潮騒の庭で 4
暗闇の中を、ひたすらに歩く。
右手には小さなオイルランプを一つ持っている。
薄暗い道を行く。じめじめと空気は湿り、どこからともなく温く体に纏わりつくようなねっとりとした風が吹いてくる。坑道のような道。でこぼことした岩を掘り進めたようなその道は、意外に広く、天井も高い。
かつかつと自分の足音だけが響き渡る。あとは風が唸り声を上げるだけで、何も聞こえない。
この道の先には、アレがある。
この旅が、また失敗した時に必要なものが。
あの人が隠した、大事なものが。
ずっと分岐点を探している。あの人を守り切るために必要な方法を探している。
――コツ。
足音に耳を傾け、過去を思い耽る。
分岐かと思っていた道は、そうではなかった。
悉く失敗し、また旅をしなければならなかった。
これで終わりにしたい。
もう心が持たないから…。
これで最期にしたい。
だから、アレを探す。今まで一度たりとも触れようと思わなかったアレを。
アレに触れる事が、残された最後の可能性だから。
――コツ…。
それなのに、いつも邪魔をされる。
正体は解らない。彼らがなんなのか、解らない。
だが、彼らはいつもあの人を傷付けるために現れ、消えて行く。
彼らの正体が解れば、あの人を守れるだろうか。
◆ ◆
暗闇の中、確信を持って走っている。
右手に持つ小さなオイルランプが、激しく揺れる。
薄暗い道を行く。じめじめと空気は湿り、どこからともなく温く体に纏わりつくようなねっとりとした風が吹いてくる。坑道のような道。でこぼことした岩を掘り進めたようなその道は、意外に広く、天井も高い。
かつかつと自分の足音だけが響き渡る。あとは風が唸り声を上げるだけで、何も聞こえない。
この道の先には、アレがある。
この旅が、また失敗した時に必要なものが。
あの人が、そして自分が、最後の可能性と信じた、大事なものが。
そして、それを求めてこの道を行くあの人の命を奪う、アレも…。
何度失敗したか。
何度間に合わなかったか。
何度、この道を走ったか…。
暗闇の向こうで、どさりという音が聞こえた。次いで呻き声が擦る。
ああ、間に合わない…。もっと早く…。
◆ ◆
――コツ……。
不意に足音がした。自分のものではない。
誰の足音…?
暗闇の坑道に響き渡る足音が、目の前で止まった。気付けば少し広い空間に出ていて、ランプの灯りが足音の主を暗闇から少しだけ引き摺りだすように照らしていた。
…誰だ…。
無言で身構えると、足音の主が突如襲いかかった。物凄い早さであっという間に目の前に現れたそれは、いつもあの人を襲う、アレだった。
影。
黒い体に浮かぶ二つの赤い光は、目だろうか。人の形をしているのに、形を明確に捉える事の出来ない、それは正しく影と喩えるに相応しい。
影が手を突き出してきた。
寸でのところで避ける。目のすぐ横を、銀色に光るナイフがひゅっと風を斬る。そのままバランスを崩した。足が縺れ、体制を整える事が難しいと判断した瞬間、影が空いている手で首を掴んで来た。
片手で大人の自分を持ち上げ、あろう事か首を圧し折ろうとしている。
ぐぅと喉が鳴る。肉が首の骨に擦れ、じゅくじゅくと気持ちの悪い音を立てる。恐怖と焦りに意識が飛ぶ。
「…あ…。」
やっと出した声に、遠退き掛けていた意識が一瞬戻る。首が折れるのを覚悟の上で、体を揺らして勢いをつける。脚を思いっきり振ると、幸運にも影の頭部に当たった。カランと軽い金属が落ちる音がした。影が衝撃の反動で再度首を掴み圧っして来る。しかしもう一度脚を振り上げると、影は腕を大きく振り、自分は壁に向かって投げつけられた。
「ぐっ…!」
背中を強く打ち、呼吸が止まった。咳き込もうにも、息が吸い込めない。
うつ伏せに倒れたまま動けない。
「う…、く…っ。」
呻き声を出し、何とか呼吸を再開させようと試みる。
顔を上げると、落ちたランプの脇で影が同じように蹲っていた。頭部を抑えている。痛みを感じるのか。
そう思っていると、視界の端で、何かが光った。銃だ。相変わらず呼吸すら満足に出来ない状態で、立ち上がる事も当然出来そうもない。だが、あれをどうにかして手中に入れたい。手を伸ばせば届きそうだ。
あれで、あいつを殺せば…。
ぐっと腕を伸ばす。少しずつ回復してきた呼吸のお蔭で、徐々に手に力が入る。上半身を起こし、腕で少し前に進み、腕を伸ばす。指先で地面を掴み、一ミリでも一センチでも腕を伸ばす。
そして、指先に銃が触れた。だが、次の瞬間…。
◆ ◆
激しく揺れる視界の中で、小さな灯りが浮かんだ。ランプが落ちている。
まさか…。
灯りに向かって走り続ける。目指す僅かな灯りに影が浮かんだ。
アレだ…。
また間に合わなかったのか…?
