プロフェッサー 3
あの人はどこ…。
確かこの庭を横切って…。
恐ろしいほどに花の咲き乱れるこの庭を横切って…。
茂みの向こうに、湖が…。
湖が見える…。
その湖の畔に…。
深い樹木に囲まれた、小さな湖の畔に…。
足が縺れる。
でも走らなければ。
手遅れに、手遅れにならないうちに…。
間に合わなければ。
間に合わなければ、また…。
ザクザクと芝生を踏み潰す足音に紛れて、ドンと音がする。
一回…。
ドン。
二回……。
無事で、無事でいてくれ。
茂みを潜る。
細い枝が肌を引っかく。
痛い…。
ああ、でも、あの人はもっと…。
手で掻き分けた茂みの先が拓けた。
湖が見える。
この湖の、右の畔…。
ああ…。
また…。
また、間に合わなかった…。
駆け寄り、横たわる躰を抱き起こす。
小さな、白い顔が苦痛に歪んでいる。
しかしもう、息はない…。
ああ…。
これで何度目だ…。
何度目だ…。
あと何度…。
あと何度、この躰を抱き起こせばいい…。
◆ ◆
すぅ…と、何の突っかかりもなく瞼が開いた。
目の周りの塵を取りながら、眼鏡を探し、かける。
隣のベッドを見る。
ヴィヴィアンは、まだ静かに寝息を立てて寝ている。
窓の外を見ると、漸く、東の空が明るくなって来た頃だ。
エインは上体を起こし、出したシャツをボトムに仕舞いながら、手早くブーツに足を入れた。
紐を結び、すっと立ち上がると、もう一度、ヴィヴィアンを見る。
素直な寝顔だ。無表情の普段とは印象の全く違う寝顔に、自然と笑みが毀れる。
エインはふぅと一つ息を吐いて、ドア横の鍵を手に、部屋を出た。
静かに錠をかけ、甲板へ上がる階段を昇る。
階段と甲板を隔てる扉を開けると、ぶわっと冷たい風が舞い込んだ。
目を細めて風をやり過ごし、甲板へ出ると、「先生、早いね」と声をかけられた。
振り向くと、老航海士がにこりと笑って手を振っていた。
エインは手を振り返しながら、「寒いね」と言った。
「雲が晴れないんだよ。
上空じゃもっと強い風が吹いてるよ。」
そう言って、航海士が笑った。
見上げると、雲が勢いよく東へ流れていた。航海士の言うとおり、かなり強い風が吹いているようだ。
「天気悪くなるかな?」
エインが問うと、航海士は空を仰いで、「あー」と唸った。
「西風が吹いてるからなぁ。
西の方にゃ、ちょいと濃い雲もあるようだし、風も湿気ってる。
一雨あると思うよ。」
言われて風に意識を向けると、少し、海の匂いとは違う、鼻腔に纏わりつくような匂いがした。
雨に濡れた土のような、埃っぽい匂いだ。
「雨か…。困るなぁ…」
「もうすぐロンドンだ、先生。
荷の量にも寄るが、出航までそんなに時間はかからないだろうよ。
雨になる前に、カレーに着くと思うよ。」
少し調子よく言う航海士に、エインは「それは助かるよ。」と笑った。
すると突如強い風が通り抜け、張り巡らせた帆をばたばたと靡かせた。
「おっと。」
何かあったのか、航海士が磁石を取り出し、見るなり慌てて「じゃあ、先生。」と片手を挙げて走って行ってしまった。
エインは遅れて、「ああ、また。」と手を振り返して、いつの間にか陽の昇った空を再度見上げた後、部屋へ戻った。
鍵を回し、ドアを開けると、ヴィヴィアンがベッドに座ってこちらを見ていた。
「おはようございます。」
先程見た寝顔と打って変わって、昨日の通りの無表情のヴィヴィアンが、抑揚なく挨拶をする。
そのギャップが面白くて、エインはくすりと笑いながら「おはよう」と答え、ヴィヴィアンと向かい合うように、自分のベッドに腰を下ろした。
「夜半に、雨になるかも知れないな。」
航海士に聞いた事を、伝える。
「道、大丈夫でしょうか?」
カレーには午後早い時間に着く。そのあとボルドー郊外のベルトワーズ伯爵邸までの舗装されていない野道を、馬車で移動する事になる。
「まぁ、大丈夫だろう。」
エインは「土砂降りになる前に着けるだろう」と、どこから沸くのか自信たっぷりに言う。
「なら良いのですが…。」
思うところがあるのか、ヴィヴィアンが煮え切らない返事をする。
あらゆるものを毅然と真っ直ぐ見つめる瞳が、少し揺れながら、窓の外へ向けられた。
「ヴィヴィ?」
エインが小さく首を傾げ、ヴィヴィアンを呼ぶ。
「はい。」
呼ばれて、視線を戻さずヴィヴィアンは返事をする。
「心配は要らないよ。
無事に着けるから。」
道中、心配する事は何もない。エインが言い切った。
ヴィヴィアンが眉を顰めて、エインを見る。
見せないのは、笑顔だけか。
そう思い、怪訝な顔をするヴィヴィアンを見ながら、エインはにっこりと笑った。
暫く他愛もない話をしていると、甲板からカンカンと鐘の音が聞こえた。
どうやら、ロンドン港に着いたらしい。
テムズ川には港ではなく、数箇所ドックがあり、各々目的地に近いドックへ船を泊める。到着したのは、ロンドンよりテムズ川河口方面に少し向かった場所にある、ロザーハイズという地域に作られた巨大ドック「ハウランド・グレート・ドック」だ。
予定より数時間早い到着だった。
「夜のうちに風があったからかな。
いい方向に風が吹いてたんだなぁ」
エインが窓の外を眺めながら呟き、ヴィヴィアンを見た。
