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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
潮騒の庭で
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潮騒の庭で 1

 エインとヴィヴィアンはぐったりとしながら、馬車に揺られていた。

 今朝がた、ラ・ロシェルのサジュマン家を挨拶もそこそこに出発し、サジュマン家の従者が操る馬車で、ボルドー郊外へ引き返しているところだった。

 行き先は、明らかにベルトワーズ邸だった。

 理由は聞かされていなかったが、エインが戻ると言う以上、ヴィヴィアンにとって特別な理由は要らなかった。

 出発前、リュリュは何ら変わらぬ様子でエインとヴィヴィアンを見送ってくれた。昨夜の話を聞いた後だったので、少少首を傾げたが、リュリュの性格上、聞いていたほど深刻な様子で話された訳ではなかったのかもしれない、と一人納得したのだった。

 ポーロの見送りはなかったが、今朝発つ事は予定になかったので、仕方がなかった。

 リュリュとの事や、何より昨夜思い出したイトダの事…。訊ねたい事はそれなりにあったが、どう切り出してよいものか、そもそも切り出してよい事なのか、判断がつかなかった。

 エインも連日の移動で疲れているのか、道中は無言だった。

 そんな馬車の中と対照的に、外は快晴だった。やや薄い色だが青空が広がり、海の方に少しうっすらと雨雲のような筋が見える以外は、見渡す限り雲一つなかった。

 エインもヴィヴィアンも、顔を背けるようにお互い逆側の窓の外を眺め、馬車の揺れに身を任せていた。馬車はボルドー市内を経由して、元来た道を郊外へ走る。

 そして夜深く、ベルトワーズ邸に辿り着いた。

 戻る方が手頃なのか、気持ち的な問題なのか、来た時よりもスムーズに着いた印象だった。

 サジュマンの者が報せを入れておいてくれたのか、馬車の音を聞きつけ、屋敷の前にクリーブスが立っていて、出迎えてくれた。

 エインはよいしょと馬車を降り、ヴィヴィアンに黙って手を差し伸べた。ヴィヴィアンも黙ってエインの手に自分の手を乗せ、馬車を降りる。

 サジュマンの従者が馬車の荷台から荷物を下ろすと、ベルトワーズのメイドたちがそれを屋敷へと運んで行った。そのあとすぐにエインとの挨拶を済ませ、引き返そうとする従者を、クリーブスが止めた。

 夜道は危険なので朝を待って発つように言うと、従者は素直に従った。

 従者が馬車を納屋へ納めに行くのを見届け、クリーブスはエインとヴィヴィアンを屋敷へ案内した。数日前までいたというのに、何だかとても久しぶりに訪れたような、奇妙な気分がした。屋敷は時間のせいもあろう、鎮まり返っていて、ヴィヴィアンたちの足音が妙に響いた。

 クリーブスが声を殺し、「お部屋は先日と同じ場所をご用意しております」と言って、各部屋へ案内してくれた。

「今夜はもう遅うございます。お嬢様もお休みになられておりますので、お二人もどうぞお休みください。」

 扉の前の廊下でクリーブスがそう言うと、エインが首を振った。

「クリーブスさん、今からアンと話せませんか。」

 エインの申し出に、クリーブスは困った顔をし、首を振った。

「だいぶ衰弱しておられます。あまりご無理は…。」

 だが、エインは食い下がった。

「お願いします。」

「しかし…。」

「どうか。

 今話しておかないと…。」

 エインがそこで、言葉を切った。その先は、ヴィヴィアンにも、勿論クリーブスにも解らない。

 クリーブスは暫し考え込んだ後、「少しだけ。五分程度でよろしければ」と言って、アンの部屋へと二人を連れて行った。アンの了承を得て来ると言い、部屋に入ったクリーブスを待つ間、ヴィヴィアンはエインの背後でその背中を見つめていた。

 エインの様子が、いつもと違う事を感じていた。

 ただ、知らぬ雰囲気ではなかった。

 それは、アンが死に、屋敷へ帰って来た時の、あのエインだ。

 普段のエインなら…、否、自分の知るエインなら、このような無理は言わない気がした。何か予感がするのだろうか…。

 ヴィヴィアンがそう思っていると、クリーブスが戻って来て、二人をアンの部屋へ招き入れ、ベッドで休んでいるからと言い、部屋を出て行った。

 エインは何も言わず部屋の階段を上がり、ベッドへ向かった。ヴィヴィアンは着いていくか行くまいか迷ったが、ここにいる以上、どちらも変わらない気がしたので、五歩ほど離れてエインの後に続いた。

 ヴィヴィアンが階段を上がり切ったところで、エインがベッド脇に椅子を添えて座った。ヴィヴィアンの位置からは、寝ているアンの表情は、天蓋のレースにも阻まれ十分には見えない。

