月の港の極東人 4
白い部屋。
この施設に従事する者はみな、この部屋をそう呼んでいた。
部屋に入ると席を指差され、座ると資料を渡された。
ぐねぐねと湾曲する柔らかい透明素材で出来たボードだ。特殊な電波を送ると文字、図形、ありとあらゆるものを表示してくれる。
一時はホログラムなどというものを活用しようと言う動きもあったが、このジェル素材が開発されてからというもの、ビジネス界に於いては擬似立体投影には誰も何の興味も示さなくなり、活躍の場は教育部門くらいのものであった。
部屋は内外で電波が行き来しないための防御壁が貼られている。通信システムが飛躍的に進歩をして尚、電波の遮断や違法傍受には原始的な方法を採っている現状に、SFマニアは指を指して笑いながら批難をし、科学者の卵たちはロマンを追う事をやめた。
防波壁は当然音も遮断する。だから極秘会議を行う際に主に使用されるのだが、入出すると少し耳がぼうっとするので居心地が悪い。その上、目の前にいるのが四つほど階級を跨いだ先にいる幹部で、室内には二人しかいないとなれば、居心地の悪さはこの上ない。
溜め息をそっと吐きながら、ボードに映る資料に目を通す。
「君に、本来のこの任務とは違う任務を並行して遂行して貰いたいと思っている。
ターゲットは、その男だ。」
視線を上げると、幹部の男は椅子に踏ん反り返って自分を見ていた。
「ターゲットは三十年ほど前に旅立った”cakravartin”の推薦メンバーの一人。大変優秀な科学者でな。”cakravartin”のメンバーを決める際、真っ先に認証された。
君の任務は、そのターゲットを追跡し、排除する事だ。」
一瞬、驚く。
「排除…?」
「彼は最高国際法を犯した。
君は任務を遂行する傍ら、彼を見付け次第、排除する。」
排除。
即ち、殺せという事だ。
「遺体は、どうすればよろしいですか?」
「事故と見せかけ、自然処理させる事。
銃の暴発、強盗による殺害、転落死…。何でも良い。
彼は名も変えず、”現地”にすっかり溶け込み、活動している。
君が誘導し易い方法を採り給え。
その後、葬儀が執り行われ、遺体は埋葬される。何の変哲もない、一般市民として、な。」
惨い話だ。
自分が授かった任務は、世間からは世界の秩序を護る英雄だの、立派だのと謳われてはいるが、本質はただの暗殺者である。
人知れず他人の命を絶ち、世界に影響を与えないようにする。
表向きは、国際法を破り無断で”流れた者”の身柄を確保したり、任務を受けて”流れた者”の監視をするのが任務だ。
勿論、表立った任務中にも、監視対象が明らかなる背徳行為を犯し、その影響が大きいと判断されれば、独断で対象を排除する事も任務の内ではある。
だが、大抵はその様な事態にならぬよう人選をし、行われている事である。そう言った状況になる事は、珍しいとされている。
「ターゲットと遭遇出来そうな距離にいる人物のデータを、何人か揃えておいた。そこからターゲットの居場所を特定し、任務を遂行するように。
流れ先には、私の叔父がいる。彫りの深い東洋人だ。会えばすぐに判るだろう。
名は、コウ・イトダ。」
そう言って、目の前の男が紙を数枚取り出して、渡して来た。
今となっては、非常に価値のある素材だ。
紙には、たった今男が言った”ターゲットと遭遇出来そうな距離にいる人物”に関する事項が並んでいる。叔父と言う、”コウ・イトダ”の記述もある。
他に話はないかと男を見ると、男は一つ頷いて、「いきたまえ。」と言った。
立ち上がると、手を差し出された。
「このような任務、君に与えるべきではないと、意見も出た。
ここに残り、軍人として世界に従事して欲しいと嘆く者も多かった。
申し訳ない事をした。」
少し哀しそうな顔で、男が詫びた。
なんとも思っていない自分には、何も響いて来ない言葉だ。
「お気になさいませんように。イトダ博士。」
そう言って、いつも通りの無表情をさらに無表情にした。
◆ ◆