走る。
岩肌の陰に、人の手が見えた。倒れている。
ああ…。
何かが込み上げて来る。
喉が締め付けられる。
涙が溢れそうになる。
間に合ってくれ…。
足音に気付き、影がこちらを見て、すっと闇に溶けて消えかけた。
「待て!!」
切れ切れの呼吸に無理をさせ、影に怒鳴りつけると、影がぴくりと止まった。
同時に、足元でざりと土を引っ掻く音がした。
影を視界に収めたまま、足元をちらりと見ると、倒れた手が落ちた銃を掴んでいた。
影を殺そうとしている。
―それではいけない…。
そう…。それではいけないのだ…。
だから…。
◆ ◆
目の前の銃を、何者かの足が踏み潰した。
はっとして見上げると、見慣れた顔が自分を見下ろし睨みつけていた。
エイン…。
その顔にはとてつもない怒りの表情が浮かび、嫌悪や憎しみと感じられるものを自分に向けているようだった。
全身を、哀しみと絶望が駆け巡った。
彼を守るためにいる自分が、今、彼の嫌悪の対象になっている。
それは、未だかつて経験した事のない絶望だった。
目の前が暗闇になって行く。体が深く沈み、地面に飲まれているような感覚に襲われた。
痛みと絶望で、ヴィヴィアンの意識が遠のく。
何故…。
あなたを守ろうとしたのに…。
何故…。
◆ ◆
違う…。
それではいけない…。
倒れているヴィヴィアンは、絶望の色に溢れた瞳で自分を見上げている。
言葉では、説明出来ない。
でも、それではいけないのだ…。
その時、自身がどんな顔でヴィヴィアンを見下ろしていたのか、エインは自覚していない。
ただ、ヴィヴィアンの何故と問いかける表情で、胸が締め付けられた。
やがて、ヴィヴィアンが気を失い、ぐったりとしたところで、エインは影に視線を戻した。
影は何も言わず、だが、憂いと悲しみを帯びた表情でエインを見ていた。
その顔はあまりに見慣れていて、そして美しくて…。
何より、自分の…。
「君がいる限り、ヴィヴィアンは生きられない…。でも、俺には君は殺せない…。」
殺せる訳がない。
目の前の影は、間違いなく…。
エインが苦渋の表情で睨み付けると、影は少したじろぎ、そしてゆっくり闇に解けて消えた。
足音も立てず消えた影は、やがてそこにいた気配すら完全に消し去ってしまった。
エインは一呼吸置いたあと、倒れているヴィヴィアンに歩み寄り、膝を付いて抱き起こした。
打ちどころが悪かったのか、ヴィヴィアンはぐったりと動かない。が、呼吸はか細いながらも規則正しく繰り返されているので、心配はなさそうだった。
だが、それも、ここから先の事を考えれば、一時の安心でしかない。何故なら…。
「ヴィヴィ…。
君がいる限り、あの影も生きられない…。」
エインはそう呟くと、ヴィヴィアンを抱き上げ、道を戻り始めた。
この世の理だと、友人は言っていた。
この世の総てを構成する、目に見えぬほど小さな物質にお互いの存在を消し合う対極の存在があるならば、その集合体である人や時間、空間にも、対極の存在があるべきだと。
そしてそれらが完全に消え去らないためには、あともう少しだけの、対極側の何かが消えなければならないのだと。
消えるものと遺るもの。その双方のバランスが崩れていなければ、この世は成り立たないのだと。
その主張を確信している訳ではない。だが、あの”影”を見てから、少なくともエインの中で、その主張に一定の信用を置いた事は否定出来なかった。
あの影と出会った時の事を、今でもはっきり覚えている。
あの忌まわしい、そして哀しい、あの時の事を…。
◆ ◆
