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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
月の港の極東人
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月の港の極東人 6

 見送るイトダ夫妻に手を振りつつ、ラ・ロシェルへ馬車を走らせる。

 ラ・ロシェルは、一二世紀に都市特権を得た港湾都市だ。ビスケー湾の入り江にあるので、大西洋で漁を行う際の漁港としても重要な役割を果たす。百二〇から百五〇キロ圏内に、ボルドー、ポワティエが位置する。

 一二九三年にイングランド軍などの襲撃を受けた事を境に、イングランドとフランスの関係が悪化。翌年にギエンヌ戦争が勃発する。

 その後プロテスタントの牙城となったこの街は、海と山裾に挟まれたのどかな街から、背の高い防壁や弓、銃撃、監視に使用した高く頑丈な塔に囲まれた街へと姿を変えて行き、一六世紀後半のユグノー戦争に於いては、カトリック勢力の激しい攻撃を受けても堂々たる防御で街を守り通した。

 サジュマン家はその街の郊外で広大なハーブ農園を営む、割かし古い家だ。

 どういう経緯があってか、偶然か、本邸の真下には古い地下墓地の遺跡があり、小耳に挟んだエインは、一昨年前に亡くなった家主のリシュリー・サジュマン卿に遺跡の調査を懇願していた。

「直接お許しを貰うのは、叶わなかったな…。それが残念でならない。」

 馬車の窓辺に頬杖を突いて、エインはぼんやりと呟いた。

「奥様も大変聡明で、優しく美しい人でね。

 物知りの卿と奥様二人で、ボクの知らない事を何でも教えてくれた。

 ボクにとっては、ベルトワーズ伯と同等に恩人と言うべきかな。

 一人娘のリュリュは、優しいお二人に大切に育てられすぎて我侭娘になってしまったが、お二人の教えをきちんと守る賢い子だよ。」

 「確か、ヴィヴィより年下だったんじゃないかな」と言って、エインがヴィヴィアンを見た。

「アンと同じくらいでしょうか?」

 ヴィヴィアンが何気なく言うと、エインは一瞬顔を曇らせた。クレリーの報告の時、その場にいなかったヴィヴィアンに悟られぬようにと、エインはすぐに表情を戻し、考え込むのを装って窓の外に視線を逃がした。

