潮騒の庭で 2
昼過ぎ。
アルネスト・ベルトワーズの遺書の証人である弁護士のバージル・ブリアンが屋敷を訪れた。
今朝方、ベルトワーズの使いがボルドーまで迎えに行ったのだ。バージルは先日エインが出した書簡を受け取った日から、近いうちにベルトワーズ邸を訪れる予感がしていたそうだ。
バージルとエインはベルトワーズ邸で一度会った事があった。
「やあ、エイン。
こんな形で再開を果たすのは、残念だよ…。」
「ご無沙汰しています。バージル。
是非また伯爵とアンと四人で会いたかったのに、残念だ。」
エインとバージルは歳もあまり変わらず、初見から妙に打ち解けたのだった。だから、もう一度会いたいと思っていたお互いであったが、それがベルトワーズ家の財産整理の場になるとは、夢にも思わなかった。
「何の悪戯だろうな…。」
バージルが溜め息混じりに言い、クリーブスを読んでベルトワーズの書斎を開けさせた。
アンの他に子はおらず、この時代にしては珍しく隠し子すらいないベルトワーズの遺書により、既に家の財産相続についてはエインと決まっている。その内訳の確認と、今後これをどうするか、屋敷にいる使用人の今後についての話し合いを、そこでする事にしたらしい。
ヴィヴィアンは同席する訳に行かなかったので、クリーブスや屋敷のメイドたちの手伝いをする事になった。
エインの屋敷を訪れてから、漸く本職であるメイドの仕事をした気がした。
手伝いは主に、今夕執り行われる予定のアンの葬儀の準備だった。
クリーブスに言われ、数名のメイドと共にアンの着替えと化粧の手伝いをする。
涼しい気候のため、遺体の安置はそのまま部屋を使っている。昨夜訪れた時のままベッドに横たわるアンだが、ここへ舞い戻ってからアンを見るのは初めてだった。
アンは記憶と寸分違わず白く、細かった。濃いブラウンの髪は美しい色をしているのに、生気を感じない。部屋着は白いシンプルなイブニングドレスではあるが、体にまるで合っていない。
ヴィヴィアンが知っているアン、そのままだった。
強いて違う点を挙げるなら、肌の色が死人の色なだけだ。
それ以外は寧ろ、生前に見て感じていた違和感を感じないほどに、当たり前に『アン』としてそこにあった。
そう思い、ヴィヴィアンははっとする。
アンは、”生きているのが似合わない”女性だったのだ…。
カーテンを引き、薄暗くなった部屋の中で、メイドたちが丁寧にアンの体を起こしたり、倒したりしながら、イブニングドレスを脱がせた。ヴィヴィアンも体を支える役として寄り添うが、アンは大きなガラス人形のようだと思った。
露わになった体は服の上からでは想像も出来ぬほどに痩せて、目も当てられぬほどだった。折ろうと思えば、ヴィヴィアンでも折れると思うほどだ。
このガラス人形が、頻りに拘った『決まり』。
エインをやっと解放した『決まり』…。
最初はアンやエインが言う言葉のとおり、アンとエインの婚姻に拘るものだと単純に捕らえていた。
だが、今は違うと気付いている。
知りたかった。
そこに、自分が求める答えもある気がするからだ。
ヴィヴィアンが支えるアンの体の向こうで、メイドの一人が一着のドレスをクローゼットから取り出した。メイドはアンにふわふわのパニエを穿かせると、取り出したドレスを着せた。
真っ白の、ウェディングドレス。
時々小声でアンの昔話をするメイドたちが教えてくれたところに因ると、これは五年前、エインがこの屋敷を訪れ、ベルトワーズが婚姻の話を持ち出した後日に、アンがベルトワーズにせがんで作らせたドレスだそうだ。
だが、エインが首を縦に振らなかったため、作って一度も着る事無く、クローゼットに仕舞いこまれた。
アンの身支度係を務めていた別のメイドの話では、アンはクローゼットで衣装を選ぶたび、このドレスの前で溜め息を吐いていたそうだ。
エインへの婚姻の話が余りにも無理矢理だった事もあり、誰も同情はしなかった。ただ、アンは不憫だ、と皆が思っていた。
そんな話を聞かされながらの手伝いは、ヴィヴィアンには少少苦痛だった。
メイドたちも宛て付けている訳ではなく、ただ昔話をしているだけだが、ヴィヴィアンの耳には我が事のように心に突き刺さる話だ。
アンは、エインが愛した女性だ。
愛していたのなら婚姻の話を断った事実は矛盾にもなるが、そこはエイン個人の都合もあろう、何も責める点はない。それに、エインはアンには丁寧だったと感じている。
いつしか問うたとおり、エインはアンを愛していたに違いなかった。
だから、こんな事態になって、こんな話を聞かされて…。
ヴィヴィアンには消化し切れぬ思いが止め処なく湧き起こり、胸の内を駆け巡った。
