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教授とシャンバラの時計  作者: L→R
プロフェッサー
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プロフェッサー 1

 荷物は少ない。

 普段着るドレスと、めかし用のドレスセット、前掛けと、ブラシと、髪や体を洗うソープ、数枚の下着と、主の癖をメモするための小さな手帳、思い出の本。

 ドレスの皺を丁寧に伸ばし、クローゼットの扉に吊るす。

 前掛けを着け、ブラシとソープ、本はベッド脇の棚に置いた。

 手帳は枕の下に隠し、下着はバッグの中に残しておいた。クローゼットには、拭き掃除をしてからでないと、仕舞う気になれなかった。

 部屋の中が少し埃っぽいので、ヴィヴィアンは窓を開けた。

 高台にあるので、心地よい風が沢山入ってくる。

 思いっきり吸い込むと、緑の匂いが体中を駆け巡る。

 ヴィヴィアンは、何度か深呼吸をしながら部屋の換気をしたあと、窓を閉め、部屋を出た。

 階段を下りながら、辺りを見回す。

 外観よりこじんまりとした屋敷だ。

 エイン・アンダーソンは、知る者ぞ知る歴史学者で、エディンバラでもそれなりに有名だった。

 若くして歴史調査のため世界中を回っては、手に入れた資料を自宅に持ち帰り、或いは現地で綿密な調査をし、興味深い研究書を発表する。

 エインの唱える説には否定論者も少なくないが、概ね肯定的、好意的に学会でも受け入れられていると聞く。

 歴史の中でも文明や神話を専門とする学者で、研究書に負けず劣らず、彼自身も興味深いと言われている。もちろん、好意的な意味で、だ。

 だから、学会での地位もとんとん拍子に上がり、収入もそれなりにあるはずなのだが、それにしてはこの屋敷は小さかった。


◆ ◆


「食事の時間は、キミの好きでいいから。」

 今後の仕事内容などの確認に、エインの部屋を訪れたヴィヴィアンに、エインはにこりと笑って答えた。

 エインは床に胡坐を掻いて座り、何冊か本を開きっ放しにして自分を囲うようにして並べていた。

 それだけでは足らないのか、さらに新しく作ったと思われる本の山が、エインの脇に聳え立つ。

「三食お摂りになりますか?」

 ヴィヴィアンが問う。

 無表情なのは、癖のようだった。

「うーん、そうだね。

 ボクは朝早いけど、夜も遅いし、それで三食食べられれば最高かなぁ。」

 エインが答えると、ヴィヴィアンが頷いた。

「畏まりました。」

 手短に答え、ヴィヴィアンが退室しようとした時、エインが呼び止めた。「ああ、ヴィヴィ。」

 呼ばれ、ヴィヴィアンが振り向く。

「はい」

「今日はいいよ。

 それより、これからフランスへ向かわなければならないので、キミも支度をしてくれないか。」

 手にしていた本を、ポン、と閉じ、エインが「よっこいしょ」と言いながら立ち上がる。

「私も、ですか?」

「うん。

 一緒にフランスに行こう。

 美味しいワインが飲めるよ。」

 にこっと笑って、エインが散らかった机の上から、手紙を手に取り、ひらひらとさせた。

「ちょっとお呼ばれしててね。

 是非キミにも来て欲しいんだ。」

 机に凭れながら、エインがヴィヴィアンを見つめ、微笑んだ。

 ヴィヴィアンはエインと見つめ合い、小さく肩で溜め息を吐く。

 屋敷に着いて早々、フランスへ行く事になるとは…。

 荷物を解くのではなかった。

「畏まりました。

 出発は、何時でしょうか?」

「うんとね…。」

 エインがスラックスのポケットから、懐中時計を取り出し、蓋を開けた。

 ヒップ・ハンガータイプのスラックスのポケットは、何が入っているのか、こんもりと膨れ上がっている。