ヴィヴィアンを抱えて階段を上がると、目の前に目を丸くしたクリーブスがいた。
二人の姿が見えなくて、もしやと思いこの屋敷に来たはいいが、人がいない筈の書斎からガタゴトと物音がしたので、不届き者が入り込んだと心配したようだ。
ただ、オイルランプがなくなっている事と、部屋の奥にぎっしり降り積もっていた筈の埃が散らばっているのを、ほんのり明るくなった部屋に見止めたため、一見しては判り辛い地下道へ、賊が入るのは考え難いと判断した。であれば、朝方、屋敷を出て行ったヴィヴィアンかエインだと思ったのだ。
そっと覗いたところで、まさにエインがヴィヴィアンを背負って出て来た。
「如何なさいましたか?」
エインとヴィヴィアンの体を支えながら、クリーブスが訊ねた。
「うん。ちょっと…。
探検のつもりで入り込んだようだが、暗いので足でも踏み外したんだろう。頭を打っている様には見えないから、ショックで気を失ったのかもね。」
目的があって入り込んだと知られては、クリーブスがこの道を調べ兼ねない。エインは極力適当な事を言って、クリーブスにヴィヴィアンを休ませる部屋を用意するように言った。
クリーブスが慌てて書斎を出て行き、ほっと一息ついてエインも後に続いた。廊下をエントランス付近まで戻ると、クリーブスが、以前ヴィヴィアンを休ませた部屋から出てきて、「こちらへ」と手招きした。
エインは部屋へ入り、ヴィヴィアンをベッドに寝かせると、手際良くブーツを脱がせ、ベッドの傍らに置いた。
入れ替わりに湯を沸かすとクリーブスが出て行き、暫し二人きりになる。
エインはベッドの縁に座り、ヴィヴィアンを眺めた。
アンほどではないが、ほっそりと華奢な体付きに、小さな手足。艶やかな髪と、透き通った肌。その肌は、地面に倒れたせいで少し汚れている。
ヴィヴィアンは知らないだろう。今ここにいる自分もまた、何度も何度も”旅”をして来た事を。
それは当たり前の事だ。ヴィヴィアンが旅をするとき、その時出会っている自分は”死んでいる”のだから。自分ですら、あの影の正体を知るまで、それに気付かなかった。
エインはふと手を伸ばし、ヴィヴィアンの頬についた泥を拭った。
温かい。生きている証拠だ。
そして手をひき、項垂れる。疲れた…。恐怖や不安を抱えて過ごす事に。最後と言う事だけが決まっているこの旅ですら、終わりは見えない。ずっと、この恐怖と戦わなければならないのか…。
そう思うと、鬱々とする。
溜息を吐くと、ドアが開き、クリーブスが入って来た。手には湯気の立った少し大きな器がある。クリーブスはそれをベッド脇のテーブルに置くと、脇に挟んでいた白い綺麗な布を湯に浸し、ぎゅっと絞った。
そしてエインに向き、「おやりになりますか?」と言った。汚れた肌を拭くのだろう。エインは苦笑して首を横に振ると、「お任せします」と言って部屋を出た。
大広間に行き、窓辺のソファに崩れ落ちる。まだ朝だと言うのに、何もする気が起きないくらいに疲れ切っていた。
ぼうっと窓の外を眺める。時折吹く強い海風に、庭の花花が揺れている。
そしてふと気付き、安堵する。
こんな風に、この部屋で休む事は、今までなかった。
道が逸れた。少なくとも、恐れていた道からは…。
背凭れに凭れて弛緩した身体から、空気を総て抜くように、エインは深く息を吐き出した。
ぼうっとする頭で、とても短い間の出来事を思案する。すると安堵したはずの心に、沸々と怒りが込み上げた。
我侭な生き物だ。最悪の事態を避けられただけで、今まで辿った事のない道先に辿り着いただけで十分ではないか。
なのに、怒りが込み上げる。
