プロフェッサー 9
カタカタと小刻みな振動で目が醒めた。
目を開けると、あらゆるものが真っ赤に染まっている。
驚いて目を開けると、声をかけられた。
「やぁ、お目覚めかい?」
振り向くと、ヴィヴィアンに、にこにこと笑うエインがいた。
ヴィヴィアンは改めて辺りを見回す。
真っ赤な風景などなく、揺れる薄暗いクーペの、見慣れた内部が見えるだけだ。
だが、脇の小窓を覗くと、夕日によって真っ赤に染め上げられた田園風景が広がっていた。
いつの間にか雨雲は晴れ上がり、雲の欠片も残っていない空は、端を黒くしながらオレンジ色に燃えていた。
そこで初めて、夕方まで眠り込んでしまったのだと気付いた。
それほど疲れているという自覚はなかったが、夢も見ずに眠っていたと言う事は、思いの外に疲れていたのだろう。
「すみません、長々と…。」
ヴィヴィアンが詫びると、エインは一層にこにことした。
「いいよ。まだ眠ければ寝てもいいけど、夜眠れないかも知れない。
もうトゥールを過ぎて、ポワティエまであと一息というところだが、ポワティエで止まらず、そのままボルドーまで走ってしまおうかと思ってる。
夜は見えるものがないから、つまらないかも知れないし、我慢して起きていて、夜また眠るのをお薦めするけど。」
「…そうですね。
暫く起きている事にします。」
「うん。」
ヴィヴィアンの言葉にエインは頷いて、手に持っていた本を閉じた。もう何冊目なのだろう。もしかすると、鞄の中は本しか入っていないのかも知れない。
「読書、お好きなのですね。」
「うん。
サンアッチ教授から聞いてなかったかい?」
「お聞きしてはおりましたが、それ以上でしたので…。」
ヴィヴィアンが言うと、エインがくすくすと笑った。そして、少し開けた小窓から外を見、頬杖を突いた。外側に開く小窓でも、中途半端な開き方では、ヴィヴィアンのいる場所から外を見る事が出来ない。細い隙間からは、ただ何とも判らぬ物が次々流れる景色が見える。
「知らない事があると、不安でね…。
何でも知りたい。
知らないと…。」
そう言いかけて、エインは口を閉ざしてしまった。視線は遠い風景を見つめ、少しも動かなかった。
「…?」
ヴィヴィアンが続きを待って黙っていると、エインは自嘲気味にふと笑い、そして「ごめん」と呟いた。
「助けたい人がいる。
助けたい…ではないな。生かしたい。死なせたくない人がいる。
その人を生かすために、死なせないために、必要な事を探している。」
その言葉に、ヴィヴィアンの鼓動が少しだけ早くなった。
次いで体の末端の血の気が引き、冷たくなってしまった。
ぎゅっと手を握ると、拳が震えた。
何に緊張したのか判らなかった。
だが、ヴィヴィアンは今、緊張している。
口元さえ震えているのが判り、それを悟られぬよう、ゆっくりと声を出す。しかし気をつけても、声は震えてしまった。
「…どのような…。」
言葉すら、途中で途切れてしまう。
そんなヴィヴィアンに一瞬驚いて振り向いたエインは、尚表情だけは平静を保とうとするヴィヴィアンに、優しく笑って頷いた。
「僕がこの世で一番愛している人。」
その無邪気な言葉と笑顔を受け、ヴィヴィアンの中に、複雑な想いが溢れた。そして直後、大きな動揺で胸がいっぱいになった。
しかし、こんなに感情が震えているというのに、今度は先程とは一転して、表情が動かなかった。
戸惑い、言葉すら出ないので、エインをじっと見つめる風になった。
当のエインは、ヴィヴィアンの気など気付かぬのだろう、微笑んだまま、ヴィヴィアンを見つめていた。
「似合わないと思うかい?」
「…いえ…。」
訊ねられ、応える声を、締め付けられる喉元から無理矢理出した。
「ご病気か、何かなのですか…?」
「うん?
いや、病気…というのかな…。
ちょっと、複雑な事情があってね…。」
そういい、エインがヴィヴィアンから視線を外した。
あっという間に太陽が沈み、馬車の中はすっかり暗い。
その暗がりの中で、エインの横顔は少し切なそうに見えた。
「方法が、見当たらないんだ…。」
そう言ったきり、エインは無言になった。
ヴィヴィアンはエインの横顔を、ただじっと見つめた。動揺はなかなか治まらず、しかし妙に思考は冷静だった。
出発の時、暇潰しにと手渡された本が脳裏を過ぎる。
シャングリ・ラだったか。
思い出し、一瞬後、ヴィヴィアンは目を見開いた。
何故、エインがあのる本を持っているのだ…?
そんな、そんな筈はなかった。動揺が、さらに増した。
エインがそんな物を持っている筈がないのだ。あってはならない。
何故なら…。
ヴィヴィアンは冷静に動いていた思考が、動揺によってバラバラに散らばって行くのを感じた。
必死に繋ぎとめ、理論を組み立てようとするが、ままならない。
内心を悟られぬよう、ヴィヴィアンは表情を固め、下唇を噛んだ。
教授…。
あなたも、何かご存知なのですか…?