恋する太陽と月 3
詩原文、フランス語表記内には、PC機種依存文字があるやも知れません。
慌てて追いかけて来たヴィヴィアンから手紙を受け取って、エインはメモだけを残し、尻のポケットにしまった。
そして歩きながら、メモを眺める。
半歩下がってエインを追うヴィヴィアンが、要領を得ないという表情で自分を見ている事に気付き、エインが振り向いた。
「これね、ドイツとフランスの詩なの。」
「?」
「ドイツとフランスは、長く、いがみ合っては歩み寄るという歴史を繰り返して来た国でね。
この原文は、こうなんだ。」
そう言いながら、エインは手紙を入れたのとは別の尻のポケットから、一枚のメモを取り出し、ヴィヴィアンに手渡した。
Bonjour, ma cousine !
Bonjour, mon cousin germain !
On m'a dit que vous m'aimiez...
Ce n'est pas la vérité !
Je n'm'en soucie guère...
Je n'm'en soucie guère...
Passez par-ici... - Et moi par-là...
Au r'voir ma cousine, on s'reverra !
「CousineとCousinは、親しい男女が互いに呼びかけるときによく使われるフランス単語。
男女が言葉を掛け合いながら、歩み寄り、また遠ざかる。
その詩は、永遠にループする。」
「これが、アンの手紙にあった『不可思議な遺書』なのですか?」
ヴィヴィアンが訊ねると、エインが笑った。
「そう。
それが何を意味するかは、『図書館』に行けば解る。」
「何故、『図書館』に?」
ヴィヴィアンがさらに訊ねると、エインが立ち止まった。
大広間からエントランスを抜け、大広間の大シャトーを横目に歩いて来た。
目の前には、エインが昨夜馬車の中で教えてくれた、大シャトーの裏手にあると言っていたもう一本のシャトーが聳え立っている。
八角形の塔は屋敷の二階くらいの高さで、少し背の高い円錐の尖がり屋根が空を貫かんとばかりに付いている。
入り口は観音開きのオーク木の大きな扉で、三段ほど階段を昇る。
エインはその階段を昇り、クリーブスから渡された鍵を差し込んだ。手入れがされているのか、使っていないと言っていた割りに、鍵はすんなりと開いた。
重いのか、エインが肩を添えて扉を押し開けると、ギィと小さな音を立てて扉が開いた。
扉の隙間から、暗闇と、少しインクの香りが漂ってきた。
徐々に開いていく扉の隙間からは、しかし中の様子を伺う事は出来ない。
やがて、扉を完全に開け放ち、エインが一歩中へ入った。
扉の前は、階段の踊場のようになっていて、装飾の施されたオーク木の手摺りを境に、先は闇に覆われている。脇に階段があるので、『図書館』自体は地下になっているのだろう。
「何故、『図書館』か?」
エインがヴィヴィアンを振り返った。
そして、腰に手を当て、扉から少量の光を取り入れ、暗闇の薄まった『図書館』を眺める。
「その手紙が、ボク宛だからだよ。
ボクと伯爵は、『図書館』によって出会い、『図書館』によって交流を育んで来た。」
言いながら、エインは手摺りを掴み、地下の『図書館』を見下ろした。ヴィヴィアンも、隣に並んで見下ろす。