「港を出るまで、一時間以上は時間があると思う。
少し降りるかい?」
「教授はどうなさりたいですか?」
「うん、ボクはちょっと降りて歩きたいね。
付き合ってくれるかい?」
エインがわざとらしく腰に両手を当て、軽く仰け反った。
「お供します。」
ヴィヴィアンが堅苦しく言い、ベッドから腰を上げた。
鍵を取り、部屋を出て甲板へ向かうと、荷揚げの指示をしている船長と出くわした。
「ああ、教授。おはようございます」
航海士と同様顔見知りのようで、気さくに挨拶をしてきた船長に、エインも片手を挙げて応えた。
「おはようございます、船長。
出航まで、時間はありますか?」
問うと、船長は胸ポケットから懐中時計を取り出し、蓋を開けた。短針が七を少し回っていた。
「あー…。
そうですね。予定より二時間ほど早く着いてますので…」
細かく残り時間を告げようと思ったのか、計算に戸惑った船長は言葉を濁した。が、諦めたのか、「出航予定時刻は九時ですから、お出かけでしたら、それまでにお戻り下さい。」と言った。
エインは苦笑しながら、「一時間半ほどで戻ります。」と言い、船を降りる為、船員と話し始めた。
ヴィヴィアンは一時エインから離れ、港へと降りる階段付近で待つ事にした。
ぼんやりと行き交う人や荷物を眺めていると、昨夜部屋へ案内してくれた船員の少年が見えた。
少年もヴィヴィアンに気付き、人懐こい笑顔で手を振って来たので、ヴィヴィアンも手を振り返した。
「昨日の少年だね。」
突然エインの声がして、ヴィヴィアンが一瞬驚く。
「はい」
「優秀な子だ。」
懸命に船仕事をする少年を見ながら、エインは感慨深げに呟き、「さあ、食事でもしよう」と、ドックへ下りて行った。
ヴィヴィアンが慌てて追う。
ドックには大小様々な船が停泊し、早朝にも拘らず倉庫脇には露店が並び、既に大勢の人々が行き交い、活気付いていた。
ロンドンを出、翌々日にはエインの屋敷に辿り着いた。そこからトンボ返りをして、ロンドンへ舞い戻ったヴィヴィアンは、然して珍しくもない光景をきょろきょろと見回し、その様子を眺めた。
「すぐに戻って来てしまったね。」
ヴィヴィアンの様子を面白そうに眺めながら、エインが言った。
「少し、不思議な気分です。」
「済まないね。」と言いながら、エインがとある露店を指差した。
「あった、あった。」
露店に近付き、店主に何か言う。
露店の周りには小さなテーブルと対の椅子が、何組か並んでいる。
カフェのようなものだろうか。
一言二言言い終えたエインに、店主が笑顔で一組のテーブルを指差した。
「座ろう。」
ヴィヴィアンに向き直り、エインが言う。
店主の指差したテーブルに歩み寄ると、エインはヴィヴィアンに椅子を引いた。
ヴィヴィアンが座ると、エインも向かいの椅子に腰掛け、頬杖を突いた。
「こちらに船で着たときは、大抵この店で朝食を摂るようにしていてね。
店主とも顔馴染みなんだ。」
ちらりと横目で店主を見ると、店主は果物の皮を手早く剥いていた。
既に手元にはサンドイッチが用意されていて、店主の脇にある台の上では、紅茶が蒸されていた。
「食器を洗う場所がないので、いつもカップを総て使ったところで店を閉めてしまうんだ。
だから、少し遅いと食事が出来なくてね。」
エインがそう言って辺りを見回す。
ヴィヴィアンもつられて見回すと、いつの間にか他のすべてのテーブルにも客が座っていた。
「ね。椅子の数、イコール、カップの数。
今日はこれで店仕舞いだよ。」
楽しそうに言いながら、エインが笑った。
「長くロンドンにおりますが、港には来ないので、知りませんでした。」
ヴィヴィアンが言った。
「うん。船を使う人間しか知らないかも知れないな。」
「店主は普段何を?」
「あの店主は、普段は宝石店を営んでいるんだよ。
ロザーハイズ・ストリートに店を構えてる。
ロザーハイズには行った事あるかい?」
「いえ…」ヴィヴィアンが首を振った。
ロンドンからテムズ川河口方面へは、足を運んだことがなかった。
あの辺りは一部スラム化が激しく、治安の悪さが懸念されていて、近付き難かったのだ。
「そうか、この辺は場所に依っては治安が悪いからな…。」
一人納得して、話を続ける。
「あの店主の宝石店のある一角は、大通り沿いという事もあって、それほど治安も悪くなくてね。商業地帯としても開発の進んでいるこの地域に土地だの倉庫だのを持ってる商人が、その辺りで仕事の合間の余暇を過ごしたりするんだ。
普段は、それで生計を立ててる。」
やや深いところまで説明をして、エインが背中を伸ばした。
「とはいえ、ボクも怖いから、この辺はウロウロしないんだけどね。」
くすりと笑って、エインが再び店主を見たのと同時に、店主がサンドイッチの乗った皿と熱いティカップを持って、二人のテーブルへと歩き出した。
皿には、先ほど剥いていた果物も瑞々しく朝日に照らされながら並んでいて、食欲をそそった。
皿がテーブルに並ぶと、「さあ、食べてすぐに船に戻ろう」と、エインは素早く即時に取り掛かる。
ヴィヴィアンもサンドイッチを小さな口で頬張りながら、思いの他減っていた腹に、ゆっくり食べ物を流し込んだ。