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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
月の港の極東人
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月の港の極東人 10

 一度目は、何事もなく出て来たように見えた。

 二度目に、様子がおかしい事に気が付いた。

 三度目と四度目は、扉を訪れる事無く。

 五度目に、初めて傷の事を知った。

 六度目もまた、扉を訪れる事はなく。

 七度目、触れようとして、諦めて…。

 八度目…。

 何度も通った道だ。可能性を一つずつ潰していけば、いつか希望に結び付くかも知れない。

 長く、永く夢見た希望に。

 今か、未だかと帰りを待つ。

 ここは大丈夫だと、あの人は言って…、否、今回は言わなかった。

 だが、大丈夫だろうと思う。

 何事もなく、この扉は開くはずだ。

 エインが、手のひらに傷を負う事を除いて…。

 扉から少し離れた場所で瓦礫に腰を下ろして、ヴィヴィアンは扉をじっと見つめていた。

 二人が入ってそろそろ一時間になる。

 地上でも屋敷からここまで三〇分であれば、地下も同じか、それよりは距離もあろう。あと三〇分は、出て来ないと思っていた方が気が楽か。

 そう思うと、返って気が急いた。

 何もない。大丈夫だと信じれば信じるほど、不安も大きくなる。

 まさか、この扉から出て来ないなどという事は…。

 有り得なくはない。自分はあの扉の向こうに何があるのか、知らないからだ。

 早く…。早く帰って来て欲しい。

 そう思った時、がちゃりと大きな音を立てて、鍵が開いた。

 呆けていたポーロは驚き、クレリーは微動だにせず静かに扉を見、ヴィヴィアンは待ち焦がれていた想いから咄嗟に立ち上がった。

 徐々に開く扉の向こうに、扉を押し開けるエインの姿が見えた。

 俯きがちに、ただ一心に扉を押すエインの表情は、ヴィヴィアンの記憶どおり、何かに対する怒りを押し殺しているようだった。

 だが、ヴィヴィアンにとっては、そんな事などどうでもよかった。

 扉が完全に開き、リュリュを先に地下部屋へと出したエインに、ヴィヴィアンは走り出し…。一歩進めたところで、足を止めた。

 止めたのではなかった。止まってしまったのだ。

 体が言う事を聞かなかった。

 傷の手当に必要な薬品を前以て準備するわけに行かなかったから、手にハンカチだけを握り締めていた。

 エインは右手を握り辛そうにしている。

 傷を負っている…。

 手当てを…。せめてこのハンカチだけでも。

 そう思うが、足が動かなかった。

 蟠りは残る。自分のものではない人。その人に触れる事。

 本当に、触れてしまっていいのだろうか。

 どうしても、躊躇いがあった。

 触れることで、道が逸れはしないか…。

 両手を胸の前で組み握り締め、無表情ながらも困惑した表情を浮かべるヴィヴィアンがふと目を移したポーロとリュリュは、不自然な距離を置いて立っていた。

 何故だ。

 そう疑問に思うと、途端に足が動いた。

 二歩。三歩。

 先程の硬直が嘘のように、足が軽い。まるで当たり前の事のように、真っ直ぐエインに向かって動いていく。

 近寄るヴィヴィアンに、エインが気付き、微笑んだ。

 そして、記憶にある言葉を言う。

「ただいま。」

 一度目は、言わなかった。

 二度目は、照れくさそうに、言った。

 五度目と七度目は、大袈裟に両手を広げて、言った。

 そして、八度目は…。微笑んだ。

 ヴィヴィアンは歩みを止める事無くエインに歩み寄り、空いている左手でエインの右手を取ると、ゆっくりと手のひらを見る。

 火傷。それも、かなりの重度のものだ。

 炎症を通り越し、皮が焼け爛れ、肉が見えてしまっている。血が滲み、一足早く水脹れを起こしている箇所もある。

 そしてその傷は、何かの模様にも見える。

 無言のまま、唇をきゅっと噛み締めて傷を見つめるヴィヴィアンを、エインは何も表情を変えず見下ろし、微笑んでいた。

 ヴィヴィアンはそっとハンカチをエインの手のひらに乗せ、ズレ落ちないよう指の間に通しながら巻き付けた。

「ありがとう。」

「…いえ…。」

 礼を言うエインに、ヴィヴィアンは素っ気無く言う。

 素っ気無いつもりはないのだが、どの感情を声に乗せるか、躊躇うのだった。

 エインはそれを理解している。

 だから、何も言わずに微笑んだままだ。

 その二人を、リュリュが振り返って見ていた。リュリュの視線にヴィヴィアンが気付き、エインから手を離すと、一歩下がる。

「屋敷へ戻りましょう…。

 傷の手当てをしなければ。」

「そうだね。」

 後ろで、ガタンという音が響いた。エインとリュリュが出て来た扉を、クレリーが締めたのだった。その直後、扉の内側から、カチャリと音が続いた。

 どうやら、扉を閉めると自動で鍵がかかる仕組みになっているらしい。

「こちらへ。」

 施錠を確認し、クレリーが一同を誘導する。

 祭壇裏への階段を上がり、廃れた小さな建物を出ると、クレリーがチェーンを元に戻した。

 空を見上げると、まだ空の色は青々としていた。随分地下にいた気がするのに、然程地上の時間は変わっていない様子だった。

 疲れているのか、屋敷までは誰も、リュリュですら口を利かなかった。

 屋敷に戻り、各々部屋へと散ると、クレリーが一部屋ずつ周り、様子を伺いに来た。

「お食事はどうなさいますか? お疲れのようでしたら、お部屋へお運びいたしますが。」

 ヴィヴィアンのところへもやって来て、そう言うと、クレリーはジャケットのポケットから火傷用の軟膏の容器と何枚かのガーゼを取り出し、ヴィヴィアンに差し出した。

「教授のご様子が気になるようでしたら、傷の手当てをして差し上げてはいかがでしょう?」

 クレリーも扉から出て来た時のエインの様子を気にしたようだった。

 ヴィヴィアンが容器を受け取るのに戸惑っていると、クレリーはふふと笑って、

「教授は私どもにはあまりご自分の心のお話をされません。

 でも、ヴィヴィアン様は別のようでございますよ。」

 と言った。

 他人と自分との対応の違いに気付いていないヴィヴィアンが首を傾げると、クレリーはさらに面白そうに笑った。

 そして、容器をベッドのサイドテーブルに置き、

「教授はご昼食を食堂でお召し上がりになるようです。ヴィヴィアン様のお食事も、一緒にご用意いたしましょう。」

 と言って出て行った。

 ヴィヴィアンは容器を暫く眺め、クレリーの言葉を反芻した。

 自分にだけ…?