 時計の針は午後の二時を指していた。

「実は、今から一〇分後くらいに、迎えの馬車が来ることになっている。

 支度はそれまでに頼むよ。

 ああ、着替えとかはあまり気にしなくていいからね。

 向こうで買えばいい。」

 パチンと時計の蓋を閉め、エインが言った。

「…はい…」

 ヴィヴィアンは、呆れながら返事をして再度頷き、部屋を出た。

 自室に向かい、ボストンバッグに必要なものを詰める。

 着替えの心配はないというので、出かけ用のドレスは置いておく事にした。

 そして早々に部屋を出、玄関へ向かうと、エインも荷造りを終えて出てきたところだった。

「お、流石、早いね。」

 エインがにこりと笑う。

 改めて笑う、と言うより、元々笑い顔なのだ。

 にこにこと愛想のよい顔に、小さな丸眼鏡が一層コケティッシュだ。

「荷解きしていませんでしたから…。」

 ヴィヴィアンが誤魔化すと、エインがうんうん、と頷いた。

「取り敢えず、出て置こう。」

 そう言って、エインが玄関を出た。

 ヴィヴィアンも続く。

 エインが扉の鍵をかけながら、

「この造りの家じゃ、鍵なんかかけても意味なさそうだよねぇ。」

 と言った。

 ヴィヴィアンは返事をせず、辺りを見回す。

 着いた時も思ったが、何と辺鄙な場所である事か。

 見回りの警官でもいない限り、空き巣の絶好のターゲットだ。

「でもね、ボクの仕事柄のおかげで、この辺、不定期に見回りが来てくれることになっててね。

 有り難い事だねぇ。」

 他人事のように言うエインを、ヴィヴィアンが怪訝そうに見た。

 エインは鍵をかけ終え、足元に置いた鞄に腰掛けた。

 エインの鞄は高級な牛革張りの四角いトランクで、革の焼け具合にも、気を遣われている様子が窺えた。

 かなり革が焼けているので、相当使い込んでいるのだろう。

 しかしその分手入れを施しているのか、革の傷みは見受けられない。

「あとで、ボクの仕事を説明しよう。」

 エインは、「船は暇だからね。」と付け加えた。

「はい」とヴィヴィアンが答えると、エインはヴィヴィアンを眩しそうに見上げた。

 暫し、見つめ合う。

 ヴィヴィアンの瞳は、深いブラウンで、見つめるだけで吸い込まれそうだ、と、エインは思った。

 エインの瞳は、透明度の高いグリーンで、穢れを知らぬ、人知れぬ湖の湖面のようだ、と、ヴィヴィアンは思った。

 だが、お互いその向こうにある思惑には気付く事はなく、エインが視線を外したのを期に、ヴィヴィアンも目を逸らせた。

 不意に、ヴィヴィアンの背中で、馬の声がした。

 ガシャガシャと車輪の音が聞こえ、振り返ると、緩やかな上り坂を登ってくる、一台のクーペが見えた。

「プロフェッサー・アンダーソン!

 時間通りでさ!」

 大声で言いながら、運転手が手を振った。

 ずいぶん愛想のよい運転手のようだ。

 ヴィヴィアンが眉を顰めていると、エインも大声で答えた。

「ヘンリーさん! さすが!」

 どうやら、運転手はヘンリーというらしい。

 この辺りは野犬が少ないのか、馬車に護衛犬はいなかった。

 近くまで来たところで、またヘンリーが大声で言った。

「おやぁ!

 また新しいメイドさんかい!」

 何だか見世物のように言われ、ヴィヴィアンが小さく眉間に皺を寄せた。それを見たエインが、あははと笑う。

「この子は大事な子だからねぇ。

 あんまり怒らせないでね。」

 言われたヘンリーが、ヴィヴィアンに向かって、キャップをくいっと持ち上げて挨拶をした。

「気ぃ悪くしたかい? すまないね。」

 見ると、ヘンリーはずいぶんと年老いた運転手で、深く刻まれた顔の皺が、余計に笑顔を愛嬌あるものに見せていた。持ち上げたキャップから覗いた頭は禿げ上がって、巻き髪の白髪がそこはかとなく可愛らしかった。

