恋する太陽と月 1
夜中にポワティエを超え、何度か馬を休ませた以外は、ほぼ不休でアングレームとコニャックの中間地点を通る道をひた走る。
馬を休ませるたび、各人も凝り固まった体を解すため、馬車から降りた。
ヴィヴィアンも流石に疲労し、やや気も回らなくなっていた。が、エインやトンプスン、ウィンストンに関しては特別気を遣う必要もなく、何よりこの馬車旅では、メイドとしての仕事も少ない。
ポワティエからボルドーまでは元から勾配の少ない地域ではあるが、馬の足のため、なるべく起伏も少なく、土質の柔らかい、若しくは草の茂る平坦な道を選んで進む。だが、この辺りは古くから田畑の多い地域で、土も緑も豊かで柔らかいので、殆ど予定のコースを外れる事無く、進む事が出来た。
とは言えど、やはり道程は遠く長く、未だボルドー近郊のコミューンすら見えぬ辺りだと言うのに、すっかり夜を迎えてしまった。
「この辺りの風景は、夕方が一番綺麗なんだけどね。
ベルトワーズ邸の辺りと似ているから、そこでゆっくり見るといい。
因みに、畑の多くは葡萄畑だが、ソーセージに使うハーブの栽培も盛んだよ。
ボルドーを越えた先、大西洋の内海アルカションで獲れる牡蠣もなかなかに旨い。
ボルドーの街から海側は風が強いから、農園より酪農地帯という感じになっている。」
真っ暗な風景の解説を、形式とばかりに簡素にまとめてエインが簡単に話した。
オルレアンを出て以降は、ヴィヴィアンが寝てしまっていたり、エインも本に没頭してしまっていた事もあり、エインの解説を聞くのも久しぶりな気がする。
「ベルトワーズ伯爵のお屋敷は、ボルドー市内を越えた先なのですか?」
「いや。
ボルドー市手前の森を右側へ、ジロンド川に沿うように少し行ったところだね。
残念ながら海は近くないが、お屋敷の川辺の庭は美しいよ。
ああ、そうだ。ボルドーと言えばカヌレだね。
アンのカヌレは、焼き菓子の名人以上と言っても過言ではないくらいに素晴らしい。きっと美味しいカヌレを用意してくれている事だろう。」
エインはそう言って、にこにこと笑った。
ヴィヴィアンはその様子に、あの一言を思い出し、また指先が冷たくなるのを感じた。
嫉妬とも、憂いとも違う、何か底知れぬ不安のようなものが、胸の中を蠢くのを感じる。しかし、この感情がなんと表現されるのか、ヴィヴィアンには判らなかった。
一方、押し黙ったままのヴィヴィアンを、エインは疲れが溜まっているのだと誤解をして、苦笑した。
「到着まで、あと数時間。
疲れていたら、休んでいいよ。夜中のうちには着くが、大分明け方に近くなっているだろうから。」
「…はい…。
申し訳ありません…。」
「謝る必要はない。寧ろ、謝らなければならないのはボクの方だ。
急な長旅をさせてしまって、申し訳なかったね。」
「いえ…。」
詫びるエインに、ヴィヴィアンが訂正をしようとすると、前方の小窓が叩かれた。
「教授。」
トンプスンだった。
「はいはーい。」
気楽に返事をして、エインが小窓を開ける。
「どうかしましたか?」
「はい、そろそろボルドー手前の森が見える頃ですので、お知らせを。」
「おや、もうそんなところまで来ていたのか。
有難う。」
そう言い、エインがヴィヴィアンを振り返って、指で小窓を指した。
ヴィヴィアンが指示通り小窓を開け、前方を見ると、暗がりの中に一層闇に沈む区域があった。だがその向こうには、ぼんやりと光が浮かぶ。ボルドーの街の灯りだろう。
「あれがボルドー手前の森だね。森と言っても小さなコミューンは沢山あるが。
ボルドーの説明をしよう。
ボルドーはケルト系ガリア人によって、今からニ〇〇〇年近くも前に創設された街だ。
場所柄、創設された当初から活発に船の往来する港町で、ローマに占領された事を期に、貿易、交易の中心地ともなった。
古来からワイン生産が盛んで、土も豊かだから、ゴート人やバイキングなど、異国人の侵略をよく受けた場所だが、先のヴァロワ朝フランス王国とランカスター朝イングランド王国の戦いでイングランドが破れ、フランスに奪還された。
