恋する太陽と月 7
翌日、アンは朝から伏せっていて、部屋から出て来なかった。クリーブスの話では、熱が下がらず咳も酷いらしいが、風邪が悪化しただけだと先に医者から処方された薬を飲み、眠り続けているという事だった。
天気は快晴で、薄い煙たい青空が、遮蔽物のない農園地域を覆っていた。
エインは朝食後すぐにヴィヴィアンに暇を出し『図書館』に篭ってしまったので、ヴィヴィアンは独り屋敷の辺りを散歩に出かけた。
昨夜の雨もすっかり乾いた小路を、当てもなくうろつく。
空気は澄んでいて、時折風に乗って森の匂いが漂って来た。その中に、甘い匂いを感じた。
どこかに花畑でもあるのだろうか。農園が集まる場所だから、あっても可笑しくはない。
ベルトワーズ邸に着いてからというもの、本の臭いしか嗅いでいなかったから、花の香りでも吸い込みたい気分だったので、ヴィヴィアンは香りを追って彷徨った。
よい散歩と言う程にあちこちにある森を入ったり、川を眺めたりして花を探したが、どうにも花畑には辿り着けない。風は北から吹いていたので、ヴィヴィアンは屋敷の北側の森を探索する事にした。
北側にある、屋敷に一番近い森は他の森より少し大きく、川に面しているようだった。その上、何やら森の木々の上からは、青い屋根らしきものが見える。誰か住んでいるのかと、ヴィヴィアンは歩みを速めた。
小路は真っ直ぐ森へ伸びている。近付くにつれ、森の木々の間を縫うようにベルトワーズ邸の周りにあるような囲いが立てられているのが見えた。森を入る際にはアーチを潜る様になっていて、その先へ行くと、手入れをしていないのか木々と茂みが行く手を阻んでいた。それを無理矢理抜けると、突然森が拓け、花の咲き乱れる小さな庭が姿を現した。がさらに茂みに覆われた道は続き、そこを抜けると池ほどに小さな湖が現れた。
湖は透明度の高い水が風で小さく波打ち、日の光を受けてきらきらと輝いていた。湖の向こう、木々の間にちらりちらりと花畑が見えたので、奥へと進むと、今度は大きなロッジのような建物が現れた。
白い壁に、大きな窓、緑と花花の咲く大きな庭とレンガで造られた人工の川に囲まれ、川には小さな可愛らしい橋がかかっている。
橋を渡り、庭へ入る。
建物の向こうには木がないらしく、ヴィヴィアンはやや興奮気味に建物の奥へと進んで行った。
見た事のない植物と花の生い茂る庭を横切り、橋のかかっていない川を飛んで渡り、植木が隠しかけた細い細い隙間を抜けると、ぱっと視界が開け、強い風が舞った。
一瞬目を閉じ、ゆっくりと開けると、ヴィヴィアンは目を見開いた。
目の前には少し幅の広い草地が延々と左右に伸び、その向こうには大きなガロンヌ川と、先に海が広がっていた。崖になっているようで、近付かなくても高い崖だと解るほどに、手前の川が下の方に感じられた。
こんなに海に近いとは、解らなかった。屋敷の方は、こちらより少し下がっているのだろうか。
ドレスを大きく揺らす風には、少しも潮気を感じず、さらさらと頬を撫でて行く。
何故だろう、ヴィヴィアンは不思議なほどにこの場所が気に入った。
少なくとも、まだ三日はボルドーにいる。明日もここへ来よう、などと珍しく心が躍る。
空を見上げると、屋敷を出た頃より少し陽が高くなっていた。
エインが心配しやしないか。否、エインは時間も忘れて読書に耽っているに違いない。ならば、困るのはクリーブスか。
色々考え、ヴィヴィアンは一時屋敷へ戻る事にした。時間があれば、また来ればいい。
そう思い、踵を返し、植木の間へ入り込んだ時だった。腕に何か冷たい感覚が走った。葉にでも触れたかと思い、何事もなかったかのように庭を抜け、元来た小路を戻る。そして屋敷のアーチを潜った時、『図書館』から出て来たエインがヴィヴィアンを見て険しい顔をした。エインは速足でヴィヴィアンに近付くと、腕を力いっぱいつかんでヴィヴィアンを引き寄せた。
「どこへ行っていた? 何をしていた?」
