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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
潮騒の庭で
38/40

潮騒の庭で 5

 背中が生暖かい。

 胸の上には、柔らかな布がかけられているのを感じる。

 目が開かない。瞼が張り付いてしまっているようだった。

 腕は動くだろうか。と、動かしてみると、安易に動いた。そのまま顔まで持って行き、指先で目を擦る。目脂が、瞼に栓をするように大量に付いていた。それを剥がすと、すぅと目が開いた。

 見覚えがある部屋だ。

 つい先日も、ここで目覚めた。

 身体を起こすと、多少の気だるさを感じた。

 窓にかかるカーテンからは、細く陽が差し込んでいる。

 朝…。

 そして察する。あれから、丸一日、眠ってしまったに違いない。

 ゆっくりと記憶が途切れる前の事を思い出す。

 地下通路を歩いて、影に襲われ、そしてエインの冷たい視線で終わる記憶。

 ふと背筋に悪寒が走った。

 何度か、あの視線を見た。心が砕かれる思いを抱く、あの視線を。

 あれには、どんな想いが込められているのだろう。わからないのだ。何故なら、ああして見下ろされた後、目覚めた時には、エインはこの世にいないのだから…。

 確かめられないのだ。

 ヴィヴィアンは、腕を擦った。悪寒のせいのみならず、この部屋も若干寒いようだ。

 見回すと、壁に水色のドレスを見付けた。自分の体に目をやると、白いアンダードレスしか来ておらず、いつもの深緑色のドレスが見当たらなかった。

 あれに着替えろと言うことだろうか。そう考えていると、二度、ノックの音がした。

 シーツで胸元を隠し、「はい」と返事をすると、静かにドアが開き、クリーブスが入って来た。

「お目覚めでございますか。」

「はい…。またお手数をおかけしたようで…。」

「お気になさらず。ご無事で何よりでございました。」

 クリーブスはそう言ってにこりと笑うと、壁のドレスに目をやった。

「トーマス様のドレスは少し汚れておりましたので、ただいま洗濯をしております。終わりますまで、暫くあのドレスをお召し下さい。

 トーマス様のお体に合うよう、縫製をし直しておりますので、この間よりずっと着心地はよくなっておりますよ。」

 ふふふと満足げに笑うクリーブスに、ヴィヴィアンは小さく頷いて了承した。

 有り難かったし、申し訳もなかった。

「ありがとうございます。」

 礼を言うと、クリーブスが頷いたあと、後ろで手を組み、「教授が裏庭でお待ちです」と言った。

 その言葉に、ヴィヴィアンの胸がいっぱいになった。エインが…、生きている…。

「ご無事なのですか…。」

「ええ、お怪我ひとつありませんよ。」

 クリーブスの一言に、再度、胸を撫で下ろす。

「裏庭と仰いましたか?」

「はい。この屋敷の庭の、水路を跨いだ先に、海を一望出来る裏庭がございます。そちらに行かれました。恐らく、トーマス様のお目覚めをお待ちですよ。」

 少し驚いた顔をするヴィヴィアンににこりと笑いながら、クリーブスはそう言って、「それでは」と出て行った。

 ドアの向こうでクリーブスの足音が遠ざかって行く。そして完全に聞こえなくなったあと、ヴィヴィアンはやっと、シーツを上げていた手を下ろした。

 そして壁のドレスを見る。

 エインが誉めてくれたドレスだ。

 あれを着て、エインに会いに行かなければ。

 今度こそ、あの答えがわかるのだから。

 ヴィヴィアンはするりとベッドから降りると、ドレスを手にした。

 一度着ているので、慣れた手付きで着ると、クリーブスの言うとおり、体がしっかりと収まった。

 体を捻り、スカートの後ろを確認しながら、拠れを直し、窓を見る。

 潮風が、窓をかたかたと叩いた。

 行こう。

 風に背を押されるように、ヴィヴィアンは部屋を出た。


◆ ◆


 廊下を行き、エントランスから庭へ出る。

 平らに削った石の足場を渡り、庭の中心まで行くと、海風が吹いてくる方の樹木の隙間に、道を見つけた。植木と花花に隠されて、道とはわからない様になっているが、人が一人通れる細い隙間が空いている。

