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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
潮騒の庭で
36/40

潮騒の庭で 3

 夕刻。

 空は橙色に染まり、遠くの木々が黒く翳った頃、アンの葬儀が始まった。

 急な事であった割に、屋敷には多くの友人が訪れたが、いずれもベルトワーズ伯の友人で、アンの友人は少なかった。外に出る事のなかったアンには、友人を作る時間もなかったのだった。

 屋敷で各々アンに別れを告げ、この辺りの農場や従者たちが集まる教会の裏手にある墓地へ、アンを運ぶ。

 友人は少なかったが、いずれも心の通った親しい者のようで、みな飾りではない涙を流して嘆いていた。

 少少変わったところはあったが、優しいアンだったから、その心に触れた者には、深く愛されていたようだ。

 屋敷の従者たちもおいおいと泣き、アンとの別れを惜しんだ。

 その様子を、ヴィヴィアンは少し遠くで離れてみていた。

 物見ではなく、居場所を見出せなかったのだ。

 アンに縋り付いて泣くほどアンと親交があった訳ではないが、哀しくないというほど感情がなかった訳でもない。だから、遠くでひっそりアンとの別れを嘆くのがよいと思ったのだ。

 だが、そうでないはずのエインまでも、ヴィヴィアンの隣で、葬儀の様子を見ていた。

 アンの葬儀には何度か参列していたが、エインのこの反応は、”初めて”だった。

 愛する人が亡くなったとあれば、目の前の参列者たちのように泣いてもよさそうだったが、”今回”エインはそれをしなかった。

 何故かは解らないが、問う事も出来ず、ヴィヴィアンは隣のエインを気にしながら、葬儀を見守った。

 棺を埋め終え、墓標が掲げられると、参列者たちは次々花を添えた。墓標はあっという間に花に覆われ、墓地の中でアンの場所だけが、花畑のようになった。

 参列者たちは花を添えると墓標に口付けをし、去って行った。

 エインとヴィヴィアンはそれを最後まで見届け、最後の参列者が去った後、やっと墓標に歩み寄った。

 脇にいたクリーブスから花を受け取り、添える。

 そこでやっと、哀しみがとうとうと流れ出た。

 喉元に込み上げる涙を抑える必要もなく、ヴィヴィアンは無表情のまま、一滴だけ涙を流し、それを指先で拭った。

 エインは花を置いた後も暫く墓標の前にしゃがんでいた。まるで、アンに何か話しかけているようだった。

 邪魔せぬよう、二歩ほど離れてエインの背中を見つめた。

 長い長い沈黙が続き、ずいぶんと陽も落ちたところで、やっとエインが立ち上がった。ヴィヴィアンを振り返り、「すまないね、待たせて」と詫びる。

「いえ…。」ヴィヴィアンはいつもどおりに返事をした。

 エインが傍らのクリーブスに目配せをすると、クリーブスはヴィヴィアンとエインを交互に見、「どうぞ」と手で教会を示し、歩き出した。

 続いて歩いて行くと、教会の前に馬車が停まっているのが見えた。屋敷からここまでは徒歩で来たので、迎えに来てくれたのだろう。

 エインとヴィヴィアンは無言で馬車に乗り込み、少しの間、揺られた。

 屋敷までは、徒歩なら一〇分ほどだったので、馬車なら数分だろう。夜闇ですっかり見えなくなった窓の外の風景をぼんやりと眺める暇もなく、屋敷に着いてしまった。

 いつものように、クリーブスが馬車のドアを開け、エインが降り、差し出されたエインの手を借りてヴィヴィアンが降りる。クリーブスに続いて屋敷へ戻り、二階の廊下で別れる。

 何度も何度も繰り返してきた事と、初めて見る光景や仕草…。

 ヴィヴィアンはベッドにへたと座り込み、そのまま倒れた。

 長く長く旅をして来たから、時折、記憶が曖昧になる。

 初めて見る筈の事が、”以前”にもあった気がしてくる。

 記憶と感覚を頼りに、判断をしたり、選択をしたりする。

 忘れている事も、幾つもある。日々の暮らしを事細かにメモする事は不可能に近い。人の声や顔も、すべて覚えられる訳ではない。

 イトダの例がその最たるものだ。

 今回の旅でイトダの声を聞いても、あの日聞いたあの男の声とは気付けなかった。

 そういえば、イトダと会うのは今回が初めてだ。初回のあの男を除いて、今まで一度もイトダとは会わなかった。エインの旅に同行するようになったのは二度目からだが、イトダとは一度も会わなかったのだった。エインも旅に出るごとにヴィヴィアンを連れた訳ではなかったから、ヴィヴィアンが同行していない時にイトダと会っていたのかも知れない。

