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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
月の港の極東人
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月の港の極東人 7

 うとうとと居眠りを繰り返し、深夜過ぎにはラ・ロシェルの街灯りがはっきり見て取れる距離まで来た。

 その頃には、やや疲れつつも、繰り返した居眠りの所為で眠り込む事も出来ず、エインもヴィヴィアンもぼうっと夜の闇を見つめていた。雨はすっかり止み、薄雲の向こうにぼんやりと月が浮かんでいる。

 馬車を操るクレリーは、トンプスンやウィンストンと違って道中一言も声をかけて来なかった。

 気になったエインが前方の覗き窓を開けると、そこでやっとクレリーが声を発した。

「もうそろそろでございます。」

「うん。体は大丈夫ですか? 随分雨に濡れたでしょう。」

「ええ、大丈夫です。ご心配有難うございます。

 イトダ博士の奥様のお心遣いのお蔭で、雨も苦ではございませんでしたよ。」

 そう言って笑うクレリーを、窓の隙間からヴィヴィアンが驚いた表情で見つめた。

 ”イトダ博士”…?

 今、クレリーは確かにそう言った。

 だが、エインとクレリーは何を気にする様子もなく、会話を続けていた。

 やはりアルフォンスは、自分の知るあの”イトダ博士”の叔父という人物だろうか…。そうであれば、”博士”と呼ばれるのも納得が行く。自分の追う…、否、”追っていた”エインを始めとする”cakravartin”のメンバーは、全員があの施設に所属する博士号の資格を持つ研究員から選出されているからだ。

 ただ…。

 クレリーは自分の知る限り、”ここ”の人間である。

 事情でも話さない限りは、エインたちの素性など知る由もないだろう。

 エインたちが自らの素性を明かすとは、考え難い。

 単に言い間違えか。さもなくば、エインたちがふと仲間内で”博士”と言っていたのを、クレリーが鵜呑みにしただけかも知れない。

 訳を尋ねるのは危険すぎる。

 気にはなるが、ヴィヴィアンは、これはこのまま流すべきだろうと結論付けた。

「やっぱり夜中になってしまったね。」

 窓を閉めながら、エインが席に戻った。

「雨が止んで、良かったですね。」

「うん。ボルドーからこの辺りは、少し土が軟らかいんだ。

 雨がずっと続いてたら、馬車も速度を少し落とさなきゃいけなかっただろう。

 運が良かった。」

「教授もお疲れでは…?」

「ん? うん。

 まぁ、オジサンだしね。」

 そう言って、エインはケラケラと笑った後、ヴィヴィアンを見て「済まなかったね」と言った。

 ヴィヴィアンが首を傾げると、エインは淡く微笑んで、

「ずっと引き摺り回してしまっているからね。

 ロンドンを出てから、休む暇なんてあまりなかったし。」

 「怪我もしてしまったしね…」と言って、ヴィヴィアンの脇腹を見る。

「まだ痛むかい?」

「いえ、痛みはもうありません。それほど深い傷でもありませんでしたし。

 怪我は私の不注意です。申し訳ありませんでした。

 それに、ベルトワーズのお屋敷で、十分ゆっくりさせて頂きました。

 私の事は、ご心配なさいませんように。」

 そう淡々と答えるヴィヴィアンを、エインは面白そうに見つめた。

「疲れたら、言いなさい。」

「はい。」

 ヴィヴィアンが素直に頷くと、エインは満足したのか、背凭れに凭れて目を閉じた。


◆ ◆


 雨はすぐに止み、雨上がりのぬかるんだ道を、馬車は三時間ほど走ったのち、最後にガタガタと大きく揺れて、停まった。

 軽く眠っていたエインとヴィヴィアンは目を醒まし、次いでエインの側のドアが開いた。

「到着いたしました。」

「お疲れ様でした。」

 エインは肩を揉みながら馬車を降りると、ドアの前で大きく伸びをした。

 そして、ふぅと溜め息を吐き、後ろでエインがどくのを待っていたヴィヴィアンを振り向き、手を差し出す。

 ヴィヴィアンが躊躇いながらも自分の手を乗せると、足を地面に下ろす。その時、片手にも拘らずエインが体付きに似合わぬ力でヴィヴィアンを支えたので、ヴィヴィアンはまるで羽根でも生えたかのようにふわりと着地した。

