恋する太陽と月 6
月齢、日の出時間などは、計算サイトを使わせていただいております。
食事を済ませ、ソファへ移ると、クリーブスがメイドを連れて大広間へ戻ってきた。
クリーブスはメイドに片付けを指示すると、ソファへ紅茶とデザートを運んで来た。
「ガトーショコラはお嫌いですか?」
「大好きです。」
クリーブスの問い掛けにエインが即答すると、クリーブスは「存じております」と苦笑して、ヴィヴィアンを見た。
「…好きです。」
ガトーショコラは大好物だった。だから、何となくそう答えるのが恥ずかしく、控え目に返事をしたが、クリーブスは見通したようで、満足げに一つ頷くと、エインより大きめにカットしたものをヴィヴィアンの皿に置いた。
その序でに、エインがテーブルの上に置いた書籍の山をちらりと見、
「ご用がおありでしたら、お呼び下さい。」
とエインに言った。
「有難う。
ああ、そうだ。アンの診察が終わったら、教えて下さい。」
「かしこまりました。」
クリーブスは一礼をして、大広間を後にした。
「さて。」
片付けのメイドもいなくなったあと、エインはソファの上に胡坐を掻いて座った。
「やろうか。」
そう言って、尻のポケットからメモを取り出す。
そして、ソファの近くにあった書類棚からインクと羽ペン、厚手の紙を取り出すとさらさらと書き出してゆく。
「『娘さん』は、月。
『だんなさま』は太陽…。」
太陽は月に訊ねる。『ぼくを愛してるってほんと?』
その問いに、月は首を振る。『感違いなさってますよ』
だが月は『こちらへどうぞ』と太陽を招き、しかし太陽は『さようなら娘さん』と去ってしまう。
「娘さんがもったいぶって、だんなさまを勘違いさせてしまう。でも本当は、勘違いさせている訳ではなくて、それが本心なんだ。でも素直ではない。
だから、『まあいいけど』と言って、だんなさまに近くに来るように言うが、だんなさまも素直じゃないから、『さようなら』と去って行ってしまう…。
という歌なんだけど、歌本来の意味と、伯爵が持たせた意味は違うんだろう。
思うに、月と太陽の位置を歌っているのだと思う。この歌を解けば、正確な『窓の隙間の光』を導き出せる。」
「月と太陽の位置…?」
「そう。
太陽も月も、日ごと時間ごとにいる場所が変わる。それも、刻々と。
月と太陽が、歌の通りの位置関係にある時に、正解の窓から差し込む『窓の隙間の光』が、正解の『愛してる。』を指すんだろう。」
エインが頬杖を突いた。
「ヴィヴィは、どう思う?」
問われて、ヴィヴィアンはメモを見つめた。
時々自身を無感情と思うヴィヴィアンは、詩的な表現は苦手だ。
「月と太陽が、見つめ合う時。満月でしょうか。
太陽が東から昇った時に、月が西側へ沈む日…。」
困惑気味に、ヴィヴィアンが呟いた。
「見つめられたら、勘違いするもんなぁ、男は。」
エインが笑った。ヴィヴィアンは、尚も困惑気味に、首を傾げた。
「でもそれだと、太陽が『さようなら』というのは、おかしいですね…。」
ヴィヴィアンがそう言うと、エインはにっこりと笑った。
「そう。
太陽は立ち去らなければならないんだ。」
「では、逆でしょうか…。
月が東から昇り、太陽が西へ沈む日…。
西へ消えようとしている太陽に、月が東へ戻るように言っているのでしょうか。でも、太陽は東へ向かう訳に行きませんから、『さようなら』と…。」
言っていて、妙な気分だ。
「太陽が東へ戻るのは簡単だ。次の朝を待てばいい。
ちなみに、余談だが、月の出と日没は、いつも同じ感覚で行われている訳ではない。
日没は日々一分から三分の間隔でずれる程度だが、月の出は日々四〇分から一時間単位でずれる。昨日と今日で、月の位置はまるで違うんだ。そして、月の出がない日もある。厳密に言うと一日が始まった時には既に月は出ていて、その日は月は沈むだけ、という日が存在する。だが、絶対に月の沈まない日はない。
関係ないだろうけどね。」
「…。」
「まぁ、『さようなら』と言っている以上、日の入り直前の話だと思う。
だから、月の位置が重要だな。
そして、月は太陽を招いている。
男は見つめられるのにも弱いけど…。」
