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そうして夏休み。受験生らにとっては、勝負の夏であった。
奴井の通っている塾でも夏期講習が開かれ、連日見知らぬ学生で室内は賑わっていた。
「どうしたんだい、奴井君?」
塾講師は右手で頭を抑え、眉間に皺を寄せる奴井を心配した。
「片頭痛なんですかね? 最近、たまにあるですよ」
「大丈夫かい? あんまり放置しちゃだめだよ?」
苦しそうに笑った奴井はバッグから取り出した市販の鎮痛薬を飲み込んだ。
病院にはなんとなく行きたくないな……
奴井の神妙な面持ちに、塾講師は教本を閉じる。
「体調も悪そうだし、ちょっと早いけど今日はここまでしようか」
「い、いえ、大丈夫ですよ。続けましょう?」
「駄目だ。他の子は必要かもしれないが、君が一番気にするべきなのは学力よりも体調の方だよ。午後からは安静にしてなさい」
塾講師は優しく微笑むと、個室を出て行ってしまった。
ここにいないと御門野さんがいつ来るのか分からないだろう……
奴井は頭を掻いて溜息をつくと、のそのそと個室を後にした。
しかし、その瞬間は突然訪れる。
「あ」
「……やぁ、奇遇だね。御門野さん」
奴井は平静を装いつつ、御門野の後方を確認する。
「通ってることは人伝で知ってたけど…もしかして今から?」
「う、ううん。バイトがあるから、午前中だけ…」
御門野は口ごもりながら、奴井の顔色を窺っている。
口下手になって、顔を直視できない。
なかなかいい感じじゃないか!
奴井は浮かれていたが、表情、態度にはおくびにも現れない。
「バイト…そういえばあのバイト先の先輩はどうしたの?」
「え…」
「ほら、俺が返り討ちにした奴さ」
なんてことはない質問に、御門野の表情は厳しくなる。
眉間に皺が寄り、張り詰めた空気が辺りに漂い始めた。
その雰囲気を読み取った奴井は首を傾げて、片方の眉を上げた。
「もしかしてバイトは辞めたけど、つけられたことがあったり?」
「ううん。別に何でもないよ」
引き攣った笑みを浮かべ、御門野は首を振る。
その姿に奴井は心から心配したが、同時にその脳内では並列に別の思考をしていた。
どうしよもない奴だな……
でも、ちょうどいい。利用させてもらおう。
そして奴井は偶然何かを思いついたかのように、手をポンと叩いた。
「そうだ! この後、バイト先まで送っていくよ。俺がいれば、あいつも手を出せないはずだからね」
その提案に御門野表情は厳しさを増した。
斜め下を見たまま顎に手を置き、思案する彼女に、奴井の心臓は締め上げられた。
な、なんでだ?
断る理由は無いだろう?
疑問が過ると、奴井は右手で頭を抑える。
その動作を見た御門野は、瞬時に思案を辞めた。
「大丈夫? 頭痛?」
「いや、なんだろう…さっき薬飲んだから、痛くは無いんだけど……」
奴井は困ったように笑うと、御門野は一瞬の逡巡の後、凛とした目で奴井の右目を見た。
「それじゃあ、これからよろしくね」
「え? ああ送迎ね。任せてよ……え? これから?」
「そう。夏休みの間だけ。無理かな?」
「い、いやいやいや! もちろん任せてよ! それじゃあ、ほら、行こうか!」
先を歩き始めた奴井は耳が熱くなるのを感じる。
っラッキーーーー!!
本当は送った後に交渉しようと思ってたけど手間が省けた!
これであの男から御門野さんを引き剥がせる!