『図書館』は随分と下まで掘り下げた地下になっていて、薄暗闇の中見える限り、三十台近い大型の本棚が並べられていた。並べ方には規則性があるのかないのか、あるものは斜めに、あるものは扉と並行に、あるものは直角に並んでいる。
壁際にも棚が立てられているが、こちらは三台ほどを縦に積み重ね、壁に備え付けたストッパーのようなもので固定してあった。
「まず灯りを付けよう。」
そう言って、エインが扉の脇にあったオイルランプに火を点けた。
ぼぅとした灯りが、闇をもう少しだけ払拭した。
「扉を閉めてくれ。
本が傷むといけないから。」
エインは言いながら、階段を下りていった。ヴィヴィアンは言われたとおり扉を閉め、ゆっくりとエインの後を追う。
一つ踊り場を経て、辿り着いた地下から、先程までいた入り口の足場を見上げると、随分高い位置に見えた。
次いで周りを見回す。入り口の足場の下にも本棚があった。置ける限り本棚を置いたようにさえ思える。
本棚には、分厚い辞典ほどのものから、薄く小さなものまで、大小様々の書物が並べられ、置き切れなかったのか本棚の上にも積まれている。ふと足元を見ると、床にまで積まれている書籍さえある。
「さて。
まずは、このメモの謎を解き明かさなければ。
手伝っておくれ、ヴィヴィ。」
エインはそう言って、本棚の脇や壁際にあるオイルランプに灯を灯して行った。
火事を気にしたが、オイルランプの下には水淹れが置いてあり、エインはランプに灯を灯すと同時に、水淹れにも水を汲んで行っていた。
ランプの置き場所は計算されているようで、全てに火を灯すと、『図書館』は影も気にならないほど明るくなった。
明るくなって気付いたが、『図書館』には本棚のみならず、様々なオブジェが所狭しと並んでいた。
大きな地球儀のようなものから、女神のような木彫りの像、槍を持つ細身の枝のようなものまで、種類は多種多様だ。
床には真っ白なタイルが張り巡らされ、ところどころに溝が走っている。
「ちょっと根気のいる作業でね。
このメモのヒントが、この書物のどこかに隠されている筈なんだ。」
エインがヴィヴィアンに振り返って、シャツの腕を捲くった。
つまり、一冊ずつ開けて中を確認せよ、という事のようだった。
ヴィヴィアンが理解したと言う表情をすると、エインは一つ頷いて、
「済まないね。キミのペースで頼むよ。」
と言うなり、さっさと奥の本棚へ歩き出し、端から書物を五冊ほど抜いた。そして、床に座り込み、読み始めた。
なるほどと思ったヴィヴィアンは、エインが選んだ本棚の二つ左隣にある本棚へ歩み寄り、一番上の段の左端の書物を抜いた。
ここはフランスだと言うのに、書物の表紙には英語が書かれていた。隣の書物も見てみるが、やはり英語だった。隣の本棚の書物も、やはり英語だ。
どうやら、この『図書館』にある書物は全て、英語で書かれていると見ていいようだ。
ヴィヴィアンは、鼻から短く息を吐き出して、辺りを見回した。と、壁際の本棚用か、オーク木で出来た脚立を見付けたので、それを本棚の前に移動させ、登った。一番上の段に座ると、本棚の最上段の書物を取るのにちょうど好かったので、ヴィヴィアンはこれを椅子代わりに、書物を読む事にした。
とは言え、手当たり次第に読んで行くのでは、ヒントに辿り着いても見過してしまいかねない。
ヴィヴィアンが本棚越しにエインを覗くと、こちらを見ていたエインと目が合った。ヴィヴィアンは一瞬、どきりとする。
「無作為に書物を選んでも、時間がかかるばっかりだと思ったね?
