月の港の極東人 11
ヴィヴィアンは、”時間の約束”と呼ばれる”時に関する定義”が定められた年から約一〇〇年後の二九八五年に生まれた。
生まれて間もなく軍部によって試行された実験設備の事故に両親が巻き込まれて死に、親類がいなかった事から孤児になった。両親が軍関係者故、ヴィヴィアンはすぐに軍の孤児院に引き取られた。そこで軍人に必要な知識と知恵を始めとしたあらゆる事を身に付けさせられ、国家が定める一五歳という成人年齢を向かえた年、何の選択肢も与えられないまま軍に所属した。
ヴィヴィアンは優秀な軍人だった。
判断力に優れ、ずば抜けて高い記憶力と応用力、そして研究者にも引けを取らない知識量を駆使した部隊統率術は、現役軍幹部に大変気に入られた。
即、幹部候補へ名を連ねたが、快く思わないベテランや男尊女卑思想に漬かったライバルたちの妨害を受け、元より乗り気でなかった事もあり、幹部候補を辞退し、”時間管理部”という部隊への配属を希望した。ここなら何の厭なものもなさそうだったから、という単純な理由による選択だったが、結果として目論みは当たり、この部隊で軍人としてではあれど、割かし気楽な人生を歩む事となったのであった。
”時間管理部”は、歴史の監視を行う。
二七九九年。時間に於いて、画期的な発明がついに完成を遂げた。
時間を遡る事に成功したのだった。
それから約一〇〇年間の長期に渡り、その理論と発明を使用した実験を元にあらゆる観察をした結果、どうやら時間はある一定の法則に従ってループしているらしいという事が解った。
この発見により、歴史を見直し、今の時点で不都合の生じている事項について、”歴史を大幅に変えない過去の事項”を修正する事で解消しようと言う国際的な計画が発足した。
二五〇〇年付近から本格的に上昇し始めた地球の気温により、ヒトは”ハウス”と呼ばれる特殊素材で作られたドーム内に街や国を作る事で、生物の生態を維持して来た。二〇世紀以降、人が目指した宇宙では、”ヒトらしい生活”が望めなかったためだ。ヒトには、地球の重力が必要だったのだ。だが、一方では着々と資源も枯渇し始め、生命滅亡への懸念がより身近に生じるようになり、せめてもの抗いとして、ヒトは過去に遡り、歴史の修正を試みたのだった。
結果が出るものとそうでないものこそあれ、総合的に見ると予想を八割ほど満たした結果を認めたヒトは、本格的に歴史の調整に入った。
その任を背負った者たちが過去へと”流れた”のが、ヴィヴィアンが生まれる凡そ三〇年前。
”cakravartin”と銘打たれたその一行は、エイン・アンダーソンを筆頭に合計十名の科学者と研究者を集め作られた集団で、”輪を動かすもの”、”世界を照らす太陽”と言う意の通り、滅亡間近の全生命の希望であった。
しかし、全の希望は総ての一の希望とはならない。
この試みを実施するに当たり、一番の懸念事項とされた『私欲に走り、歴史を混乱させるべきではない』という”時間の約束”の基本第三条がある。この条項は一般的に”国際法”と言われる条項の一つで、最も守るべき条項とされていた。
後に関係者の隠語で、リグ・ヴェーダに登場する大蛇の名で、「障害」を意味する”ヴリトラ”と呼ばれる事となるエインは、この”国際法”を犯した事により、ヴィヴィアンが”時間管理部”に所属した年に、指名手配された。
手配がここまで遅れたのには理由がある。
過去へ”流れた”者の行動は、歴史を追う事でしか把握する術がなかった事が原因だった。これは未来である”現在”に戻る事が出来ないのではなく、過去に戻ると未来が存在しないためであったのだが、この危険を冒してでも歴史の調整は急務であり、そして、これは『国際的』と言う割りに、一般人には知らされる事のない計画でもあった。
事故を装い、エイン・アンダーソンをこの世から消すという任務。
それはエイン・アンダーソンという少しだけ名の知れた研究者が、ただ事故に遭って死んだだけの歴史が刻まれるだけの事だ。
だが、果たして何を犯したのか知れないエインではあったが、エインとの交流を重ねたヴィヴィアンにとって、エインは最早犯罪者ではなかった。
