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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
恋する太陽と月
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恋する太陽と月 10

 屋敷からメイドが運んで来た、少し冷めてしまった食事が、大広間のテーブルに並んだ。

 ヴィヴィアンはまだ目を醒まさず、クリーブスは医者を屋敷へ送ると出て行ってしまい、仕方なく独りで食事をする。

 屋敷の備えが偶然足りておらず、ランプ用のオイルが工面出来なかったと言って、クリーブスは蝋燭をもう一本足してくれたが、それでも夜の闇には勝てず、暗い中での食事になった。

 こちらの屋敷を出る前に、医者が傷の様子だけ教えてくれた。出血の度合いほど傷は深くなく、多少の火傷が見られるから、割と近い距離で銃によって撃たれた事は明確だろうが、擦れただけなので、心配はしなくてよい、という事だった。

 胸を撫で下ろすとともに、どっと疲れが出た。

 だから食事も、色々な事が重なって疲れている体を考えて作ってくれたのだと言う事はよくわかるメニューであったが、あまり積極的に胃には入っていかず、のそのそと食い、なんとか食事を終えた。

 そして、消化不良でも起こしたようにぐったりとソファに凭れ、手紙をもう一度読み返す。

 全く、嫌味な人だと思う。

 この手紙一通、ぺらりと渡せないものだっただろうか、と。

 思いながら、苦笑する。

 まぁ、いいか、と…。

 思い耽りながら、また読み返す。そんなに特別素晴らしい事は書かれていない。だが、何度も読み返さずにはおれない。

 ぺらぺらと手紙を捲っていると、蝋燭の炎が揺れた。

 蝋燭の向こうの闇の中に、水色のレースのドレスが現れた。

 着心地が悪いのか、着慣れないから落ち着かないのか、指先をもぞもぞ動かしながら、もう一歩近付いた人影は、ヴィヴィアンだった。

「申し訳ありません、教授…。」

 暗闇でいつもより陰影が強く付いた顔には、苦痛に歪む表情が浮かぶ。

 傷の痛みもあるだろうが、それ以上に、申し訳ないという気持ちでいっぱいなのだろう。

 詫びる必要など、ないのに。

「うん。」

 「大丈夫かい」とか「謝る事はないよ」とか、そんな在り来たりな言葉は、相応しくないと思った。

「……。」

 これ以上、この件については何も話す事は、少なくとも今のエインにはなかった。が、ヴィヴィアンは何か言いあぐねているようで、俯いて、言葉を捜しているようだった。

「…ヴィヴィ。」

 エインが呼ぶと、ヴィヴィアンは顔を強張らせてエインを見た。怒られると思ったのかも知れない。

 その様子を見て、エインが笑った。

「生きててくれて、嬉しいよ。」

 エインが言うと、ヴィヴィアンは拳を固く握って、俯いてしまった。

 にこやかに、優しげに言うエインの言葉に、ヴィヴィアンは闇の中で必死に込み上げて来る何かを堪えていた。拳を握ると、指先がじんと痺る。

 様子を悟ったエインが、立ち上がってヴィヴィアンに近付いた。やはり蝋燭の灯りだけでは、満足にお互いの表情を窺う事は出来ない。エインはヴィヴィアンと正面に向いて立つと、ふと微笑んだ。

「明日の昼頃に、屋敷を出発しよう。

 帰りは、ボルドーから船を使う事にするよ。

 それから、帰りにちょっとロンドンに寄ろう。」

 優しく笑うエインと、暫し視線を交わらせる。指先の痺れも和らいで、不思議と心鎮まる。

 さっきだって、決して負の感覚によるものではない。悔しさでも情けなさでもなかった。”護る”ためにいるのに、役に立っていない悔しさは当然ある。不注意ではないとは言え、不甲斐無さの結果だ。