しかし、イングランド支配下で自治などある程度を享受していたこの街は、それ以降から八十年ほど前まで、フランスに反逆していた。今でもちらほらと、フランス自体を嫌っている人もいるが、逆にイングランドに親しみを持ってくれているので、市民とは付き合い易いと思うよ。
街を二分するガロンヌ川は流れが速く幅も広いので、渡るには苦労するんだ。ベルトワーズ邸は、川のこちら側なので渡らないが。
街と言っても、田畑の多いところだが、それでもパリに匹敵する程の大きな街だから、夜でも灯りが見える。よい道しるべだ。」
ヴィヴィアンの後ろから窓を覗きこんで、エインが言った。
「モンタンドルを過ぎたところか。
森を曲がったら馬の速度も少し落とすだろうから、ここからだと、伯爵邸までは六時間と言ったところかな。」
エインが、言いながら座り直した。そして少しだけだらしなく姿勢を崩して、「ボクは寝るけど」と言って笑ったので、ヴィヴィアンもそれに倣う事にした。
「私も、休みます。」
「そうしなさい。」
エインはもう一度ヴィヴィアンに微笑んで、前方の小窓を開けトンプスンに後を託すと、早々眠ってしまった。
ヴィヴィアンは、エインの寝の早さに呆れつつ、小窓の外を再度眺めた。暫し夜風に当たりながら、考え事をする。
先程の気持ちはすっかり消え、しかし仄かに残っている不安の残骸のようなものが、相変わらず指先の血の気を引かせていた。
何かに脅えているようだと、思った。何に脅えているのだろう…。
思いを廻らすが、心当たりなどある筈もなかった。
夜風に当たると、思考のみならず、心まで冷めていく様だった。海が近いからだろうか、心持ち、風は冷たい。そして土と樹木の匂いに混じって、微かに、船上で嗅いだ潮の香りもする。
指先を擦る。先程より、若干血が通ったようだ。
そう思うと、急に心が穏やかになった。
ヴィヴィアンは小窓を閉め、目を閉じて椅子に凭れた。これまで苦痛にすら感じていた馬車の揺れも、眠るには心地好いと気付く。
視界を遮り、暗闇に沈み、カタコトと小走りする馬車の揺れと馬の足音に耳を傾けると、どんどん思考が研ぎ澄まされていく。まるで、脳に記憶されている情報が、次々繋がり、全ての事を理解出来て行くような感覚だ。そして、回路が構築されていく毎に、心の底から光が溢れ、道が出来ていく。
そうか。と、ヴィヴィアンは目を開けた。
ゆっくり、隣のエインを見る。すやすやと、歳にそぐわぬ無垢な寝顔で、規則正しい寝息を立てるエインは、何者であるかなど関係なく、護るべきものに思う。
ヴィヴィアンは静かに、エインに頷き、小さく溜め息を吐いて、再び小窓を開けた。
先程より、ボルドーの街の灯りは、はっきり感じられる。着々と、目的地に近付いている。
目的を果たそう。そのために、ここにいる。
決意をして暫し、無心で外を眺める。
やがて、大きな影であった森を森と認識出来る位置まで来たとき、馬車が右へと曲がった。
左に森を臨み、すっかり隠れてしまったボルドーの街の方角の空を見上げる。
よくよく見ると、空は濃紺で、やや欠けた月が浮かんでいる。あと数日すれば闇に溶けてしまう。
月の脇には小さく強い光を放つ星が散る。
ロンドンにいる時より、ずっと星が綺麗に見えた。
空気が澄んでいるのと、辺りが暗いせいではあろうが、今のヴィヴィアンには、違う理由のように思える。
暫くは、この星空の下で過ごせる。
そう思うと、無表情の下で、心が躍った。
◆ ◆
大分、月が東へ傾き、空が薄白んだ頃、隣で眠っていたエインが目を覚ました。
エインは体いっぱいに伸びをしながら、ヴィヴィアンを見た。
「おはよう。
もうベルトワーズ家の敷地だね。
屋敷もそろそろ見えるよ。」
そう言いながら小窓を開け、外を見るなり、ヴィヴィアンを手招きした。
エインに近付き、ヴィヴィアンも小窓を覗くと、ゆっくりとカーブする道の向こうにポプラの並木が見えた。その並木のさらに向こうに、暗闇の中、さらに翳る建物が見えた。