キミはやっぱり優秀だな。
この『図書館』の本棚は、向いている方角によって、収納されている書物が区分けされている。
例えば、東を背にしている本棚には、お伽噺や創作物語の書物が収められている。南を背にしている本棚には、歴史研究に関する書物。
そして、このシャトーの入り口は真南から東に向かって四五度傾いている。」
意味ありげな説明をして、エインが口の端を上げた。
ヴィヴィアンは辺りを見回す。全ての本棚が、きっちり東西南北を向いている訳ではない。
だとしたら、その一見半端な向きすら、何か意味があるのだろうか。
脚立を降りて、壁際の本棚を見上げる。
積み上げた本棚すら、意味があるのだろうか。
そう思うと、自分が覚悟している以上に、途方もない作業であると認識出来た。
ふぅ、と溜め息が毀れる。
そして諦めて、再び作業へ戻った。
◆ ◆
どのくらいページを捲っただろうか。
何も見付からない書物をただ捲るだけの作業は、心が折れるにはならないまでも、徐々に杜撰になってくる。
日の光が入らないせいで、どのくらい時間が経過したのかも、把握出来い。
下を向きっぱなしの首が凝り始めた。ヴィヴィアンは背筋を伸ばし、首を回す。
エインを見ると、取り出した書物を仕舞いもせずに、黙々と読み進めている。ヴィヴィアンと違うのは、何かを探してページを捲るのではなく、書物そのものを読んでいる事だった。その割りに、目を通し終え横に積み上げた書物の山は、ヴィヴィアンよりも高い。
これだけの作業、一つでも見落とせば、厄介な事になる。
何か、他にヒントはないものか。
そう考えていると、『図書館』の扉が開いて、クリーブスが入って来た。
「お疲れ様でございます。」
クリーブスが声をかけると、エインが立ち上がった。
「やぁ。相も変わらず素晴らしい蔵書量で、早くも音を上げておりますよ。」
そう言ってエインが笑うと、クリーブスが
「実はそろそろ昼食のお時間ですので、お呼びに上がりました。」
と言った。
「おや、もうそんな時間だったのか。」
エインが驚いてポケットに入れた懐中時計を取り出した。
「本当だ。よい時間ですね。
ヴィヴィ、休もう。」
「はい。」
二人の会話を聞いて、クリーブスが扉を開け放った。
書物に日の光は良い物ではないが、風は通さねば腐ってしまう。
微妙な調整をするための行為であろう。クリーブスは、二人が『図書館』から出るなり、素早く扉を閉めた。
「参りましょう。
お嬢様も、今日はご気分が良いので、同席いたします。
もうお席に着いておられますよ。」
エインとヴィヴィアンを先導しながら、クリーブスが言った。
「そうですか。
余り無理をしてはいけないが、無理をしないための無理も良くないですからね。
それに、食事は大勢の方が楽しい。」
そう言いながら、通りがけた大シャトーの大広間を覗くと、奥のソファに腰掛けたアンが、レース編みをしていた手を止めて、手を振って来た。
その手は、エインにのみ振られているようで、ヴィヴィアンは気付かない振りをして、畑の方へと目を向けた。
空はすっかり青々と染まって、太陽はちょうど真上に昇っている。
空の青は濃く、雲一つないが、遠くの方で雨雲がくすぶっているのが見えた。
畑と、小道と、小さな森と、遠くに見える低い山と丘、集落以外に、何も見えない景色は広大すぎて、解放されすぎてしまわないかと、ヴィヴィアンは少し不安になった。
「ヴィヴィ?」
不意に呼ばれ、振り向くと、エインがエントランスの前で立ち止まって、ヴィヴィアンを見ていた。いつの間にか、ヴィヴィアンの足は止まっていて、ずっと景色を眺めていたようだ。その様子を、エインは心配したのだろう。
無言のまま、振り向くだけで動きもしないヴィヴィアンに、エインが歩み寄った。
「景色に飲まれないように注意しなさい。
ここは余りに広すぎて、ボクもたまに『行き過ぎて』しまう。だから、ここは好きだけど、苦手な場所でもあってね…。
早く仕事を終えて、スコットランドに帰ろう。」
エインがそう言って、笑った。そして、すぐに踵を返す。
お戻りになって、よいのですか…?
ヴィヴィアンは、エントランスへ歩いて行くエインの背中に問いかけた。
アンの傍にいる事を望まれているのではないのか。
ふと、馬車の中で聞いた言葉を思い出す。
『アンはボクの妻になるかも知れなかった女性でね。』
『生かしたい。死なせたくない人がいる。
その人を生かすために、死なせないために、必要な事を探している。』
『ボクがこの世で一番愛している人。』
断片的にしか情報を手に出来ていない。エインの事を知らなければ、守れないかも知れない。
だが、根堀葉堀聞く事は躊躇われる。
もどかしさを拭いたくて、ヴィヴィアンはエインに走り寄った。
エントランスを抜け、大広間へ戻ると、今度はアンがエインに走り寄った。ヴィヴィアンは反射的に、エインから身を離す。
「おかえりなさい。教授、ヴィヴィ。
すぐ食事の用意をさせますわ。」
そう言って、アンがエインの腕を取り、クリーブスを呼び付けた。呼ばれたクリーブスは、一礼をして奥へと消えて行った。
「朝はどの席にお着きになりましたの?
