恋する太陽と月 9
気分が晴れないので、散歩をする事にする。
そうだ、思い出した。
北の森に行こう。
そう思い立って屋敷を出ると、真っ直ぐに北の森に向かった。
花が咲き乱れ、小川がせせらぐあの庭へ行けば、気分も晴れるかも知れない。
小路はいつも通り小石がごろごろとしていて歩き難い。
森までは歩いて十分くらいだ。
時間はたっぷりあるので、ゆっくり歩く事にした。
時々空を見上げると、薄霧雲のかかった少しぼやけた青空が広がっている。
風には少し潮が混じっていて、初夏が近いからか、少し生温い。
この道を歩くのは、何度目だっけ。ふと思い記憶を辿るが、どれがどの記憶か不明瞭で、すぐ止めた。
歩いた過去の記憶はみな、”間に合わなかった記憶”だ。
記憶から消し去りたい”過去”だ。
気が重くなり、慌てて頭を振ると、再び青空を見上げ、小さく溜め息を吐いた。
◆ ◆
夢を見て、目を醒ました。
悪い夢だ。何度も見る、悪い夢。
何度も何度も、あの人の倒れた躰を抱き起こす夢。
夢…?
夢ではない、あれは、”過去”だ。
そしてその”過去”に脅える自分が、自身に見せている悪夢だ。
繰り返したくない。もう二度と。
そう思って、何度、泣き崩れた事だろう。
部屋の空気が重く、廊下に出ると、執事のクリーブスと出くわした。
「北の森に向かうのを見ましたが。」
と言われ、心臓が物凄い速さで鼓動を打つ。
駄目だ、行ってはいけない。
屋敷を駆け出し、森へ向かう。
あの森へ行ってはいけない。
また、また間に合わなくなってしまう。
もう二度と、泣くのは嫌だ。
◆ ◆
深々と生い茂る雑草と芝生を踏み潰して、植木の隙間を抜けると、湖が見える。
相変わらず美しい湖だ。
長い間手入れをしていないというのに、何度見ても美しい湖畔だ。
湖の畔にかかる小さな桟橋にしゃがんで、湖を覗く。
風が吹き、音がした。
ザザ…。
草を擦る音が聞こえた。
ザザザ…。
誰かが歩いているのか、風の音なのか。
そんな事は、どうでもいいか。
立ち上がり、振り返ると、視界に黒い人影が映った。
驚いて目を見張る間もなく、影は真っ直ぐに突進してくる。
脇に光が見え、寸でのところで避けると、素早く踵を返した影が光を目に向けて突き出して来た。
それも仰け反って避けると、反動で振り上げた右腕が影の腕に当たった。肘のあたりが、痛んだ。
光がカシャリと音を立てて落ちた。
ボトン…。
少し重たい水の音がした。光が落ちたのだろうか。
確かめる余裕などなく、影との間を空けるため、一度背を向けた、その時。
◆ ◆
走らなければ。
手遅れに、手遅れにならないうちに…。
間に合わなければ。
間に合わなければ、また…。
森に入り、ザクザクと芝生を踏み潰す足音に紛れて、ドンと音がした。
これは、銃の音だ。
ドン。
二回…。
無事で、無事でいてくれ。
茂みを潜る。
細い枝が肌を引っかく。
痛い…。
茂みを抜けると小さな庭に出る。
確かこの庭を横切って…。
恐ろしいほどに花の咲き乱れるこの庭を横切って…。
茂みの向こうに、湖が…。
湖が見える…。
その湖の畔に…。
深い樹木に囲まれた、小さな湖の畔に…。
足が縺れる。
でも走らなければ。
再び茂みを潜る。
右の肘が痛い。
夢中で手で掻き分けた茂みの先が、拓けた。
やっとの思いで茂みを掻き分け這い出た先には、何度も何度も見たあの湖があった。
その湖の畔の草に紛れて、深緑色の何かが風に揺れた。
「…ヴィヴィ…!」
エインは駆け寄ると、そこにはヴィヴィアンが苦痛に顔を歪め、倒れていた。見れば右脇腹に、少し血が滲んでいる。
「ヴィヴィ!!」
またか…、また間に合わなかったのか…!