 イトダの事を思い出した事で、少なくとも、一度目のような思いはしなくても済みそうな気がした。自分の手で、エインを殺してしまうような事態には、ならない気がした。

 そして先日見た夢。

 あれは、どこだっただろう…。

 あの地下道と思しき薄暗い岩の道。どこからどう入って…、否、それ以前に、何故あそこへ向かったのかすら、思い出せない。

 あれは、どこなのだろう…。

 考え込んで目を閉じると、何かに吸い取られるように、意識が途絶えた。


◆ ◆


 歩いている。

 右手には小さなオイルランプを一つ持っている。

 薄暗い道を行く。じめじめと空気は湿り、どこからともなく温く体に纏わりつくようなねっとりとした風が吹いてくる。坑道のような道。でこぼことした岩を掘り進めたようなその道は、意外に広く、天井も高い。

 かつかつと自分の足音だけが響き渡る。あとは風が唸り声を上げるだけで、何も聞こえない。

 この道の先には、アレがある。

 この旅が、また(・・)失敗した時に必要なものが。

 あの人が隠した、大事なものが。

 ずっと分岐点を探している。あの人を守り切るために必要な方法を探している。


 ――コツ。


 分岐かと思っていた道は、そうではなかった。

 悉く失敗し、また旅をしなければならなかった。

 これで終わりにしたい。

 もう心が持たないから…。

 これで最期にしたい。

 だから、アレを探す。今まで一度たりとも触れようと思わなかったアレを。

 アレに触れる事が、残された最後の可能性だから。


 ――コツ…。


 それなのに、いつも邪魔をされる。

 正体は解らない。彼らがなんなのか、解らない。

 だが、彼らはいつもあの人を傷付けるために現れ、消えて行く。

 彼らの正体が解れば、あの人を守れるだろうか。


 ――コツ……。


 足音がする。自分のものではない。

 誰の足音…?

 暗闇の坑道に響き渡る足音が、目の前で止まった。気付けば少し広い空間に出ていて、ランプの灯りが足音の主を暗闇から少しだけ引き摺りだすように照らしていた。

 …誰だ…。

 無言で身構えると、足音の主が突如襲いかかった。物凄い早さであっという間に目の前に現れたそれは、いつもあの人を襲う、アレだった。

 影。

 黒い体に浮かぶ二つの赤い光は、目だろうか。人の形をしているのに、形を明確に捉える事の出来ない、それは正しく影と喩えるに相応しい。

 影が手を突き出してきた。

 寸でのところで避ける。目のすぐ横を、銀色に光るナイフがひゅっと風を斬る。そのままバランスを崩した。足が縺れ、体制を整える事が難しいと判断した瞬間、影が空いている手で首を掴んで来た。

 片手で大人の自分を持ち上げ、あろう事か首を圧し折ろうとしている。

 ぐぅと喉が鳴る。肉が首の骨に擦れ、じゅくじゅくと気持ちの悪い音を立てる。恐怖と焦りに意識が飛ぶ。

「…あ…。」

 やっと出した声に、遠退き掛けていた意識が一瞬戻る。首が折れるのを覚悟の上で、体を揺らして勢いをつける。脚を思いっきり振ると、幸運にも影の頭部に当たった。カランと軽い金属が落ちる音がした。影が衝撃の反動で再度首を掴み圧っして来る。しかしもう一度脚を振り上げると、影は腕を大きく振り、自分は壁に向かって投げつけられた。

「ぐっ…!」

 背中を強く打ち、呼吸が止まった。咳き込もうにも、息が吸い込めない。

 うつ伏せに倒れたまま動けない。

「う…、く…っ。」

 呻き声を出し、何とか呼吸を再開させようと試みる。

 顔を上げると、落ちたランプの脇で影が同じように蹲っていた。頭部を抑えている。痛みを感じるのか。

 そう思っていると、視界の端で、何かが光った。銃だ。相変わらず呼吸すら満足に出来ない状態で、立ち上がる事も当然出来そうもない。だが、あれをどうにかして手中に入れたい。手を伸ばせば届きそうだ。

 あれで、あいつを殺せば…。

 ぐっと腕を伸ばす。少しずつ回復してきた呼吸のお蔭で、徐々に手に力が入る。上半身を起こし、腕で少し前に進み、腕を伸ばす。指先で地面を掴み、一ミリでも一センチでも腕を伸ばす。