きっと、ヴィヴィはその席ですのね?」
アンはエインの腕を引きながらヴィヴィアンを見、今朝ヴィヴィアンが座っていた席とは違う席を指差した。今朝と同様にエインの隣ではあるが、反対隣だった。言動から察するに、今朝ヴィヴィアンが座った席は、アンの特等席なのだろう。
何となしにこのやり取りで、アンの性格を見た様な気がして、ヴィヴィアンは心の底に黒いものが溜まるのを感じた。
「教授はいつもの席ですわよ。
わたくしも。
ヴィヴィ、朝食はいかがでした? お口に合いまして?」
席に着くなり、アンに訊ねられ、ヴィヴィアンは一瞬たじろぎつつも、冷静に答えた。
「はい。
とても素晴らしいお食事を頂きました。
有難うございます。」
アンはヴィヴィアンの返事に満足したのか、にこりと笑った。
今朝より少しだけ、血色が良くなっていた。
「良かったですわ。
スコットランドの方は、時々こちらのお料理の味が合わないようなのです。
ワインの違いのせいですかしら?
教授は好き嫌いがないので、困りませんけど。」
そう言って、アンはエインを見て笑った。
◆ ◆
当たり障りのない世間話や、アンの身の上話、積もり積もっている様子の亡きベルトワーズ伯爵の思い出話をしながらの昼食は、案外あっという間に終わってしまった。
料理は相変わらず軽めに仕上げられていたが、朝に比べると若干量が増えていた。それでも平らげる事が出来たのは、腹が減っているからというより、シェフの気遣いのお蔭と言う方が相応しそうだった。
アンと別れ、エインとヴィヴィアンは再び『図書館』へと戻った。
午前中と変わらない作業を再開する。
そして、何も発見出来ず、時間だけが過ぎてゆく。
ややぼうっとして来た頭に空気を入れるべく、ヴィヴィアンは深呼吸をした。
本棚の三分の一まで読み進めたが、手元にある結果はその事実だけだ。
もう一度、今度は小さく息を吐いて、読み終えた本を横に積む。初めの内はいちいち戻していた本も、いつの間にか横に積み上げるようになってしまった。
「息抜きをして来ていいよ。」
エインが、本棚の影からヴィヴィアンに声をかけた。
「しかし…。」
ヴィヴィアンが言い澱むと、エインはひょいと顔を出して苦笑した。
「じゃあ、一緒に休憩しよう。」
一緒に、と言われると断り辛く、それならばとヴィヴィアンは頷いた。
立ち上がり、少しスカートを叩いていると、オイルランプを持ってエインが歩み寄って来た。
ヴィヴィアンが顔を上げると、エインは一つ頷いて、入り口へと歩いて行く。エインの後を追いながら、改めて本棚を見回す。
本当に、多種多様な書物が並び置かれている。
「蔵書は、ベルトワーズ伯爵がお集めになられたのですか?」
ヴィヴィアンが問うと、エインが振り向きもせず答えた。
「うん、大体はね。
あとは物好きな友人からの贈り物だったり、元々屋敷にあったものだったり。
屋敷の中にも書物はあるけど、あまり貴重ではないものになる。」
言いながら、階段を昇り、エインが入り口の扉を開けた。
外へ出ると、空の色は少し薄まっていて、西の方は早くもピンク色に変わっていた。
エインは『図書館』のシャトーを北側に周り込むように歩いて行った。
ついて行くと、シャトーに隠れて見えなかった景色が広がる。
屋敷を囲う白い柵の向こうには、正面と同じように田畑が広がり小さな森が点在している。どこを見ても田畑と森と、遠く低い山々だ。
「寂しいところだと思わないか?」
エインが柵に手をついて、言った。
ヴィヴィアンは隣に並んで、もう一度ぐるりと辺りを見回す。
確かに、同じものしか見えないという意味では、寂しいかもしれない。ヴィヴィアンが無言でいると、エインは小さく鼻で笑って、続けた。