 人が悪い訳ではなさそうで、ヴィヴィアンは「いいえ。お構いなく」と言って表情を元の無表情に戻した。

  クーペに揺られ、一路リースの港へ向かう。リース港から南下し、ロンドン港で休憩を挟み、目先目的地はドーバー海峡を渡った先、フランスのカレー港だ。

 道中も本を手放さない、隣に座るエインを、ヴィヴィアンは興味深げに見つめた。

 ヴィヴィアンの視線に気付いたのか、エインが本から目を離さず、口を開いた。

「ボクの事は、どこまで聞いてるかな?」

 そう言って、ぺらりとページを捲る。

 目を合わせる気はないようだ。

「プロフェッサー・サンアッチからは、歴史学者で、エディンバラ市内の教育機関を回る、客員教授とお聞きしております。

 歴史学における論文は、他の学者たちの追随を許さず独創的で、魅力的な文体は読み手を惹き付け、離さない。

 『いっそ、物書きにでもなればいいのに』と。」

 ヴィヴィアンが言うと、エインがやっと本から目を離し、大笑いをした。

 いつぞや、自身もサンアッチに同じ事を言われたのだ。

「どのような研究を?」

 ヴィヴィアンが訊ねる。

 エインは笑い足りないのか、むふふと含み笑いをしながら、「うーん」と言った。

「”先読み”とか、かなぁ…」

 意味深に言う。

「”先読み”?」

「うん。まぁちょっと違うか。

 例えばさ、この間のスコットランドとイギリスの合併ね。

 あのとき、この後どういう事が起こると、混乱になるだろう、というのを予測したりね。

 今起こっている自然現象は、あと何年くらいでこうなる、とかね。

 先だけじゃなく、今こういうことがあったということは、きっと何年前にはこれはこういう意味があったんだろう、とかね。」

 エインが眼鏡を外し、ハンカチで拭いた。

 度はそれほどきつくないのか、レンズは厚くもなく、歪みも少なかった。

「”歴史の観察者”っていう感じだね」

「”観察”…。」

「うん、”観察”」

 言いながら、「”観察”というか…」と、自身で修正を始める。

「”監察”、のほうが近いかも知れないな。」

 エインは小さな声で呟いて、眼鏡をかけた。

 その訂正にどんな意味があるのか、ヴィヴィアンにはよく解らないのか、怪訝な顔をする。

 そんなヴィヴィアンを横目に見て、エインは再度含み笑いをした。

「時折、風変わりなこのボクの論文を見て、歴史がそう動かないように軌道を変えようとしてくれる偉い人がいてね。

 そういう人たちからしたら、ボクは”監察”、つまり”監督”や”演出”なんじゃないか、と。

 まぁそんな感じ。」

 笑いながらもどうでもいい事の様に言い、エインは閉じた本をまたパラパラと捲った。

「歴史を動かしているつもりは、ボクにはない。

 ただ、これだけはこう動いてはならないだろう、みたいな事象は存在する。

 それを、気付いているかいないか解らない、見も知らぬ人に、ちょっと訴えたりしてみる。

 そんな仕事だよ。」

「評論家みたいな仕事でもあるね」と付け加えて、エインはまた本に見入った。

 だが、数ページ読み進めたところで、また本を閉じてしまった。

「でも本当の仕事は、学者でも教授でもないんだけどね」

「?」

 見つめ続けるヴィヴィアンを視界の隅に置きながら、エインは馬車の窓に頬杖をついた。

 窓の外では、風景が滑るように流れていく。

「本当の仕事は、これから行く、フランスでの仕事。」

 そう言って、手ぶらな左手でポケットを探り、手紙を取り出した。

 ヴィヴィアンに手渡す。

「読み給え。」

 言われて、ヴィヴィアンは丁寧に手紙の封を開けた。

 既に封蝋自体は接がれていて、容易く封筒は開いた。

 中には、三枚のリーフが折り畳まれていて、開くと清楚な文面が現れた。

「親愛なる、エイン様…」


 随分と御無沙汰しております。

 御変わり御座いませんか?

 教授の楽しいお噂は、海を隔てたフランス、ボルドーの郊外にも伝わって来ております。

 数年、御挨拶を怠けている間に、今年初め、父が亡くなりました。

 母も既に亡くなり、屋敷には私と、召使が数名居るのみとなってしまいましたため、屋敷の整理を致しておりました処、不可解な内容の遺言状が見付かりまして、今回このような御報せを差し上げました。

 相続に関しては、既に弁護人と見届け人の証明する遺言状が有りました、別段問題では御座いませんが、その状には、父からエイン様へ宛てたものも同封されておりましたので、ご連絡申し上げました次第です。