 そして、指先に銃が触れた。だが、次の瞬間。

 目の前の銃を、何者かの足が踏み潰した。

 はっとして見上げると、見慣れた顔が自分を見下ろし睨みつけていた。

 その顔にはとてつもない怒りの表情が浮かび、嫌悪や憎しみと感じられるものを自分に向けているようだった。

 全身を、哀しみと絶望が駆け巡った。

 この人を守るためにいる自分が、今、その人の嫌悪の対象になっている。

 それは、未だかつて経験した事のない絶望だった。

 目の前が暗闇になって行く。体が深く沈み、地面に飲まれているような感覚に襲われた。

 痛みと絶望で意識が遠のく。


 何故…。

 あなたを守ろうとしたのに…。


◆ ◆


 いつの間に眠ってしまったのか。

 最近、眠ってすぐに目を醒ます事が多い…。

 かけたままにしてずれた眼鏡を直し、起き上がる。

 屋敷へ戻って、ベッドに座った途端に眠気に襲われた。抗い切れず横になった瞬間に眠ったのだろう。

 主を失った屋敷はしんと鎮まり返り、窓の外の森から、虫の鳴く声が聞える。虫の音からするに、朝、かなり早い時間であろう。部屋の中も、カーテンの隙間から見える空も暗い。

 エインはゆっくりとベッドの縁に座り、耳を澄ます。

 何も聞えない。

 まだ従者すら動き出す時間ではないのだろう。

 昨夜の、バージルとの会話を断片的に思い出し、反芻する。

 もうすぐ、魘され続けた夢の一つが終わる。何度も何度も繰り返し、見た悪夢の一つが終わる。

 そうして一つずつ悪夢を超えて、確かめて行くしかない。

 地道で、非力に打ちひしがれる道のり。

 救われる事があるのか、それすら解らぬ旅。

 そして、確実に終わりの見える旅…。

 あと少し。あと少しで、終わる。


◆ ◆


 眠気から醒めてしまった脳は、自分でも驚くほどに鋭く辺りの様子を取り込んでいる。

 しんという空気の音すら聞える。

 表で何かが土を蹴った。馬だろうか。厩舎は屋敷からずいぶん離れた場所にあるはずだが、他に何も聞えぬ今、そんな微かな音すら耳に入って来る。

 腰掛けていたベッドの縁の感触が、急に気持ち悪くなった。

 立ち上がり、カーテンを少しだけ開ける。まだ空は暗く、太陽が昇る気配もないが、空気が澄んでいるので朝はもう間もなくのようだ。

 窓辺は寒く、それがさらに精神を研ぐ。

 屋敷の中の人の気配、まだ眠っている人の気配を感じる。誰かが目を醒まして、ベッドの上で伸びをした気配。誰かがベッドから立ち上がり、のそのそと身支度を始めた気配。今日の天気を確認するため、カーテンをそっと寄せる気配…。

 その中に、あの人の気配がない事に気付いた。

 いない。屋敷に…。

 まさか。

 悪夢を思い出す。

 まさか、あの場所へ…?

 足音を殺し、隣の部屋へ向かうが、やはり気配はない。

 いない。

 あの場所へ行かなければ。

 あの、花の咲き乱れる庭の…。


◆ ◆


 あの人がここに来た理由。

 あの時は解らなかったが、今なら自分にも解る。

 花の咲き乱れる庭の、このベルトワーズの別邸。遠くから潮騒が聞え、潮の香りが胸焼けするほどに漂うこの屋敷の地下には、秘密の部屋がある。

 別邸の、普段は誰もが目もやらない部屋。位置が悪すぎて、納戸と思われているその部屋は、ベルトワーズの書斎だ。朝陽がまだ登らず暗いままの廊下を、そこへ向かって歩く。

 扉を開けると、埃と黴臭い空気が舞う。他の部屋に比べるまでもなく、ここは意図的に掃除がされていない。執事のクリーブスも、この部屋に立ち入る事すらないのだろう。それはベルトワーズの言い付けなのかは解らないが、明らかに数年の間、誰も立ち入らず、ここは締め切ったままだったようだ。

 窓のない部屋。

 蜘蛛が巣の張った本棚。

 埃で真っ白になった机。

 その足元に、秘密の地下室への入り口がある。

 しゃがみ込んで床を撫でると、一箇所だけでっぱりがあった。

 ぐいと引っ張り上げると、床の一部が持ち上がり、ぶわと音を立てて空気が隙間から見える闇へ吸い込まれて行った。

 ぽかりと空いた、床穴。

 急な階段は、ただ土や岩を掘り削っただけの雑多なものだった。

 ヴィヴィアンは部屋を見回した。穴の中は暗いので、灯りが欲しかった。

 二三度見回すと、書棚の片隅に埃を被っていないオイルランプが見えた。部屋には人が出入りした痕跡などないのに、このランプだけが綺麗なままだった。やや不審に思いながらも、屋敷をうろうろとする事も出来ないので、致し方なく手に取り、ポケットに忍ばせておいたマッチで火を点す。

 そして穴の階段をゆっくりと下り始めた。

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