 そんな事はなかろう。自分より遥かにエインの事を知っている人間は幾らでもいる。

 ヴィヴィアンは容器を手に取ると、指先で弄った。

 あの火傷を思い出す。

 あれでは、早めに手当てをしないと、あっという間に皮膚が壊死してしまって、痕も消え辛くなってしまうはずだ。

 そう思いながら、ベルトワーズ邸で見た、エインの絵を思い出す。

 素朴で、可愛らしい絵だと思った。

 傷の様子を知った今、あの絵を描く手が、エインの手が傷付くのは、耐え難い。そして、エインが痛みを堪え続けるのも。

 ヴィヴィアンは大事を覚悟でもした様に意を決して立ち上がると、隣のエインの部屋のドアをノックした。

 だが、中からは返事は愚か、物音一つ聞こえて来ない。

 眠ってしまったのだろうか。それとも、クレリーが去ってヴィヴィアンが廊下に出る間に、部屋を出てしまったのだろうか。

 ヴィヴィアンは思案し、もう一度ノックをした。

 が、やはり何の返答もなく、ヴィヴィアンは仕方なく溜め息を吐き、踵を返した。

 すると、慌てたように、「はい!」と大声で返事をするエインの声が聞こえた。

 エインはバタバタとドアを駆け寄ると、勢いよく開けた。ヴィヴィアンはドアにぶつかりそうになり、慌てて後ろへ飛び退いた。

「ああ、ごめん、ヴィヴィ。当たってしまったかい?」

「…いえ、大丈夫です。」

 やはり眠っていたのだろうか。心なしか、声が篭っている。

「傷の手当てをと思いまして…。」

 ヴィヴィアンが言うと、エインはぱっと笑ってヴィヴィアンを部屋の中へ招いた。

 エインの部屋はヴィヴィアンの部屋より少しだけ広く、ベッドと窓の間にソファと小さなテーブルがあった。

 エインはヴィヴィアンにソファに座るよう言い、自分は向かいのベッドに座ると、ハンカチを片手で解き始めた。早足で駆け寄ったヴィヴィアンが手を添えると、エインは自分の手を引いて、ヴィヴィアンを見上げる。