自分の知る”紙”とずいぶん異なるざらざらとした紙の書状を渡され、エディンバラ郊外にある屋敷へ向かう。
これから従事する、大学教授の屋敷だ。
本の虫、予言師、変人。
数知れず妙な謂れをされると噂を聞くが、ユーモラスで頭の回転が速く、見た目以上に運動神経の良い、三十半ばの男性だという事だ。
名を、エイン・アンダーソンと言う。
名を聞き、唇を噛み締める。
ここへ来て二年。やっと辿り着いたターゲット。
自分の任務は、このターゲットを排除する事だ。
エディンバラから歩きで行けそうだったので歩いて来たが、少し後悔した。屋敷は小高い丘の上に建ち、なだらかな登り坂が思いの外体力を奪って行く。
普段から訓練をし、トレーニングを欠かさない自分の体でさえ、息が切れかけていた。
やっと屋敷に着いた時には、思わず鞄を地面に置いてしまうほどに疲れていた。
息を整え、扉を二度叩く。
暫くして、「はいはい」と軽い返事が聞こえた。
ポケットから招待状を取り出し、ドアが開くと同時に突き出した。
「教授Aのお屋敷はこちらでしょうか?」
抑揚も付けず、素っ気無く訊ねると、出て来た男は一瞬驚き、
「新しいメイドさんかな?」
と聞いて来た。
「サンアッチ教授のご紹介で参りました。
ヴィヴィアン・トーマスと申します。」
名を名乗り、書状を下げると、男と目が合った。
「ようこそ。取り敢えず部屋へ案内しよう。」
男は自分に負けないくらいの素っ気無い態度でヴィヴィアンを招き入れ、ヴィヴィアンの鞄を持ち上げた。
「あ…。」
ヴィヴィアンが慌てると、男は「いいよいいよ」と言って、一階奥の一室へ歩いて行った。
背の高い、ほっそりとした体付きの男だ。綺麗なブロンドの髪を乱雑にオールバックにし、丸く小さな眼鏡をかけている。
「東向きの部屋だから、陽当たりは悪くないと思うよ。」
まだ部屋にも着かないうちから、部屋の事を話し始める。
「この家、ボクと君以外はいないから。
好きに使ってくれて構わないよ。
まぁ、入られては困る場所もあるんだけど。」
こちらを向きもせずに、男は言う。そして、廊下の一番奥の扉の前で止まると、ドアを開けた。
中へ入ると、男の言うとおり、陽当たりは決して悪くなさそうな部屋だった。
「基本的には、食事の支度、掃除、洗濯、無理のない程度に雑用をして貰おうと思っている。
二階は、殆ど使ってないから、気が向いたら掃除でもしてくれ。
食事の回数、時間は任せるよ。要る物があったら、遠慮なく言ってくれ。」
空気が埃っぽいので、窓を開けながら男が言った。そして、「それから…」と言って、やっとヴィヴィアンを見た。
「噂は聞いてると思うけど、ボク、病的に本に熱中するから、声をかけても聞こえない事の方がザラなんだ。
気にしないで肩でも叩いて呼んでくれ。
呼び方は、なんでもいい。
でも、”旦那様”とか”ご主人様”はやめてくれ。」
そう言うと、男は初めて笑った。
◆ ◆
寝付けないまま、もうそろそろ夜明けを迎える。
ヴィヴィアンはベッドに横になったまま、ずっと窓の外を見ていた。
懐かしい事を思い出した。
任務に就く事が決まった時の事を。
これでも優秀な軍人として、将来の幹部候補と謳われていた。
だから、この任務に志願した時、顔も見た事のない知らない者から、ずいぶんと反対されたものだった。それを押し切り、ここへ来た。
後悔はない。何も棄てるものがなかったから。
何度も思う。
そんな自分に、棄てられないものが出来るなどとは、思いもしなかった事だ。
エインが初めて見せた、あの人懐こい笑顔を思い出す。
最初は何とも思わなかったあの笑顔が、いつからかとても大切なものになった。
そう言えば、いつからエインを襲うあの影は現れたのだったか…。
思い出そうとすればするほど、妙な事に気が付いた。
疑問は瞬時に大きく膨れ上がった。
心がざわつき、急に夜の闇が怖くなる。
最初に失敗した時、影など現れもしなかった。
あれは紛れもなく偶然に、そうなったのだった。
ではあの影は、いつから現れたのか…?