西側に大きな背の高いシャトーが聳え、東側には細く背も低いプチシャトーを並べた母屋という姿の屋敷だ。
「あれが、ベルトワーズ邸。
グランシャトーで見えないけれど、シャトーの裏手に少し太いプチシャトーが建っていて、そこが書庫になっている。ボクが使わせて貰っていたところだよ。」
指を指しながら、エインが説明した。その後ろで、ヴィヴィアンがじっと屋敷を見つめている。
「シャンティイーを模して作られた、と仰いましたね。」
「うん。
シャンティイーも、建物の方角は違うけれど、あの形にそっくりだよ。
もう少し大きいけれどね。」
そこまで聞いて、ヴィヴィアンが座り直した。
エインも小窓を閉め、前方の小窓を開けてトンプスンとウィリアムズを呼ぶ。
「長旅、お疲れ様でした。」
言われて、トンプスンとウィリアムズは振り返り、申し訳なさそうに首を振った。
「教授も、お疲れ様でございました。
もう少し早く到着出来れば、お休みになる時間もありましたでしょうに、申し訳ありません。」
「いやいや。
寄り道を頼んだのはボクだから、気にしないで下さい。
暫く滞在するので、数日間、引き続きよろしく。」
「承知致しました。御用があれば何なりと。」
会話の最中も、馬車は屋敷へ走り、一息ついてヴィヴィアンが小窓を開けた頃には、遠目に見えたポプラ並木を潜っているところだった。
そろそろ花の咲く季節なので、葉もしっかりと付いているのが、暗闇でもよくわかる。姿も冬の時のそれと違って、若干ボリュームがある。
辺りを見回すと、広大な敷地に小さな森がいくつかと、葡萄畑と思しき畑の他、藁を積み上げて整備中の区画に、厩舎やサイロ、大きな納屋と言った建物が点々と建っている。
「ここは、かなり広いよ。数日探検しても、回り切れないくらいだ。
小さな湖のある森もあるから、息抜きに回ろう。」
エインがにっこりと笑うので、ヴィヴィアンは素直に頷いた。
やがて、馬車の速度が落ち、止まった。
馬車の外で、トンプスンとウィリアムズが下りる音がし、次いで、エイン側の扉が開いた。
「到着致しました。」
恭しく降車を促す二人に、エインは一つ頷いて馬車を降りると、ヴィヴィアンに手を差し出した。
差し出された手のひらに片手を乗せ、ヴィヴィアンはドレスを少したくし上げて、クーペの脇に添えられた足場に慎重に足を置く。暗く段差が少しだけ怖かったので、足が土を感じた瞬間に、ヴィヴィアンは勢いよく降りた。
そんなヴィヴィアンを、エインは手を引いて馬車から離した。ヴィヴィアンの後ろでは馬車の荷台からウィリアムズがエインとヴィヴィアンのカバンを取り出した。
「お運びします。」
そう言いながら歩き出したウィリアムズの向こうで、屋敷の灯りが灯った。灯りはエントランスと三階の一部に灯っている。恐らく出迎えのためと、三階の灯りはエインとヴィヴィアンの寝室になる部屋だろう。
屋敷からウィリアムズに視線を戻すと、不意にエントランスの扉が開いた。
大きな三つ又の蝋燭立てを片手に持った執事と思しき男性に続き、女性の姿が見えた。肩に大袈裟なほどに大きなストールを巻き、白くシンプルなレース使いの寝着を身に付けた女性は、エインを見るなり、エインに向かって走り出した。
「お嬢様!」
声を殺しながらも叫び嗜める執事にも構わず、”お嬢様”と呼ばれた女性は、エインに駆け寄り腕を掴んだ。
「エイン! お待ちしておりましたのよ!」
「おはよう、アン。遅くなって、申し訳ありません。」
興奮する女性を、エインが”アン”と呼んだ。
アン・ベルトワーズ。ベルトワーズ伯爵の一人娘で、エインに手紙を出した本人だった。
「アン、夜風は体に悪いですよ。」
エインが言うと、執事も頷いた。
「お嬢様、お体に障ります。」
言われて、アンが俯いた。が、すぐにエインの後ろのヴィヴィアンに気付く。
「…どなたですの?」
声には一つの嫌味もなく、純粋に、誰かと問うていた。
「アン。また昼にでもゆっくり紹介しますが、彼女はヴィヴィアン。ボクの助手です。」
「助手の方ですの。
アン・ベルトワーズです。よろしくお願いいたします。」