「うーん…。そうだね、アンと同い年くらいだった気がするな。

 アンはあんな身の上だから少し特殊だが、リュリュは至ってシンプルで明朗な子だよ。」

 エインは屋敷での出来事を思い出し、あの時ほど怖い思いはしないと、遠回しに言う。

 その口許に、ふと笑みが浮かんだ。

「お、雨が止んで来た。」

 エインの言葉にヴィヴィアンも窓を開け、外を見る。

 雲は薄くなり始め、空が白く光り始めていた。雨は霧雨のようにさらさらと舞っている。

「止みそうですね。」

「ああ。

 サジュマン邸に着くのは深夜になりそうだけど、その頃までには止むだろうね。」

 そう言って、エインが無言になると、ヴィヴィアンも窓の外を眺めた。エインはそれを視界の隅で確認すると、独り、流れる風景に思考を委ねた。


◆ ◆


 一方の窓辺で、ヴィヴィアンも独り、ぼんやりと思う。

 この風景も、何度目だろうかと。

 何度か辿った道程だった。

 結局通らなかった時もあった。

 だから、自分が真に目指す道の先には希望があると、可能性があると、信じられるようになった。

 いつもいつもこの風景の向こうで、あの人の帰りを待っていた。まだ雨雲の晴れぬ空を覚えている。

 あの扉から、あの人が現れた時の事を思い出す。

 今回もきっと、同じようにまたあの扉から現れる。

 …現れてくれる…。

 道が一つではないと解った時、そこには希望もあったが、絶望もあった。

 次は駄目かも知れない。

 その恐怖は、道が一つであれ、複数であれ、変わらない。

 どこで分岐するかわからない。何に因って分岐するかわからない。

 だから、行動一つ一つ、言葉一言一言が、賭けだ。

 隣で、ごとりと何かが落ちた。

 見ると、いつの間にか居眠りを始めたエインの手元から、一冊の本が落ちていた。

 静かに拾い、題名を見る。

 『シャングリ・ラ』

 カレーに着いたあと、暇潰しに勧められた本だ。

 ベルトワーズ邸への道すがら、エインがこの本を持っている筈がない事に気付いた。

 何故持っているのか、答えはまだ出ない。

 だが、エインがこの本を持っている筈がないのだ。

 何故なら、この本は…。


◆ ◆


「ヴィヴィー!」

 部屋の外で、エインが叫んだ。

 早足で廊下へ出ると、エインがエントランスに大きなカバンを運びながら、ヴィヴィアンを見ていた。

「お呼びでしょうか。」

 訊ねると、エインはカバンを足元に置き、腰に手を当てて「暫く、留守にするよ」とさらりと言った。

「ちょっと仕事が出来てね。

 二週間くらいで戻ると思う。」

「どちらへ?」

「フランスの、ボルドー。

 ベルトワーズ伯爵と言う、知人がいてね。

 その娘さんから、頼まれ事の手紙を受け取ったんだ。

 その用事を済ませに行って来るよ。」

 ベルトワーズ。

 紹介人のサンアッチから聞いた事はある。

 サンアッチの友人でもあって、確か昨年暮れに亡くなったと言っていたか。

 娘がいたのか、と思いながら、ヴィヴィアンは無言でエインを見た。

「本当は連れて行きたいんだが…。」

 ヴィヴィアンの無言を、同行を求める様子だと勘違いしたエインは俯いて、一瞬だけ哀しそうに笑ったて、何かを呟きながらヴィヴィアンに背を向けた。

 その声は余りに小さく、素早く発せられたので、廊下の端にいたヴィヴィアンにはきちんと聞き取れなかった。


◆ ◆


 あの時、微かに少しだけ聞こえた言葉を、ヴィヴィアンはまだ覚えている。

『…迷うから…。』

 間違いなかった。エインはそう呟いた。

 意味は解らない。恐らく聞き取れなかった部分と組み合わせなければ、この言葉の意味など理解出来ないだろう。

 だから考えないようにはしている。

 だが、時折ふと思い出す。そして、つい考えてしまう。

 あの時、エインが迷う事を恐れていた事。

 エインは何を恐れていたのだろう…。

 手元の本を見つめる。

 ぱらぱらとページを撫で、最後のページのメモを見る。

 前に見たのと同じように、何か書いたらしい上から、それを隠すようにして、ぐちゃぐちゃと線で塗り潰してあった。

 微かに見える文字は『V』以外に考えられない。

 今まで、この本をエインから手渡された事はなかった。

 だが、この本の事は良く知っている。


◆ ◆


 アンに呼ばれて、ヴィヴィアンはアンの部屋を訪れた。

「お好きな椅子にお座りになって。

 お茶をお淹れしますわ。」

 扉の前で部屋を見回すヴィヴィアンに、アンはそう言って、部屋の中央にあるソファセットを指差した。そして、くるりと回って窓の脇に置かれたティーポットから、湯気の立つ紅茶をカップに注ぎ出した。

 言われたとおりに、ヴィヴィアンがソファに腰を下ろすと、アンがその前にティーソーサーを置く。そして、自身の前にも置き、ヴィヴィアンの向かいのソファにどさりと座った。

「ご迷惑じゃありませんでした?」

「え?」

 突然の問いに、ヴィヴィアンが一瞬驚く。

「ヴィヴィは表情があまり変わりませんもの。

 お呼びした事、怒ってませんの?」

「いえ。全く。」

 ヴィヴィアンが短く答えると、アンはぱっと笑顔を作って、深く頷いた。

「良かったですわ。

 私、このような体ですから、外出も満足に出来ません。ボルドーの街まで行ったのも、もう何年前になるか…。」

 アンは身の上話を皮切りに、部屋にある色々なものを次々に取り出しては、見せたり語ったりしてくれた。呼んだ以上、退屈をさせまいという気遣いが垣間見えた。

 話の合間には、ヴィヴィアンは生い立ちなどを訊ねられた。

「生まれてすぐに両親が亡くなりましたので、孤児院に引き取られて育ちました。」

 そう説明すると、アンは困惑した表情を浮かべて話題を切り替えてくれた。

 その後も取り留めのない話は続き、意外なほどあっという間に、時間は過ぎた。

 そして話は、クリーブスが扉をノックしたのを合図に、終わった。

「お嬢様、そろそろお休みになりませんと。」

「まあ、もうそんな時間ですの?