ただ書類上そうなっているだけで、エインはただの、エイン・アンダーソンだった。
そうなると、任務遂行に躊躇いが生まれた。
エインを生かしたい。だが、いずれ任務を怠った事が知れれば、未来から自分の代わりにエインを殺すための人間が”流れて”来るだけだ。
どうしたら良いか、結論など出なかった。
ウィンストンが屋敷を訪れ、エインが手早く荷造りをしてフランスへ旅立って、一週間が過ぎた。
エインの帰りを待つ日々。
思えば、旅に出る事が多かったエインを、いつも待っていた。
最初は、任務のためだけに。
それがいつしか、本来言葉通りの”帰りを待つ”という意味を含むようになった。
無事に帰って来ると、心の底が安定した。
『アン』。
”ここ”へ来てベルトワーズの名を聞いた後、エインの帰りを待つ間に、アンについては調べた。
アン・ベルトワーズ。ベルトワーズ伯の一人娘で、生まれつき心臓の病を患っているという。
ベルトワーズとエインは深い交流があるそうだから、娘とも何度も顔を合わせている事だろう。
そのアンが危篤だという報せ。それに対するエインの様子で、どのような関係かは想像に難くない。
ヴィヴィアンは自室の窓辺に座り、想いに耽る。
アンに何かあったら、エインは哀しむだろうか。
そうなのだとしたら、アンには持ち直して欲しい。
エインが、笑って帰って来るといい…。
だが、そんなささやかな願いは虚しくも叶わず、エインは憔悴しきった様子で屋敷へ戻って来た。
フランスへ出てから、二週間後の事だった。
エインの憔悴振りは筆舌し難い程で、ヴィヴィアンはエインが帰ってから数日、声をかけられずにいた。食事だとか、買い物だとか、必要最小限の会話こそあれ、それ以外はエインが口を開かぬ限り、言葉を交わす事もなかった。
しかし、ある夜、寝付かれず水でも飲もうと深夜に起きて廊下に出たとき、エインの部屋のドアが半開きになっていた。光が漏れて、廊下をほんのり照らしている。
ヴィヴィアンは足音を殺して部屋の中を眺めた。
部屋の中では、エインがオイルランプを点けたまま、床に座り込んでいた。周りを本の山に囲まれ、エインは何かを探す様にページを捲っていた。
足元には何かをメモしたのか、雑多に丸められた紙が散乱している。
どうにも気になってもっとと一歩踏み出したとき、勢い余ってドアを少し蹴ってしまった。その音に、エインが驚いてドアを見上げた。
「ヴィヴィ…?」
誤魔化しても仕方がないので素直にドアを開くと、エインが苦笑していた。
「ごめん。」
何の謝罪か、エインが詫びた。
「眠れないのですか?」
ヴィヴィアンが訊ねる。眠っていないのは今夜だけではなさそうだった。ここ数日、まじまじと顔を見ることがなかったので気が付かなかったが、エインの目元には深々とくまが出来ていた。
「…少し、お休みになられた方が…。」
「そうだね…。」
そう言いつつも、エインはページを捲る手を止めなかった。
平静を装ってはいるが、その横顔には明らかな焦りが窺えた。
何を探しているのか…。
「探しものでしたら、お手伝いいたしましょうか…?」
ヴィヴィアンが声をかけると、そこでエインはページを捲る手を止め、ヴィヴィアンに座るよう促した。ヴィヴィアンがエインの斜向かいの本の山の隙間に腰を下ろすと、エインはやっと、本を床に置いた。
「ヴィヴィ…。」
俯いて呼ぶエインの声は弱弱しく、ヴィヴィアンに縋っているように聞こえた。
「はい。」
「命なんて要らないと思う程の物を失ってしまったら、どう生きていったらいいんだろう。」
「……。」
「掬い上げて零れ落ちた水みたいに、もう二度と戻って来ないものを失ったら、どう生きて行ったらいいんだろう。」
「…いつも通り、生きていくしかないのではないでしょうか…。」
「いつも通り…?」
「…はい。
手に入るものは、いつか失うものだと思います。
執着すれば、するだけ虚しい思いをするだけかと…。」
淡々と答えるヴィヴィアンに、エインが笑った。
「キミは無機質だな。」
「…希望がないだけかと…。」
「そうかな…。
…逃げているのでは、ないかな…。」
エインがぼそりと呟いた一言に、ヴィヴィアンは胸がきゅっと縮まったのを感じた。
”逃げている”…?