ストールに隠した手を、アンが差し出した。その手は暗闇の中で、白々と光るほどに白く、細い。
ヴィヴィアンは、恐る恐る握手した。
「冷えますわね。中へ入りましょうか。
お部屋の用意は出来ておりますのよ。
夜明けまでまだ少し時間はありますから、休んでくださいな。」
アンはそう言って微笑むと、さっさと屋敷に入ってしまった。
残されたエインとヴィヴィアンを、執事が誘導する。中に入った頃には、既にアンの姿は見えなかった。
特に不快という顔をしていた訳ではないが、執事がヴィヴィアンに言った。
「申し訳ありません。
お嬢様はお体が弱く、睡眠不足も体調に影響いたします故、早々に自室へ失礼させていただきました。」
「お気遣いなく。大変ですね。」
ヴィヴィアンが言うと、執事もアンと同じように微笑んだ。
「ここのところは、アンダーソン教授がお見えになるので、元気にしておられたのですが、昨日から咳をなさるようになりまして…。」
呼ばれたエインは、苦笑した。
「無理をしたのでしょう。暫くはお邪魔しますから、慌てずとも良かったのに。」
「そうですね。
ああ、ウィンストン。そこにある箱を持てますか?」
エントランスを過ぎ、屋敷の中央にある大階段を昇ったところで執事に言われ、屋敷に入ってからエインとヴィヴィアンの後ろを歩いていたウィンストンが、執事の指差す箱を持ち上げた。カバンは、付き添いのメイドたちが持っている。
そのまま三階へ上がると、左右に同じ長さだけ、廊下が伸びていた。窓と扉が向かい合って並ぶ廊下の幅は、人三人分と言ったところか。部屋は、屋敷の南側に並んでいる。
右手の廊下の突き当たりになる、プチシャトーの一室が、アンの自室だという。東側の、日当たりと眺めの良い部屋だと、エインが言った。
エインとヴィヴィアンは、東側のエリアにある一室を、それぞれ宛がわれた。
客人と言えど、メイドであるには変わらず、ヴィヴィアンは従者たちと同じ部屋にして欲しいと頼んだが、それはエインによって拒絶された。執事も同様に、首を横に振った。
エインの部屋とヴィヴィアンの部屋は隣同士で、執事曰く、部屋の中で二部屋は繋がっているという事だった。
荷物を持つメイドを連れ、部屋に入る。
南向きの部屋には、天井まである大きな窓があり、そこからテラスへ出る事が出来た。執事の言うとおり、窓の脇には、隣のエインの部屋に通じていると思われる扉があり、申し訳程度に窓のカーテンで隠されていた。
予想以上に広い部屋を与えられてしまい、少々途方に暮れていたヴィヴィアンに、メイドが声をかけた。
「お荷物は、こちらに置かせて頂きます。」
言いながら、メイドがクローゼットの前にカバンを置いた。
「有難うございます。」
ヴィヴィアンが礼を言うと、メイドは深々と頭を下げた。
「御用の折は、執事のクリーブスか、私たちにお声がけ下さい。」
そして、メイドは出て行った。
独りになったヴィヴィアンは、窓に歩み寄ると、錠を外してそっと窓を開けた。ふわりと冷たい風が吹き込む。
目の前には穏やかな田園風景が広がり、どことなくエインの屋敷から見た風景に似ていた。
「風邪をひくよ。」
突然声をかけられた。振り向くと、エインがテラスに出ていた。
「海に近いから、風もイングランドとは違う。
それに夜明け前の風は、考えているよりずっと体を冷やしてしまうものだよ。」
「はい。」
従おうと窓を閉めかけて、ヴィヴィアンはエインを見、
「教授は、お休みにならないのですか?」
と言った。エインは「うん? ボク?」と驚いた後、悪戯っぽく笑って、
「ボクは、ヴィヴィが寝たのを確認したら寝る。」
と答えた。
それを聞いたヴィヴィアンは、何故かとても恥ずかしくなって、無表情を作ったまま一礼し、窓を閉めた。
そしてカーテンを閉めると、闇の中で寝着に着替え、ベッドに横になった。
道中、ベッドで休む事はあったが、そのどれとも違うこの屋敷のベッドは、ヴィヴィアンの睡魔をすぐに呼び起こしてくれた。
久しぶりに、心地の良い夢が見られそうだった。