初めて見るエインの表情に、ヴィヴィアンは大いに戸惑い、森の中の建物や庭の事など旨く説明出来ず、口籠った。何をそんなに怒っているのかと眉を顰めると、エインはヴィヴィアンが何も気付いていないと理解した。
そして、握っていた腕をヴィヴィアンの目の前にぐいと上げる。自分の腕を見たヴィヴィアンは、今日二度目、目を見開いた。
肘の横辺りに細く切られた痕があり、傷口はぱっくりと割れ、血が出ていた。出血は酷く、何故気付かなかったのかと、自分自身で驚いた。
余りの状態にヴィヴィアンが言葉を失っていると、エインがヴィヴィアンの手を曳き、屋敷に入るなりクリーブスの名を叫んだ。
様子がおかしいのを感じ取ったクリーブスが慌ててエントランスへ駆けつけると、未だかつて見た事のない形相のエインと、腕を血まみれにして唖然としているヴィヴィアンがいて、彼も大層驚いた。が、すぐに二人を大広間へと誘導し、傷の手当てに取りかかった。
出血は酷いが傷は浅く、ヴィヴィアンは事なきを得た。しかし、エインは怒りが収まらないのか、今日はこれから一時も屋敷から出てはならないとヴィヴィアンに指示し、食事をそそくさと済ませて自室に籠ってしまった。
エインの様子に、無表情ながらもすっかり怯えてしまったヴィヴィアンは、言い付けに従い、まだ半日もあると言うのに自室に入って鍵をかけた。
ベッドに横になり、包帯を撒かれた腕を見る。
本当に、何故気付かなかったのだろうか…。一体いつ、切れてしまったのだろう。植木の間を通った時か? そう言えば、何か冷たい感覚があった気がする。
しかし、葉によってこの様な傷を負うか? 何か刃物でもあったのだろうか。何故、調べようと言う気が回らなかったのか…。
いつもの自分なら有り得ない状況に、ヴィヴィアンはまだ唖然としていた。
幼い頃、両親が事故で死に、親戚や兄弟がいなかったヴィヴィアンは、軍管轄下に置かれた養護施設に引き取られた。
そこで、基礎教養を始め、将来的に軍部に席を置ける者、イコール軍人として必要な、在りとあらゆる知識と技術を身に付けさせられた。
そんな生い立ちであるから、この傷は有るまじき失態による傷である。
何故、気付かなかった…?
ヴィヴィアンは、怪我をしていない腕を目の上に被せ、目を閉じた。
視界を暗くすると、どっと疲れが押し寄せた。
風に吹かれたせいか、ショックによるものか。
思考の巡りも侭ならぬまま、ヴィヴィアンは眠りに落ちた。
◆ ◆
あの人はどこ…。
確かこの庭を横切って…。
恐ろしいほどに花の咲き乱れるこの庭を横切って…。
茂みの向こうに、湖が…。
湖が見える…。
その湖の畔に…。
深い樹木に囲まれた、小さな湖の畔に…。
足が縺れる。
でも走らなければ。
手遅れに、手遅れにならないうちに…。
間に合わなければ。
間に合わなければ、また…。
ザクザクと芝生を踏み潰す足音に紛れて、ドンと音がする。
一回…。
ドン。
二回……。
無事で、無事でいてくれ。
茂みを潜る。
細い枝が肌を引っかく。
痛い…。
ああ、でも、あの人はもっと…。
手で掻き分けた茂みの先が拓けた。
湖が見える。
この湖の、右の畔…。
ああ…。
また…。
また、間に合わなかった…。
駆け寄り、横たわる躰を抱き起こす。
小さな、白い顔が苦痛に歪んでいる。
しかしもう、息はない…。
ああ…。
これで何度目だ…。
何度目だ…。
あと何度…。
あと何度、この躰を抱き起こせばいい…。
◆ ◆
耳元で、ごうという轟音が聞こえ、驚いて目を醒ます。
眼球だけを動かして部屋を見回す。
カーテンの隙間から光が差し込み、窓の外からは小鳥の囀りが聞こえる。
屋敷の中はしん、と鎮まり返っていて、物音が聞こえない。
ゆっくりと起き上がると、肘辺りにちくりと痛みが走った。目をやると、捲り上げられた袖の下から、白い包帯が覗いている。
ベッドから降り、のそのそと窓に歩み寄る。カーテンを開けると、東の空が明るくなっていた。
寝てしまったのか。それも日が変わるほど長時間。
