど、いいかい?

 ウェストミンスターの方まで。」

「はい。」

 つい五年ほど前に設立されたばかりのてバウストリートランナーズによる治安維持活動が行われ始めたとは言え、夜になれば言うほど治安が良い訳ではない。ただ、それでも夜通し市警による見回りは行われ、昔ほどは夜の出歩きも危険ではなくなった。特に男性との出歩きなら十中八九襲われる事はない。路地にさえ入らなければ、それなりに安全は保たれている。

 少し行くと、テムズの川辺が見える通りに出た。一旦出来た街を整備し直しているので、少し見通しがいい。

 川の上流へと向かう。飲食店や宿屋が並ぶこの通りは、人気は絶えず賑やかだ。だが、ウェストミンスターに近付くにつれ、徐々に住宅地が多くなり、人気も疎らになって行った。ただ、この辺りも元々富裕層が出入りをする地区だった事と、コーヒー・ハウスの御蔭か完全に同層の溜まり場と化しており、議論がエスカレートしての口論こそ聞こえ来るものの、やはり身構えるほどの危険はない。整備のされた馬車が所狭しと道端を占領し、主人の帰り待ちの従者がかったるそうに夜空を見上げるばかりだ。エインも時折ヴィヴィアンを気にして微かに振り返るが、彼はヴィヴィアンの顔を見る事無く、首を戻してしまう。

 そうしてエインにしては珍しく、無言のまま歩いて四、五十分ほどたった頃、ウェストミンスターとウォータールーとを繋ぐ細い橋が見えた。一六六六年のロンドン大火以降、区画整理を兼ねた再建とともにテムズ川の橋架工事も盛んに行われている。そのため、仮設置か否かに拘わらず数多の橋がかかっている。元々テムズ自体の幅が広い上に、ロンドン自体が大きいため、橋もかなりの数が必要になる。河川開発だけでも、相当な工事になるのだ。見えて来た橋は、その中の一本である。

「あの橋の辺りで、業者と待ち合わせだよ。」

 久々にエインが口を開いた。

「橋の上で待とう。眺めもいいからね。」

「はい。」

 橋に辿り付き、エインは荷物を足下に置いて、川辺を眺め始めた。どことなく楽しそうなのは、顔付きのせいなのかわからない。

 並んで立つと、一呼吸置いてエインがポケットに手を入れ、肘をヴィヴィアンに向けた。そしてヴィヴィアンに少しだけ振り向くと、何やら無言で訴えた。

 ヴィヴィアンは暫く理解が出来ず、エインの顔を眺めていたが、ふと腕を組むように言われていると気付き、はっとしてエインの肘を見た。川の冷たい風が吹き抜け様にヴィヴィアンのスカートの裾を揺らす。隙間風のように脚を風が冷やして行く。

 咄嗟、暖を取るが如くエインの腕に手を添えると、エインは満足そうに再び川へと視線を戻した。ウェストミンスターの橋から眺める川は、町の灯りを水面に映し右に曲がる。何とも絵になる風景だった。

「五年後には、バッキンガム・ハウスはジョージ三世のものになり、永いバッキンガムの拡張が始まる。バッキンガムの拡張がひと段落した頃には、ロンドンは世界一の大都市さ。まだ土が見え、河川整備すら完了していないこの街が、ここから百年をかけずに一度は世界の頂点に立つ。

 」

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