そんな内心を抑えながら、淡々と手伝っていた着替えが終わった。
元通りにベッドに綺麗に寝かせ、最後にドレスの裾を整える。
ほぅと、様々な思いを乗せて溜め息を吐くメイドの脇で、ヴィヴィアンは一人、ただただ重い溜め息を静かに吐き出した。
見つめるアンは、ただ白く、白く…。
そして、今までで一番、美しく見えた。
その事も、遣る瀬無さを助長した。
アンのイブニングドレスを畳んでいたメイドが、「戻りましょう」と声をかけた。
みな、ぞろぞろとアンの部屋を後にする。ヴィヴィアンはみなに続いて最後に部屋を出たが、何故か後ろ髪を引かれた。
廊下の途中でクリーブスに会い、エインからの言伝を聞いた。
「疲れているだろうから、夕方まで部屋で休みなさい。」
正直、有り難かった。
淡々と過ごしてはいるが、連日の移動と中途半端な緊張で、珍しいと自分で自覚するほどに疲れていた。
ヴィヴィアンは素直に従い、部屋で休ませてもらう事にした。
考えたい事も山ほどある。
暫く、独りで静かに過ごしたかった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
「…。」
数日前は気が付かなかったが、綺麗な金の刺繍の施された天井だった。金糸が、時折揺れる蝋燭の炎できらめいた。何故蝋燭が灯っているかは、どうでもよかった。
アンが死んだ。
エインの愛した、アンが。
アンが死ぬのは、これで何回目だろう…。
そのたびに、エインが哀しむのを見て来た。
もう懲り懲りだと思った。
だから規律を破り、任務を放棄して、何度も何度も旅をしている。
何度も何度も繰り返した。
だが、何度でもアンは死んだ。
そして、エインは哀しんだ。
アンを初めて見たのは、三度目の時だった。
エインはそれまで、アンの元へ同行させてはくれなかった。
三度目に初めてアンに会い、その翌週に亡くなった。何故、ベルトワーズの屋敷を訪れたのかは、今でもヴィヴィアンには解らない。ただ、エインが来いと言うのでついて行った。
到着翌日、ヴィヴィアンはアンに呼び付けられた。
部屋を訪れると、アンはヴィヴィアンに一冊の書物を寄越したのだった。
「ヴィヴィにどうしても差し上げたいの。」
そう言って手渡されたあの『シャングリ・ラ』。
エディンバラを出る時、あの本はエインの屋敷に置いて来た。
だから、エインがあの本を持っている筈がなかった。
書物だ。多数発行されたものだから、この世にいくつもあるのは解っている。
だが、そうではない。
あれはどうあっても、この世界にある筈のないものだった。
あれはどう見ても、自分がアンから受け取った本だからだ。
何故、それをエインが持っているのだ。
世界には、同じものは同時に存在しない。それが『決まり』なのだ。
ヴィヴィアンがこの世界にあの本を持ち込んだ時点で、この世界に元々あったあの本は消えてしまう。
これは、あの日、あのイトダと思しき男が言っていた『この世の理』に基づく理論だった。
物質と反物質がお互いを消し合うように、物一つ一つも、お互いを消す。だが、物体の場合、物質の理論と少しだけ異なるのだった。それは、世界にある物は、いずれもどちらか一方が必ず残るという事だった。
ヴィヴィアンが元いた時間ではまだ解明されていない理論だったが、観測はされていた。
だから、エインがあの本を持っている筈がないのだ…。
解らない。
自分が見落としている事があるのか、それとも自分では判別の付かない事があるのか。
八度目…。
何もかもが、今までと少し違った。
自分が取る行動は当然だが、エインやアン、リュリュ、クリーブスも、クレリーも…。誰もが今までと少しずつ違った。
変わりかけている…。
語弊があるが、そんな感覚だ。
これが、希望に続く変化なら良い。
もし『シャングリ・ラ』もがそれに当て嵌まるのなら、今すぐ考えるのを止めるくらいだ。
何度も願った事を、また思う。
生きて…。
仮令、共に生きられなくとも、エインだけは、生きて欲しい…。
もう失うのは、嫌だ…。
◆ ◆
「伯爵が粗方整理をしてくれてたんだね。」
バージルから受け取った遺産内訳の資料を眺めながら、エインが呟いた。
言葉通り。
自分とアンに何かあった時のために、殆どすべてが無条件でエインにその権利が譲渡されるよう、法的に有効な書類をきちんとまとめていてくれていた。
バージルも頷いて、「君がすべき事は驚くほど少ないよ」と言った。
「あとは、今夕の葬儀さえきちんと執り行い、アンの埋葬が終われば、君の役割も終わる。」
「…何もかも、計算どおりなんだろうな…。」
「だと思う。
で、君はどうするんだ?