エインが言葉を切ってヴィヴィアンを見た。
「傍に寄られるのにも弱い。」
「近くにいる、という事ですか。」
「そう。」
そう言いながら、エインは紙に絵を描き始めた。
横棒を引き、上に家が建った。さらに家の脇には木が立ち、星が空に散った。その空に、丸を二つ加える。
「娘さんは、素っ気無い。
ちらりと太陽を向いているように、もったいぶるように、太陽の光を少しだけ反射する…。」
なんとも言えぬ柔らかな笑みを浮かべながら、エインが片方の丸の内側に円弧を何本も足し始めた。
「太陽が出ている時に、月が出て来て、一日を過ごす。月の廻りの方が早いから、太陽が沈む前に、月が太陽に近づく。もう少しこちらにくれば、隣合える距離。でも、太陽は一足先に、去ってしまう。」
片方の丸が、細い細い三日月になった。
「新月直前の月、ですか…?」
「多分。月齢で言うと、〇.五から八といったところかな。
この形の月で、且つ、日没と月没が近しい日を探せばいい、と思う。」
エインが、ペン先を紙に丁寧に擦ってインクを落とした。
「少し冷えるな…。
大丈夫かい?」
「はい。」
問われて、頷いたものの、若干指先が冷えていた。肌寒くはあるが、堪えられない訳ではないので気にしなかったのが正直なところだ。
「この時期のフランスは、朝晩はまだまだ冷え込むんだ。室内で暖炉を焚いていても、暑いと思わないほどにね。
温かい紅茶を用意してもらおう。」
そう言って、エインは立ち上がってクリーブスを呼びつけた。
「お呼びですか。」
「紅茶を入れ直してもらえますか。
あと、ヴィヴィに何かひざ掛けを。」
「承知致しました。すぐご用意いたします。」
頭を下げてクリーブスが去った後、エインは振り向き様、窓の外を眺めた。ヴィヴィアンも釣られて見ると、ガラスに小さな水滴が付いていた。
「雨か。
フランスはとにかく雨が多い。天気予報なんて当てにならない。
急に暑くなったり急に寒くなったり、急に雨が降ったり…。」
言いながら、エインがヴィヴィアンを見て肩を小さく竦めた。
「ウィンストンさんが、お医者様を迎えに行っていましたね。
道は大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫だろう。もうそろそろ着くと思うよ。」
そう言ったタイミングで、クリーブスが温かい紅茶とチョコレート菓子を少し持って来た。左腕の肘には、ひざ掛けがかけてある。クリーブスは紅茶を一度テーブルに置くと、ヴィヴィアンにひざ掛けを見せて、「冷えは女性の敵です。」と言いながら手渡した。
「有難うございます。」
「他にお入用のものはございますか?
暖炉に火を入れましょうか?」
「そこまで寒くないよ。大丈夫。」
「畏まりました。」
そして、紅茶を注いで、去って行った。
「さて、仕事をしようか。」
エインがパン、と手を叩いた。
◆ ◆
エインが『図書館』から持ち出した書物は、太陽や月の出没時間や位置を詳細に記したカレンダーのようなものだった。
予めこれを持ち出したという事は、エインは『図書館』でのヒントを見た時点で、大凡答えを見出していた事になる。それなのに解釈を求めたのかと、ヴィヴィアンは少し不機嫌になりつつも、渡された書物を開き、今日に近い『日没と月没が近しい日』を探してページを捲った。
書物には一ページに一日、日の出と日の入り、月の出と月の入り時間が書かれ、方角と月齢が図で掲載されている。
エインが先程、月齢が〇.五から八と言っていたので、ヴィヴィアンは月齢を注視し、ページを捲った。
一七五五年四月二日、月齢二〇.五。
一七五五年四月三日、月齢二一.五。
一七五五年四月四日、月齢二二.五。
…。
一七五五年四月十一日、月齢二九.五。
一七五五年四月十二日、月齢〇.八。
…あった。
「ありました。」
ヴィヴィアンが声をかけると、エインがにこりと笑ってヴィヴィアンを見た。
「四月十二日です。月齢は、〇.八。」
「日出時間、六時二五分。月出時間、六時五八分。日没時間、一九時四一分。月没時間、二〇時三四分。
前日は、月が太陽を追い越して先に沈んでしまうし、翌日は月齢が好くない。」