聞き心地の悪い重苦しい音を立てながら、軽やかに歩く彼の後ろで御門野は、唇を固く閉ざし、奴井の右側面を真っ直ぐに見つめていた。
夏休みも折り返しに差し掛かる頃、奴井は御門野をバイト先まで送っていた。
「もう夏休みも残り半分だね」
「そうだね」
「この前、CMでよくやってる恋愛映画見に行ったんだけど、御門野さんはもう見たかい?」
「まだかな。勉強にバイトに忙しいし」
「勉強で分からない所があったら、いつでも言って。俺なら何でも教えられるから」
「悪いよ。奴井君だって病院とか行かないとでしょ」
奴井の苦虫を噛み潰したような顔とは裏腹に、御門野の声は明瞭さを帯び始める。
「その話はやめてくれよ」
「なんで病院行かないの? お医者さんが何か言わない?」
「言わないよ。内蔵センサーで毎日データ取ってるし、Web問診にだって答えてるんだから…もういいだろ。毎日毎日、耳にタコができる」
奴井が肩を竦めると、一陣の突風が吹いた。
太陽には雲がかかり、雨の気配が近づきつつあった。
いったい御門野さんは何がしたいんだ……
こっちが話題を振ってもそっけないし、すぐに話を病院の方にすり替えるし……
「そういえば、今日は雨降るそうだけど、傘は持ってる?」
「折り畳み持ってるよ。そういえば、この前ワイスタで見たんだけど─────────」
また強引に話を変えるのか……
「奴井君のブレインマシンインターフェイス。海外では問題が出てるって」
「ごめん。それ、エビデンスあるの?」
「えっと…ちょっとまって今見せ─────────」
「ああ、別にいいよ。どうせポストが出て来るんだろう? 御門野さんはもうちょっと科学リテラシーを身に着けて方が良いね。いつか陰謀論に引っかかって痛い目に合うよ」
奴井は冷静な表情のままに捲くし立てると、御門野は唖然とした後、何かを察したように口をつぐんだ。
2人の間に重苦しい空気が漂う中、横断歩道が2人の歩みを止めた。
多くの車が動き始めると、ポツリポツリと雨粒が当たり、先ずは御門野が傘を開き、奴井はその傘を口惜しそうな目で見ながら、遅れて傘を差し開いた。
その内、雨足も強くなって、会話もし難くなる……
あぁ、同じ傘には入れたらなぁ……
そうして暫くの間、傘に当たる雨粒の音と車のエンジン音を聞いていると、どこかから甲高い猫の叫び声が聞こえて来た。
御門野は体を跳ねさせ、奴井は冷静に、声の聞こえる方に振り向いた。
そこでは、何か黒い塊を咥えた黒い野良猫と2羽の鴉が喧嘩をしていた。
奴井は瞬時に、猫が鴉の雛を咥えており、雛は力なく項垂れ、既に事切れていることに気づいた。
「喧嘩かな……」
「多分ね」
だが、御門野は雨と車両で視界が悪く、かつ、彼らの体色が真っ黒であったこともあり、向こう側で何が行われているか把握しきれていない様子であった。
無能だからだ。
雛を見ていた奴井は顎を上げ、見下すような視線を向ける。
その左隣で猫の方を見ていた御門野は、信号機を見ながら、今にも駆けだしそうに足踏みをしていた。
己より力あるものには抗えない。
それはこの世の真理だ。
すると、視線の先とは反対方向から重い荷物を載せたトラックがドスンドスンと地面を揺らしながら、横断歩道に向けて近づいてきていた。
ああ……
君は本当に惨めだな……
冷たい視線を注ぐ奴井の横では、御門野が今にも飛び出しそうになっていた。
そして黒猫も同じように、逃げ場を探して道路に飛び出してしまいそうな勢いがあった。
「駄目だよ」
並列に全てを思考する奴井は、すぐに御門野の腕を掴んだ。
「なんで?」
「この交通量でどうやって向こうに渡るつもりだい? 危ないだろ」
「今行けば、助けられるでしょ!?」
「飛び出すと決まった訳じゃないよ」
「じゃあ奴井君が行って止めてきてよ!! その義足があればこんな道路、ひとっ飛びでしょ!?」
「いやいや、流石に無茶だよ」
「バスケでやってたじゃん!! 最悪な事態になってからじゃ遅いんだよ!?」
2人の言い争う声は甲高いブレーキ音ですぐにかき消された。
鈍い音が聞こえ、行き交う車の間から、黒猫が路上でぐったりと横たわっているのが見えた。
信号が変わる。
御門野はすぐに黒猫の下へと駆けだした。
奴井はゆったりと歩きながら、彼女の後ろを追う。
そんな2人を知ってか知らずか、止まっていたトラックは逃げるようにその場を去っていった。
御門野は薄情なトラックを睨むことなく、傘を捨て去ると、すぐに道路に飛び出して黒猫を抱きかかえた。
そして素早く歩道に戻ると、黒猫の息遣い、心拍を確認するように耳を近づけていた。
君は視界にすら入らないか……
低木の下。暗くて見えづらい場所に遺棄された雛を見ながら、息絶えた黒猫を抱く御門野の下へ近づいていく。
「どうしよう! 息してない! 早く病院に─────────」
「もう死んでるよ。まったく迷惑だなぁ……こういう時って市に電話かければいいのかな?」
奴井が気だるげに頭を掻く中、御門野は黒猫の方を見たまま固まっていた。
「早く置きなよ。汚いよ。ああ、その状態でバイト先に行っても大丈夫かい? あれだったらちょっと寄り道して─────────」
「なんで……そんなに冷たいの……?」
声を震わせながら顔を上げた御門野の目は、信じがたいものでも見るかのように、大きく見開かれていた。
「冷たい?」
「目の前で命が1つ無くなったんだよ!?」
「そうだね?」
「そうだねって…何も思わないの?」
「何も思わないことは無いけど……無駄な電力消費は極力避けないと、家まで持たないよ」
奴井は頭を指でノックしながら苦笑した。
「それは命を救う道具だったはずでしょう?」
御門野は黒猫を抱いたまま、奴井ににじり寄る。
「どうして? どうしてそれで他人を助けようとしないの?」
「いや、なんで助けないといけないの? 義務なんてないでしょ」
「昔の奴井君なら、誰に言われなくても助けてたでしょ?」
「そんなことは無いよ」
「じゃあなんであの日、咄嗟に小学生の子を助けたの?」
せせら笑いながら反論していた奴井の表情が強張る。
そういえば、なんで俺はあの時……
その時、奴井の頭に激痛が走った。
今にも頭を抱えて蹲りそうな痛みであったのに、彼の体は言うことを聞かず、頭を抑える動作すらできなかった。
「なんで2年の時の文化祭の時、嫌そうにしながらも用意を手伝ってくれたの?」
「昔の話はやめてくれ……」
「なんで猿雅君を助けようとしてたの?」
「それもやめろ……僕は、強者だ……俺は無能なんか視界に……」
表情に変化はなく、ただうわごとのように無意味な言葉を連ね続ける。
痛みに悶えることもできず、助けを求めることもできない彼の右目には、涙が溜まり始めていた。
「ねぇ、奴井君」
御門野はその右目を覗き込みながら、彼の肩に優しく手を置いた。
「一緒に病院行こ?」
その言葉を合図に左腕が独りで動き出す。
え?