 その手前には、橋の壊れた少し幅の広い水路が横たわっている。ヴィヴィアンはスカートを少したくし上げ、水路をひょいと跳び越すと、体を捩って樹木の隙間を抜けた。

 すると…。

 ぶわりと風がヴィヴィアンを掬うように吹き上がった。

 胸に溢れんばかりの潮の香りが舞い込み、濁ったジロンド川と向こう岸を挟んだその先の、川とはうって変わって深く青く、そしてきらきらと輝く水平線が、とても眩しかった。目が焼かれるような強い反射光に、ヴィヴィアンは思わず手を翳し、顔を背けて光に目が慣れるのを待った。

 やがて、目を開けられるようになり、きょろきょろと見回すと、エインの後姿が見えた。

 エインは両手をスラッグスのポケットに入れ、海をじっと見ていた。タイを結んでいない襟元は大きく肌蹴、海風にたなびく。少し斜め後ろから見える顔には、眼鏡が見えなかった。

 オールバックにしている金色の髪が、風で少しだけ乱れている。

 朝日に透けるシャツの内側に見える体のシルエットは、普段の印象とがらりと変わり、鍛えられているのが明確にわかった。その背中から伝わって来るのは、いつもの安らぎや、気楽さではない。

 ヴィヴィアンは緊張した。あの視線を思い出したのだ。

 口をきゅっと噤み、エインに声をかけるのを躊躇っていると、突然、エインが口を開いた。

「寒くないかい。」

 風音に掻き消されそうなほどの声を何とか聞き取り、ヴィヴィアンは「はい」と返事をした。

「そうか。」

 エインはそう言って、微かに肩を上下した。溜め息を吐いたのだろう。

 そして少し間を開けて、

「無事でよかったよ。」

 と呟いた。

 ヴィヴィアンは、唇を噛んだ。

 心に色々な感情が沸き上がり、胸の中を掻き回す。混沌とした胸に、エインの静かな声はぐさりと刺さるのだ。

「あまり危ない真似をしないでくれ。」

 そう言われ、

「申し訳ありませんでした。」

 と言おうとしたが、声にならなかった。

 そんなヴィヴィアンに気付いてか、エインは暫し黙ったあと、ポケットに入れた右手を抜いた。手には眼鏡が握られている。

 エインはそれを片手で器用に耳にかけると、こちらに目もくれずに一言、小さく何か呟いた。

 その声は、風に乗ってやっとヴィヴィアンに届くほどに小さく、そしてあまりに簡潔だった。

 何が簡潔か。

 それはヴィヴィアンが抱えた様々な疑問に対する完璧な答えであり、あの視線によって抱いた不安の全てを払拭する言葉だったからだ。


「もう二度と、君を失いたくない。」


 ヴィヴィアンは俯いた。

 まだ心は混沌としているが、一筋光が差し込んだような気がした。

 同時に、込み上げてくるものを押さえ切れなかった。

「はい。」

 息を抜くように吐き出した声とともに、大粒の涙が止め処なく零れ落ちた。

 この言葉で、やっと気付いたのだ。

 今、目の前にいる”エイン”もまた、自分と同じように何度も旅をして来た事。何故、何度も旅をしなければならなかったかを。

 大きな勘違いをしていた事。本当に愛している者が、自分であった事を。

 そして、道が大きく逸れた事を。

 その先に、ほんの少しの、希望への可能性の気配を見出した事を…。


◆ ◆


「戻ろうか。」

 海風に吹かれて、無言で過ごした時間は、数分にも数時間にも感じた。

 エインは恐らく、背後のヴィヴィアンが落ち着くのを待って、声をかけたのだろう。

 振り返り際、そう言ったエインは、いつもどおりの笑顔だった。

「はい。」

 ヴィヴィアンがいつもどおりに抑揚なく頷くと、エインが先頭切って歩き出した。ヴィヴィアンもついて、植木の間を縫い、庭へ戻る。

 橋の壊れた水路を跨いだエインが、ふいと振り返り、ヴィヴィアンに手を差し伸べた。

 行きにも跨いだが、若干幅が広いため『飛び越える』という動作になる。独りで出来ぬ幅ではないが、ヴィヴィアンはエインの手のひらに、そっと自分の手を重ねた。

 エインはその手をぐっと握ると同時に引き寄せる。ヴィヴィアンが勢いに任せて脚を踏み出すと、背後からの海風に煽られるように、ふわりと体が舞い上がった。

 水色のドレスが膨らみ、風に揺れる。

