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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
月の港の極東人
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月の港の極東人 5

 雨は中々止まず、船の出港もままならず、もう一晩イトダ家に居座る事になった。

 「こんな雨は初めてだよ」と言って、アルフォンスが笑いながら港と家を行き来してくれたが、彼が行ったところで船が出るという事でもなく、状況はただ、雨が止むのを祈るばかりとなった。

 雨が降っているだけならよいのだが、嵐が近付いているという。この状態で船を出せば、転覆するのは火を見るより明らかだった。

 イトダ家の扉が叩かれたのは、そんな日の午後の事だった。

 エリーズがエントランスからエインを呼んだ。

 一同揃って出てみると、そこには一人の老人が立っていた。身なりをみるなり、どこかの屋敷に従事する執事のようだ。随分困惑した表情をしている。

「ご無沙汰をしております。アンダーソン教授。」

 老人が頭を下げると、エインはぱっと笑って走り寄った。

「クレリーさん!!」

 クレリーと呼ばれた老人は、嬉しそうに自分の手を握り締めるエインにふと笑った後、すぐに顔を戻した。

「教授、お元気そうで何よりでございます。」

「クレリーさんこそ。」

 言いながら、クレリーの困惑した顔に首を傾げる。

「…何か、困った事でも…?」

「はい…。」

 エインの問いに、クレリーは即答した。

「まぁ、立ち話はなんだから。」

 エインの後ろで、アルフォンスが居間を指差し、「お茶でもどうぞ。」と言った。

「そのような…。すぐお話も終わりますので。」

 クレリーが被りを振ると、エリーズが歩み寄って、「いけませんよ」と言う。

「雨に濡れていますもの。風邪をひきますわ。

 温かいお茶を用意いたします。休みながらお話なさってくださいな。」

 エリーズに言われ、クレリーは肩を落として了解した。疲れもあったからかも知れない。比較的すぐに折れたのだった。


◆ ◆


「私はラ・ロシェル郊外にございますハーブ農園を営むサジュマン家に遣えております、クレリーと申します。

 サジュマン家にはご長男が産まれず、一昨年暮れに当主と奥様が相次いで亡くなったのを期に、当主の遺言に基き、婿養子を迎える事になりまして、ご長女のリュリュお嬢様とお隣のジルベルスタイン家のご長男であるポーロ・ジルベルスタイン様のご婚約も間近に控えております。

 そこで、当主と生前からお付き合いの深い教授に、その婚約に関してお願いがございます。

 エディンバラのお屋敷へお手紙を差し上げておりましたが、ちょうどボルドーのご友人のお宅にいらっしゃるとお聞きしましたので、失礼かとは存じましたが、このように参上した次第です。」