そう思い、首筋に指を添えると、微かにだが脈打つ感覚を捕らえた。
生きている…。
エインは唇を噛み千切りかねないほどに強く噛み、ヴィヴィアンの躰を抱き起こすと、湖の先にある屋敷へ向かって歩き出した。
屋敷に鍵はかかっていない。
手入れをしていないとは言うが、クリーブスが密かにたまにやって来ては、埃を払っているのを知っている。
エインは一階の奥にあるゲストルームを開け、置いてある大きなベッドにヴィヴィアンを寝かせた。
そして後先も考えず血の滲む脇腹付近のドレスの布を引き千切ると、傷の様子を確かめる。
出血量にそぐわず、傷は若干深いが擦り傷のようで、命に別状はないと思えた。
エインはぐったりとベッドに座り込み、眼鏡を無造作に外して項垂れた。
不意に武者震いをする。ぐっしょりと汗を掻いたシャツが体に纏わりついて、熱を奪って行っていた。
今になってこめかみを伝う汗を袖で拭い、ゆっくりとヴィヴィアンを振り返る。
痛みの余り気絶したのだろう。銃の音がしたから、恐らく傷は弾が擦れて出来たのだろう。
エインはヴィヴィアンの頬に手を伸ばし…、しかし手のひらを見ると汚れていたので、手を引いた。
そして老人のように立ち上がると、クリーブスを呼ぶため、ベルトワーズ邸へ向かった。
◆ ◆
邸に着くと、偶然にもアンの診察に訪れていた医者と、それを見送るクリーブスがいた。
「クリーブス!」
名を呼びながら走って来るエインの様子に只ならぬ状況を察したクリーブスは、医者に着いて来てくれるよう頼んだ。
医者も雰囲気は感じ取ったようで、一つ頷いて走って来るエインを見た。
事情を話し、森へ向かう。
クリーブスはメイドに所用と言付けをしなければならないと言って、後から向かうと言った。
道中、状況だけを説明し、早足で森の屋敷へ向かう。
茂みを抜け、湖を通り過ぎ、庭に出る。
いつの間にか若干の赤みを帯びて来た空の色を受けてか、花々の色は少し薄く見えた。
鍵の開いた扉を開け、ゲストルームのドアを開ける。
医者はそこに横たわるヴィヴィアンに駆け寄ると、脈と体温を測り始めた。
「安定していますね。」
一言だけ言って、いそいそと診療カバンを開けた。
「これから服を脱がさねばなりません。お部屋の外へ。」
エインは頷いて、部屋を出た。
この建物はゲストルームと大広間、主用の大きなダブルベッドを置いた部屋が二つと、シングルベッドを置いた小さな部屋が三つほどある。それ以外はキッチンであったり、荷物部屋である。
身の置き場所を悩んだ末、エインは大広間にいる事にした。
そこへ、クリーブスがやって来た。クリーブスは後ろにメイドを二人ほど従えていた。
「ゲストルームに寝かせています。」
クリーブスに言うと、彼は頷いてメイドに医者の手伝いをするよう言った。メイドは直ちに向かい、クリーブスはキッチンヘ向かった。
それを見送り、大広間に入ると、一寸も痛んでいない大き目のソファに崩れるように座った。
眼鏡を外し、脇のテーブルに置く。崩れるように肘掛に凭れて、視界を手で覆う。
長く重い溜め息を吐くと、全身の力が抜けた。
安堵と、自責と…。そして久しぶりに走ったせいか、気力の総てが抜け落ちてしまった。
「お使いください。」
突然、目の前でクリーブスの声がした。
気だるく見上げると、クリーブスが湯気の立つ布をエインに差し出していた。
「…ありがとう…。」
のそのそと起き上がり、布を手に取った。じんわりと温かい布の熱が、手のひらを伝って体全体に広がる。
「ゲストルームにおりますので、何かありましたら。」
そう言って、クリーブスは立ち去った。
早々にいなくなってくれた事に、エインは感謝した。今は誰とも口を利きたくなかった。
汗と埃でべたべたになった顔を、布で拭いた。顔から布を離すと、ひんやりと冷たい風が顔を包む。
布が少し汚れたので、折り畳み直して、今度は手のひらと腕を軽く拭き、布はテーブルの上に投げ置いた。