書物も見ずに、エインがすらすらと言った。
「ご存知だったのですか? 答え。」
苛立ちを隠せず、ヴィヴィアンがついムッとして聞くと、エインはヴィヴィアンの内心を悟って、
「ごめんごめん。月齢までは覚えてなかったんだ。
日の出や月没時間は、大体把握をしていたんだけどね。」
と言い訳をした。が、すぐに表情を戻して顎を撫でながら、
「十二日。明々後日か…。」
と呟いた。するとそこへ、クリーブスがやって来た。
「教授。お嬢様の診察が終わりました。」
「おや。いつの間に。」
エインは大袈裟に驚いて、胡坐を掻いていた脚を解いた。
「お手隙でしたら、是非お嬢様にお声掛け下さいますと…。」
テーブルの上の書物を見たクリーブスが、恐縮して低頭姿勢で言うと、エインは一瞬ヴィヴィアンを見て、そして頷いた。
「そのつもりです。すぐに向かいますよ。」
「有難うございます。」
クリーブスが頭を下げると、エインがヴィヴィアンを見て言った。
「少し休憩をしよう。」
「はい。」
ヴィヴィアンが頷くと、エインは立ち上がって、足早に大広間を出て行った。エインの背中を見送ったクリーブスが、ヴィヴィアンを見る。
ヴィヴィアンはヴィヴィアンで、行くべきか、行かぬべきか判らず、腰を上げられないまま、クリーブスと見つめ合った。
クリーブスは、ヴィヴィアンの戸惑いを察して、にこりと笑った。
「お嬢様がお待ちです。」
「お邪魔では…?」
無表情でも気弱な心境を声で悟ったクリーブスが、ゆっくりと首を振った。
「行って差し上げて下さい。」
クリーブスの言葉に、ヴィヴィアンが重い腰を上げた。そして、すれ違いざまクリーブスに会釈をして、アンの部屋へ向かった。
ヴィヴィアンを見送ったクリーブスは、一人、ヴィヴィアンの背中を見つめ、苦笑した。
◆ ◆
『運命は、変えられない。』
誰の言葉だっただろうか。恐らく無名の、哲学者の言葉だったに違いない。
無名には無名の理由がある。この旅を始めてからすぐに、そう思ったものだ。
病弱の”姫君”の元へ向かう足取りは、重い。
何度、この廊下を歩いただろう。何度、あの塔へ入っただろう。
品の良い素振りは得意なのに、結局自分の思うがまま運命を動かそうとするあの手付きを見る度、胸が締め付けられる思いをし、そしてその都度、哀しい思いをする。
もう終わらせたい。
何度願っただろう。これで終わりにしたい、と。
何度も何度も、繰り返し願った事だ。
『運命は、変えられない。』
変えてはならぬものだと教え込まれ、忠実に従って来た。
しかし、心に嘘は吐けなかった。だから、意のままに旅をする決意をした。
どうあっても、『そうならない』運命を見つけてみせる。
◆ ◆
中央階段を上がって、長い長い廊下を行くと、突き当りでエインがこちらを見て立っていた。
待っていたのだろうか。
表情を変えぬまま、首だけを傾げると、エインはにこりと笑って、アンの部屋の扉を叩いた。
「どうぞ。」
扉の中から声がして、次いで扉が開いた。中にはメイドが一名、いるだけだった。
「お嬢様は、奥にいらっしゃいます。」
そう言って部屋の中へ招かれ、そのままベッドルームへ通された。
ベッドルームは、アンの部屋の奥の螺旋階段を上がった先にある、シャトーの屋根上にある。
オイルランプが二つだけひっそり灯るベッドルームは踏み込む事に躊躇する程に暗く、その奥にどんと置かれた天蓋付きの大きなベッドは、不釣合いなほどに煌びやかで奇妙なものに見えた。
「アン。」
エインが声をかけると、ベッドに入って沢山のピローに凭れ横になっていたアンが「来て下さいましたのね。」と返事をした。カーテンで顔が見えないが、声はいつも通りだった。
「ヴィヴィも来てますの?」
「おります。」
「お顔を見せて頂戴。」
エインではなくヴィヴィアンの顔を真っ先に見たいという言葉に、やや居心地の悪さを感じつつも、ヴィヴィアンはアンのベッドへ歩み寄った。
「ヴィヴィアンです。」
声をかけながらカーテンを退けると、暗がりで微笑むアンが、ヴィヴィアンに向かって手を差し出していた。
その様子に、ヴィヴィアンは一瞬、どきりとする。
「…アン…。」