まだ続けるかい?」
「…。」
「…そろそろ…、終わらせたらどうだろう…。」
二度目に会ったとき、お互い自然と素性を明かした。
何か感じるものがあったのかも知れなかったのだが、秘密明かしは本当にすんなりと行われ、そして、お互いが同じように時間を流れて来た事を知った。
だから、エインが繰り返し流れ続けている事も知っている。バージルが他の者と違うのは、それを咎めない事くらいだ。
「正直なところ、疲れたんじゃないか…?
俺なら、もう…。」
言いながら、エインの顔を伺い見る。
よく挫けないものだと感心していた。
それ以外、目の前の男に思う事はなかった。
「…今回が、ラストなんだ…。」
「…。」
「どういう結果が出てもね…。」
「それは…、どういう…?」
意味が解らず訊ねると、エインが視線を書類からバージルに移し、ふと笑った。
「もう、流れられない。」
「…?」
「物理的に不可能だ。
”舟”が動かない。」
「…動かない?」
「処理に必要な燃料がない。」
流れ来るものは、体一つで旅をする訳ではない。誰が名付けたのか、至極お手本通りの”舟”と言う名の転送装置を使用する。
古来よりお約束事とされて来た手段だ。
ただ、元より帰らない事を前提になされていた旅だ。何度も装置を使う事は想定されずに設計をしているため、燃料は元の時代のものを使用し補給は効かない。積載量も、到着後、暫く記録システムなどの装置を使用するための分を含め、約九回分となっている。
八回目の旅。最初の一回は、勿論”ここ”へ来るために消費した。
もう残っていない。
「…。」
これで最後。
諦めるか否かという選択すら、エインには残っていない。
そう思うと、大層複雑な心境であろうとバージルは思った。
「エイン…。」
心配になりバージルが声をかけると、エインはくすくすと笑って、バージルを見た。
「心配する事はない。
元々、終わりの見えた旅だったから…。
まだ、俺が求めた結末が出ないと決まった訳じゃないしね…。」
「だが…。」
言いかけて、やめた。
何を言っても、実感の出来ない、寄り添えない同情にしかならないからだ。
そんな気持ちを知っているエインは、さらに笑顔を作った。
そしてソファを立って、ベルトワーズのデスクに腰を下ろす。
「”運命”や”決まり”は、異次元に違いというのが俺の持論だ。
そこに在ると解らなくても、理論上はそこに在る。
でも、同時に理論が通じない物でもある。
俺の望みは”箱の中の猫”ではないが、”箱の中の猫の理論”に因って叶う確率もまだある。
最後まで、やるだけさ…。」
「それで駄目だったら、自分の運の無さを呪うだけだよ」と言って、エインは笑った。
エインの夢を聞いたとき、”まさか”とも思ったし、”馬鹿な”とも思った。
だが、それと同時に、この対極にある”もしかして”という思いもあった。
いつしかそれは”そうなって欲しい”という自分の望みになり、願いになった。
だから、エインを追う者が現れたと知った時も、エインを護る事しか考えなかった。
物理的に護衛をする事は不可能なので、情報を明かさない、くらいしか出来ないが、この世界ではそれ以上の身の守り方は無いに等しい。
「出来る事があったら、言ってくれ…。」
この言葉をかけるのが、精一杯だ。
非力と言う言葉が致し方のない言葉だと知ったのは、この世界に来てからだ。
だが、エインはこんな一言にも「有難う」と笑いかけてくれる。
「取り敢えず、相続に関してはこれで手続きも終わり。
晴れてこの家は、正式にエイン・アンダーソンの物になった。」
「ありがとう。」
「で、どうするんだ?」
「ん?」
エインが首を傾げた。
「ん? じゃないよ。
ベルトワーズ伯だって、何の理由もなく君にこの屋敷を与えた訳じゃないだろう。」
「ああ、そうだね。
それについては、これからゆっくり探す。
と言っても、目星は付いてるけどね。」
「?」
今度はバージルが首を傾げる。
エインは面白そうに肩を揺すって笑うと、壁に飾られた一枚の肖像画を繁々と見つめた。ベルトワーズの肖像画だ。威厳と優しさを兼ね揃えた内面と、それが溢れた表情が、油絵によってキャンバスに浮き上がる。
「この人がわざわざ遺してくれたもの。
総てに意味がある。
そこに、必ず、ヒントがあるはずだ…。」
口酸っぱく繰り返し諭して来た恩人が遺した物。
そこには、自分が欲しいものの答え、今まで逃げていて出来なかった事をやるチャンスが、ある…。