「失うという恐怖から、逃げているだけなんじゃないのかな…。
どうしても手に入ってしまう。手に入ってしまえば、愛おしくなる。
ならば、いつか独りになるのなら、始めから独りの方がいい。
いつか死んでしまうなら、始めから生まれない方がいい…。
でも、そんなのは、哀しくないか…。」
「…。」
「理論だという事は理解出来る。
愛する者が死ぬからと言って、自分自身も死んでしまってはどうしようもないし、何も生み出さない。
だが、それを願って何がいけないのだろう。
あの時こうすればよかった、こうなった時こうすればよかったと溢れる悔しさに抗って何がいけないのだろう。
アンは、”生きる”事は”決まり”だと言った。
ボクは生き続けなければならないのだと。それがボクが生まれて来た”決まり”なのだから、”従わなければならない”のだと…。」
握り締めて話したくなくなるようなものを手に入れた時の至福感と、それに付随する、対極に位置する失ったときの喪失感。
対象への想いが強ければ強いほど、その差は開き、埋める事も出来なくなってしまう。
それでも、空いた穴などないかのように生きるのが、結論だと思う。
さもなくば、残された道は自死しかなくなってしまう。
しかし、ヴィヴィアンには解らない。
何故なら…。
「…私は…。
そこまで何かを愛したり、求めたりした事がありません…。」
その言葉に、エインがはっと顔を上げた。
「人を愛する事がどういう事か、どのような感情を抱く事で、どのような損失感を伴うものなのかも解りません。
だから…、教授のお気持ちは、解らないのです。
でも…。」
でも…。
「でも…?」
「それでも…、いつも通り、生きていく事が結論だと思います。」
ヴィヴィアンは、エインを真っ直ぐ見た。
人を真っ直ぐに見つめる事は、自然といつでも出来る事だった。
それが、アンがこのようになってから、エインをこんな風に見る事は出来なかった。
今まで出来なかった分を注ぎ込むように、エインを見据える。
生きて欲しい。
酷な願いでも。あのエインに戻って欲しかった。
エインは暫し、ヴィヴィアンに甘んじて見射抜かれ、やがて、俯いて自嘲気味に口の端を上げた。
「何故、みんなして結論が同じなんだろうね…。」
◆ ◆
懐かしい記憶。心が揺れる記憶…。
あの時のエインを、ヴィヴィアンは忘れた事はない。
あの姿を見、生まれて初めて他人に『生きて欲しい』と言う感情を抱いた。
他人が生きようが死のうが、総てを自然の摂理と諦めていた自分が、と思うと、自身の変わり様に激しい動揺もした。
あの感情が、総てを決めたのだ。
時を流れ、エインが生きる事だけを追い求めて来た。
何度やっても、それは叶わなかった。
でも、諦めるという選択肢はなかった。
だが、これが最後だ。どう結論が出ても、もう流れる事は出来ない。
だからこそ、あらゆる可能性に賭けたい。
エインが生きるためなら。
見上げると、エインがヴィヴィアンを不思議そうに見下ろしていた。
随分長い事、物思いに耽ってしまっていたようだ。治療は終わっているのに、手も添えたままで、エインからすれば、ヴィヴィアンはずっと放心しているように見えたに違いない。
「申し訳ありません。」
ヴィヴィアンはそう言うと、すっと手を離し、足元に散らばった古いガーゼや汚れた布を拾い、立ち上がった。
一方で、つまらぬ愚痴でヴィヴィアンに不要な気遣いをさせてしまったのかと心配したエインは、腰を上げてヴィヴィアンと真正面で向き合った。
「すまないね。変な話をして。」
申し訳なさそうに俯くエインに、ヴィヴィアンの心がさらに揺れた。
違う。何でもいいのだ。何でも話して欲しいのだ。
あなたが笑うなら、何でも言って欲しいのだ…。
なのに、その一言を言う事が出来ない。
「お気になさいませんように…。」
そんな言葉しか言う事が出来ない自分が、悔しい。