◆ ◆
夜が明けてきて、空が白んできた頃、急に雷雨が降り出した。
向かいのイトダ夫妻の寝室のドアが開く音が聞こえたので、ヴィヴィアンは手早く顔を洗い、一通り身なりを整えて寝室を出る。
キッチンへ向かうと、エリーズが朝食の支度を始めるところだった。
「あら、おはよう。
早いのね。ゆっくりしていてくれていいのに。」
手伝いに来たと思ったエリーズは、ヴィヴィアンににこりと笑った。
「お手伝いがあれば…。
雨、ひどいですね。」
ヴィヴィアンが言うと、エリーズは仕込み始めたばかりのコーンスープを手伝うよう指示しながら、窓の外を見た。
「ガロンヌ川が少し増水するわね。
船もこの雨じゃ出ないんじゃないかしら…。」
「困りましたね…。」
「そうなったら、もう一晩いればいいわよ。」
大した事ないように言って、エリーズは発酵させておいたパン生地を成型し始めた。
エリーズがパンに夢中になったので、ヴィヴィアンも暫し無言でコーンスープ用の茹でたとうもろこしを漉す。
単純作業を繰り返していると、思考が広がり、普段考えない事を考え始める。ヴィヴィアンは手を止め、エリーズを見た。
エリーズは無心にパンを捏ね直したり、指先で成型したりしている。ブレッドの成型が終わり、今はバターを挟み込んで三角に切り込んだクロワッサン生地を巻いている。
「…ご主人が、亡くなった時の事、考えたりしますか…?」
突然のヴィヴィアンの問い掛けに、エリーズがふと顔を上げ、一瞬驚いた後、くすりと笑った。
「考えなくもないわよ…。
あの人がいなくなって、生きていけるかとか、死んでしまうんじゃないかとか…。」
「そんな時、どうするんですか?」
「泣くの。思いっきりよ。」
エリーズが肩を竦めた。言葉に似合わず、顔には満面の笑みが浮かぶ。
しかし、そんな笑みをすぐに仕舞い、エリーズは淡く笑って、パン生地を弄り始めた。
「でもね。
その後、きちんと考えるのよ。
独りで生きていく方法を。」
「…。」
「愛してるからこそ、私も最後まで生きるわ。
きっと気が狂いそうになっているだろうけれど、そこから這い上がった先に、何かがあると思うの…。」
エリーズの言葉に、ヴィヴィアンは俯いた。
思えば、普通ならそうなのだ。
絶望の余り死んでしまうか、蛻の殻のようになったとしても生き続けるしか道はない。
自分のように恵まれた者など、そういるものではない。
申し訳なくなって、エリーズを見る事が躊躇われた。
その様子に、ヴィヴィアンが悩んでいると勘違いしたエリーズが、戸棚からチェリーの砂糖漬けの入った瓶を取り出し、一掬いスプーンで掬ってヴィヴィアンに寄越した。
ヴィヴィアンはそっとスプーンを受け取り、ゆっくりチェリーを口に含む。
甘酸っぱい香りが体中に広がり、何故か強張って固くなった体が解れていく。
「愛なんて陳腐な言葉を使いたくないけど、でも、そこにあるのが本当の愛なら、その強さの分だけ希望もあるものよ。
そして必ずそこに、絶望なんてものは存在しないわ。
怖がらなくて、大丈夫よ。きっと…。」
言われて、また俯いた。
今度は、込み上げて来る涙を堪えるためだ。