「…ありがとうございます。」

「はいはい。」

 礼を言うヴィヴィアンに、エインは軽ろやかに言いながら背を向けた。

 すっかり闇に溶けて見難いが、馬車の前には蔓の絡まった大きな鉄の門が建ち、その向こうには大きな屋敷が見えた。

 ベルトワーズ邸と違い、大きさこそ比べ物にならないがボルドー市内の建物に良く似たクリーム色の壁をしていて、緑の草木が良く似合う屋敷だった。

 エインは屋敷へクレリーとヴィヴィアンを置いて、さっさと歩いていってしまう。

 如何にも、来慣れている、という躊躇いのなさだった。

 クレリーも構わないと言う感じで、ヴィヴィアンを誘導する。

「ささ、夜風で冷えます。

 お屋敷へご案内いたします。」

「ありがとうございます。」

 ヴィヴィアンはクレリーに続いて屋敷へと向かった。一足先に、エインは門を開けて敷地へ入っている。

 後ろで馬車が動く音がした。振り返ると、いつの間にか来ていた従者らしき者たちが、屋敷の横にある納屋へ馬を戻しにかかっていた。

「夜遅くになってしまい、申し訳ございません。」

 謝りながら、これまたいつの間にかエインを追い抜いたクレリーが、屋敷の扉を開けた。

 物音を極力抑えるように、そっと開けた扉の向こうに、申し訳程度に炎の灯ったオイルランプが見えた。

 促されて屋敷へ入ると、エントランスは吹き抜け天井の広々とした造りになっていて、大きな階段と、目の前に置かれた巨大な陶の花瓶が、闇の中で異様な存在感を醸し出している。花瓶には溢れんばかりに花が生けられており、日中ならばその豪華さに圧倒されたであろう事が、影からも窺えた。

 ヴィヴィアンが感心したように花を眺めていると、気付いたクレリーが、

「それは、リュリュお嬢様が手入れをされている花瓶でございます。」

 と説明してくれた。

「毎日花を入れ替えているのですか?」

「いえいえ。

 花も生けて三日ほどは美しく生き生きと咲きますので、リュリュ様も花の様子を見ながら、一つ一つ入れ替えているのですよ。」

 ヴィヴィアンの問いに、クレリーは案内のためにオイルランプに火を入れながら説明した。

「奥様が生きておいでの頃は、リュリュと奥様と二人でやっていたんだよ。」

 花瓶を裏側から眺めていたエインが付け加えた。

「素敵なご趣味ですね。」

 素直にそう思って言ったヴィヴィアンに、クレリーは我が事のように満面の笑みで礼を言った。

「さあ、暫くお使いいただくお部屋へご案内いたします。

 お客様には大変失礼になりますが、リュリュ様は就寝中でございますので、物音にはご注意いただけますと…。」

「リュリュは寝起き最悪だからね。」

 エインが言うと、クレリーが苦笑しながら歩き出した。

 クレリーに付いて行くと、三階へ通された。

 東角部屋はリュリュの自室で、その隣は亡きサジュマン夫妻の寝室だという説明を受けながら、エインはその隣、ヴィヴィアンはその隣の部屋を宛がわれた。

 各々部屋に入ると、馬車から荷物を運んで来た従者がやって来て、部屋の説明をしてくれた。

 一通り案内され、終わるとクレリーがまずヴィヴィアンの部屋を覗き込み、

「今夜は遅うございます。ごゆっくりお休み下さい。」

 と言ってドアを閉めた。

 言葉は柔らかいが、問答無用で「もう寝ろ」という事のようだ。

 ヴィヴィアンは、髪を解きながら廊下の外の様子を伺ってみた。

 エインにも同じ事を言っているのが聞こえる。

「それでは…。」

 そう言って、引き上げようとしたらしいクレリーを、エインが止めた。クレリーの声と異なり、エインは声の大きさを絞っているようで、少々聞き取り辛い。

「ああ、クレリーさん。」

「何でございましょう?」

「アンについて、何か情報が来ていたら、教えていただけますか。」

「承知致しました。

 ただいま、ベルトワーズ邸へ遣いを出しております。

 何かありましたら、直ちに戻るよう、言いつけておりますので…。」

「ありがとう。

 ボクの都合なのに、申し訳ない事です。」

「とんでもございません。

 教授には、亡き主も、お嬢様も、私たちも、お世話になっておりますから、お困りの事があれば、何なりとお申し付け下さい。」

「ありがとう。とりあえず、暫くはお世話になります。」

「はい。

 お休みなさいませ。」

「おやすみ。」

 その後、ドアが閉まる音がした。

 ヴィヴィアンは足音を殺し、ドレスを脱いでベッドに倒れ込んだ。

 アンに何かあったのだろうか…。

 ふと、馬車の中でのエインを思い出す。

 そういえば一瞬だったが、アンを話題に挙げた時、エインが表情を暗くした時があった。無関係ではなさそうだ。

 だが、それならばその時に教えてくれそうなものだ。と言う事は、少なくとも自分には伝えるべき事ではないと判断したのだろう。ならば、訊ねる事はやめた方が良かろう。

 ヴィヴィアンはそうと結論をつけて、目を閉じた。

 馬車では居眠りこそすれど、あまり深く眠り込む事が出来なかったので眠くないと勘違いしていたが、ベッドに横になると途端に眠気が襲って来た。

 疲れているのか…。

 明日、朝疲れた顔をしては、エインに心配をさせる。アンの事もあるから、せめてそれ以外で無用な心配をさせるのは憚られた。

 きちんと休もう。

 ヴィヴィアンはそのまま、眠りに着いた。

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