再びソファの肘掛に凭れると、尻のポケットで、くしゃくしゃと紙の音がした。
そういえば、今朝見付けた手紙を、ポケットに入れ放しにしていたのだった。
エインはポケットから手紙を取り出した。
癪だったので、封も切らずにポケットに捻じ込んだ手紙は、しわしわになっていた。
裏を返すと、薄く小さな封蝋がしてあった。丁寧に外して封を開け、便箋を取り出すと、エインは封筒をテーブルに投げ、ソファのもう片方の肘掛に膝をかけるようにして横に座り、読み始めた。
◆ ◆
手紙は、予想より遥かに長く綴られ、”期待はずれだったもの”の割りに興味深い内容であったために、クリーブスが声をかけるまで夢中になって読んでしまっていた。
「お目を悪くなさいますよ。」
クリーブスは言いながら、蝋燭を立てた蜀台をテーブルに置いた。
すっかり夜になり、室内は真っ暗闇だった。
手紙はあと数行残すところまで読み進めていたが、一先ず読むのをやめた。
「生憎、ランプのオイルを失念しておりまして…。」
申し訳なさそうに言って、クリーブスが謝った。
「いえ。すみません、ご迷惑をおかけして。」
エインは姿勢を正した。
「ご無事で何よりでした。」
当たり前の事だが、クリーブスは自分の事など二の次三の次なので、そんな事より、とも言うかのように言った。
「クリーブスさん、相談が。」
「はい。お召し物の事でございますね?」
見上げるエインににこりと笑って、クリーブスが言った。
「ご心配は不要にございますよ、教授。
トーマス様は細い方ですが、流石にお嬢様のお召し物は難しいでしょうから、奥様がお召しになられていたドレスを何着か持ってまいりました。
着て帰られても問題ない物と言われておりますので、ご自由にお使いください。」
「有難うございます…。」
つくづく手回しの良いクリーブスに頭が上がらない思いだった。
「今夜はどうなさいますか? お屋敷へお戻りになりますか?
私は、今晩はこちらにおります。メイドも一人泊まる予定でおりますので、トーマス様の身の回りのご心配はございませんが…。」
「それでもご心配でしょう。」と言うクリーブスに、エインが苦笑した。
朝、手紙を見つけてからここまでで、やっと今日初めて笑った気がする。
「教授がお泊りになる準備もしておりますので、お好きになさって下さい。
食事はもうそろそろ、従者が屋敷から運んで来る頃ですよ。」
クリーブスはそう言って、「ちょっとゲストルームを見て参ります」と去って行った。
一人になって、一本だけ立つ蝋燭の炎を眺める。
そして、再び手紙を手にし、最後の数行を読む。
運命は変えてはならない。
運命は委ねるものだ、エイン。
だが私は、君の心も十分理解している。
この手紙が、君の心の傷を少しでも癒せる事を、祈っている。
アルネスト・ベルトワーズ
読み終わり、改めてぐったりとする。
手紙は、”期待はずれだったもの”ではあったが、それを半分ほど満たしてくれる内容でもあった。
暗闇の中、仄かな灯りを瞼に焼き付けて、そっと目を閉じる。
こんな夜を迎えるのは、初めてだ。
ふと思い、はっとする。
希望は、叶えられ掛けているかも知れない。
『運命は、変えられない。』
誰の言葉だっただろうか。恐らく無名の、哲学者の言葉だったに違いない。
無名には無名の理由がある。この旅を始めてからすぐに、そう思ったものだ。
だが同時に、今までずっと失敗をして来た。
『運命は、変えられない。』
確かにそうかも知れない。否、今までだってそう思わなかった事はない。
だが、抗う余地があるのなら、取り戻したいものもある。
思い出してしまった恐怖。絶望。悲しみ。孤独…。
長い事、答えを探して来た。これがどうしても変わらぬ答えなら、受け入れなければならない。
だが、それもこれが最期だ。
どういう結論が待っていても、受け入れなければならない。
そして、旅も終えなければならない…。