 引き寄せられ、エインの目の前で着地する。

 至近距離にある瞳を、一瞬射抜き合う。そして…。

 エインはその手を一瞬だけきゅっと握り、すぐに手を離して歩いて行ってしまった。

 残されたヴィヴィアンは、呆気に取られてエインの背中を見つめた。普段の自分に似合わず、鼓動が高鳴っている。瞬間的にでも何かを期待した訳ではないが、エインが手を握り締めた一瞬で、心の総てがエインに持って行かれてしまった様な、そんな気持ちだった。

 ともに生きたい。生かしたい。死なせなくない。

 そう思った時に、ほんのり自覚した想いを、ヴィヴィアンは再確認した。

『愛している』。

 言葉にすると陳腐になるので厭だった。だからずっと、認められなかったのが正直なところだ。

 見栄を張る理由などないのに。

 素直に認めればよかったのだ。

 今まで避けていた事を、総て受け入れてみればよかったのだ。

 それがもしかすると、求めていた未来に繋がるかも知れない。

 エインが、生きられるかも知れない…。

『愛している』。

 自覚をした今、この想いは大きく胸の中で膨らんだ。そして、背筋が伸びるのを感じる。

 今、今までになく、心が強く強く、なって行く。

「愛しています…。」

 呟いた声は、強い潮風に流されて、きっとエインの耳には届かなかっただろう。

 だがエインは立ち止まって、小さくヴィヴィアンを振り返り、微笑んだ。

 いつもよりも、優しく。

「今夜の船で発とう。ロンドンに戻ったら、連れて行きたいところがあるんだ。」

 やはり聞こえなかったのだろう。

 照れくさいので、ほっとする。

「はい。」

 いつもどおりの無表情で返すと、エインは肩を揺らしてくすくすと笑い、屋敷へ入って行った。

 ヴィヴィアンも続こうとしたが、そこで初めて気付いた。

 足が動かない。

 正確に言うと、膝が震えているのだ。

 その理由はすぐに知れた。

『愛している』。

 その言葉を口にする事で、力尽きてしまったのだ。

 慣れない事はするものではない…。そう思い、そうかと疑問にも思う。

 心中は複雑だ。

 自覚をした想いと、明確になった想いと、これからの事。

 不安がないと言えば嘘になる。

 正直、怖くもあるのだ。

 明るい未来だけが待っている訳ではない。どうあっても、未来が見えない事に何ら変わりはない。

 寧ろ、想いを口にした事で、最悪の未来に対する恐怖が大きくなったと言ってもいい。

 焦りは禁物だ。

 いつもどおりを心掛け、最善を尽くし、そして、天命を待つ…。

 無常だ。

『この世の理』という、嫌悪した言葉を思い出す。

 ヴィヴィアンは拳を握り締めた。


◆ ◆


 屋敷では、クリーブスが大広間で食事を用意して待っていた。料理はコーンスープにソフトパン、フォークだけで食べられるように小さく切り分けたローストチキンという、簡単なものだった。さきほどエインが言ったように、今夜の船で発つのなら、そろそろここを出なければならない。出発前にゆっくり食事は摂れないだろうと、考慮して用意されたものに違いなかった。

 クリーブスは戻って来たエインに馬車の用意が出来ている事を告げ、二人のグラスにグレープジュースを注いで大広間を出て行った。

「頂こう。」

 そう言って、エインが食事を始めた。

「あまり急ぐ必要はないよ。」

「はい。」

「ここから屋敷に寄らずまっすぐにブライへ向かえる様に、クリーブスが荷物も馬車も用意してくれるので、食事はきちんと時間をかけて大丈夫だから。

 船は夕方五時ごろの出発。忘れ物がないようにしなさい。」

「はい…。」

 ヴィヴィアンが歯切れの悪い返事をしたので、エインがふと顔を上げた。

「何か、心残りでも?」

 口許に少しだけ笑みを称えている。恐らく、ヴィヴィアンの胸の内など見透かしているのだろう。

「イトダ夫人に、お会いしたかったものですから…。」

 ヴィヴィアンの答えに、エインは予想通りと言う顔をして「そうか」と呟いた。

「ボルドーまで行ければ好かったんだが、昨日一昨日と断続的に川上で豪雨が発生しているらしくてね。ボルドーの川越えも滞っているせいで、馬車が道で立ち往生する事があるらしい。