 残念ですわ、ヴィヴィ。」

 アンが立ち上がって、ヴィヴィアンの隣に座り、手を握ってきた。

「ゆっくりお休みにならなければ。

 明日またお話出来ます。」

 ヴィヴィアンが言うと、アンはにこりと笑って「そうですわね」と言い、クリーブスを見た。

「ヴィヴィをお部屋にお送りしてね。」

「承知致しました。」

 クリーブスが頭を下げ、ヴィヴィアンが立ち上がった。

 すると、アンが「あ、ちょっと待って、ヴィヴィ」と言い、慌てて衣裳部屋へ向かった。何やらごそごそと部屋を漁り、「ありましたわ」と言って出て来たアンの手には、一冊の本があった。

 アンはそれをヴィヴィアンに差し出し、

「差し上げますわ。我侭を聞いて下さったお礼です。」

 と言った。

 表紙には『シャングリ・ラ』とあった。

 ヴィヴィアンは驚いて、少し眉を顰めながら、

「そのような…。」

 と首を振った。

「いいの。受け取って頂戴な。

 ヴィヴィにどうしても差し上げたいの。」

 笑顔だが懇願する眼差しにそれ以上の抵抗は出来ず、ヴィヴィアンは素直にその本を受け取ると、「大事に致します」と言ってアンを見た。

 アンはそれは満足そうに笑い、そして呟いた。

「大事にしてね…。」


◆ ◆


 そう。

 あの”日”から、この本は自分の手元にある。

 この旅が始まったとき、この本はエインの屋敷の自室に置いて来た事も覚えている。

 では何故、この本が今、ここにあるのか。

 自分の手元にある以上、この本は”ここ”には存在しない筈なのだ。

 なのに…。

 ごそごそとエインが起きたので、ヴィヴィアンははっとして本を閉じた。閉じた時、ぽんと軽く音が立ってしまい、耳聡いエインがちらりとヴィヴィアンの手元を見た。

「ああ、すまない。

 落としてしまったのか。」

「いえ…。」

 差し出されたエインの手に、ヴィヴィアンは本を置いた。

 エインは本を切ない眼差しで見つめ、愛でながら、語り始めた。

「この本はね…。」

「はい。」

「ボクの大切な人の物でね…。」

「…贈られた物ですか?」

 言いながら、ヴィヴィアンは即座に、アンを思い浮かべる。だってこの本は、自身がアンから貰ったものの筈だからだし、仮に”何か間違いが起きて”、”ここ”にもう一つのその本があったとしても、やはり元の持ち主はアンであると思ったのだ。

「いや。

 何と言うか…。」

 珍しく、エインが口篭った。

「受け継いだもの…?

 違うな。

 言うなれば、その人の存在そのもの、かな…。」

「…?」

 はっきりと語る事に躊躇いがあるのだろう、エインはわざと本来の意味とは遠い言葉を探している様だった。

「…大切な人。以前聞かせて下さった方の事ですね。」

「うん。

 ボクが人生でただ一人、愛した人だ…。」

「生かす方法を探している…。」

「…うん。」

 「そうだね」と言って、エインは何故か哀しそうに笑った。

 ヴィヴィアンはその笑みに、ただならぬ感情が溢れた。確かめねばならぬと思った。

 そこには一つの下心もない、純粋に従事する者としての忠誠的なものしかない。

「教授。一つ、窺ってもよろしいですか?」

「うん?」

 改まってエインを見据えるヴィヴィアンに、エインはまるでこれから問われる事を見透かしているような静かな目を向けた。

「教授の大切な方。

 ”アン”でよろしいですよね?」

 そうであれば、ヴィヴィアンにとってアンも”護るべきもの”になる。

 エインを護るためには、その周りのものも護らねばならないかも知れない。

 ヴィヴィアンの率直な問いに、エインは少しの動揺も見せなかった。やはり、問いは予想の範疇だったようだ。

 エインは暫くヴィヴィアンを見つめた後、妙に大人びた微笑みを浮かべて小さな溜め息を吐くと、そのまま何も言わず窓の外に目をやってしまった。

 ヴィヴィアンは答えを強要する事無く、それを”正解”と捕らえて独り納得した。

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