窓に手を触れると、ひんやりと冷たい。そこでやっと、部屋も冷え切っている事に気付いた。
何もかもが麻痺している気分だ。
ふぅと溜め息を吐く。
こんな感覚は、”初めて”だ。
何か、”変わった”のだろうか。
”今まで”になかった、方向へ進んだのだろうか。
”先”が見えなくなった。
この道は、”どこへ”続くのか…。
不意に、ドアが叩かれた。
「はい。」としゃがれた声で返事をする。昨日の風で、喉をやられたのだろうか。
ヴィヴィアンの返事を受けてドアがゆっくり開き、中を窺い見るように、エインが隙間から部屋を覗いた。顔には、いつもの微笑みが浮かぶ。
「…教授…。」
「おはよ。」
おはようと言われ、改めて今が朝である事を確認する。
「…おはようございます…。あの…。」
「ん?」
部屋に入り、後ろ手にドアを締めるエインに向かって、ヴィヴィアンが俯いて何か言いかけた。だが、そのまま何を言ったらいいか解らなくなって、黙り込んでしまった。
「傷は?」
エインに問われて、ヴィヴィアンは首だけを振って応えた。
「何があった…?」
昨日も聞かれた事だ。だが、やはり答えようとすると、言葉が旨くまとまらない。
「…。」
「答えたくない?」
ヴィヴィアンが首を振る。
「答えられない?」
今度は首を縦に振る。
「解った。聞かない事にする。」
エインの言葉に、ヴィヴィアンが驚いて顔を上げた。
「無理には聞かない。
まとまったら話なさい。
ただし、危険な事はしない事。」
「いいね?」と釘を刺すエインは、相変わらず優しく微笑んでいた。
ヴィヴィアンはこくりと深く頷いて、エインを見据えた。
言いたいのだ。でも、何も言葉にならない。
昨日見た森の庭も、花や橋の事も、海の事も。その時怪我をしたのだという事も、何もかも話したいのだ。なのに、単語ばかりが浮かんでは消え、文章にならなかった。
でも恐らく、エインはヴィヴィアンの内心に気付いているのだった。
ふと、罪悪感が込み上げる。この屋敷に来てから、自分の様子がおかしい事に自身で気付いていた筈だし、それを包み隠すべく様々な訓練を経てエインの元を訪れた筈なのに、何一つ満足に行えていない。
ただ”居る”だけになってしまっている。
それでは、”居る”意味がない。
ヴィヴィアンが唇を噛んだ。だが皮肉にも、こう言う時に限って、自分の表情筋は動かない。
そんな内心すら気付いているエインは、仕方なさそうにヴィヴィアンに苦笑すると、ドレッサーの椅子を持ち上げヴィヴィアンの目の前に置いた。そしてベッド脇にあった椅子をその横に置くと、かったるそうに座って片脚を上げ、膝を抱いた。
膝に顎を乗せ、重い頭を支えると、窓の外を見つめる。
まだまだ陽は登って来ないが、空には太陽より一足先に昇った月が、白く細く輝いていた。
「ボクも孤児でね。
とある施設に保護されて、幼少期を過ごした。」
エインが、突如身の上話を始めた。そんなエインを呆然と見つめながらも、ヴィヴィアンはエインが運んだ椅子にゆっくりと腰を下ろす。
「友達は沢山いたし、愛情も満足に注がれていたのに、表情を操る能力がなくて。
成長して知識を身に付けて行くにつれ、それが自分の内部にある心の闇のせいだと気付いた。
ボクは自分自身に誇りを持てなくて、いつも何かに脅えていた。
でも何に脅えているのかボク自身には解らないし、ボクの周りの人たちも、ボクがそんな闇を抱えているなんて思っていなかった。
どうすればいいのか頭で考えても解る訳がない。そこで、ボクは啓き直る事にした。
好きな事をして、自分がしたい事だけをして。勿論他人を敬ったり、尊ぶ事を蔑ろにはしなかったけど、それ以外なら何でもやった。善い事も悪い事も。
ある時、二度とその施設に帰れないと言う仕事を与えられた。
棄てるものはなかったのに、ボクはそこから離れたくないと思っていた。
その時、ボクは何に脅えていたのかを知ったんだ。
ボクには、拠り所がなかった。」
「拠り所…。」