 船に乗り遅れるわけに行かないので、ブライの港から乗る事になったんだ。

 イトダのところへは僕も寄りたいが、あまり時間もないから。」

「寄れば長居してしまうから」と付け加えて、エインは食事を進めて行く。

「わかりました。」

 そう答えるヴィヴィアンの様子は、エインの目には少しがっかりしたように映ったようだった。

「済まないね」と付け加えるエインに、ヴィヴィアンはいつも通り「お気になさいませんように」と答えた。

 だが実際のところ、落胆は大きかった。

 イトダについて、色々と思案した事を確かめたかった。そして何より、エリーズに会いたいと言う想いがあった。

 別れ際交わした、あの会話が気になっていた。

 あの哀しそうなエリーズの顔が、思い出される。エリーズは、自分が欲しかった答えを一番解り易く返してくれた人でもある。出来れば、別れ際の不安を払拭させてやりたかった。

 この想いは、ヴィヴィアンにしては珍しい。だからこそ、本当に出来れば、と思っていたが、致し方ないと諦める外なかった。

 食事を済ませるとほぼ同時に、クリーブスがやって来て、馬車の用意が出来ていると告げた。

 庭を抜け、道に出ると、ベルトワーズ家のクーペが停まっていた。クリーブスが急かすので、挨拶もそこそこに一路ブライを目指す。別れの挨拶は、馬車の窓から手を振るだけの、簡素なものになってしまったが、何故かヴィヴィアンはこの時、クリーブスとはもう一度会うような予感がした。

 大分轍が深くなった道を行き、ブライまであと少しというところまでは、割とすんなりと馬車は進んだ。だが、昼前に屋敷を発ったにも拘らず、船の出港ぎりぎりに到着となってしまい、慌てて船に乗り込んだのだった。ボルドーで立ち往生してしまった馬車たちが引き返して来るタイミングと重なってしまい、元々細い道が災いして足止めを食ってしまったのだった。

 二人は切れた息を整えながら、船出を見送り手を振る見知らぬ人人を眺め、甲板で海風に当たった。暫く二人並んで、甲板に居座る。

 船は行きと同じガレオン船だが、フランス国内でも一二を争う大きなものだったので、乗客も多く、造りも豪華だった。商船としてではなく客船を意識して作られたため、塗装も施されて見た目も鮮やかだ。

 やがて、エインが足元に置いた荷物を持ち上げた。右手には自分の荷物、左手にはヴィヴィアンの荷物だ。いつもの事ながら、ヴィヴィアンが慌てた。

「教授…。」

「いいよ。」

 言いながら、エインはすたすたと客室へ歩いて行ってしまう。早足で、後に続く。甲板から客室エリアへの階段を降り、狭い廊下を少し行くと、エインが立ち止まった。

 いつ預かったのか、ポケットから部屋の鍵を取り出し、鍵穴へ入れる。回すと、客が多いのか騒がしい船内にも響くほどの大きな音を発てて、鍵が開いた。

 部屋は行きに乗ったガレオン船の客室とほぼ同サイズで、間取りも写した様に同じだった。

 エインは入って左側のベッドの脇に荷物を置き、そのまま縁に腰を下ろすと、壁を背凭れ代わりに寄りかかり、ふぅと溜息を吐いた。ヴィヴィアンも右のベッドに腰を下ろす。

「お疲れですか。」

 大分色々な事が立て続けに起きたので、さすがのエインにも疲れがはっきりと見える。

 ヴィヴィアンが声をかけると、エインは「そうだね…」と溜息混じりに言い、苦笑しながら窓を見た。濁ったジロンド川の向こうにぶどう畑が広がっている。広大な農園地帯に点々と見えるゴマ粒ほどの屋敷の中で、ベルトワーズ邸を見定める事が出来る訳ではないが、二人は暫く外を眺め、今一度、半端になってしまった別れの挨拶をしたのだった。

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