「ヴィヴィ、手を取って下さいな。」
差し出した手を握れというアンに、ヴィヴィアンはそこはかとなく恐怖を感じた。何故かは解らない。暗いせいで、アンの手が青白く見えたからかも知れない。
ヴィヴィアンが恐る恐る手を握ると、アンがにこりと笑った。
「ご加減は、いかがですか…?」
「大丈夫、有難う。少し風邪をひいたようですのよ。ヴィヴィアン。」
そう言って、アンはヴィヴィアンをぐいと引き寄せ、顔を近づけて呟いた。
「運命には、逆らえませんのよ…。」
ヴィヴィアンははっとして、アンの顔を見た。アンの顔は思っていた以上に近くにあって、香水なのか、薔薇の香りがふわりと鼻を掠めた。ランプの明かりがヴィヴィアンによって遮られ、光の当たらない中で、きらりと光るアンの瞳が怖かった。
「……。」
突然の事に頭が真っ白になり、身動きが取れないヴィヴィアンの手を、アンがぎゅっと握り締め、すぐに離した。
束縛が解かれたように、ヴィヴィアンの体も動くようになり、ヴィヴィアンはよろよろとアンから後退りをして離れた。
エインを見ると、彼は悲しそうな顔で闇の中に立っていたが、ヴィヴィアンの様子を見、すぐに部屋から出るよう言いつけた。
ヴィヴィアンは躊躇いもなく、逃げるように部屋を出た。アンには、挨拶もしなかった。
ヴィヴィアンが去った後、エインがベッドに近付くと、アンが微笑んだ。
「どうかしまして?」
問うアンは、まるで死人のように白い顔をしていた。時折思う。既に、死んでいるのではないだろうか、と…。
「ヴィヴィに、何を?」
エインはにこやかに、穏やかに問うた。しかし、心の底では、黒いものが蠢いている。
何を、した?
「『運命は変えられない。』と、教えて差し上げました。」
アンもにこやかに、穏やかに答えた。
「アン…。」
「父の言いつけを、護って下さるのでしょう、教授? 私はそう聞いておりますのよ。」
「アン……。」
「教授。教授の居場所は、ここですのよ。
フランスですの。スコットランドではありませんの。ボルドーですのよ。エディンバラではありませんの…!
この屋敷ですのよ!」
穏やかは装いだったのか、アンの言葉が徐々に強くなって行った。
尚も言葉を発しようと、アンが息を吸い込んだのを見て、エインがアンを睨んだ。
アンにこのような顔を向けるのは、出会って初めてだった。
エインの視線に、アンの表情が強張った。
「アン。
何度、この話をしたでしょうね?
何度も、しましたね…。
私の気持ちは変わりません。
私の居場所はここではありません。
私の居場所は…。」
自分の居場所は…。元より、どこにもない。
「ここではないんですよ。」
エインの視線が、言葉とともにアンを射抜いた。アンは強張った表情のまま、所在無沙汰になっていた手を、膝の上で握り締めた。
「三日後、伯爵の遺言の謎が解けます。
そうしたら、すぐにスコットランドに帰る予定です。
あと三日、お世話になりますよ、アン。」
エインがゆっくりと言うと、アンは俯いて、こくりと小さく頷いた。
「クリーブスにも、お伝えになって下さいな…。」
「解りました。」
そう言って、エインが踵を返すと、アンが呼び止めた。
「教授。」
呼ばれて、エインは肩越しにアンに振り返った。
「…。」
「……。」
何を言おうとしたか、アンがエインの表情を見て、口を噤んでしまった。
暫し沈黙が訪れ、居た堪れない空気が二人を包む。
やがて、エインが背筋を伸ばして呟いた。
「運命は、変わるんですよ…。」
◆ ◆
『運命は、変えられない。』
誰の言葉だっただろうか。恐らく無名の、哲学者の言葉だったに違いない。
無名には無名の理由がある。この旅を始めてからすぐに、そう思ったものだ。
病弱の”姫君”の城を出、月明かりの照らす廊下で、手のひらを見つめる。
まだ、姫君の手に握られているような感覚が残っている。
冷たく、骨ばって、か細い手…。
何も手に入れられない、富だけに溢れた彼女の言葉に、何度喉元が熱くなっただろうか。
生まれた時から何もなかった自分の胸に、彼女の言葉は深く突き刺さる。
何度も何度も突き刺さった。
そろそろ、傷も癒えなくなって来た。
もう、終わらせたい…。