7話
「鈴木さんの『歴史を語る』など、結局はただの感傷に過ぎない。このビルが瓦礫の山に変わるのは、もはや動かしようのない既定路線なのだ。老人は過去の亡霊に縋り、直視すべき未来から目を背けているに過ぎない」
佐藤の言葉は、まるで冬の夜風のように冷徹であった。しかし、その言葉を真っ向から浴びた美咲は、反論の言葉を飲み込んだ。佐藤の冷たい眼鏡の奥にある瞳に、自分と同じ種類の感情を見出したからである。それは、唯一の安息の地である「逃げ場」を失うことへの、言葉にならないほどの深い恐怖であった。
「……じゃあ、佐藤さんは一年後、この店をどうするつもりなのですか。どこか別の場所へ行くのではないのですか」
美咲の問いは、佐藤が最も触れられたくない核心を突いた。佐藤は質問を無視するように視線を逸らし、手元にあった古書を乱暴に掴み取った。
「私はこの『黄昏文庫』を、ここで閉めるだけだ。外の世界に出るつもりなど毛頭ない。終わりが来るというのなら、この場所で、一人静かに終わる。それが私の下した決断だ」
佐藤の言葉は、彼自身の未来に対する断固たる「拒絶」であった。美咲は、必死に未来へと手を伸ばそうとする自分と、頑なに過去という墓場に留まろうとする佐藤という、正反対に位置する極端な人生観を突きつけられた。
彼女は何かを言いかけ、わずかに口を開いたが、結局言葉を紡ぐことはなかった。静まり返った古書店を後にした彼女の肌には、都市再開発という巨大な波が、このビルの住人一人ひとりに容赦のない「人生の決断」を迫っているという現実が、重く、冷たくまとわりついていた。
嵐の予感:阿部議員の密かな策謀
その日の夜、降り始めた雨が窓を叩く中、阿部俊介議員は鈴木宗一郎の自宅を訪れていた。公式な会合ではなく、極秘裏の訪問であった。阿部の目的は、歴史を重んじる老人の感傷に付き合うことではなく、立ち退き期限の**「前倒し」**を強要することにあった。
「鈴木さん、いい加減に理解していただきたい。再開発は市の最優先事項なのです。あなたが歴史だの感傷だのと拘泥している間に、プロジェクト全体の歯車が狂い、遅延が生じる。私自身も次期選挙を控えており、これ以上の停滞は許されない。期限を早めることが、双方にとって最善の道なのです」
阿部がテーブルに叩きつけたのは、オリエント・スクエアの老朽化に伴う「緊急修繕勧告」の写しであった。実際にはまだ致命的な段階ではないが、阿部はこの書類を建物の「危険性」を煽り立て、住人を追い出すための有力な道具として利用しようとしていた。
鈴木は、阿部の狡猾な笑みを真っ向から見据え、静かな、しかし峻烈な声で答えた。 「阿部議員。あなたは、このビルが古く、脆くなっていることを熟知している。だが、ここに集うテナントたちは、その脆さの中でこそ、自らの人生を懸命に紡いでいるのだ。私が行う『歴史を語る会』は、彼らにとって大切な区切りの儀式なのだよ。それを力ずくで踏みにじるつもりなら、私は最後の一線として、再開発への合意をすべて撤回する用意がある」
鈴木の鋼のような意志に触れ、阿部は忌々しげに舌打ちをした。彼は鈴木の抱く感傷的なこだわりを到底理解できなかったが、彼が地権者である以上、無策な強硬手段は逆効果であることを知っていた。
「わかりました。その『語る会』とやらをやるがいい。ただし、市民の間に無用な混乱や反発を招くような真似はさせない。私自身も、その場に立ち会わせてもらう」
阿部は、鈴木の会を単なる思い出話で終わらせるつもりはなかった。むしろ、それを再開発の妥当性と新時代の到来を市民にアピールするための宣伝の場として利用する腹積もりであった。
鈴木は阿部の出席を拒むことができなかった。再開発の波を背負う政治家と、ビルの魂を守ろうとする老人。二人の不協和音が響き渡る嵐の夜会が、ここに決定したのである。