「クレリーさんが、ご様子がおかしいと気になさっておりました。」

 ハンカチを解き、傷を見る。傷はかなり化膿して、ずるずるになっていた。もう、模様に見えた火傷の痕も明確ではない。

 ヴィヴィアンは洗面台でガーゼを一枚濡らすと、エインの足元に膝を付いて傷を丹念に拭いた。

「ボク? おかしかった?」

「はい。」

「…傷が、痛んだんじゃないかな。」

 あからさまにとぼけるエインを、ヴィヴィアンが無言で見上げた。

 その反応に、エインは暫し苦笑し、少しだけ姿勢を崩した。

「…リュリュが、ポーロと結婚しないと言い出したんだ…。」

「”試練”を受けなかったからですか?」

「いいや。元々、リュリュもポーロに”試練”を受けさせるつもりはなかったんだよ。だからボクを呼んだんだ。

 でも、あの扉を出る前、少し話し込んでいたら、気が変わったらしい。」

「…。」

「困ったもんだね。」

「…それだけですか?」

 簡素に話し終えたエインを見もせず、ヴィヴィアンが訊ねた。それだけが原因ではあるまいと思ったのだった。

 手元ではずっと、淡々と手当てが続けられている。

 当然、きちんと話すだろう。そんな風に考えている様子に見えた。

 エインはまた苦笑して、窓の外を見た。

 初夏らしい、青々とした空が見える。

「ボクに、この家を継いで欲しいんだそうだ。」

 エインがぼそりと言うと、ヴィヴィアンの手が一瞬びくついた。

「理由は話せない。

 勿論ボクはそんなつもりはない。

 リュリュも当初はリュリュはポーロと結婚するつもりでいたからね。

 でも、話をしていて、気が変わったんだそうだ。」

「…。」

 ヴィヴィアンが無言でいると、その意味を汲み取ったエインが続けた。

「理由はね、ボクが”試練”を代行した理由に因む。

 だから、詳しくは話せないけどね…。」

 そう言って、エインが目を細めた。

「みな、ボクをここへ引き止めようとする。

 ”決まり”を護る事、運命に逆らわない事を諭すんだ。

 当たり前だし、解ってる。

 気持ちも解るが、でも何で、みんなして結論が同じなんだろうね?」

 エインが言うと、ヴィヴィアンが手を止めた。一通り、手当てが終わったのだ。

 だが、ヴィヴィアンはエインの足元にしゃがんだまま、動かなかった。

 昔、エインが同じ事を吐き棄てるように呟いた事を、思い出していた。


◆ ◆


 一度目。

 その日、エインもヴィヴィアンも、ただ穏やかにエディンバラのアンダーソン邸で過ごしていた。

 とても良く晴れていて、仄かにそよぐ風が心地好い日だった。

 普段は一人で出かけてしまうエインだったが、珍しくヴィヴィアンを連れて行きたいと、フランスのラ・ロシェルへ共に行き、ちょうど昨晩帰って来た翌日だ。

 エインは自室に篭り、いつも通り本の山に埋もれ、ヴィヴィアンは屋敷中を掃除して周っていた。

 アン危篤の報せが届いたのは、そんな時だった。

 屋敷内の掃除も終わり、庭の手入れをとヴィヴィアンがエントランスを出た時、一人の中年男性がやって来た。

「アンダーソン教授は、ご在宅でしょうか。」

「…おりますが。」

 ヴィヴィアンが不信な顔で答えると、男性は帽子を取り、「ベルトワーズの使いの者です」と言った。

 ベルトワーズ。確か、先日エインが所用で呼ばれた家ではなかったか。

 そう思い、男性を中に入れると、エインの自室をノックした。

「教授。」

「んー?」

 部屋の中から、エインのお気楽な声が聞こえる。

「ベルトワーズ家のお使いの方がいらしてます。」