 イトダ夫妻とヴィヴィアンのために前置きを入れつつ所用を一頻り話し、クレリーは紅茶を半分ほど一気に飲んだ。

「リュリュが駄々でも捏ねてるのかな?」

 エインが笑いながら言うと、クレリーは微妙な表情を浮かべながら頷いた。

「当家では古来より、家を継ぐ者が必ず受けなければならないという試練がございます。

 その試練を、ポーロ様が拒否なさいまして…。」

「ならば婚約は中止でよろしいのでは?」

 アルフォンスが当然とも言う顔で言う。が、こちらも当然、クレリーは困惑した。

 重い空気の中、エインが「…まぁ」と少し気楽な声を出した。

「ボクはその試練について知っているから言えるけど、この時代にすら相応しい試練ではないよね…。

 アレ、困るもの。」

 「ね。」と言いながらクレリーを見ると、同意してよいものか迷ったクレリーが俯いた。

「で、リュリュはボクに何をしろと?」

 全てを見通しているかのように、エインがクレリーを覗き込んだ。顔は相変わらず楽しそうである。

「はい…。

 お嬢様は教授に、ポーロ様の代わりにその試練を受けて貰えないか、と…。」

 クレリーも内心は、そんな依頼を受けてもらえるはずなかろうと思っていたに違いない。

 最後のほうは、耳を澄まさなければ聞こえないほどに小さな声で呟かれた。

 そんなクレリーに、エインはにんまりと笑った。

「無茶言うねぇ、リュリュは…。」

「申し訳ございません。」

「ボクがその試練を受けたら、サジュマン家はボクのものになってしまうじゃないか。」

「…仰るとおりにございます。」

「それを承知の上なんだね?」

「……左様でございます。」

 つまり、リュリュはポーロとの婚約に乗り気ではないという事だ。

 そこまで聞いて、エインは腕組をして踏ん反り返った。

「いいよ。受けよう。」

 そう言いながら立ち上がったエインの返事に、クレリーのみならず、その場にいた全員がエインの顔を見た。

 ヴィヴィアンですら、驚いてエインを見た。

「この雨だ。いつ出ても同じだろう。

 馬車は右湾に停めてあるんでしょう?」

「…はい…。しかし…。」

「大丈夫。ボクら大した用事もないし。」

 腰に手を当てて、エインが笑った。そしてヴィヴィアンを見て、

「ヴィヴィには悪いね、まだゆっくり出来そうもない。」

 と苦笑する。

「お気になさいませんように。」

 仕方なく、そう言う。

 肩を竦めて呆れたエリーズが、窓の外を眺めた。

「ねえ、もうそろそろ雨も弱まりそうなのよ。

 お食事してから出発にしてくださらない? 大人数分作ってしまったし。」

「うん。それがいいな。」

 と、アルフォンスも頷いた。

「悪いね。」

 エインもすっかり悪気がなさそうに言った。

「ヴィヴィ、お手伝い、お願い。」

「はい。」

 エリーズに言われ、ヴィヴィアンが席を立った。

 女性二人が出て行くと、エインもまだ出発ではないので席に着き直し、そしてみなで黙り込んだ。

 雨音が部屋に響く。

 空気が再び重くなり、クレリーが申し訳なさそうにエインを見た。

「申し訳ございません、教授。」

「気にする事はないよ、クレリーさん。

 元々ボクの仕事はそれだもの。

 サジュマン家の試練は、邸の地下にある古い遺跡を使う。あの遺跡は、それはそれは貴重なものだが、掘り起こしてはならないものだ。

 でも、その調査はしなければね。

 調査序でにこなすよ。

 元はサジュマン伯に再三お願いしていた事だから、目的はどうあれ、あの遺跡に入れるのは嬉しい。」

「それが目的か…。」

 アルフォンスが呆れた。

「勿論。ボクが金に目が眩むと思った?」

「…まさか…。」

 言いながら、含み笑いをする二人に、クレリーはさらに申し訳なさそうに声をかけた。

「それと…。」

「?」

「こちらに窺う際、耳にしたお話なのですが。」

「うん。」

「…ベルトワーズ伯のアンお嬢様のご容態が、昨夜急変なさったとか…。かなりお悪いとの事でございます…。」

 クレリーの言葉に、エインがすっと笑顔を棄てた。

 表情を隠すように席を立ち、窓辺に立って、二人に背を向けた。

 一瞬見えた表情は、相応しい感情を見出せないという、複雑な表情だった。

 瞳からは光が消え、無感情に近い虚ろな顔だ。

「…エイン…?」

「うん。」

 アルフォンスが呼ぶと、エインが素っ気無く返事をした。

 アルフォンスはエインの本心を知っている。エインは今や頑なに否定をするが、アンは一度は、エインと心を通わせた女性であった。

 その相手が死の縁にいるとなれば、心も穏やかではなかろう。

「…そのうちまた、持ち直すだろう…。」

 気楽を装い切れていない声で、エインが言った。

「いつもそうだったから。アンは…。」

「…相当、悪いんだろ…?」

「だからなんだと言うんだ。」

 エインが少し苛立った声で答えた。

「アンが死んだら…、それこそお前の”旅”も終わりじゃないのか…。

 お前は、アンを生かすために”旅”をしてるんじゃないのか…?

 そのために、”彼女”も犠牲にしているんだろう?

 ならば行くべきじゃないのか!?」

 アルフォンスが責めると、エインが黙り込んだ。

「…”道”を変えたいなら、今すぐ行くべきなんじゃないのか…。」

「………。」

 尚も黙るエインを見て、状況を理解し切れていないクレリーはおどおどとしながらエインに言った。

「も、もし、ご事情で先にベルトワーズ伯のお屋敷へ向かわなければならないのでしたら、そうお嬢様にはお伝えいたします。

 勿論、それからベルトワーズ邸まで馬車を回す事も出来ますが…。」

「大丈夫、クレリーさん。」

 エインが静かに言った。

 そして、アルフォンスに振り向くと、窓辺に腰掛け、笑った。

「オレ、自論は曲げない主義なの。

 アンはまだ死なない。

 極力、変化の少ない道を探る。

 それが、オレが出来る”世界”に対する唯一の譲歩だよ。」


◆ ◆


 従事する対象ではないとは言え、家主と執事とメイドが一同にテーブルに着き、食事をする光景は、なかなか珍しい事ではあった。

 その珍しい食事を終えた頃には雨も弱まり、空の雲も薄まって来た。

 再び雨脚が強くならないうちに、とエインは出発を決めた。

「悪かったね。居座ってしまって。」

「いや。構わんさ。

 またいつでも来てくれ。」

 「待ってるよ。」と言って、アルフォンスがエインに向かって拳を突き出した。エインはその拳に、自分の拳を合わせる。

 旧友の者たちと決めた、さよならの挨拶だ。また、会う事を誓う。

 クレリーは自分で馬車を出して来たようで、まだ止まぬ雨に濡れないよう、エリーズが厚手の大きな布を持って来た。

「被っていれば、少しは濡れずに済みますわ。」

「有難うございます。エリーズ様。」

 にこりと笑うエリーズにクレリーは何度も頭を下げた。

 ヴィヴィアンは、別れの挨拶をする四人を馬車の傍らで見つめていた。

 ああして語り合うほど、語る事が見当たらなかった。

 そんな、馬車に添えられた部品のように、ひっそり立っているヴィヴィアンに、エリーズが気付いて歩み寄る。

「ヴィヴィ。」

 そう言って、手を差し出す。

 握る事に少し躊躇をしたものの、おずおずと握り返すと、エリーズはヴィヴィアンの手を強く握り締め、もう片方の手をヴィヴィアンの手の上に置いた。口元をきゅっと引き締め、眉を哀しそうに顰めている。

「また必ず会いに来て頂戴。

 教授と一緒によ。

 もう二度と会えない気がしてならないの。」

 その予感は、的中するかも知れない、とヴィヴィアンは心の底で思った。

「約束して頂戴。必ずよ。」

 何も言わないヴィヴィアンの手を、エリーズはさらに強く握った。

 ヴィヴィアンは、暫しの熟考野の後、エリーズの手を握り返し、

「…ご心配なく。」

 と言って頷いた。

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