 是非、何事かフランスへお越しになる折に、屋敷へもお立ち寄りくださいませ。


「…エイン様にお会い出来る日を、心待ちにしております。

 アン・ベルトワーズ。」

 読み終わり、ヴィヴィアンが「…ベルトワーズ…」と繰り返した。

「心当たりが?」

 エインが訊ねる。

「はい。

 サンアッチ教授のご友人で、手紙の通り今年の初めに亡くなった方の中に、確かベルトワーズ伯爵という方が…」

 ヴィヴィアンが答えると、エインは一つ頷いて、ヴィヴィアンを見た。

「当たり。

 アンは、ベルトワーズ伯爵の一人娘で、御歳二二歳。

 ベルトワーズ伯爵は享年六〇歳。今年の初めに、患っていた心臓の病が悪化して、他界された。

 ボクもロンドンでそれを耳にはしていたけれど、なかなかフランスへ足を運ぶ機会がなくてね…。」

 そう言って、エインが窓の外を眺めた。

 横顔は、若干の憂いを帯びている。

「ボクの恩師の一人でね。

 生前、まだ教授なんて肩書きを貰う前の話だが、大変に貴重な書籍ばかりを集めた館をお持ちでね。

 突然お邪魔して、懇願して、数日滞在して、読ませてもらった事があったんだ。

 見知らぬ他人だというのに、大層可愛がってくれてね…」

 エインはそこで言葉を切った。

 耽る物思いの深さはヴィヴィアンの知るところではないが、恐らく、氏への思い入れは深いものだったと想像出来る。

「今のボクがあるのも、氏のお蔭と言って、大袈裟じゃないんだ」

 そう締めくくって、エインは頬杖を解いた。

 手に持っていた本を無造作に荷物の上に投げ付け、ヴィヴィアンから手紙を取る。

「不可解な遺言状とありましたね…」

 ヴィヴィアンが訊ねると、エインの表情が少し明るくなった。

「氏は、昔からなぞかけがお好きでね。

 きっと、変な遺言状なんだろう…」

 エインはそう答えると、今度は手紙を本の上に投げ置き、頬杖をついて窓の外に見入ってしまった。


◆ ◆


 リースの港に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。ここから一晩かけて、一旦船でロンドンへ向かう。

 港には一艘のガレオン船が停泊していた。

 深い茶のニスが美しく輝く、大きな船だが、吃水の浅いこのガレオン船は、速度も速く、積載量も多いので商船として人気が高いが、同時に転覆し易い危険も孕む。

 ガレオン船の向かいには、その四分の一ほどの大きさのキャラック船も停泊しており、安全性の高さならこちらのほうが勝っているのだが、敢えてこの船を取ったのには、エインなりの拘りがあった。

 男の独り旅ならキャラック船で一晩明かすことも構わないのだが、ヴィヴィアンがいることで、そうも行かなくなった。女性がいる以上、きちんとした船室を取りたかったのだ。

 船員見習いの子供に荷物を渡し、甲板へ上がる。

 船の甲板には、折々の乗客がおり、見送りの家族や友人に手を振っていた。

 エインとヴィヴィアンは、人ごみを縫って客室へと向かう船員見習いの子供に続き、船内へ入った。

 子供が、一つのドアの前で止まる。

「サー。こちらがお部屋です。」

「ありがとう。」

 そう言って、予約していた部屋のドアを開ける。

 子供が先に中に入り、荷物を部屋の隅に置いた。

「では、ごゆっくり」

 と言って、出て行こうとした子供の手を、エインが握って引き止めた。

「この船では、チップは違反だったっけ。」

 ごく稀に、チップを乗船違反とする船がある。

 切欠となったのは、とある富豪が一隻の旅客船に乗船した折、クルーの一人に法外なチップを渡した事で、他のクルーがその客ばかりに愛想を振り撒き、サービスが偏り問題になった事だった。