「ここへ初めて来た時、伯爵はボクの事を知っていると言って、こう続けたんだ。
『いずれこの書物は君のものになる。
そういう決まりなんだ。』と。」
「決まり?」
「そう、決まりらしいんだ。
そのうち、アンとの婚姻の話が持ち上がった。
乗り気ではないボクに、伯爵はまた『これを決まりだと思って、受け入れた方がいい』と言った。
それ以来、この場所は、素晴らしいと思う反面、寂しく嫌な場所だとも思う。
来るのはいいが、すぐ帰りたい。
でも…。」
エインが肩を竦めた。
「帰るには、秘密を解かなければ。」
「必ず、解かなければならないのですね?」
「うん。」
ヴィヴィアンの問いに、短く答え切るエインを、ヴィヴィアンが見据えた。
「それも決まりですか?」
ヴィヴィアンを、エインが真っ直ぐ見詰める。
そして、暫し無言になったあと、微笑んだ。
「決まりから逃れる為に必要なものを、手に入れる為、だよ。」
その答えに、ヴィヴィアンが眉を顰めると、エインは一層優しく微笑んで、徐々にピンク色からオレンジ色に染まって行く西の空を眺め、溜息を吐いた。
「決まりに従ったら、ボクは何度も、この空を眺めなければならなくなるからね…。」
ヴィヴィアンがこの言葉の、真の意味を理解するのは、ずっと後の事になるが、今この瞬間はただ、アンの婚姻を拒否した事、ここに暮らす事への抵抗を意味するのだと、理解した。
◆ ◆
休憩を挟んで『図書館』へ戻って、しかしすぐにクリーブスが、夕食だと迎えに来た。
今日の作業はこれで終わり、明日続きをやる事にし、オイルランプの炎を消して、エインとヴィヴィアンは『図書館』を後にした。
この辺りは野犬もいなければ、盗賊といった輩もいないが、念のために鍵を掛ける。
久しぶりに外気を吸い込んだ『図書館』は、一晩という短い時間だが、また眠りに就く。
大広間に戻ると、アンが出迎えた。
「お疲れでしょう。すぐお食事にしましょうね。」
アンの言葉を合図に、クリーブスとメイドたちが夕食を運び込み、三人の前に並べてゆく。
「だいぶお腹も食べ物に慣れて来ましたでしょう?
今日はボルドーで牛の品評会がありましたの。うちの雌牛も何頭か出したのですけど、その序でに、従者がとてもよい仔羊を仕入れましたのよ。」
アンの説明に合わせるように、メイドがエインとヴィヴィアンの目の前に、メインディッシュを並べた。メインディッシュは仔羊のローストだ。
朝食にも出たラディッシュとスライスオニオン、何種類かのハーブが飾り付けられ、盛られている。
脇にはコンソメスープと柔らかく焼いたミルクパン、グリーンリーフなどの葉野菜を盛りつけたサラダに、赤ワインが並ぶ。
「さぁ、召し上がってくださいな。」
ヴィヴィアンを見てにこやかに言うアンの頬は、昼よりさらに赤みを帯びていた。
かなり体調がよいのか、それとも既にワインでも口にしたのか。
気にはなったが、エインが「頂こう。」と食事を始めたので、ヴィヴィアンも食事を始めた。
昼とは違い、黙々と食事をする。
ナイフやフォークが皿を擦る音を聞きながら、野菜や肉を口に運ぶ。最初はぎこちないが、すぐに慣れて、味を楽しむようになった。
仔羊の肉は、アンが言うとおり、とても柔らかく、臭みもなく、旨かった。
「ヴィヴィは、フランスは初めてですの?」
アンに問われ、ヴィヴィアンが小さな口をナフキンで拭く。
「はい。イギリスから出た事がありません。」
「まぁ! ではこちらへの旅はかなりの冒険でしたのね。
今日はお疲れ? お疲れでなければ、私の部屋にいらっしゃいません?