「…なんだって?」

 それだけの言葉で事態を把握したのか、一変して神妙な声に変わったエインが、強張った表情でドアを開けた。ヴィヴィアンがエントランスの男性を見ると、ドアの影からエインもエントランスを覗き、眉間の皺を深くした。

 エインはゆっくりと男性に近付くと、「ウィンストンさん」と男性に声をかけた。男性の名は、ウィンストンというらしい。

 ウィンストンはエインを見、「ああ、教授…」と泣きそうな声を出した。

「お便りよりも、こちらへ窺った方が早いとクリーブスさんに言われて参りました。

 お嬢様が、アンお嬢様が…。」

 わたわたとエインの腕を掴んで言う男性を、エインは体を硬直させて見つめていた。

「アンが…、どうしたって…?」

「ご様態が急変しまして…。

 今、医者を留めて経過を見守っております。

 医者は、そう長くはないだろうと…。」

 それを聞いて、エインがウィンストンの腕を掴み返した。

「それは…、本当なんだな?」

「はい。

 熱が引きませんで。うわ言の様に教授のお名前を呼んでいるそうです。

 教授、お嬢様の近くに…。」

 ウィンストンが言うと、エインはヴィヴィアンに振り返って、「ちょっと家を空けるよ」と言った。

 言葉とはまるで整合性の取れぬ、焦りに満ちた声だった。

「はい。」

 エインは必要最小限の荷物をカバンに詰め、早々にウィンストンとフランスへ向かった。

 ヴィヴィアンはその後二週間ほど、エインを屋敷で待ち続けた。

 この頃のヴィヴィアンは、エインにほんのりとした愛情を持っていた。

 エインは大変頭が良く、物知りで、物静かで、一見すると落ち着きはなさそうだが、ふと見せる表情や仕草に品の良さが垣間見えた。

 読書に没頭すると数日かけてのめり込む勢いであったが、それ以外ではヴィヴィアンの事を丁寧に気遣い、色々な話を聞かせてくれた。

 元来話し始めると止まらないエインであったが、自身の事は余り語らなかった。自身が考えている事も、無暗に口にはしなかったため、周りから変人だとか、変わり者だとか言われるのも、それが所以であると思われた。

 だが、ヴィヴィアンには、ぼそりと小さい頃の思い出を話してくれたり、今どういう気持ちかを述べてくれた。

 そうしているうち、心が解れた。

 開け広げに見せて来るエインの心に、自分も応えねばと思い始めていたのだった。

 それは、愛情に他ならない。

 恋だとか、そういったものではなく、もっと根本的な、人間愛に近かった。

 エインが笑っていれば幸せだった。

 だから、悪い知らせが入ったり、悪い発見をしたりして機嫌が悪かったりすると、途端に不安になった。

 他人にここまで感情を揺さぶられるのは、生まれて初めての経験だった。

 エインとの接触は、ヴィヴィアンにとって特別な意味を持ち始めていた。

 だが、任務を棄てる訳にいかなかった。どこかで、その任を果たさねばと思っていた。

 彼にどんな感情を抱こうと、自分は彼を”排除”、即ち殺すために”ここ”へ来た。彼は、重大な罪を犯した”犯罪者”であった。

 しかし実際のところ、ヴィヴィアンは彼がどのような罪を犯したのか、知らなかった。

 知る必要のない事だから、イトダからも聞かなかった。

 ただ、国際法と定められ、対象を排除するレベルの犯罪と言えば、凡そ二つほどしか思い当たる事がなかった。

 それは、”時間を無断で遡る”か、”歴史に影響を及ぼした”場合だ。

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