 だが、本当の事など知らないエインは、何も聞かず、全てを飲み込んで流してくれる。

 そんなエインに甘えていると言えばそうかも知れない。それでは”護る”には不十分だという事も承知している。

 それでも、心は鎮まってしまう。

 何故かは自分でも良く解らない。

 喩えようにも、旨く喩える言葉を持ち合わせていない。しかし、敢えて自分が知っている感情で喩えるなら、一番近いのは、”幸せ”だった。

「うん…。」

 ひっそりと内心浸るヴィヴィアンを見ながら、エインが呟いた。

「温かい紅茶でも出してあげたいところだが、生憎勝手がわからない。

 クリーブスさんが戻るまで…。」

 エインが少し申し訳なさそうに言うと、ヴィヴィアンの後ろの闇の中から「お目覚めですか。」と声がした。

 驚いて、二人揃って振り向くと、クリーブスがにっこり笑って立っていた。穏やかな笑顔だが、闇の中では少々不気味だ。

「…ご迷惑を、おかけしました…。」

 まだ若干驚きつつも、ヴィヴィアンが頭を下げると、クリーブスはテーブルに歩み寄り、オイルランプをとんと置きながら言った。

「とんでもございません。大したお怪我ではなくて安心いたしました。

 教授が血色を変えて屋敷へ走って来た時は、流石の私も驚きましたよ。」

 そう言って笑うと、ランプに火を入れた。

「古いランプが一つだけ納屋にございましたので、持って参りました。」

 そしてエインに向き直り、

「明日出発でございましたね?」

 と聞いた。

 エインは「はい。出来れば」と頷きながら、俯き気味に訊ね返す。

「アンの具合はどうですか?」

「あまり良くありません。」

 クリーブスが首を振った。

「どうやら、風邪をこじらせてしまっているようで。

 お医者様のお話では、寝ていればじき良くなると言う事でしたが、教授やトーマス様のお帰りも近いのでお気を落とされておりまして、少し消極的になられていて、心配をしております…。」

 エインは少し困惑したようで、「そうですか…。」と声のトーンを落とした。

 元々体が弱いから、少しでも体調を崩せば大事にもなるだろう。エインとヴィヴィアンという久々の来客を迎え気も浮付いた状況で、でも体が儘ならないというのはどれほどの苦痛だろうかと思う。

 ヴィヴィアンは、昨夜のアンの寝室での出来事を思い出した。

 あの時は、アンの全身から溢れる憎悪のようなものに、恐怖や驚きなどとは比べ物にならない何か得体の知れない不安を感じ、アンとは顔を合わせたくないと思ったのだった。

 しかし同時に、境遇を知れば知るほど、蔑ろにする事への罪悪感は大きくなる。

 エインは、アンとの婚姻を拒みこそすれ、アンの傍にいる事それ自体は拒む気はないように見える。

 それが、アンが感情を断ち切る事を阻んでいるのではないかと思える。

 一歩退いた闇の中でエインとクリーブスのやり取りを眺めてそんな事を考えていたヴィヴィアンを、クリーブスが見た。

 目を細めてゆったりとした微笑みを浮かべながら、ヴィヴィアンの足元から頭上までを見たクリーブスは、うんうんと頷きながら、

「よくお似合いですよ。亡き奥様を思い出されます。

 でも少し大きかったでしょうか。」

 と言った。

 ヴィヴィアンの着ている水色のドレスは、クリーブスがエインに言ったようにベルトワーズ伯爵の妻マリエレンのものだったが、ヴィヴィアンには少し大きいようだった。

 袖はブカブカとするほど余裕があり、身頃もコルセットで胴体を締め上げて細く見せ着るドレスなのに、コルセットを着けていないヴィヴィアンには、全くきつくない。

 が、そのような事は関係なく…。

「すみません、お借りしてしまって…。」

「いえいえ。

 お嬢様は奥様のお召し物はお使いになりませんし、ずっと部屋に眠ったままになっておりました。

 そのドレスは奥様がお屋敷に嫁いで来られた十五年目の日に、旦那様が高名な縫製師を招き寄せて作らせた特注品でございます。

 レースもパリ市内から特別に取り寄せたものですから、とても良いもの。それを美しく着て頂けるのは、私ども従者にとっても嬉しい事でございますよ。

 今、トーマス様のお召し物は修繕をしております。明日の出発までには直りますが、そのドレスでお帰りになるのでも構いません。」

「でも…。」

 クリーブスの言葉に、ヴィヴィアンが少し声を大きくした。そう言ったものを、安易に受け取る訳に行かないだろうと思った。

「これは、アンのお母様の大事な形見でしょうから、置いて行きます。

 色々と有難うございます。」

「そうですか。畏まりました。」

 恐縮するヴィヴィアンに、クリーブスはさらに微笑んで、思い出したように「ああ」と言った。

「そろそろお休みになられた方がよい時間ではございませんか? まだ起きていらっしゃるようなら、紅茶をお淹れいたしますが。」

「紅茶を頂こうかな。ボクはまだ起きているし。ヴィヴィはどうする?」

 エインに訊ねられ、ヴィヴィアンは少し考えて、一つ頷いた。

 気絶とは言え、今まで寝ていたので余り眠くなかった。

「じゃあ、二人分、お願いします。」

「畏まりました。」

 クリーブスは一礼すると、早々に奥へと消えた。

 改めて二人となった大広間は、ランプによる灯りが灯った事で、心持ち広くなった。

 喩え難い空白のようなものを感じ、どのソファに座ったらいいか、迷う。

 突っ立ったままのヴィヴィアンに、エインが一つのソファを指さした。それはエインが座っていたソファと窓辺で向かい合うもので、どうやら、元から庭を二人で臨むために置かれているようだった。