繰り返すヴィヴィアンを、エインが見て笑った。
「ボクには護りたいものがなかった。」
護りたいもの…。
「それは意図的に作れるものではなかったし、かと言って必ず見付かるかも解らない、不安定なものだった。
だから、それを作り出す事が出来るか解らないボクは、ボク自身の自信のなさに脅えていた。
確固たる何かが足りなかったんだ。
だから、ボクは仕事を請けることにした。
護りたいものを探せる自分を探しに。」
窓を向いたエインの横顔が、ふと黄昏た。視線は窓の外の、ずっとずっと遠くを見つめているようで、心はここにはない。しかし、不思議とヴィヴィアンは、エインの心と隣合わせにいる気がした。
部屋は相変わらず寒いのに、いつしか寒さの事など忘れ、二人の間に不思議な空気が満ちて行く。
「仕事は、勿論好きな事だったんだ。ずっとやりたい事だったし、これが叶えばどんなに光栄かと思っていた事だった。
施設を離れるのに多少の勇気は要ったけど、ボクはそれ以来、ずっとその仕事をしている。
否…。」
エインが自らの言葉を否定した。そして、不思議な一言を呟く。
「もうその仕事は、終わったかも知れないけどね…。」
ヴィヴィアンが首を傾げると、エインが膝の上に頬杖を突いた。
「ずっと旅をして来た。
当てもない旅。呼ばれては出向き、見付けては調べ…。
そのうち、見付けたんだ。
”護りたいもの”を。」
エインが目を細めた。
「彼女に出会って、初めてボクは自分の心と表情をイコールにする事が出来た。
彼女が生きてさえ居てくれれば、それだけで十分だった。そのためなら、命なんて要らないと思った。」
そう言うエインの手元が、きらりと光った。昇り始めた太陽の光を受けて、何かが光ったのだ。
注視すると、エインの左手の薬指に細い銀のリングを見付けた。
それはエインの指に食い込んで、手に同化してしまっている様に見えた。
しかし、指輪を見ても、ヴィヴィアンの心は何故か凪いだまま、穏やかだった。いつぞやの様に動揺もしなかった。
エインが、立ち上がった。
「誰にも話した事がない話。」
口に指を当てて”内緒”と言うエインを見上げて、ヴィヴィアンはゆっくり頷いた。
エインはヴィヴィアンににっこりと笑うと、「またあとで。」と言って部屋を出て行った。
ヴィヴィアンはエインの背中を見送って、昇る太陽に振り向く。
ヴィヴィアンは太陽に向かって一つ頷くと、腰を上げて体が千切れるほど目いっぱい体を伸ばした。
護りたいもの。
何があっても揺らがないのは、それが正解である証だ。
◆ ◆
エインが出た後、部屋にいても退屈だと大広間を目指していると、エントランスでクリーブスと出くわした。
「おはようございます、トーマス様。
お怪我はいかがですか? 包帯を替えましょう。大分緩んでしまっていますから。」
「有難うございます。お願いします。」
ヴィヴィアンが言うと、クリーブスは大広間で待つよう言い、小走りで奥へ消えた。
大広間に入ると、奥のソファセットのテーブルに紅茶のカップが一つ、ぽつんと置かれていた。恐らく、エインに用意されたものだろう。だが、エインの姿はない。
しかし、窓の外に人影が見えたので覗き込むと、エインが西の方を向いて立っていた。
「トーマス様。」
クリーブスが包帯を持ってやって来た。
クリーブスはヴィヴィアンをソファに座るよういい、ヴィヴィアンの脇に膝をついてしゃがむと、解け掛けた包帯をゆっくりと腕から解いて行く。
包帯の下の薄いガーゼは赤茶に汚れていた。ガーゼを剥がすと、まだケロイドにもなっていない傷口が露わになる。
「痛みますか?」
「いえ。大丈夫です。」
言葉を交わしながらも、クリーブスは手際よくガーゼを換え、新しい包帯を巻き直す。傷口には、クリーム色の軟膏を塗ってくれた。
ヴィヴィアンは、ふと気になって、クリーブスにあの建物について訪ねた。
「…北の方の森に、綺麗な庭のある建物を見付けました。」