それは何故か…。
恐らく、怖いのだろう。
この先に何が起こるのか、わからないから…。
◆ ◆
ヴィヴィアンは結局、陽が暮れても目を覚まさなかった。
気を利かせたクリーブスが医師を呼んでくれ、簡単な診察を受けたが、身体に異常はなさそうだった。
疲れているのだろう、と言われ、納得した自分もいた。
ここまで、彼女はずっと気を張り詰めて来た事だろう。その気が、地下通路で砕けた。
やがて目を覚ますだろう。何故か確信があった。
だから何も考えず、ヴィヴィアンの眠る隣の部屋で仮眠を摂る事にした。クリーブスが簡単な夕食を用意してくれたが、二三口、口に運んだところで胃がいっぱいになったので、胃はほとんど空のままだったが、それすら気にならなかった。
そして横になり、瞬間的に意識を失ったあと、カーテンから差し込む朝日で目が覚めた。
廊下に出ると、クリーブスがなにやら水色の布を手に歩いて来た。
「おはようございます。」
「おはようございます。それは?」
尋ねると、クリーブスはふふと笑って、「先日、トーマス様にお貸しした、先代の奥様のドレスです」と答えた。
ああ、あれかと頷くと、クリーブスがさらににこりと笑った。
「あのあと、トーマス様の身体に合うよう縫製し直したのですよ。」
「それは…わざわざ…。」
「とてもよくお似合いでしたが、少しだぼついていて、勿体のう御座いました。是非、きちんと御召しになって頂きたかったのです。奥様も、お嬢様もきっと喜びます。」
そう言うと、クリーブスの眉が少し下がった。
エインも胸がちくりと痛むのを感じながら、少しだけ微笑んで答えた。
「そうですね…。」
そして、ヴィヴィアンの眠る部屋のドアをみる。しんと静まり返っている。きっとまだ目覚めていないのだろう。
「様子をみて参りましょう。大広間に朝食をご用意致しましたのでどうぞ。昨晩も何も召し上がらなかったのでしょう?」
クリーブスにそう言われた途端、少しだけ腹が空いた。心に余裕が出来たのかも知れない。
ほとんど、何も変わらない日常に、クリーブスがしてくれている。
「お願いします。」
エインはそう言って、大広間へ向かった。
テーブルには、湯気の立つコーンポタージュと、ソフトパンが置かれていた。このくらいなら、食べられるだろう。
席につき、スープを啜ると、一気に空腹になった。
少し肌寒さを感じていた体の内側を、温かいポタージュが流れ落ちる。いっぺんに胃に入れると消化不良を起こすので、心がけてゆっくり口に運んだ。
が、それでもあっという間にポタージュが消え、パンも二つほどなくなった。
満腹ではないが、驚くほどの満足感だった。
やっと落ち着いたような気がして、エインはゆっくり窓の外をみた。
相変わらず美しく咲き乱れる花花が、海風に揺れる。
眺めているうちに、ふと、昨日の怒りの理由に気付いた。
そうか、と納得する。
怖かったのだ。
極度に。
何度も体験した筈の展開に、またかと思いつつ、失う事に慣れない。だから怖かったのだ。もういい、懲り懲りだ。そんな風に、抵抗し得ぬ、目に見えぬ大きな流れに、儚い怒りを抱いていた。抑えていた恐怖心が、安堵とともに沸き上がったのだった。
わかった途端に、寂しさも沸き上がった。
ここから先は、自分の知らない道なのだ。抱いても仕方のない不安で、胸がいっぱいになる。
窓の外では、樹木の葉の隙間から、庭の芝生に陽が挿し始めた。大分陽が上がって来たようだ。
海でも見よう。そう思った。
この庭を囲う樹木の向こうからは、海が見えるのだ。
そう思い立つと、エインは腰を上げ、庭へ出た。