 ソファに腰かけ、夜の庭を見る。

 木々と花花は闇に紛れ、窓から微かに漏れる灯りに、存在だけを浮かばせる。

 ふと、脇腹が気になった。傷が塞がり始めたのか、痛痒い感じが不快だった。長らく感じていない痛みだ。

 ヴィヴィアンの様子を見て、向かいに座ったエインが訊ねた。

「無理をしない方がいいからね。」

「はい。有り難うございます。

 紅茶を頂いて、少ししたら、休ませていただきます。」

「うん。」

 エインは笑って、庭を見た。ヴィヴィアンも、庭に視線を戻す。

 暫し二人で、無言で庭を眺める。目が慣れて来たのか、月明かりも加わって、庭の様子が少し鮮明に見えはじめる。

 そこへクリーブスが戻って来た。

「これで、キッチンの火は落とさせて頂きます。

 二杯ほどは、お召し上がりになれますよ。」

 手にしていた紅茶のセットを乗せたプレートを一旦テーブルに置き、紅茶をカップに注いで、ソファの近くに小さな台を持って来ると、カップをそこへ置く。

「私は一度屋敷へ戻ります。また戻っては参りますが何時頃になるかは判りませんので、お急ぎの御用があれば今のうちに。」

 クリーブスが言うと、エインがヴィヴィアンを見た。ヴィヴィアンが小さく首を振ると、エインはクリーブスを見上げ、「大丈夫ですよ。」と言った。

「畏まりました。

 それでは、お休みなさいませ。」

「お休み。」

「お休みなさい。」

 二人に見送られ、クリーブスは出て行った。二人は、庭を横切る彼の後ろ姿を見えなくなるまで見つめた後、紅茶を啜ってまた無言になった。

 エインは脚を組んで、肘掛けに頬杖を突いてだらけた。

「『図書館』で見つけた手紙はね…。」

 ヴィヴィアンが黙ってエインに視線を移す。エインは庭を見つめたまま続けた。表情には、ほんのり微笑みが浮かぶ。

「ボクが欲しかったものではなかったんだ。

 数日掛けて頭を使って、その結果が望んでいなかった物だったというのは、中々堪えるが。

 いつだって、氏はそうだったと、見つけた手紙を読みながら思ったよ。

 氏はボクが何を知っているか、常に問いを寄越して来た。ボクがそれに答えると、次、次とどんどん問いかけて来る。

 そして、最後に言うんだ。

 『エイン。キミの悪い癖は”諦める”と言う事を知らない事だ』って。

 仕方がない、と悟る事で見えてくる幸福があるんだそうだ。

 ボクもそれは承知しているけど、氏曰く、それは”つもり”なだけなんだそうだよ。

 手に入れる事の出来ない、侭ならない現実がある事を悟るべきだと、ボクにいつも言っていた。

 そんな氏を、ボクは時折、疎ましくも思っていた。

 アンとの婚姻を『決まり』と言った時も。あの『遺書』も。

 人としては、ボクは氏以上に尊敬する人はいないし、頼りにしている人もいない。本当に大切な人だが、その反面、決してマイナス面の感情を持たなかった訳ではない。

 だから、”見返してやりたいんだ”。

 『運命は変わるんだ』とね…。」

 言い終わったエインの顔からは、いつの間にか微笑みは消え、少し翳になった瞳が月明かりを反射して鋭く光っていた。

 選んだ言葉よりもう少しだけ、ベルトワーズへの”反抗心”は強いのかも知れないと、ヴィヴィアンは思った。

 だが、ヴィヴィアン自身としては、エインに同意しない訳に行かない事情がある。

 自身も、『決まり』からの開放を求めているからだ。

「私も…。」

 小さな声で呟くヴィヴィアンに、エインが振り向いた。

「私も、そう思っています。」

 それを願ってここまで来た。そうだと信じてここまで来た。

 エインを真っ直ぐ見つめるヴィヴィアンに、「有り難う。」とエインが笑った。



 護るべき者を見つけ、その人を護るための、護り続けるための『決まり』に反した道を探り続けて来た。

 その旅が今度こそ終わりであればいいと、願いながら。

 今度こそ、終わって欲しい…。

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