「…。」

 座ったエインは無言のままだが、暫くして、シーツが擦れる音がした。

「…教授…。」

 聞え来るアンの声は、数日前、声を交わした時の記憶とは程遠く、擦れて乾いていた。

「夜遅く、申し訳ありません。」

「いえ…。いいのです。

 きっと、お気付きになったのでしょう…?」

「…ええ。やっと気が付きました。」

「…良かった…。」

 アンのくすくすという笑い声が聞こえた。

「父が、何より望んでいた事ですわ…。

 教授には、複雑でしょうけれど…。」

「…そうですね…。酷な運命だと思いますよ…。」

 溜め息混じりに、しかし満更でもなさそうにエインが言うと、アンはまた笑った。

 長く長く、耳を擽るように笑い…、そしてすぅと、息を吸い込んだ。

「…有難う、教授…。」

 アンの言葉に、エインが首を振る。

「最初は信じられない運命でしたの。

 でも、やっと受け入れられますわ…。

 『運命は変えられない』、『変えてはならない』。それが『決まり』…。」

 『決まり』…。

 階段脇に佇んで、静かに二人を見守るヴィヴィアンは、この言葉をもう一度頭の中で反芻した。

 抗う事が出来ないのか、それすらわからないもの。

 思い出した記憶の中で、イトダが言っていた事を信じるなら、すべては決まった事。この世の摂理…。

 アンは、それを受け入れると言う。

 唇を噛み締めると、アンがエインに手を伸ばした。エインもそれを、黙って握る。

「…有難う…。」

 消え入る様に呟いたアンに、エインは小さく頷いて微笑んだ。

 そしてすぐに俯き、動かなくなった。

 それを見て、ヴィヴィアンは悟った。

 アンが、死んだ事を。


◆ ◆


 クリーブスも覚悟をしていたのだろうか。

 あの後すぐに報せに行っても、特別驚いた様子を見せなかった。

 ただ、ほろりと一つ涙を流し、背を向けるだけだった。

 部屋を出るよう言われ、エインとヴィヴィアンは無言でアンの部屋を出ると、クリーブスが連れて来た数名のメイドとともにアンの部屋に篭った。

 一階からは忙しなく、しかし極力物音を殺して人が動き回る物音が聞えた。

 その中で、エインとヴィヴィアンは、邪魔にならぬよう宛がわれた部屋へ戻った。

 ヴィヴィアンはベッドに腰掛け、窓を見た。

 閉められた厚手のカーテンの隙間から、薄明るくなった空が見えた。もうそろそろ、夜が明けるらしい。外で馬が鳴いたので、誰かが馬車を用意しているのだと思った。

 立ち上がり、カーテンを開けると、ベランダにエインの姿が見えた。

 窓を開け、外に出ると、エインが振り向いて淡く笑った。

「寝なくて大丈夫かい?」

「はい。教授もお休みにならないのですか?」

「うん。移動中、思いの外きっちり眠ったようだからね…。」

 朝の冷たい風が横切った。記憶より冷たい。

 森の向こうが、キラキラと輝き始めた。もうすぐ日が昇る。

 この世で何があろうとも、日は昇るし、夜は訪れる。

 誰かの心の中では、これは非情な事であり、誰かの心の中では、これは希望であり…。

 あんなに恐怖したアンの死。死に顔すら見ていないヴィヴィアンだが、哀しみは、思っていたよりずっと大きかった。

 ただ、涙を流すほどの哀しみでもなく、ヴィヴィアンはその中途半端さに、無慈悲を感じていた。穏やかにいるエインに、後ろめたい気持ちでもある。エインにしてみたら、ヴィヴィアンの今の心情を知れば、怒りの対象となっても不思議ではない。

 が、考えに反して、エインは冷静なようだった。

「ヴィヴィ…。」

「はい。」

「実は…。

 それほど哀しくない。」

 ゆっくりと話すエインは、遠く地平線を見つめている。視線の先で、日の光が溢れた。

「冷たいと思うかい?」

 どう思われようが構わない。そんな淡々とした口調に、ヴィヴィアンは朝日に目を細めながら、内心胸を撫で下ろす。

「いえ…。

 でも、自覚をしていないだけ、という事も…。」

 取ってつけたようなフォローになったが、エインは構わず笑った。

「…そうかなぁ…。」

 言いながら、いつまでもくすくすと笑う。その様子は、笑いながら自問自答しているようにも見えるし、笑うほど可笑しな言われだと思ったようにも見える。

 空しさのようなものすら感じる長い笑いをし、エインがふと黙った。

「実際のところは、ほっとしてるんだよ…。」

 横顔からは笑顔は消えないが、声色は全く笑えないとあからさまに訴えていた。

「無益な『決まり』から解放されて、ね…。」

 『決まり』…。

「アンが、昨夜おっしゃった事、ですか。」

「そう。

 伯爵から、アンへ伝えられていた『決まり』事。

 それからやっと解放された…。」

 アンが、死んだ事でか…。

「結果として、『決まり』に沿う事になったけどね。」

「…?」

 あまりに含んだ表現をするので、ヴィヴィアンが眉を顰めると、エインが小さく首を振って「ごめん」と詫びた。

「妙な話は止めよう。今日は、アンをゆっくり偲ばなければ。」

 滔々と溢れる朝陽が、視界に収まる世界のすべてを照らす。

 今日は哀しい日だと言うのに、ここを訪れて一番の清清しい空模様だった。

 その景色が余りにも皮肉で、ヴィヴィアンは喉元が締め付けられる思いがした。

「そうですね…。」

 ヴィヴィアンはそう呟いて、世界をゆっくりと睨み付けた。

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