ヴィヴィアンが言うと、クリーブスは包帯を巻く手を止め、ゆっくりヴィヴィアンを見上げた。暫し視線を交わし、クリーブスは小さく笑いながら、再び手を動かす。
「あの建物は、亡きご主人様が、”海の見える家”と呼んでおられました。
ご主人様の御祖父が若い頃に所望されて建てられた建物で、潮に強い植物を庭に埋め、人工の川に水を浄化しながら流せるよう特殊なポンプを設置したそうです。
体の弱かった奥様のために建てられた建物だとか。」
「湖がありました。」
「あの湖も、人造湖なのですよ。庭の小川の水は湖と庭を循環しております。」
「そうなんですか。」
「もう長い事手入れをしておりませんでしたので、道もないようなものになってしまっているのでは…。」
クリーブスが寂しそうな顔で笑った。確かに、道には草が生い茂り、通るのに不便を感じた。
「あそこに出入りする方はもういないのですか?」
ヴィヴィアンが訊ねると、包帯を巻き終えたクリーブスがすっと立ち上がって、にこりと笑った。
「はい。教授も森へは立ち入りませんから、ご存じないのではないかと。」
「そうなんですね。綺麗なお庭なのに。」
ヴィヴィアンが俯くと、クリーブスがふふと笑った。
◆ ◆
明日にはこの屋敷を去れる。
そう思うと、エインは胸が軽くなる思いだった。
このまま何もなければいい。
ヴィヴィアンの傷も、ただ不注意で出来た傷であればいい。
視線を感じて振り返ると、大広間の窓からヴィヴィアンがこちらを見ていた。影になって見難いが、腕の包帯が綺麗になっていた。巻き直してもらったのか。
エインは一歩一歩踏みしめながら窓に近付くと、ヴィヴィアンと真正面に向かい合った。硝子越しに見るヴィヴィアンは、硝子の歪みのせいで異空間にいるような不思議なぼやけ方をしていて、しかし、とても美しかった。
スコットランドに帰ったら、少しはゆっくり出来るだろうか。
エインはふと、ヴィヴィアンを手招きした。
ヴィヴィアンは一瞬きょとんとしたが、すぐに踵を返して大広間を出て行った。
暫くして、コツコツという足音が聞こえ、ヴィヴィアンが駆け足で現れた。
無表情なのに、走っているせいで頬だけがほんのり赤くなっているその様子が、なんとも愛らしく思える。
ヴィヴィアンはエインの目の前まで走り寄って、ちょうどよい距離を開けて止まった。その測ったようなちょうどよさも、エインには心地好い。
実は、然して用はなかった。ただ、窓越しでは物足りなかったのだ。
エインは少し考えて、この辺りの事を説明し始めた。
エインが突然何かしらの説明をし出すのにも慣れてしまったヴィヴィアンは、何の疑問も持たずにエインの話を聞く。忙しなくあちこちを指差すエインの指先を見つめながら、時折、質問をする。
話が反れたり、元に戻ったり、妙なトリビアが出て来たり、耳を掠めるお互いの声を体全体で取り込みながら、この時の心地好さに身を委ねる。
これがずっと続けばいいのに。
どこかで必ず、途切れてしまう…。
◆ ◆
ふらふらしているうち、結局『図書館』に篭る事になり、エインはシャトーに入るなり本に夢中になってしまうし、ヴィヴィアンはやる事がなかったので、エインに倣って読書をする事にした。本を扱い慣れてしまったからか、読書も耽ってしまうと時が経つのを忘れる。
夕方だとクリーブスが呼びに来るまで、二人は黙々と読書をしていた。
驚くべき事に、エインは『図書館』の書物の殆どに目を通してしまっていて、残るは入り口付近の本棚数台のみ、という事だった。
「元々読んじゃった本だからね。」
そうは言うが、それでも一冊一冊丁寧に読んでいるようであったし、時折声を殺した笑い声が聞こえたから、やはり隅々まで目を通しているのだろう。
野菜中心の夕食を済ませ、ヴィヴィアンが大好物だからと言って食後のデザートにガトーショコラを用意され、紅茶を飲みながら食事の余韻に浸っていると、また窓を雨が叩き出した。
「明日の朝は晴れるといいんだけどね…。」
そうだ。
明日ついに、あの詩の秘密が解ける。