少しお話がしてみたいのです。」
そう言いながら、アンがエインをちらりと見た。視線の合ったエインが、首を傾げると、アンが悪戯気味に「出来れば、女性同士で。」と言った。
エインが肩を竦める。
「どうぞ、お構いなく。
ボクは部屋で読書をする事にします。」
「そうして下さいな。
ね、ヴィヴィアン、いらっしゃるわね?」
ヴィヴィアンを覗き込むアンの瞳は、キラキラと輝いていた。純真無垢で、罪悪感など何もない。そんな瞳だ。
ヴィヴィアンは居心地の悪さを覚えながらも、「是非。」と答えて頷いた。
そのヴィヴィアンの反応に満足したのか、再び無言になったアンが食事を再開した。ヴィヴィアンも途中まで切り進めた肉に、再びナイフを入れ、口へ運ぶ。
しかし、先ほどまで旨いと思っていた肉が、突然不味くなった。
だが残す訳にも行かず、ヴィヴィアンは無理矢理口に運んだ。時折エインを見ると、エインの食事のスピードも落ちていた。エインを見つめるヴィヴィアンの視線に気づいたエインが、ヴィヴィアンにそっと苦笑する。
「ヴィヴィ。体調が悪いなら、無理をしない方がいい。
シェフの方には申し訳ないけれど、無理に食べて明日に障るよりいいからね。」
エインの言葉に、アンが顔を上げた。
「無理をする必要はないですわよ、ヴィヴィ。」
「すみません。とても素敵なお料理なのですけど…。」
俯くヴィヴィアンに、アンが微笑んだ。
「気にする必要はありませんのよ。シェフも承知の上ですわ。
お口に合わなかった訳ではない事で、十分ですのよ。」
ヴィヴィアンは、一気に罪悪感で胸が一杯になった。
目の前の真っ白なアンと、自分が抱く感情の処理に手間取っていた。
エインはそれを察知しているようで、ヴィヴィアンをじっと見つめている。
ヴィヴィアンは何とか気丈に振舞おうと、手にしていたナイフとフォークをゆっくり下ろしたが、手が震えて皿を鳴らしてしまった。それを見たエインが、立ち上がった。
「ヴィヴィ。来なさい。
アン、よいですね?」
その口調はどちらにも有無を言わせぬ強い口調で、アンも思わず驚いて無言で頷くしかなかった。
エインに誘導され、ヴィヴィアンは部屋に戻った。
ヴィヴィアンがベッドに座り込むと、エインは後ろ手にドアを閉め、ついでに鍵も掛けた。
「ヴィヴィ。」
名だけ呼んで、見上げるヴィヴィアンを直視する。そして、ヴィヴィアンが溜息を吐きながら俯いた。
「申し訳ありません、教授…。
急に、落ち着かなくなってしまって…。」
アンを理由に、とは言えず、そこで言葉を切ったヴィヴィアンに、エインが笑った。
「アンは、子供過ぎるんだ。ボクでも時折怖くなる。」
「…。」
言い返せず、ヴィヴィアンは無言になった。
未だ震える指先を、自分で握っては擦る。そういえば、馬車でもこんな事をした。
「申し訳ありません…。」
謝罪の言葉しか出ないヴィヴィアンの隣に、エインが座って、
「明日には終わるさ。
早くスコットランドに帰ろう。」
と言うと、すぐに立ち上がって静かに部屋を出て行った。
残されたヴィヴィアンは、唇をぎゅっと噛み、そのままベッドに倒れ込んだ。