 この船も違反と聞いていたのだが、

「降りるまで頼むよ。」

 そう言って、エインは子供の手のひらに、僅かな枚数の紙幣を乗せた。

 困惑して見上げる子供に、エインが人差し指を口にやり、一つウインクをする。

 子供は、ぱっと表情を和らげ、深く一礼して部屋を出て行った。

「未だにこの行為が、よく解らなくてね…」

 ドアの向こうで、子供の足音が聞こえなくなってから、エインが呟いた。

 ヴィヴィアンが首を傾げると、エインは固く狭い寝台に横になり、天井を仰いだ。

「恵んでいる訳じゃないんだ。

 ほんの短時間でも、仕事を依頼する、という気持ちなんだよね。

 でも、恵んでいるようにしか見えない。

 ボク自身は、そこはかとなく厭な気分なのに、彼にとっては、とても喜ばしい事なんだ。」

「格差の所為ですか?」

 ヴィヴィアンが訊ねる。

「違うね。

 もっとこう、本質的なものだと思う…。」

 溜め息混じりにエインが言う。

 そう古くない嗜みではあるものの、チップについては最早常識の範疇にまで風習として息衝いてしまっていて、今更疑問に思う事自体が珍しい。

「ボクは偽善者なのかもね。」

 さらりと言って、横目でヴィヴィアンを見た。

 ヴィヴィアンは、どう答えを返したものか考えあぐねて、眉間に皺を寄せた。

「ボクは少なくとも、金に困る生活はしていない。

 確固たる職業にも就いているし、社会的地位も得た。

 さらに上の方々からは可愛がって貰い、贔屓もしてもらえる。

 チップをやる事で厭な気分になるのは、ボクがその事に胡坐を掻いている証拠なんじゃないか、と思うときもあるんだよね。」

 頭の下で組んだ両手の指を、もぞもぞと遊ばせて、エインはもう一度溜め息を吐いた。

「ま、大抵は、渡すときは何も考えてないんだけどね…」

 特別に格差を意識した思考でもなければ、己を過信した故の疑問でもない、しかし答えの出ない疑問を、エインは山ほど抱えているのかもしれないと、ヴィヴィアンは思った。

 なまじ他人より頭の回転が速く、多智だからこそ、持ち得る悩みなのだろう。

 ヴィヴィアンは、エインの向かいにある寝台に越し掛け、丸い小さな窓から外を見た。

 灯台の明かりが、深い闇と化した海の上を、踊るように回る。

 風が強いのか、時折船が大きく揺れた。

 出港が近いようで、部屋の外ががやがやと騒がしくなっている。

 ヴィヴィアンはドアを一度見やり、再び窓に目を向けた。

 その仕草が、そわそわと落ち着かない様子に見えたのか、エインが薄く目を開けてヴィヴィアンを見た。

「寝給え。横になるのが苦であれば、座ったままでもいいから。一晩は意外と長いよ。」

「はい」とヴィヴィアンは頷き、何の衒いもなく寝台に横になり、シーツを被った。

 が、不意に上半身だけむくりと上げ、窓際にある燭台の蝋燭を見つめた。

「消していいよ。」

 聞かれるより早く、エインが答えた。

 ヴィヴィアンは「はい」と返し、蝋燭の火を消した。

 再び横になり、ヴィヴィアンは、小さく息を吐いた。

 決して寝心地の良くない寝台で、どこまで熟睡が出来るものだろうか。

 しかし、ロンドンについた後も、まだこの手の寝台のお世話にはなる。さらにカレーに着いてからは、ボルドーまで馬車に揺られなければならない。

 長い道程だ。

 億劫な訳ではないが、決して心ときめく旅でもない。だから眠れるときに眠っておかないと、いざと言うとき、何の役にも立たなくなってしまう。

 ヴィヴィアンはもう一度息を吐いて、目を閉じた。

 襲ってこない眠気を、自ら呼び寄せようと、意識を散乱させる。暗闇の中で瞼を閉じ、さらに作った闇に、色とりどりの塵が舞った。

 目が疲れているのであろうか。

 長く使っていなかった部屋に舞う埃に、朝陽が反射して降り注いでいるように、その塵はいつまでも舞い続ける。

「ヴィヴィ」

 突然声をかけられ、ヴィヴィはぱちりと目を開けた。

「はい」

 ヴィヴィアンが返事をすると、エインがくすくすと笑った。

「やっぱり眠れないか」

「そうですね。気が昂ぶっている訳ではないのですが…」

「この寝台の所為だな」

 エインが面白そうに言った。

「済まないね。

 屋敷でゆっくり休む暇を与えてやれなくて。」

「お気になさいませんように。」

 そう答えた後、ヴィヴィアンは小さな声で、さらに続けた。

「解っておりましたから。」

 この言葉が聞こえたのか否か、エインは「そうだね。」と答え、あっという間に寝息を立ててしまった。

 ヴィヴィアンは、好くもこの寝台で眠れるものだと感心し、暗闇で声なく、独り笑った。

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