御門野が視界から消えると、今度は両足が勝手に踵を返す。
待て、待ってくれ。
そして足は走り出し、人間離れした跳躍を見せ、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
御門野さん!!
御門野さんが!!
奴井は頭が割れそうになりながらも、叫び声を上げるようとした。
だが、口は堅く閉ざされ、その声を聞く者は誰一人いない。
なんで、なんで、なんで!!
俺はなんで走ってる!? 僕はなんで逃げてる!?
止まれよ!! 止まってくれ!!
彼はなおも心の中で叫び声を上げ続ける。
すると、それに呼応するように、ブレインマシンインターフェイスが熱を持ち始める。
頭痛は更にひどくなったが、彼が自分の部品たちに命令し続けた。
御門のさんが!
とマれ!
みかどさんタオレテる
御門野さんを助けないと!!
みどさん?
え? 名前が……
痛みでおかしくなる思考で気づくのに遅れた奴井は背筋を凍らせる。
嫌だ!!
そんなの嫌だ!!
そんなの聞いていない!!
なんでいうこと聞かないんだよ!!
僕の力なのに!!
僕の─────────
左手が奴井を沈めるように彼の右目を抉り取る。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
奴井は痛みから絶叫し、右目を押さえて立ち止まった。
息もうまく吸えないまま背中を丸めて悶絶する彼は、残された左目で道路の雨露が赤く染まっていくのを眺め、千々に乱れた思考を続けていた。
徐々に広がる赤い染み。
行方知れずの右目。
頭痛。女。力。
……助けて。
そして途端に思考がクリアになるのを感じる。
あれ?
なんで私は、雨の中を走ってるんだ?
キョロキョロと辺りを見渡し、痛む右目の状態に首を傾げる。
とりあえず、病院行かないと……
そうして彼は目の前の大病院に吸い込まれていく。
遠くでは、2羽の鴉が寂しそうに泣いていた。
入院した彼が次に復学できたのは、それから3か月後のことであった。
彼を迎えたクラスメイト達の反応は、実に寒々しく、彼の周りに寄り付く者は誰一人いなかった。
「猿雅君」
奴井は隣の席の猿雅に話しかけると、猿雅は心底嫌そうな顔をしていた。
「なんだよ」
「あの席の女子はなんて名前だっけ?」
「は?」
「いや、ほら、あそこのアーモンド形の目をした女子だよ。顔に大きな傷があるけど、すごく、その、可愛いと思ってさ」
猿雅は口をぽっかりと開け、眉を顰めて奴井を睨みつけた。
「いや分かるよ。同じクラスメイトなんだから、絶対私が忘れてるはずなんだけど、どうしても思い出せなくて……」
「絶対に教えねぇ」
「ええ! なぁ頼むよ! そんなこと言わずに教えてくれよ!」
奴井は猿雅に縋りつき、肩を揺すって必死に懇願した。
がっちりと肩を義手で掴まれた猿雅は、鬱陶しそうに眉を吊り上げると、すぐさま奴井の手を振り払おうとした。
「お前、なんで泣いてんの?」
奴井は自分の右頬を撫でると、顎に皺を寄せてポケットからハンカチを取り出した。
「多分、誤作動だね」
「誤作動?」
「うん。こっちの目もなんだけど、実は両目とも義眼なんだ。ほら」
ぐりぐりと自由に両目を動かして見せる奴井に、猿雅は納得したようにうなずいた。
「だから気持ち悪いんだな、お前」
「え? どういう意味?」
「俺らとお前は全然違うって意味だよ!」
低い声で猿雅が怒鳴ると、予鈴が鳴り響いた。
どういう意味だろう?
材料不足。論証不可。情報収集不可能。
ようし! 次の休み時間に彼に聞いてみよう!
奴井はオートパイロットを起動し、真面目に授業を受けようとした。
あれ?
手が離れないや。
己のブレザーの裾を強く握り、引っ張るその右手は、まるで誰かに助けを求めているようであった。




